鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

学校教育の側面(7回シリーズその5)

2013年01月24日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 教育は、学校だけで行うものではない。幼児期には家庭教育が重要な要素として人格形成に関連する。家庭だけでなく、地域の貢献も重要である。しかし、どのような教育方針で、それぞれの役割を具体的に検討しあい、共通認識を持もって教育してきたわけではない。それぞれがバラバラに行っても効果が上がる状況ではないことも事実である。

 さて、教育の再構築の視点は、試行錯誤の連続であるが、携わった技術・技能教育の世界から見ると、指導の流れは、ドイツのABB(事業内職業訓練局)方式、ILO(国際労働機構)のモジュール方式に二分される。ABB方式は、完成品が持つ生産工程ごとにパッケージ化して、段階的にそのパッケージごとに教え、それらを最終的に組み合わせ、完成品を作成する教え方である。また、ドイツでは学校と企業とのサンドイッチで教えるデュアルシステムを導入している。ILO方式は受講者が持つ現在の能力を知り、その職種が求めている能力との差分を教える。教える内容を最小単位に分割したパッケージを個別に組み合わせて教える方式である。
 因みに、我が国の工業高校や高専(中卒5年コース)では、学校教育のカリキュラムや単位制の延長で(見方によっては普通教育との互換性を保っているといえる)、集団方式がそのまま用いられている。厚生労働省所轄のほとんどの県立職業訓練校では戦後、米国から取り入れられたTWI(企業内監督者訓練)方式で、ABB方式に近い。厚生労働省の高齢・障害・求職者雇用支援機構の方式はTWI方式とILO方式を展開した我が国独自のシステムユニット方式で行っている。

 それぞれの教育訓練方式は集団と個別との大きな違いがあり、我が国は学校教育と同じ集団教育である(ただし、コース別に10人単位の少数制である)。一時、試行的に個別方式のILO方式を導入したが、随時入校制で、到達目標達成後は、修了させる。修了時期を決めないことから雇用保険対象者にとっては受給期間短縮につながる不利益が生じた。指導にかかる体制が整わず、個別訓練の限界が障壁となり、また、現状の就職時期等の齟齬問題でお蔵入りとなった。一方、身体障害者の訓練施設においては、障害部位が訓練生個々に異なるため、当然、個別訓練計画の下に、手厚い支援体制で行っている。入社後はマンツーマンのOJT(職場内訓練)方式が企業で導入されてはいるが、指導者の不足や費用対効果の問題で、集団方式であるOFF-JT(職場外訓練;職場を離れて行う訓練)へシフトしつつある。(次回へ続きます)

学校教育の側面(7回シリーズその4)

2013年01月23日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 競争原理は、排除の理論と裏腹の関係にある。決して協調性や、相互啓発など生まれることはない。
 そもそも競争原理は序列をつけるためにあるので、優秀な人材を輩出すると同時に劣等生をも排出する。目に見える教師の教育成果は上級学校への入学者数を競うことで評価され、生産現場と同様に成果主義に変容する。しかし、その矛先が就職先選択に及ぶことはなかった。

 教育の本質は異なる人格、学力、経験を持つ未成熟の人間に対し、足りなかった物を付加すると同時に、本人が持つ潜在化されている可能性を引き出し、教え、育むことにあると言われてきた。決して序列をつけ、上級学校選抜を容易にすることが目的ではないはずで、多様化した職業人を育成する方向は生まれてこなかったことは誠に遺憾である。

 個人の思いこみではあるが、残念ながら我が国が構築してきた戦後の学校教育制度の本質は、戦時教育である挙国一致から大きく変革してきたわけではない。これからどの方向を目指すのか、近年、今までふれてこなかった、むしろ闇の中に葬られていた、落ちこぼれといわれた若者を教育の失策だけの理由にはしたくないが、ドロップアウトとレッテルを貼る前に何もできず、何もして来なかった責任は誰が負うのか、疑問はつきない。教育の本質は、たとえ割合から言えば少人数であったとしても、失敗は許されないものとの認識が基本であり、思いが至らなかった事実は消すことができない汚点として残る。

 毎年、60万人にも及ぶニートや175万人のフリーターを産んでいる(平成23年、計算の基数は、15歳以上35歳未満の20歳を対象範囲としている。厚生労働省資料から抜粋)。各年代合計人口約2,671万人であるので、少なく見積もっても10%は適切とはいえない環境に置かれている。「引きこもり」世帯が26万世帯あるので、この割合は更に高くなる。結果的にいえることは、縦割り行政の弊害かもしれないが、修学は心太方式で、ドロップアウトを再生できる方策を持っていなかったともいえる。更に、教育は社会人になる前段階までに、社会での自立した生き方を教えてこなかったのである。(次回へ続きます)

