鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

評価(2回シリーズその2)

2014年04月23日 00時00分01秒 | 紹介

 我が国の特徴ともいわれる企業内組合が、産業別の組合に発展しないところがあり、企業別の競争力を向上するには好都合であるが、横断的な関係になりにくい要素を抱えている。この裏には、人事制度や労使交渉は、企業別で行われている。もちろん連合などの全国的で全産業を抱える組合組織もあるが、各企業に対しては上下関係がタイトではないようである。評価においても企業ごとに作られている。いわゆる、米国の労働総同盟・産業別労働組合会議(AFL-CIO)とは一線を画す。

  職業訓練校で学ぶ内容は職業が持つ内容を教えやすいパッケージとして、大別すれば、技術、技能、知識である。それぞれの学習後の習得結果は、技術については理解度、技能については到達水準への達成度、知識については関連知識を含め、その理解度をペーパーテスト等で測定して評価とする。理解度の尺度は一般的・詳細な知識を区分し、~を知っている、~をよく知っている、である。特に技能については、身体的な能力をカンヤコツとして、熟練度を測るため、~ができる、~がよくできる、という尺度で評価する。当然一定の作業時間内に製品の仕上がり具合を工程(手順)通りに行い、精度も評価項目の一つとなる。規定寸法、表面粗さ、出来栄え等である。溶接などでは製品の耐圧検査、曲げ、せん断力等も測定する。安全作業が出来なければ評価対象とはならないため、再挑戦となる。

  千葉県成田市にある航空機整備科コースでは、特殊な例であるが、口頭試問が実施され、整備するエンジン等の分解・組み立ては国土交通省から派遣された試験官と1対1での実地試験である。古くから商家ではのれん分けの制度があり、茶道、華道ではそれぞれの家元から名取の免許皆伝がある。これも評価制度に他ならない。

  人が人を評価するのは容易ではない。先入観や第一印象で判断し、結果的に誤った評価をすると取り返しがつかなくなる。従来は減点評価が一般的であったが、最近は加点評価を採用しているところも多いようである。評価が昇給や昇格に影響する以上、評価する側は評価の納得性を常に意識しておかなければならない。(このシリーズ最終回です)


評価(2回シリーズその1)

2014年04月22日 00時00分01秒 | 紹介

 評価は総じて物事の価値や価格を決めることである。また、教育等で、学習した成果を一定の基準によって、判定することである。評価の結果は、高い又は低いで表す。教育の場で用いられている評価は、絶対評価と相対評価である。

 物事の進め方で一般化している方法は、このブログで何回となく取り上げたPDCA(ピーディーシーエイ)Plan-Do-Check-Action 計画-実行-評価-行動(フィードバック)である。チェックは照合、検査、点検の意味で使われているが、評価基準に照らし合わせて判断するので、前もって評価基準を作成する必要があるが、ただ作るだけでは誤差が大きくなり、意味をなさない。評価基準はだれが評価しても誤差がないようにすることが必要で、数値化するなど信頼性と納得性が大切である。

 信頼性を持たせるために、法的な裏付けを持たせることが行われている。評価試験を実施する場合には、公開されている検査基準や照査標準といったものを用いる。職業訓練校では、施設自体が、企業で使用されている機械・装置等が具備されているため、旧中央技能検定協会が実施する職種別の技能検定の会場として使われていた。指導員は検定委員として委嘱されることがあった。技能検定では水準調整の名前を使っていた。施設間や、検定委員間の判断基準の調整を行うためである。

  企業等の人事評価(人事考課)では、人物評価、業績評価、能力評価などの用語がつかわれている。従業員の職務活動や能力を一定期間ごとにチェックし、その結果で、教育訓練や職務配分、職務配置に結び付けている。企業規模が小さければ、限りがある人材の中での評価は相対評価にならざるを得ないが、規模が拡大するにつれて、多様な人材を評価するためにも評価基準はしっかりしたものでなければならないし、私情を挟む余地を極力避けなければならない。その意味では絶対評価に近づいていくし、他企業との比較など、業界基準なるものへと発展するのがベターであろう。(次回へ続きます)


後天的な影響(3回シリーズその3)

2014年04月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  人類が誕生して40万年が経つと言われているが、各世代の情報の質は違っても永年に亘り培われてきた営みが、少しずつ遺伝情報を変えてきたと考えるが、脳の重さなど変わってきたのか、それとも人類誕生以来殆ど変わらないのか、昔漫画で見た未来人は極端に頭部が大きく、痩せていたような体格だったと思う。遺伝情報の比較が出来れば是非先人と比較してみたい。

