鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

積雪と自動車運転

2013年12月24日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 昨年の1月は関東にも豪雪をもたらした。低気圧が太平洋側を北上すると大陸からの寒気を巻き込むため、関東地方にも降雪が見られる。新雪は10cmを越えるとスタッドレスタイヤを装着していても制御が不能になることもあり、降雪を軽んじてはいけない。まして夏用タイヤでは殆ど制御は不可能である。せめてチェーンを車に積んでおく必要があろう。北陸や東北、北海道では冬タイヤは11月になると夏タイヤと履き替える。

 チェーンとスタッドレスタイヤとの併用は場合によっては効力を現す。チェーンのタイヤへの装着は事前に装着する訓練を行い、手順を覚えておいた方がよい。最近はワンタッチで装着できるチェーンもあるが、タイヤサイズと一致しないと使えない。夜間に装着する場合もあり、懐中電灯、タイヤの滑り止め、軍手なども準備しておく。ジャッキがどこにあるかを確認し、更に万が一牽引が必要な場合には牽引ロープがあった方がよい。

 雪国では公的機関が除雪車を走らせ、メインの道路は積雪がない状況で走ることが出来るが、脇道にはいると除雪されてない道路も多い。除雪されていても橋梁や坂道はアイスバーンになっているのでスピードが出ているとハンドルを取られ、制御不能になることもある。事故を起こしている車は関東以南のナンバーが多いようである。雪道やアイスバーンとなった路面を走るときはエンジンブレーキを多用し、フートブレーキを極力踏まないことである。雪道は制動距離が長くなるのが普通で、早めにエンジンブレーキを効かす。

 フートブレーキを踏むときはエンジンブレーキで減速した後、車が止まる寸前で使う意外は使わない。そのためには車間距離を長めにとって、走行することが大切である。発進時マニュアル車ではセコンド発進する方がよい。急に加速するとスリップしやすいので、ジワーと発進する。オートマチック車ではドライブモードでよいが、坂道で使うローギァ(車種によっては1,2)のギァ選択があるがこれを使わないことである。

 言葉でいってもいざ降雪時、車を運転すると思うように走ることは難しい。出来るだけ車を運転しないことに越したことはない。スキー場への往復や北国の生活をしていて、雪道の運転を経験した方に同乗してもらい、教えを請うことをお薦めしたい。雪が降り始めた状態では道路は直ぐには凍らないし、水となって溶けるが、雪が降り続いた翌朝は路面が凍るため、車も滑りやすい。極力スピードを出さないように気を付け、事故を起こさない、事故に巻き込まれないようにしたいものである。

大分雑感 福沢諭吉

2013年12月23日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 豊前・豊後の地は古くから「豊の国」と呼ばれていたせいか、作物が実り、豊かな生活を享受してきた。中世・近世に置いても、大分県は歴史の中で偉大な役割を果たしてきた。
南蛮貿易とキリシタン文化の導入には大友宗麟の出現かあり、大友氏の没落後、豊臣秀吉は大友旧勢力の復活を恐れて豊州二国に分裂政策を採った。小藩に分裂したことは逆に多くの偉人ともいうべき人材を排出した県でもある。その中の一人に、明治の我が国最大ともいえる指導者に福沢諭吉翁がいる。

 幕末も明治維新に近づく頃から、従来の自然科学のみならず、欧米の政治・法律書の翻訳出版が行われるようになり、公議世論・立憲政治の思想を刺激するようになったが、維新政府の開国進取の方策と共に、欧米近代の学問・思想が流れ込んできた。西周(あまね)、津田真道(まみち)、加藤弘之、福沢諭吉、神田公平、中村正直らは、当時の先端的な学者・思想家として、思想界の文明開化をした人たちで、これらによって発行された「明六雑誌」は近代思想の紹介に大いに役立ったといえる。

