鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

日本人の意識その10

2016年04月15日 00時05分00秒 | 緑陰随想

 優越感と劣等感は、比較対象があってはじめて認識できるものであるが、だれが定めたのか標準があり、標準を基準として、良い、悪いを決める。しかし、この基準は母集団が少なければ少ないほど偏る傾向が出るため、相対評価に耐えうるサンプルの収集が必要となる。そこぜ母集団を大きくし、絶対評価を求めていくが、地域を超え、国を超えることによって、より正規分布に近くなる。サンプルを多めに採集できない場合には、どうしても相対評価とならざるを得ない。

 

 そこで、相対評価が独り歩きすると標準自体が正しくないのであるから正しい評価とはいえなくなる。日本人は狭い範囲での考え方に固執する傾向が強く、視野をもっと広げる必要を常々感じている。他者との比較は行いやすいのであることも一般的であり、競争原理は常に優越感と劣等感を持つ。お山の大将が低い山であれば、優越感も消えうせるであろう。逆に厳しい現実は他社が見えないために、実際は一番厳しい職場なのかもしれない。

 

 このようにすべての事柄において、標準となる、または基準となる数値や品質、機能、知識、技量等や、生活レベル、生活インフラ、交通インフラ、人口構成、社会資本、医療環境、賃金等幅広く、奥深い調査を重ね、データを蓄積する必要がある。めったに関心がない世界のデータを見ることはないが、わが国の公開されている情報量はいかに多いかがわかる。しかし活用となると人によって異なるが、大きな格差があることは間違いない実態であろう。

 

 日常の雑事に追われて、時間がないとの声が聞こえてきそうであるが、時間が問題ではなく、知ろうとする意欲の問題だと思うが、それは横に置き、判断の分かれ目である基準の採りかたを間違えると結果は自ずと明らかに間違ったことを通すことになり、劣等感に苛む(さいなむ)ことになる。競争社会の比較対象を正しく判断する習慣をつけることが重要と思われる。

 

 特に生き方や、善悪の判断、騙され易く詐欺に合うかどうかなど日常の生活の中にも常に求められることが、仕方がないでは済まされまい。悔いを残さないためにもしっかりした基準を身に着け、他人の意見をよく聞き、行動を学び、判断力を高めてほしい。机上の空論より実際に行うことの方が役に立つ。曖昧の判断基準は意識をもって正しい判断ができるようにしたいものである。正しい答えは一つとは限らないし、選択を行えばその責任は自分にあることを改めて周知したい。


日本人の意識その9

2016年04月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 一般的に自由主義の社会では生活の糧を得るために、労働を提供し、賃金を得ている。雇用者においても立場は違うが、管理者として何らかの所作に携わっている。年金生活者は就業中に徴収された賃金に見合う額によって原資を出し、その見返りを年金という形で提供を受けている。

 

 その金額は平均余命にほぼあっていて、長寿すれば多くなり、早死にすれば損をすることになるが、現職時代に徴収された原資はその時点の年金受給対象者に配布されるため、国全体とすれば、徴収する対象者の数が減れば、年金額も減ることになる。少子化問題が大きく関係するため、子孫繁栄は他人事ではなくなる。また、少子化は地縁者や血縁者を減らすのは必然である。

 

 個人がどのような職に就くかは偶然が関係するが、人物、個人の能力、将来性等と、雇用する側の採用条件とが一致して初めて決まるものである。何を重視するかは雇用する側にあるが、売り手と買い手の市場を形成していると例えることができる。品物ではないため、双方ともに外見では分かり様もなく、明確な条件で必ずしも一致しているわけではないが、期待値があり、明確にならずとも採用されることが多い。雇われてみる、雇ってみないとわからない面は双方共通で、インターネットからではわかり得ない企業の事情や、採用された個人の性格、思想、協調性なども内申書だけではわからない面がある。

 

 そこで、双方とも情報を集めることになり、偶然とはいいながらも、より明確にする手段の一つに、人脈、コネ(縁故)などの関係性が重要視される。この分野は露骨には出ないことであるが、重要なファクターであることは間違いない。比較的公明正大である推薦制度は、大学入試時に、高等学校に割りあてられた人数にこたえる形で、学校長の推薦状がある。同様に、企業に何らかの形で関係する教授等からの推薦状についても採用を有利に進め、インセンティブとなりやすい。

 