  遺伝情報は突然変異が起こり得る。多くは環境に適応するために、優位性を持つものが残り、劣性は絶滅するようである。しかしそのテンポはかなり遅く、時間的に考えても数千年の単位ではないのであろうか。それに比べて後天的な知識や理論などは科学技術の発展などで簡単に変更することが可能である。

  遺伝子を組み換え、冷害に強く、収穫量が多い穀類や、特定の病気に強い作物の開発も行われている。しかし、再生医療については緒についたばかりであり、更に、遺伝子操作によって秀才や天才を受精卵段階から作り上げることなど考えない方がよいのであろう。

 兎に角、簡単に結論が出せることではないようである。先天的な要素と後天的要素のそれぞれをもっと分析してみることも必要と思われるが、こうしてみると先天的・後天的の影響への問題は短期間に結論に到達出来ることではないことは確かである。(このシリーズ最終回です)


後天的な影響(3回シリーズその2)

2014年04月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  しかし、社会的に未熟な20代で生まれた子供と40代で生まれた子供の知能がさほど差があるとは聞いたことがない。優秀な両親の生活規範等生まれた子供がそれを学習し、次世代へ継承される可能性はあろう。これは後天的とも言える。先天的な要素と後天的要素とが相まって社会生活を送っていると見るのが自然であろう。

  一般的に考えると年齢を経るに従って学習能力は上がり、社会経験も増える。体力は落ちても知能は発展続けるという。性格については「三つ子の魂百まで」といわれるように年を経てもあまり変わらないようである。先天的要素は生命維持に係わる身体能力例えば、体型、持久力などの体力、記憶力、内臓器官の被患率などが主要な要素で、計算能力、読み書き、言葉、協調性など社会生活に必要なルールや善悪の判断などは後天的要素といえる。

  我が家で飼っている日本犬の雑種であるが、生後まもなく女房が貰ってきた犬で、既に8歳になっている。しつけや言葉による反応は将に後天的な要素が大きいと思うが、観察していると、最近は日本語を良く理解してきたようで、主人の言うことを良く聴いて行動するようになった。これは後天的なしつけによるが、犬にも遺伝的要素がたくさん持っており、既に5匹ほど飼った経験からすると、性格、食欲、性欲、運動機能、記憶力、喜怒哀楽の感情は勿論、犬によって異なる。幾らしつけをしても駄目な犬も居たが、このことは生まれながらに持っている遺伝子情報の違いだと思える。(次回へ続きます)


後天的な影響(3回シリーズその1)

2014年04月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 動物や植物の遺伝子情報の解読が進んでいるが、兼ねてから不明なことがあった。教育関連の仕事を長い間努めてきたのであるが、よく分からないことの一つに、先天的な遺伝子情報と後天的な影響との関係である。教育は後天的な期待値の中で発展してきたのであるが、先天的な、つまり、生まれながらに持っている遺伝的能力を重要視してこなかった。

 とも思われるが、天才ピアニストや作曲家、名を残す画家、ナポレオンのような軍人、プラトンやソクラテスのような哲学者、アインシュタインのような科学者、ミケランジェロのような天才など、生きた時代はそれぞれ違うが、後世の人々の羅針盤とも言える多くの業績を残している。このことは後天的教育、例えば、学校教育を施すだけでは答えが出ない突出性と後世に残る業績である。

 喩え、後天的な教育がそのきっかけを作り、眠っていた能力を引き出し、開花させるという役割を果たしたことはあったであろうが、現代の教育者においても、完全に後天的な教育のお陰であり、先天的なことは一切ないとは断言できないことだと思う。自分にはどう考えても先天的な能力が、影響していると考える方が自然である。しかし、遺伝であれば、彼らの死後、家系がどのようになり、後世に歴史的な名を残す人物を排出したかは不明であるので何とも言えない。メディチ家の初代からの家系を見てもはっきりと証明がつかない。

  ここで、現在の後天的な学校教育を問題にするというわけではない。遺伝子情報が何時の段階で子供に伝わるかは、受精した段階、人間で言えば、一般的な結婚年齢からすると、卵子が受精可能な20代から40代の約30年間であろう。遺伝情報は親から子供に伝わるのであるから、40代を過ぎて学習した能力は次世代に遺伝しないと言うことであろうか。(次回へ続きます)


専門性考察(2回シリーズその2)

2014年04月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 さて、専門性についてであるが、職務として専門分野について経験や、蓄積がある方を専門家といっているが、必ずしも定義があるわけではなく、自称で使う場合もある。研究員という役職がはっきりしていれば、対外的にその名称が使えるが、名刺にも特に組織から与えられるもの以外に何種かの名刺を持つ人もいる。

 専門分野についても境界線が明確ではなく、技術士や博士号などの国家資格が幅をきかせることもあり、受け取る側との暗黙の了解事項でもある。学歴など、履歴書事項と異なる記述をすることは虚偽記載にあたるため、そのようなことは行わないが、専門家とそうでないものとの違いは自ずと分かるものである。