 福沢諭吉は中津藩の下級氏族の子として生まれ、長崎に遊学し、大阪の緒方洪庵の塾にも学んだ。1860年幕府の遣米使節に従って渡米し、その後欧州を巡歴した。三度渡米して帰朝後、江戸に慶應義塾を設けて教育に当たり、西洋の有様を紹介した数多くの啓蒙書を著した。初期の著作のうち「西洋事情」と「学問のすすめ」は最も著名である。明治四年に義塾を三田に移して教育に専念し、英国の功利主義思想に基づき、独立・自立・実利・実益を鼓吹した。

 多くの著作の中で西洋事情は欧米の国情、銀行・郵便・徴兵・選挙等の諸制度から、権利義務の観念、教育の問題を十巻に亘って論じた啓蒙書である。また、学問のすすめは、「天は人の上に人を造らずと云へり、されば天より人を生ずるは、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく」と人間の平等を説き、貴賎貧富の差は、天性の賢愚を別にすれば、学問を修めるかどうかによるので、己のために、また他を利し国を助けるために、学問をすべきであり、それも実用功利の学の必要性を説いた。そして自己の権利を覚り自由の利を得て一新の栄達独立することによって国の独立が全うされることを強調した。将に現代にも通じる基本的な概念であろう。

大分雑感 風呂

2013年12月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ユニットバスが住宅に用いられるようになったのはそう古い話ではなく、施工も簡単で、リフォームでユニットバスにする家庭も多い。風呂桶(バスタブ)に入って入浴する国民は世界的に見ても我が国ぐらいではないであろうか。一般的にはシャワー浴で湯船に浸かる習慣はないようである。国内各地で温泉が湧き、観光地化している国もそんなに多くはない。温泉旅館では何回も入浴する。

 火山列島といわれる我が国には、自然にわき出す温泉の恩恵を十分に享受してきたといえる。大分の温泉は別府や湯布院が有名で、温泉目当ての観光客も多い。古くから湯治客を対象とした温泉は別府の鉄輪温泉であるが、元町にある共同温泉、明治時代から続く竹瓦温泉は住民生活と密着し、廉価で楽しめる温泉である。別府の住民の多くは市内の縦横に走る温泉給湯配管によって、容易に自宅の風呂には温泉水を引くことが出来、年中温泉にはいることも可能である。

 鶴崎の職場に近い商店街でブティックを経営していた義理の伯父・伯母が大分市の泉町に借家を持っていて、長男が生まれて暫くしてからそこに引っ越すことになった。借家といっても取り壊す寸前の古い建物であったが、生活するには便利な場所にあった。風呂は付いていたが、通称、五右衛門風呂と呼ばれている鋳鉄製のお釜であった。直下式なので釜の底に当たる部分が特に熱い。プロパンガスで沸かすように改造されていたが、踏み板を浮かべて火傷しないように身体と共に浸かる。
 下駄を履いて入るところもあるようであるが、何とも古風であった。栓は釜の底に穴があいていて、木栓であった。布を巻いて金槌で打ち込む。

 五右衛門風呂の所以は名前の通り、盗賊で忍者であった石川五右衛門が子供と共に釜ゆでの刑で処刑されたことによるものであるが、熱効率が良いためと構造が簡単なため、戦後は利用していた家庭も多い。国内で一軒のみ現在でも広島の鋳物メーカーが製作していると聞く。排気ガスの規制が厳しくないときであったので、何でも燃料になるし、毎日出る紙や木材等のゴミが処理できるので生活のサイクルからすると合理的であった。

 鉄瓶で沸かした湯でお茶を入れるとまろやかな口当たりとなるので、鋳鉄製のお釜で沸かした湯も肌にはまろやかになるようである。自分は温泉気分で入っていたと記憶している。難儀なのは湯を落とし、釜を洗うときは、底まで手が届かない。風呂に入るようにたわしを持って中にはいるか、デッキブラシで洗うが、意外と難しい。底にある排水溝の穴も小さいため、水はけも悪く時間が掛かる。 釜洗いをしたことがない方はドラム缶を外側から内側を洗うことを想像されると判りやすい。