 我が国ではことがある度に、地縁者や血縁者が登場する人脈も大切な要素であり、政治家を含め、格式とでもいうのか、影響力を及ぼす社会でもある。村社会の延長といえないわけではないが、一方ではコネ(コネクションの略か?それをたどって行けば特別の利害関係・便益を伴うはずの人と人との結びつき)が個人の能力の一部として現存している。

 

 コネについては弊害をいう人も多いが、所詮、人が集まる社会であり、無関係がよいとまではいえず、優先になり得る本質を持っているのである。


日本人の意識その8

2016年04月13日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 以心伝心について考えてみたい。禅宗では言葉では説明できない深遠・微妙な教理を無言のうちに弟子に伝えることで、俗に無言のうちに相手にわからせる意味にも用いられている。では、テレパシーなのかという疑問も生じるが、そうではないようで、禅宗の教理の基本は座禅であり、道士と仰ぐ方との問答である。実際の世界は知らないが、厳しい修行の中に俗世では味わえぬ多くの心理を体得し、自立本願を志すと聞いている。

 

 テレパシーは超能力や精神官能現象などと呼ばれ、一時話題になったことがあり、脳科学の分野でも多くの実証的な実験が行われている。よく言われる話に、一卵性双生児が遠距離に置かれていても、考えることや行動が類似していること、若干心霊的となるが、神からのお告げや、虫の知らせなどは日常的によく耳にする。虫の知らせは、体内にあって、人間の心的状態を左右すると考えられていて、子供が体質的に疳(かん)が強い状態になることをいう場合に使われる。

 

 日本人は胸に手を置くことをするが、心臓が心とイコールという考え方で、胸には心というもう一人の自分を当てはめる場合がある。その心との対話を通して、状況に応じて善悪の判断や好き嫌いの判断を行うとされる。どなたかか忘れたが、もう一人の自分は、日本人が生まれたときに口から入る神様だそうであるが、これは自分を形成する師匠や指導者のようで、間違ったことはしないし、正しい判断を行うそうである。もう一人の自分が判断つかない場合、例えば、未知の経験等に遭遇するとパニックとなるとされている。成人となれば、同化することでもう一人の自分などという理屈は通らないため、または二重人格などと揶揄されるため、自然に忘れてしまうようである。

 

 お告げは超常現象で、外国にも神のお告げや、それに類した奇跡的な状態を目にし、声を聴いた、音を聞いたとの話は多い。本当のところはよくわからないが、説明がつかない、再現性がない世界では眉唾の話も多い。しかし、未解決であっても世界の7不思議があるように現代文明では解明不可能な世界は多くある。以心伝心などのその部類に入るのかもしれない。

 

 日本人がどこから来たのかでさえ明確な証明がなされていいないし、異論も多い。今は超常現象とされていることも後世で明確になるかもしれない。言いたいことは、全てが明確ではない世界がある以上、限定的な範囲や対象範囲を決め、論議する場合でも、スタンスを決めてからの話とすべきで、とくに宗教との関係は原因結果が曖昧であるため、唯物論の立場からすると判断がつかない分野である。我が国では唯物論と唯心論とが混在していて、より複雑化している社会といえる。


日本人の意識その7

2016年04月12日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 阪神大震災、東日本大震災等の自然災害を発端に、震災ボランティアが活躍した。現在もNPOの設立の契機となり、国や地方自治体が行う各種施策と並行して、ニッチにして大切な被災者に寄り添い、支援の輪が広がっている。今回、取り上げるのはボランティアについてである。

 

 我が国にも古くから喜捨(きしゃ)なる言葉が存在している。その意味は進んで寺に寄付したり、貧しい人に施し物をしたりすることで、施与(せよ)ともいっている。施与は聞きなれない言葉であるが、困窮者や僧に何かを施し与えることで、現在でもお布施といっている。

 

 根底には宗教観があるようで、仏教の教えの中に、芥川龍之介が書いた蜘蛛の糸がある。

 お釈迦様が池のほとりで蓮の花をご覧になったときに、ふと、地獄に落ちたカンダタという悪人のことを思い出し、地獄に通じる世界へ蜘蛛の糸に霊力をかけて救済するという物語である。現世で悪人であっても一度蜘蛛の命を助けたことが発端となっている。

 

