どこで見ていたのかカラスが近づいてきてミサゴを追いかけます。
時代背景を紐解くと、いわゆる新大陸発見時代に東洋航路を発見したポルトガル人の勢力がマラッカに入ったのは1509年で、その後ポルトガル人はインドのゴアや中国のマカオを根拠地としてインド及び中国との貿易を盛んに行ったが、やがて16世紀の半ば頃1隻のポルトガル船が九州種子島に流れ着いて鉄砲を伝えた。このころマルコ・ポーロの東方見聞録がヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の探検欲をそそることになる。その後ポルトガル船は盛んに来港し、鹿児島、坊津、阿久根、等の薩摩(鹿児島県)の諸港や、日出、府内(大分県)、平戸、横瀬(長崎県)等の諸港に出入りした。我が国との貿易は主に鉄砲や火薬の原料である硝石であった。支払いには金や銀が用いられた。
フランシスコ・ザビエルはスペインとフランスの国境ナバールで生誕し、パリの大学に在学中に同士とモンマルトルの教会でヤソ(耶蘇)会を立ち上げた。ローマカトリックのイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエルは、新航路の開拓によって発見された新しい世界への伝道を志し、東洋に来航、インドを経てマラッカで布教に従事しているときに、一日本人と出会い(名前をアンジローといい、日本国内で罪を犯した身をポルトガル船に投じてマラッカに逃れていた)、日本への伝道を決意し、1549年鹿児島に来航し、キリスト教の宣教師として、島津藩の許しを得て、薩摩半島に上陸する。
当時、我が国では戦国時代末期であり、川中島の戦い、桶狭間の戦い等、群雄割拠する時代であった。戦況は織田信長の優勢で、全国を統一する頃に当たる。当初、織田信長は反仏教的な態度を取っており、キリスト教に好意を寄せ、ザビエルと同行した宣教師ルイス・フロイスなどを厚遇したほか、京都に南蛮寺(教会)、安土にセミナリョ(学校)を設けることを許し、ヨーロッパの文明を採り入れて、国内統一を促進しようとした。
そもそも南蛮と呼ばれていた欧州が日本に目を付けたのは、植民地にすることにあった。
植民地化の先兵としての役割をもって布教を理由に来日し、状況を見ながら宣教師の数を増やし、大名等に取り入り、権力の頂点を目指し、貿易(実際は鉄砲や硝石だけではなく中国の陶器などを売って我が国が産出する銀の確保をねらっていたようである)を進め、キリスト教徒を増やす手はずであった。(次回へ続きます)
柿の食感を残すために適当な大きさに柿の実をスライスする。当然、熟成が進んだ部分もジャムの大事な材料である。あまり色の変わってしまった果肉部分は廃棄する。準備した深底の鍋に柿の材料を入れ、材料量の3割の砂糖を加え、良く混ぜ合わせる。強火で沸騰させるとアクが出るので浮かんできたアクをこまめにすくい取る。中火にして全体の約半分の量になるまで、しゃもじでかき混ぜながら余分の水分を飛ばす。頃合いを見て少量のレモン汁を加える。好みによってであるが、ブランディーを少量垂らすと柿の匂いを消すことが出来る。
前もって干しぶどうを適量湯に浸けておき、やや戻ってきた段階で戻し汁と共にジャムの材料に加えても良い。柿と干しぶどうのコラボレーションのちょっと感じが違うジャムになる。
どのジャムでも、仕上がりをチェックすることは難しい。長年のカンと度重ねた調理がものをいう。普通は、あら熱を取り、常温か冷やしてみると堅さが増すので判るが、鍋にかけている最中では、火を止めてさますことは仕上がり時間を長くしてしまうため、鍋にかけたままでチェックするには、透明なボールに水を張って、調理中のジャムを数滴垂らすと水に触れて温度が下がり、固まるため、数回この動作を行う。水に溶け出さない状態になるまで煮詰める。あまり堅めに仕上げるとパンなどに付けたとき、塗りにくくなるため、緩めに仕上げた方がよい。完全に冷める前に煮沸消毒をした保存用の瓶にジャムを入れて蓋をしてさます。
以上が柿ジャムの作り方であるが、渋柿で作ったことはないので渋の影響については不明である。柿ジャムをパンに塗るほかに、ヨーグルトに掛けてもおいしくいただける。長く保存するためには冷蔵庫に入れておくと良い。(このシリーズ最終回です)
我が家の柿の木は樹齢60年の老木である。庭の隅に植えてあるが、巨木になっている。
女房との会話で、我々も高齢となり、今後の手入れのことを考えるとそろそろ伐採するかと考え始めている。数年前から収穫量が減ってきているし、さほど手入れはしていないが、冬場にかけては柿の実の収穫後、幹に菰(こも)を撒いて地面からはい上がる害虫を駆除し、開花後には防虫剤を散布するぐらいである。柿の実の収穫時に合わせて徒長枝を剪定し、電線に被る枝は切り落としている。