 人間性は大事な要素で、専門バカでは世の中は渡れない。一芸は百芸に通じるとも言われ、卓越した技量は、何も一つがよいからではない。そこに至るまでの蓄積がなければ到達できないもので、決してピラミッドのように突出しているのではなく、逆ピラミッドと思っても良いであろう。経験したことは量としても質であっても膨らんで、増大していくものである。専門家であればあるほど多くの分野に精通し、それが組み合わさり、深まっていくもので、決して針状の一本線ではない。

 東工大の成瀬教授は職業訓練の分野に多大な貢献をされた方であり、職業訓練大学校の初代学長をされていた。この方が示した技術・技能・知識のモデルはこれらの要素が螺旋状に発展すると述べられている。自分は僭越ではあるが、この支柱となるのが人間性であると思っている。(このシリーズ最終回です)


専門性考察(2回シリーズその1)

2014年04月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 生物科学の分野の最先端を行く再生医療での不祥事が露呈され、研究者の技量が問題化している。研究論文の捏造、証拠写真の改ざん、他者の研究論文からの引用等が発覚し、当該論文そのものを取り下げる事態まで発展している。この問題の収拾には再調査や再研究等によって真実を明らかにしていかなければならず、時間が掛かりそうである。

  研究成果の発表から現在に至るまでの流れの中で、専門家といわれる研究者と未熟な研究者という若手の人物像との間に、世間の評価や受け取り方の違いがあるようで、違和感を覚えた。研究機関は公的な組織で、次世代を担う高度な研究組織である。多くの研究員を抱え、過去の研究成果についても多くの実績を持つ。今回の騒動で研究体制やチェック機能を変える動きが出ているが、研究には、多くの時間とリスクを伴うことも事実である。成果を出すというノルマと投入した人材や運営費用等に見合うことを強要しすぎると、別の表現では、投資効率を高めれば高めるほど成果が杜撰となり、リスクを高めることに繋がる。

  研究のイロハについてはここで述べるつもりはないが、研究現場の自由な発想を大切にし、研究者相互の意思疎通を図る必要がある。以前ブログで研究組織は文鎮形と述べた。

 トップは対外的には長としての役割があるが、組織内では一研究者として振る舞うべきで、事務方が作るトップダウンの組織ではないのである。その意味では、縦割り組織には研究活動は不向きで、研究者の上下関係はゆるいものでなければならない。個人の創造性は十分に担保され、発想は自由であり、共同研究は大いに活用すべきと思っている。

  組織研究であれ、個人研究であれ、仕事としての研究活動である以上、一研究論文であっても、組織の成果であるわけで、組織内の対立はあってはならないのであろう。通常論文として投稿する場合には、組織内の許諾が必要である。投稿する前の成果は組織内の規程に沿っていなければならず、一定のチェックが成される。組織内のチェックをクリアされなくて投稿することはあり得ないことである。(次回へ続きます)


規律訓練(2回シリーズその2)

2014年04月16日 00時00分01秒 | 紹介

  整列をさせ、気を付け、休め、回れ右、右向け右、左向け左、前へ進め、一列縦隊、一列横隊、駆け足前へ進め、番号、礼等の号令を掛けても、号令通りに行動できず、機敏に動けないのである。小学、中学、高校、大学等の学校教育では殆ど教育されていない。と言うよりは体育の授業でさわりを教え、体育祭の集団行動のためのようで、現在では軍隊を思い出させる親も少なくなり、親が子供に教える機会がなくなったのかも知れない。

  特に、3年前に発生した東北、北関東をおそった巨大地震と津波は大きな被害をもたらした。工場や学校など人が集まるところでの被害は、突然の災害に避難の限界が表面化し、想定外という言葉まで産んだ。おそらく多くの施設で、防災訓練は実施されていたであろうが、多くの尊い人命を奪う結果となった。自然災害とは言え、その後の復旧は漸く緒についたところであり、元通りの生活を送れるまでになるには膨大な時間と費用がかかることになる。

  突然の災害に身を置くと殆どの人はパニックになってしまう。冷静な判断が出来なくなり、二次災害となる人災が発生する。映画館や劇場などで火災が発生した場合を思い浮かべれば判ると思うが、誰かが、号令を掛け避難を整然と行うことは殆ど期待できなくなってしまっている。

  号令調整でどこまで実施し、人命を守ることが出来るかの予測は困難であるが、災害に遭遇することは少ないとはいえ、自然災害が全くなくなることはない。そのときにとっさに行動が取れ、避難することが出来るのか、集団をどのように守り、行動させるかという命題は脳裏から消えることはない。(このシリーズ最終回です)