大分雑感 続隠れキリシタン(3回シリーズその3)

2013年12月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 また、佐伯市宇目町は、嘗ては岡藩で、宇目町重岡には大きなキリシタン墓があり、ルイサの墓である。大分銘菓である「ざびえる」の姉妹品に「ルイサ」と命名した菓子がある。
 縦180センチメートル、横86センチメートル。高さ27センチメートルである。上面には日輪十字章が刻まれていて、洗礼名「ルイサ」が刻印されている。岡藩にはキリシタンの志賀親次が領主であり、1588年頃の領内にはおよそ8千人のキリシタンがいたとされている。

 最近観光スポットとして有名となった湯布院にも県下最大のキリシタン墓地が湯布院町並柳にある。全盛時代のキリシタン信者は湯布院人口が2800人、信者はこの3割であったようである。信者が多い理由は、湯布院の豪族で湯山城の城主奴留湯氏が大友宗麟の一族であり、キリシタンに入信していたことによる。

 大分テレビ放送(OBS)のアーカイブスの中に、「隠れキリシタン 演出された露見」執筆者豊田寛三氏の詳しい文献があるので、参照にされたい。

 概要であったが時代背景と共に大分の隠れキリシタンについて触れた。我が国の戦国時代から江戸幕府の初期に当たる時代に、大分(豊後)にもキリスト教という宗教が巻き起こした様々な爪痕を残している。現代の時代背景とは異なるため、軽率なことはいえないが、行政が判断したキリシタン弾圧という政策は鎖国にまで発展することになった。失ったことも多いが、徳川幕府を300年間継続した初期法規制の原動力の一つでもあった。

 隠れキリシタンが実在したという事実は、士農工商により虐げられた民衆が受け入れた、宗教が持つ精神性と海外貿易を通じて富と軍備を進める領主の思惑、それを操る先兵としての宣教師という侵略の意図を持った諸外国の勢力とが合致した、我が国に対する脅威でもあったことも理解できた。大分の名君と称される大友宗麟についてはいろいろな善悪説があるが、大分駅前に大友宗麟の像が建立されており、像が語る世界がはなはだ深いものがあることに想いを馳せることが出来た。(このシリーズ最終回です)

大分雑感 続隠れキリシタン(3回シリーズその2)

2013年12月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 作成した宗門人別帳は武士・農民、町人であるが、神主までも含まれ、必ず仏教何宗かの寺の檀徒となり、毎年、寺から宗門人別帳に記入して貰って、領主の役所に届けることになっていた。人別帳は一種の住民登録であり、戸籍簿の役目を果たすことになる。更に住民自らが、住民同士を監視し、密告する行為が生まれるが(キリシタンを捜し出すだけではなく、年貢の未申告を防ぐことや犯罪の犯人発見する相互検察制度であった)、家族や親類縁者までもが信頼できなくなる恐ろしい社会でもある。

 島原はキリシタン大名有馬暗信の所領で、天草島は小西行長の旧領である。共にカトリック教徒が多かった。幕府は松倉重政を派遣し、禁圧に当たらせた。重政の信徒弾圧は苛烈を極め、徴税も厳しく、領民は離反し、ついに1637年秋、浪人の参加と指導を得て、16歳の天草四郎時貞を主将とし、一揆を起こした。島原の乱の始まりである。平定には翌年2月までかかった。 島原の乱は室町末期以来の農民一揆の伝統がキリスト教による宗教一揆の形を取って爆発したものである。それ以後、幕府のキリスト教に対する恐怖はますます強くなり、第二回の鎖国令が1639年に発せられる。