収穫は多い年でコンテナー(約50×30×40cm)5~6個分、少ない裏年には2~3個分は収穫できる。富有柿で甘柿である。今年はいつもの年に比べ1~2週間後に収穫したため、甘みがあり、おいしくいただけた。全部を自宅で食べるわけではなく、大半は親戚や知人に贈ることにしている。
収穫した柿の実は、野鳥も食料と考えているのか早くから飛んできてくちばしで傷を付ける。鳥は突っついた柿が早く熟すことを知っている。最近はヒヨドリばかりでなく、カラス、椋鳥も来ていた。鳥の被害だけでなく、枝に当たって傷が付いたものや、早く熟したものも多い。カイガラムシが付着する年もあるが今年は殆どなかった。一度に収穫するので、段ボールの箱やプラスチックの籠等に入れ、暫く熟成するのを待つ。汚れは乾布で拭い、実に残る枝は剪定ばさみで切り落とす。全体の1割ぐらいは熟成が進み過ぎ、贈る対象にはならないため、柿ジャムにする。
甘柿のジャムは、渋(シブ)が作用してうまく仕上がらないと聞いたことがあるが、数年前から、熟した柿を捨てるのは忍びないため、ジャム作りに挑戦したところ、意外とおいしいジャムができあがった。特に工夫することはないが、柿の皮をむき、種を取ることとぐらいである。熟した種の周りには、甘みが強く、ゼリー状の組織が覆っている。これと種を分離するのが苦労といえばその通りである。きめを細かくするにはふるいを使ってきんとんを作るように堅い繊維の部分や、種を取り除く。しかし、あまり気にせずに皮と種だけ取り除けば自然な出来映えになるので、敢えてふるいを使わなくても良いようだ。(次回へ続きます)
その後、関東でも、健康志向の影響か、サラリーマンの殆どが、焼酎のお湯割りや、梅干しを入れた焼酎を飲むようになっていて、最近では、さつまの芋焼酎が人気である。沖縄産の泡盛も人気が高い。自分は焼酎を飲まないが、有名な酒に国東市にある萱島酒造の秘蔵酒はよく飲んだ日本酒がある。大変フルーティな香りがあり、値段も高かった。通常飲む酒は大分県九重町八鹿酒造の銘酒八鹿が多かった。
吉四六(きっちょむ)で思い出したが、にんじん、キュウリ、大根、生姜等の野菜のたまり醤油漬けがある。歯ごたえが良く、たまり漬けといっても古漬けではないため、甘みがあり、香の物としてはおいしい。多分通販もあると思うが、帰京の際、飛行場で買うことにしている。
九州の高菜漬けも好物の一つである。最近では、芥子明太と混ぜ合わせた高菜漬けもある。この高菜漬けの付け汁を絞り、細かくみじん切りにしたものをゴマ油で炒めると大変便利な食材となる。冷えたご飯とこれを一緒に炒めると高菜のピラフが容易にできあがる。おにぎりの具にしても良い。
国東のかまぼこもおいしい。かまぼこといえば山口県の仙崎かまぼこは有名であるが、これに引けを取らないおいしさである。また値段も手頃で、東京への土産には欠かせない。
鶴崎に職場があり、冬場になるとおでんのネタに鶴崎かまぼこ(もう店じまいした)を箱で購入したものである。昔風のどぎついピンク色をした薄っぺらいかまぼこであるが、ストーブの火で炙ると大変おいしい。かまぼこばかりでなく、練り物を揚げた天ぷら(薩摩揚げ)も新鮮なエソやサメ、グチ(イシモチ)などを使っていたため、歯ごたえも良く、かまぼこ本来の味がした。(このシリーズ最終回です)
イソシギは小型のシギです。羽を広げても大きいわけではありませんが、ピィピィという鳴き声とともに、飛び回ります。羽を広げると模様が美しい鳥です。
大分で油揚げといえば三角形が定番である。それも分厚くて大きい。軽く炙ると香ばしい香りがして、醤油に浸けて頂くと酒のツマミには良く合う。いなり寿司はこの三角形の油揚げを使う。湯通しし、余分な油を取り除き、油揚げを甘辛く煮るのは関東と同じであるが、三角形の頂点から底辺に向かって二等分に切り分けると、三角形が二枚出来る。そこに酢飯を詰め込むと三角形のいなり寿司が二個出来る。酢飯を詰め込むと切り口が楕円となり、その面に飾りの紅ショウガの千切りや寿司の花(ピンク色をしたデンブのこと)を置く。寿司飯に味付けした椎茸や山菜を入れることもある。これを二個も食べると満腹となる。
結婚後は川崎で暫く生活していたが、母子福祉の仕事をしていた母親と一緒に住んでいた。食事は女房が主に作っていたが、仕事に出かける母親の注文で、いなり寿司を造ることになった。女房は近所の豆腐屋に行き、三角の油揚げを注文したが、関東では長四角の油揚げしか売っていない。仕方なくそれを購入し、さて半分に切ると大変長い三角形となり、こんな長いいなり寿司は見たこと無いと考え、両端を三角形に切る。2枚出来るが、余分な部分が多すぎる。結局、これらは具にすることにし、小さな三角形のいなり寿司を沢山造った。