 宗教心といえば、イスラム教やキリスト教の貧者を救う行為が天国へ導く人の道という考えが蔓延していて、イスラム教徒が日常行う五行の中にもザカートとして存在している。

 コーランのザカートは自発的な喜捨を意味し、その内容は、通貨、家畜、果実、穀物、商品等を奉納するもので、貧しい巡礼者、托鉢、借金を返済できないもの、乞食、貧しい旅行者、改宗者の援助のためにイスラム協会や政府が仲立ちするものである。一種の税金に等しく、救貧税ともいわれている。キリスト教においても、教会へ礼拝するたびに寄付・寄進を行っているようである。どちらもボランティアであり、積極的な関与が求められているのである。

 

 企業等の社会的な地域社会への貢献が行われているが、これは地域とともにあることで、個々人の活動とは異なるが、あまり知られていない。ボランティアが、無償の活動であり、欧米では自己犠牲(サクリファイス)に近い意味を包含している。赤十字の赤い羽根で共同募金が定着しているが、町内会からも役員が各家庭を回り、募金を集めている。

 

 しかし、一部活動費をもらいながらのボランティアといわれていて、本来的な意味とはかけ離れたこともあるようで、集まった募金の使途についても、公表されない等、不信感もあり、平素からの教育や、無償の活動経験を積むことを子供のうちから教える必要があるようだ。競争社会がもたらす格差等の弊害はそう簡単に排除できないのであるが。


日本人の意識その6

2016年04月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 しきたり、迷信、家訓、社是等の指針がある。これらの目的は、集団生活の戒めごとや、経営等の根本方針を示した言葉で、べからず集であったり、犯すことへの天罰や、期待を現すものとして組織のバイブルともなっている。迷信については度が過ぎると逆に生活の秩序を破壊することになりかねないが、不健全な民間信仰といえるであろう。その時点での裏付けとなる科学的な根拠や知識があれば、間違いだと気づき、正しいとは思わなくなるのであるが、たたりなどの関連性がないことに結び付けるなどの弊害がある。

 

 家訓については、その家の信条として代々子供に伝える処世上の戒めであることが多い。誰が言い出したのかは不明なことが多く、時代背景の違いで、的を射ていない場合もあるが、家系を大事にするとの立場は自己との関係性を含め、価値が生まれることもある。

 

 小中学校にも似たような指針があったが、最近はあまり耳にしなくなった。なかには生活の指針となるものもあり、健全な身体は健全な精神が宿るとか、吾足らずを知るなどの蹲(つくばい)は意味深長な世界を示している。中国にも四字熟語があり、温故知新、画竜点睛を欠くなど、現代でも使われているが、理にかなったものが多い。

 

 四字熟語が時代を超え伝えられるのは、簡潔にして、真実を追い続けた結果であり、最近では情けは人のためならずのように本来の意味とは異なる使い方もあるようで、これも常識自体の変化というべきか。

 

 言葉の変化や符丁、隠語、英語の短縮した和製英語、特定な集団だけで通じる用語など、遊びの世界と思われることもあり、一種の同族意識が裏に横たわっているのかもしれない。

 日本に限るわけではないが、同じ言語を話すことができる集団では、安心するせいか、親しみを感じる。方言もそうで、良い面もあるが、脱皮しずらいという仲間意識を助長する場合もある。

 

 社会は一人では成り立たず、家族から、地域社会から、組織に所属すれば、その中でのルールが存在する。その意味では天涯孤独などはなく、人との人間関係で生きている。礼節を重んじ、他人の迷惑にならないための対人を意識した生き方が求められている。対人関係が意外に複雑で、御し難い経験をすることになるが、日本人の意識の中に刻まれている多くの事柄は、後天的であり、経験の蓄積である。積極的に人と関わることの重要さは改めて感じるものである。


日本人の意識その5

2016年04月10日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 同族意識の基本は家族であるが、核家族化との言葉が示すように、出生率の低下とともに大家族は珍しい存在になっている。子供が少ないことは将来の展望は望むべきもなく、後継者問題、過疎化、都市部への集中、高齢者対策等が顕在化してきていて、年金の破たんや、公共施設やインフラ等が戦後から70年経た現在、各所で老朽化問題も発生している。

 

 人口構成が逆ピラミッドとなることは数十年前から指摘されてきたところであるが、それが現実化し、今後も減り続け、数年先には1億人を切るといわれている。ここで同族意識を述べるのは適切でないかもしれないが、家族関係以外まで発展させてみることで、疑似的な状況を垣間見ることができる。しかし、次第に同族意識は家族関係と同じように希薄化しているといえる。

 