学校教育の側面(7回シリーズその3)

2013年01月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 自らを振り返って見ると、入学した大学校が文部省以外の省庁が所轄する官立であったため、入学と同時に卒業後の進路はほぼ決まっていた。簡単に言うならば目的大学で、その意味では就職活動は全くないに等しく、卒業と同時に、組織の一員となり、3日間のオリエンテーションを受けた後は直ぐに地方への赴任が待っていた。

 入学当時は新たに大学校としての校名を得た時点であった。また、先例がない少人数精鋭の指導員養成所(1学年定員100名各科10名)であった。入学と同時に所属する工学部科は決まっていたのであるが、始めに集中実習と称して、約1ヶ月間、10科ある半数の科を約一週間程度、主として基本的な実技訓練を経験した。今様に言えば、大学教育のジョブローテーション版である。 この経験はその後の学業や職務に大いに役に立ったと評価している。ユニークであるのは、教授陣のほとんどは実務に精通し、生産現場を経験しており、業界の重鎮の方であった。また、特別講義が多くもたれ、業界のスペシャリストから多くの先端技術の取り組み状況や成果を伺うことができた。更に、在学中に、工場実習を1ヶ月、就職先の経験となる実務実習1ヶ月、卒業には卒論と卒業制作が課せられた。

 時間数で年間1800時間、4年間で7200時間(すべて必須)の履修時間であった。
 1単位(90分15コマ)で計算すると年間80単位4年間で320単位である。一般大学の修了は124単位以上としており、90分15コマで2単位換算としているが、それに比べ、今思うと5倍強の履修で、どうりで余裕がなかった訳である。
 将に緊密な教授と学生の関係が構築され、大学教育が就職に直結し、生涯にわたる専門家を排出可能であったとともに、事実そうであった。(次回へ続きます)

学校教育の側面(7回シリーズその2)

2013年01月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 教師の下、受け身として既定路線の詰め込み教育があり、常に答えが決まっている閉じた世界で、多くの学科で記憶力を求められた。薄々は感じていたが、教師たる者、指導の手引きに沿った一定の指導方針の下、相手が理解しようがしまいが、規定時間の消化に全力を挙げていた記憶が残っている。今思えば、教師の大変さもよく分かる。

 高度成長とともに経済が活性化し、欧米に対向する国力が生まれてきた結果、技術革新が、多方面で起こり、変化する時代を経験した。教育への影響といえば、常に後追いであり、変化の激しい時代には、技術の陳腐化が起こり、変化についていくための、新しい方策や考え方、論調等に出会うことも多かった。
 教育においては、高度化のかけ声ばかりが優先したが、専門職よりも一般職が人気を博し、底流には科学技術離れの風潮があったように思われる。意外と保守的であり、総じて、体制的にも組織的にも柔軟性を欠き、ワンパターンが続き、教育の目的が不鮮明化するとともに、ジレンマから抜け出せないままで、当時、既に見え隠れしていた問題点の多くは、引き続き、現在もなお、解決に至っていない。

 国民の多くは、集団から個人へ、先鋭化から多様化へ、選抜から均質化へ、競争から共存へ等、求めるニーズの変化を好むと好まざるとに関わらず、意識せざるを得ず、今、将にゆとり教育が否定され、政府も制度改革に本腰を入れるようであるが、学校教育の本質が問われ、教育の質のドラスチックな変革を期待されている。現下の就職難は、雇用側のえり好みのせいばかりではなく、かたくなに変化に追従してこなかった学校教育が本質的に持つ、制度の欠陥であると指摘しておきたい。具体的には社会の形成者、つまり職業人育成のミスマッチである。逆説的に言えば、学校教育が取り残した部分を他の省庁や学校法人、企業等がカバーしてきたことも事実である。

 従来は企業が企業内訓練を持ち、学校教育では無理であった部分を企業好みの人材育成として引き受けてきた。今や、社会問題化した就職難は、崩壊しつつある企業内訓練とともに、露呈したわけである。(次回へ続きます)

学校教育の側面(7回シリーズその1)

2013年01月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 きわめて大きなテーマであり、誰しも持論があり、関心のある分野や問題とするところは大きく異なっているが、共通認識を得るには労力と時間がかかることは承知の上で、問題の切り口を提供させていただければと思い、テーマとして取り上げた。

 我が国の学校教育は、既に、江戸時代には藩校や寺子屋での教育が始まっている。国策としては、明治以来100年を超す歴史を持ち、毎年生誕する乳幼児が成長し、入学する年齢に達することで、単純に教育現場には対象者が120~130万人を抱えることになる。小中学校の9年間の義務教育と大卒までの7年間の高等教育で、総計16年間の学校教育制度が主たる骨格である。