母親が仕事から帰って食卓を見て、「まあ、小さくてかわいいお稲荷さんだこと、良く造ったわね!」賞賛の声をあげた。女房の苦労した話をし、大笑いとなった。後日談であるが、長四角を斜めではなく直角に半分に切るとは気が付かなかったとのことで、三角のいなり寿司しか知らなかったようである。寿司の花を食品店に行って聞いたところ店員が「カンピョウですか?どちらから来られたの?」と聞かれ、このピンク色のものを指さし購入できた。カンピョウはカンピョウであり、全く失礼な店員だと憤慨することしきりであった。
近年焼酎党が増え、居酒屋では全国の焼酎が並ぶ店も多い。大分では二階堂酒造の麦焼酎が吉四六(きっちょむ:民話のとんちの主人公)という商標で販売されている。当時から大分で酒といえば焼酎であった。すっきりとした味で、二日酔いはしない。40度の焼酎をそのまま茶椀に入れて飲む、豪傑が多かった。日本酒が飲みたければはっきりと日本酒といわなければ焼酎になってしまう。(次回へ続きます)
バヌアツテレビ局の若手スタッフ4名は、カメラマン、録音、レポーター、総括責任者で、男2女2名であった。日本の紹介といえば、名所旧跡や、日本食、近代国家としての高度な技術力などお決まりのパターンであるが、バヌアツの企画はそれらもあったが、彼ら独自のテーマとして、祖国の童謡で歌われる動物のカバは見たことがないため、動物園での紹介、都内でのゴミの分別収集、温泉の紹介、日本庭園枯山水波紋の意味等であった。
日本が高度に発展した国の背景に、ベースとなっている伝統文化との共存があり、自然との融和や子供の頃からのしつけや教育が緻密に係わっていることの賛辞があった。日本人の我々でも日頃当たり前と思っていたことが、羨望の目で賞賛されると、うれしい思いをするが、そうではない国にとっては感動を与えるようである。
レポーターの離日前の一言は来日が初めてであったが、来日前に知った日本はファンタジックの国で、日本の文化に触れ、これが現実であると絶賛していた。そのように評価されると日本人にとっては大変名誉なことでもあり、再認識した次第である。
以前来日した開発途上国の行政官との雑談で、あまたいる生物の中で、人間として生まれることの偶然は、確率からいうと殆ど0に近い。四季があり、平和で、高度な文明を享受できる日本人に生まれることは、更に、可能性として全くないといっても過言ではないとのことであった。
果たして日本人に生まれて現代を生きる者にとって、多くの外国人が持っている、このような考え方を知っている者がどれだけいるのであろうか。日本は異国であり、特別な国であり、原爆を落とされ、敗戦を経験し、最近では地震による津波被害、原発の放射能汚染で被災した特殊な国である等と、異端児的な発想を強調して、対外的に発信してきたのではないであろうか。一方、外国人から見た、日本人を羨む思いはこの日本紹介のビデオでも貫かれているのであるが、放映を見て自画自賛するだけでは意味がない。
利己的で便利さや贅沢を求め続けることは止めようもないが、日本からの情報発信は、謙虚な気持ちに立って、他国の幸せに積極的に手をさしのべることの必要性を実感した。(このシリーズ最終回です)
日本の良さを海外や国内の視聴者へ伝える番組は、忘れていたことを思い起こす良い機会となっている。NHKの「Cool Japan」もその一つであるが、来日している留学生がレポーターとなって、テーマに即して現場へ出向き、異文化の違いというか、日本の風俗、習慣、文化や製作品等を紹介する。レポーターの目から見た我が国のそれらを自国と比較して、番組に参加した各国の留学生が率直に討議し合うといった構成である。まとめ役の日本人司会者の軽妙な進行もおもしろいが、日本人の我々さえ入って行けない製造現場等の「ものづくり」現場のレポートは、画像を通じて新たな発見や感動が味わえる。
研修生、留学生、観光客等の来日を通じて体験するばかりではなく、我が国の事情や状況を海外へ発信することは大変重要と思われるが、それらの情報がどのように伝達され、理解されるのか、またどのように役立つのかはよく分からないところがある。
木曜日の夜9時から10時半までテレビ東京で放映されている番組に和風総本家がある。
今回は南太平洋テレビ局に完全密着!日本紹介番組を制作と題した内容を見た。この番組の意図は、我が国の紹介を通して、どのようなテーマを選びどのように撮影され、放映するかという意外性でもある。将にバヌアツ共和国のテレビスタッフ4名が来日し、事前に企画した台本に基づき、初めての日本の印象を自国のテレビ番組として収録、帰国後放映し、その反応までも紹介していた。 テレビ東京では同様のシリーズを既に6回放映していて、今回が7度目になる。
バヌアツ共和国は南太平洋に浮かぶ83もの島々を領土とし、人口24万人、面積12,200平方キロメートルで、首都はポートビラである。海洋性気候で、熱帯雨林帯に属す。
バンジージャンプの発祥地としても有名である。島民の多くは日本のことをあまり知らないようであったが、豪雨で壊れた橋をJICAの技術協力で直した国として紹介されていた。(次回へ続きます)