 企業や、団体、国、地方の公務員等、各種労働組合を含め、所属する組織は、一種の家族関係を形成し、福利厚生の機能を保持してきたが、制度自身をやめているか、規模を極端に縮小している。このことだけではないが、職場を一つの家族とする考え方自体が崩壊に瀕しているのであろう。特に先輩後輩関係は、ほとんど機能しなくなったといえる。

 

 成果主義の台頭や、目標管理の導入によって、グループや集団対応から個別対応と変化してきていて、効率優先となり、成果主義は個々人の競争意識を高めるベクトルに向かい、相互協力や、指導等の従業員育成にはマイナスとなっている。同様に、労働組合離れも著しく、どこの組合でも組織率の低下傾向は続いている。一度低下傾向が続くと、特別なカンフル剤が見当たらない以上、現状維持が関の山と思える。

 

 組織は人なりといわれ、構成員の信頼と協力があって初めて成り立つものである。雇用される側にとっても、賃金を受けるだけの関係ではないはずで、仕事を通じて人脈を作り、後輩を育成して効率化を高めてきたのであるが、単なる個別のジョブローテーションだけでは相互啓発はおろか、自己啓発すら期待できず、人は育たないのも確かである。

 

 日本企業の特徴であった年功序列型賃金、福利厚生制度、提案制度や5S、企業内組合等はどこに行ってしまったのか、その一つが、同族意識である。制度自体の寿命は30年といわれているが、企業においても30年を経ないうちに次の新しい企画が取り入れられてきた。手をこまねいているだけでは企業の存続もいずれは難しくなるであろう。我が国の大手企業であった東芝やシャープが傾いたのは他の理由であるが、少なくとも上述した日本型経営の崩壊が影響しているといえないだろうか?他山の石とすべきであろう。


日本人の意識その4

2016年04月09日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 学歴社会が蔓延って(はびこる)いて、採用判断の基本になっていることは事実である。

 学歴でもって区別しているといえそうであるが、雇用側にとっても、何をもって人物を採用の基準とするかは、説得力がなければ、判断が難しいしいことも起因している。基本的には義務教育を卒業していれば労働出来る。高等学校には99%が入学している現状では、高卒以上が一般的になりつつある。就職は契約行為であり、雇用する側とされる側とが労働基準法に基づき、労働の提供に対する賃金の支払いが行われている。

 

 賃金の基準は、最近話題となっている同一労働同一賃金が原則であるが、長期的な雇用関係では、仕事の内容や責任の範囲が異なってくるし、同じ労働と見えても質的な面や、量的な面での違いが生じる。そもそも、わが国の多くの企業では定年はあるものの終身雇用制が導入され、学歴による賃金格差を維持してきた。一般的には正規雇用の形態をとり、非正規での雇用についてはパートタイマーやアルバイトなどの短期間の契約が付随的に行われるという構造は、割合の変化はあっても制度自体は大幅には変わってはいない。

 

 学歴が高くなり、相対的な意味で、雇用量が一定ならば、単純労働へも高学歴者が雇用されるという現象が生まれ、大学を卒業しても現業に着くこともある。組織がピラミッドを形成していれば、管理職は、多く採用される必要はないため、同じ組織から選別され、競争社会を形成する。関門である入社時点での同一賃金から競争に勝ち残る結果、賃金面や職務においても差が生まれるのは必然である。賃金は、ある面ではその競争結果へのインセンティブに寄与しているといえそうである。

 

 資格との関係も触れなければならないが、資格が必要な職種はそう多くはない。就職後に取得する場合もある。公的な資格が必要な職種での重要性は無視できない面もあるが、資格自体の中身にもより、教員等採用の条件になる場合を除き、職場経験を優先する傾向もある。背景にはジョブホッピングが一般化していないこともあり、資格が最低基準の安全性等を目的とし、取得後の能力を期待する場合もあるからである。この例は、調理師資格を持っているからすぐに調理場に立てるかどうかは未定であり、採用側の判断による。

 中小企業のモノづくりの現場では、資格を持っていても、それだけでの採用はなく、実際の機械操作ができれば採用に結び付く場合もある。

 

 学歴社会が今後どう変化するのかは明確にお示しできないが、採用側の社会の変化に合わせるニーズがあり、オーバードクターの未就職の問題なども生じている。現場との遊離が浮上していることによるが、企業内訓練の衰退の中、社会人としての教育問題についても誰が、どこで、何を、どこまで行うかの喫緊の課題もある。