 教育基本法に掲げる教育の目的は、人格の形成を目指し、平和な国家、社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身とともに、健康な国民の育成を期して行わなければならないとしている。また、教育の方針は、教育の目的を達成するために、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならないとしている。

 では、実際はどのようであったか、自らの経験と比較しながら振り返ってみる。
 教育は人の成長に合わせ、人格教育と、物事の知識、理論を体系的にかつ、段階的に教えることとされている。古い教育を受けたといわれるかもしれないが、義務教育後、高等学校、大学とそれぞれのステージでは選抜が行われ、競争原理の中で育てられた。学校では知識を学び、社会の仕組みや、生活態度等広範囲に及ぶ。役に立ったこともあるし、無かったとまではいえないが、未だに、分からないこともある。社会人となれば、学校で教えてくれなかったは禁句である。学校以外で学んだことは学校教育がベースであって、自らが独学しなければならないことがほとんどであったといってよい。(次回へ続きます)

修正鬼会(しゅじょうおにえ)(2回シリーズその2)

2013年01月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想


修正鬼会に登場する荒鬼は神仏の化身であり、祖先が姿を変えた霊(言霊)とされています。現在では隔年交代で成仏寺と岩戸寺で行われ、豊後高田市の天然寺では毎年行われています。

修正鬼会という全国的でも珍しく、この時期にはふさわしい祭事である反面、最近では、観光行事となり、地元の居住者よりも観光客や、カメラマンなどが多く、見物に訪れるようになり、前年の厄を落とし、新年を迎える本来の素朴な神仏との交流の場とは異なる側面もあるのですが、過疎の村落はますます過疎となり、檀家が減り、廃寺が増え、出張僧侶も見られ、徐々に祭事の継続を危ぶむ声も聞こえるようになりました。

観光化することには依存ありませんが、唯珍しいだけで過ぎてしまう虚しさを感じ、歴史や風俗、習慣がなぜ行われてきたかの背景まで踏み込んだ考察が必要であると想いました。たぶん、伝統の継承には、子供の頃からのすり込みが繰り返されることによって定着する長い時間が関与しているようです。

神と仏とが複雑に絡み合う独特の文化が西国の国東で発展し、年中行事として現在まで引き継がれてきたことや、寒中の屋外では氷点下のこの時期に徹夜で行われている祭事であることに驚くとともに、いにしえの風習に想いを馳せることができたことを思い出した次第です。(今回が最終回です)

修正鬼会(しゅじょうおにえ)(2回シリーズその1)

2013年01月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

大分県国東市は大分空港から車で30分のところにある国東半島の東に位置しています。
古くからこの一帯は六郷満山と呼ばれ、仏の里として観光地になっています。六郷とは、来縄(くなわ)、田染(たしぶ)、国東、武蔵、安岐、伊美地区のことで、天台宗の拠点が置かれ、本山(学問の地)、中山(修行の地)、末山、(布教の地)の3拠点に分かれています。

今回ご紹介する岩戸寺は28寺のうちの一寺で、すべての寺は1200年前に宇佐八幡神の仁門菩薩によって開基されたと言われています。旧暦の正月7日に行われている修正鬼会は、大晦日の夜に悪鬼を払う宮中行事である追な式が変化した鬼祭りと火祭り、正月行事である修正会とが合体したといわれる祭事です。儀式は、日没とともに、介添え役の青年が滝壺の水で清めた後、4本のたいまつを点火し、境内講堂に続く参道に立て、講堂での僧侶の読経開始後、下駄を履いた僧侶2名による香水の舞、荒鬼を招く鈴鬼の舞が行われます。

既にここまでで6時間は過ぎたのでしょうか、読経は続いていますので、僧侶も眠くなるようで、地域の氏子から竹にさして焼いた芥子餅が僧侶にまず振る舞われます。氏子の話では、芥子餅を食べて僧侶が眠るのを防ぐとのことでした。その後、参列した全員に芥子餅が振る舞われます。冷え切った身体に、焼きたてで、芥子で真っ赤に塗られた餅は体を温めてくれます。ようやく最大のイベントである、若い僧侶が全身を荒縄で縛り付け、鬼の形相の仮面を付けた荒鬼の登場です。

仮面には角がありません。家内安全、五穀豊穣、無病息災を祈願し、僧侶が扮した赤鬼(愛染明王の化身)の災払(さいばら)鬼と、黒鬼(不動明王の化身)の鎮(しずめ)鬼の2体がたいまつを持って境内を所狭しと、大声を立てながら、暴れ回ります。その後、午前0時を過ぎると、早朝まで境内から出て地区の家々をお祓いに回ります。(次回へ続きます)