 上述した時代背景の中で豊後におけるキリシタン弾圧も苛烈を極めることになる。将に熊本から鶴崎に至る豊後街道の各地には、多くのキリシタン墓地が点在している。竹田市直入町長湯地方は岡藩であり、昔、朽網(くあみ)と呼ばれ、キリシタン史上の先進地であった。1550年から1580年の30年間で信者数は約300名に達し、府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺と共に日本八大布教地に数えられた。この地にある墓碑はキリスト教の禁止令が出る前のものであるが、T字形の墓標には「INRI」の文字が刻まれている。この意味はユダヤ人の王、ナザレのイエスを意味し、その頭文字を示す礼拝物でもあった。(次回へ続きます)

大分雑感 続隠れキリシタン(3回シリーズその1)

2013年12月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 徳川幕府の世となってもキリシタン弾圧は止まるところを知らずの勢いで、続くことになる。 貿易にも制限が入り、シナ船以外の諸外国船の貿易を長崎・平戸両港に限り、1624年にはイスパニア人の貿易を禁じた。しかし、禁じても宣教師の潜入が絶えなかったので(危険を冒してまで入国する理由は、宣教師自らが貿易の仲介役になり、キリシタン大名と通じることで多くの利益を得ていたことによると考えられる。大名がこうした取引によって藩の財政や軍備を強固にする反面、幕府の体制を危うくする原因ともなる)、徳川家光の時代に、老中の奉書を持つ奉書船以外の船で邦人が海外へ渡ることと海外移住者の帰国を禁じ、1635年には全面的に日本船が海外へ出ることを禁じた。1637年から38年に島原の乱が起こり、これを契機として、1639年に島原のポルトガル人をことごとく追放し、また、来港を禁止した。

 ここに鎖国が誕生し、この後は、港は長崎港1港に限られ、キリスト教の布教に関係しないオランダ人と中国の清の商人だけが貿易を許された。これと同時期には宗門改役を全国に置き、宗門人別帳を作り、宣教師、信者の探索を計り、国民の信仰を取り締まり、以て鎖国体制を完成させた。因みにオランダ人には、長崎の出島の地をあてがわれ、そこの商館長に報告書を作成させ、毎年幕府に提出させた。

 踏み絵については、江戸時代の初期に幕府がキリスト教信者を調べるためにキリスト等の肖像画を踏ませたことをいっているが、木版に彫ったものや像をはめ込んだものを使うこともあった。踏み絵は心理作戦で、キリスト教に入信しているとシンボルとなっている肖像を踏むという行為は行ってはならない行為であり、信者でなくても、躊躇するのが普通である。

 為政者側が多数見守る中で、強要することによって、顔の表情や身体のこわばりを見て判断されたのであろう。嘘発見器がなかった時代には効果的な方法と思われるが、中にはえん罪となった者も多数いたといわれている。(次回へ続きます)

大分雑感 隠れキリシタン(3回シリーズその3)

2013年12月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 大阪の陣に豊臣方に加担した浪人中にも信徒が多く、ついには幕府側近の家臣の中にも信徒がいて、幕府の関心事となっていた。かくして、1612年、京都、大阪、江戸、駿府、長崎、島原などの直轄地に命令して、伝道の禁止、教会の破壊、宣教師の追放に着手し、翌年更に全国に亘って、強化し、信徒をマカオやルソンに追放し、踏み絵、磔(はりつけ)、火あぶりまでも行って、信徒の絶滅を期した。鎖国への理由がキリスト教としているが実際にはもっと他の理由もある。

 長崎県平戸には外国人居留地が設けられ、唯一貿易が出来る場所を出島という形で残す。
 既に京都にいたキリスト教宣教師7人と日本人信徒19人合わせて26人を京都から長崎に追いやり、磔刑に処した。この26人は1862年ローマで聖者に列せられる。

 豊臣秀吉が朝鮮を侵略しようとして起こした戦争に文禄・慶長の役(1592年・1957年)がある。先陣で功績のあった武将の加藤清正がいるが、関ヶ原の戦いでも功労があった恩賞として肥後の太守となるとキリシタンが多い天草を返還し、その代わりとして豊後2万石を求めた。久住、野津原、鶴崎、佐賀関が肥後領となり、熊本から鶴崎への道は、参勤交代の街道となる。古くは長崎にいた宣教師やキリスト教信徒は密かにこの道を使って大分の大友宗麟との行き来を行っていたとされている。

