鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

御柱祭特別抗告

2016年07月24日 00時00分01秒 | 紹介

 裁判の結果に対して賛同できない場合には上級裁判所に対して不服を申し立てることができる。我が国の司法制度である。抗告には通常の抗告、即時抗告、再抗告、特別抗告などがあり、同一の裁判所での不服申し立ては異議といわれている。行政訴訟で行われる抗告訴訟は行政訴訟なのでここでいう抗告には含まれない。

 

 今回出された諏訪大社が行った御柱祭で、今年の5月に転落事件があり、氏子が死亡した事件である。死亡した氏子の弁護士が、祭りを挙行した諏訪大社を相手取り、訴訟を起こした。訴訟の理由は、安全が確保されるまで、境内の使用を禁止する仮処分であった。

 

 最高裁までの抗告が行われたが、最高裁の判決では、特別抗告の事由に該当しないとして訴えを棄却した。最高裁へ行くまでには、地裁、高裁と上告したが、抗告に対してすべて棄却していて、最高裁へ抗告した結果である。これによって結審することになる。このことに対して、弁護士側は、祭りの度に怪我人や死者が出るのは人命軽視に当たるとし、国民が国家に対して生命尊重の権利があるかないかを問いたかったが、その判断がなされなかったことに対し残念といっている。

 

 最高裁の決定は、棄却理由について不服申し立てを行った原告は、違憲といっているが、実質は単なる法令違反を主張するもので、特別抗告の事由に該当しないとしている。転落事故死については、県警の方で、刑事事件として取り扱っているようである。

 

特別抗告とは、各訴訟法で不服申し立てをすることができない決定・命令に対して、提訴した裁判に憲法上の誤りやその他憲法違反を理由とするときに特に、最高裁判所に対して判断を求める抗告をいっている。

 

祭り好きな国民性もさることながら、多くの地域で同様な祭りが行われ、氏子ばかりではなく、多くの見物客に楽しみと、幸せをもたらしてきたが、一方では、行き過ぎた度胸試しや虚勢、対抗する氏子同士のいざこざ等で怪我を負い、中には死者も出ている。自己責任の範囲は難しいところであり、意図的な加害がなければ、大目に見る傾向も強い。これから夏や秋にかけて多くの祭りが行われるが、実施に当たっては、裁判沙汰にならないような形を作り、参加者の安全を十分確保することも必要であろう。


ドーピング問題その2

2016年07月23日 00時00分01秒 | 提言

 前回の投稿後に、英和中辞典(開拓社)で調べてみた。確かにDopeで引くと名詞として、1.潤滑剤として用いる濃厚な液体;ドープ塗料<航空機の翼布などを強化用として塗るワニスの濃厚液> 2.(アヘンなどの)麻薬;麻酔薬(ナルコティック;(競争馬などに用いる)興奮剤 3.俗語として、(勝ち馬など)競馬情報(一般に予想に類する)情報等として。動詞としては、1.ドープ剤で処理する、ドープ塗料を塗る。 2.(・・・に)麻薬を飲ませる;(麻薬剤で)麻酔させる。;(競走馬などに)興奮剤を飲ませる。という意味が記載されている。

 

 つまり、ドープという意味に麻薬を使うことの意味もあった。競馬のレースでは過去にも興奮剤を用いた八百長レースがあったように記憶しているが、これには掛け金が動くため、将に賭博である。いくら公営であり、競馬場を運営する団体や公営機関が手を染めなくても、古くから行われていた犯罪である。冗談として読み飛ばしてほしいが、函館には観光客を対象とした「いかさま}レースなるものがある。いか(イカ)を水槽で泳がし、勝ち負けを決めるお遊びである。しかし、八百長のことを「いかさま」というあたり、我が国にはあまり声を大きくして言えない賭博が横行してきた。

 

 国技である相撲、プロ野球、サッカーやラグビー、ゴルフなどのスポーツにおいても散見され、醜聞として聞き及んでいる。勝負の世界ではつきものとのあきらめもあるが、幾らクリーンを叫んでみてもドーピング問題もしかりで、ますます巧妙化された手口にはチェック体制が後手に回っているようにも見える。スポーツ選手自身や、大会を開催し運営する組織では真剣に取り組まないと信用を失墜させる危険を孕んでいるといえそうである。

 

 この問題の背景には、今回出された国際スポーツ裁判所からの裁定結果である。1つの国家での多種目の競技への参加を拒否する裁定が出されている。全くドーピングをしていなかった選手も同様な措置となれば不公平との判断もあり、今後、当該問題の解決を長引かせる可能性を秘めているが、身近に迫っているリオの五輪には間に合わない公算が高い。