 街道の途中に岡藩があるが、現在は竹田市となっていて、この地には隠れキリシタンが礼拝を行うキリシタン洞窟礼拝所とそれに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の宣教師を匿ったとするキリシタン神父の居住跡がある。また、キリシタンの遺物といわれる1612年製の「サンチャゴの鐘」が、歴代の岡藩主を祀る中川神社に奉納されている。

 フランシスコ・ザビエルと大分県速見郡日出町との縁は深いようで、実際に見学はしていないが、日出町南畑という場所には大分トラピスト修道院展示室があり、後世になって、イエズス会ローマ支部からザビエルの右腕の皮膚の小片が寄贈されている。

 また、日出町豊岡長野という場所は、嘗て日出藩成敗場跡地があり、日出藩11代藩主木下俊懋が菩提寺である松屋寺の住職に頼んで、処刑罪人の冥福を祈るため、供養塔を建立した。この塔の下に、法華経69,384文字を1字1個の小石に書いて埋めてあるといわれている。成敗場がこのような形で残されているのは全国でも珍しい。

 処刑された人の中には、当時家老職にあった加賀山半左衛門とその子ジャコモもいた。
 加賀山半左衛門は、キリシタンであり再三改宗を迫られたが、受け入れずに家老職を追放され死刑宣告を受けた。執行の当日、息子ジャコモは、父とともに殉教したいと泣き叫んだ。父は息子の決心が堅いことを知り、共にこの成敗所で殉教したと伝えられている。

 この他にも多くの場所に隠れキリシタンの墓所があるが、別稿で紹介することとしたい。(このシリーズ最終回です)

大分雑感 隠れキリシタン(3回シリーズその2)

2013年12月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ザビエルは朝廷から日本全土への布教の許可を得るため京都に上がったが、将軍に会えず、山口に戻り、ここで大内義隆の厚遇で布教を行った。山口県にいたザビエルは、大分の港にポルトガルの船が来たということを聞きつけて大分(日出・ひじ)に出向く。大分では、府内城守護大名であった大友宗麟の庇護の下で布教活動を行った。1551年11月に日出を出港し翌年2月インドへ帰った。ザビエルは更に中国に伝道しようとして1552年マラッカを出港したが途中で病気となり、香港近くで没する。

 キリスト教の伝道は徐々に勢力を伸ばしたが、豊臣秀吉が天下を織田信長から継承し、当初は部下であり、キリスト教徒であった小西行長や高山右近などを大名にしていた。キリスト教徒と我が国の地域社会に根付いた神道や仏教門徒との諍いが起こり、キリスト教の教義と思想・道徳・風習とが合致しなかったこと、特に人道主義的な精神が封建道徳を目指す封建支配者の考えと一致しなかったことがあげられる。

 最も大きな理由には、長崎のように外国人の支配する土地が出来ることを恐れたからであろう。従って、キリスト教徒に対する制限が行われた(1587年キリシタン禁教令)。
 伝道を差し止め、宣教師追放の命令を出し、各地の教会や学校を取り壊し、ヤソ会の領地であった長崎を直轄地に改め、信者を厳しく処分するようになった。この傾向は弾圧が強くなり、鎖国にまで発展する。

 しかし、キリスト教を禁止しても通商貿易を奨励したので、あまり禁教の効果を上げることが出来なかった。徳川家康も秀吉の方針を継いだため、宗教と貿易の分離を心がけたものの、貿易に対しては非常に熱心で、貿易の盛況化につれて、ヤソ会始め、各派の宣教師が内外船に乗って密かに来朝する者が多く、九州・中国各地に諸大名の庇護の下に教会も建てられた。京阪より遠く北陸、津軽、出羽、仙台、江戸方面にも信者が出来、1605年には、信者総数70万人にもなった。(次回へ続きます)