 

 一方では、この司法判断は正しいとする向きもある。国家が関与したとされるドーピング問題の制裁手段としてはやむを得ないとの判断もある。直接関与しないものがとやかく申し上げる話ではないが、何事も原点に立ち戻り、異常とまで思える薬剤に頼ってまで行わなければならない事の正否を判断すべきと思えるが、いかがなものであろうか、賢識者の判断を仰ぎたい。


ドーピング問題

2016年07月22日 00時00分01秒 | 紹介

 塗料・塗装業界ではドープというと羽布(はふ)塗料・翼布塗料のことを言っていたように思う。酢酸繊維素を主成分とした塗料で、飛行機の布製翼に塗り、翼の緊張度を増すとともに、その耐水性を大きくさせる性能である。翼にこの塗料を塗った後に、アルミニューム粉末や黄土等を含む塗料を塗って、光線による塗膜の分解を防いでいたと記憶しているが、現在ではほとんど使用されていないであろう。英語ではDopeと書いていた。

 

 それとドーピング問題との接点はないと思うが、ドープとは、様々な語源があり、アフリカの原住民が儀式や舞踏で飲まれていたアルコール系の飲料が語源という説や、戦闘や犯罪を行う前に薬剤やせんじ薬を飲ませ、意識をもうろうとさせ、戦闘行為や犯罪を行わすことは十分考えられる。現在でも一部の原始宗教や、いかがわしい集団では薬剤を用いて意識をトランス状態にし、神がかったことをするグループもある。

 

 医療行為で体を麻痺させ、痛みを緩和させ、一時的の痛みを抑える麻酔は行われているし、それを不自然で犯罪とは思わないが、スポーツの世界に広がっていることを知り、大変な状態になっていると感じた。記録を更新するためや、国家の威信によって、スポーツ界も汚染されているとの報道はロシアのリオオリンピックへの選手団全員を参加資格がないとされていて、ドーピング問題は国際的な政治問題化し始めているという。

 

 競技に勝つことが、ドーピング薬剤によるものであれば、得られた記録はなかったことになるし、勝者は敗者となり、一生選手資格をはく奪され、スポーツ界では生きていくことができなくなる。その選手を育んだ団体や国家がらみであるとすれば、将に薬剤に手を染めた責任は免れないであろう。健全なスポーツ選手とばかり思っていたが、スポーツ界の裏に潜む恥部があらわになり、全く残念でならない。

 

 血液検査など薬剤に手を染めた選手の検査は常態化していると聞くし、栄養ドリンクなども成分が分からないものは飲むことすらできないようである。我が国にも体力増強のためのサプリメントと称し、市販されている飲料は多種あるし、食材や、飲料等の管理だけでも大変さが分かる。

 

 禁止薬剤についての詳細はわからないが、スポーツ選手が全て知っているとは考えづらいが、意識的に禁止しなければ出場停止等に追い込まれる。安易な体力増強も問題になるのであろう。


ニードルタッティング近況

2016年07月21日 00時00分01秒 | マニュアル

 昨年の12月ごろ始めたニードルタッティングは学習効果が出てきた。簡単な操作から複雑な操作まで、いろんな操作があることが分かってきた。もともとは鍵棒を利用していた世界だったのであろう。鍵棒も利用することはあるが、ピコという輪に糸を掬い取ることがほとんどで、普段はもっぱら1718cmの針1本で済ませる。

 

 最近はビーズを使って織りこむことが多くなった。ビーズ大きさは各種あり、色違いの球体から、立体まで各種あるし、色のバラエティも多い。モチーフに合わせて取り入れるが、通常は、使用するビーズを前もって道糸に通しておく。必要な場所に着たらビーズを送り込み固定する。

 

 編み方には順序があって、どこから始め、どこで終わるのかは、編み図で大体見当がつくが、スタートを決めたら時計回りに編み進めるのが原則のようである。ビーズを入れ込む一と順番は編み図通りにして置くと、気にすることなく編み込むことができる。通常は1個のビーズが3個までである。今回4個入れる方法を学んだ。道糸にあらかじめ入れておいたビーズと、針を抜いてテールの方からビーズを1個入れて合計4個のビーズを使う方法である。ニードルタッティングは、要素として、リングとチェーンを使って編み込んでいく。チェーン同士の結合や、リング同士の結合は、ピコという輪を作る。このピコは、ループにもなるし、接合箇所にもなる。

 

 そういえば人筋書きのように糸を最後まで切らずに使うことは多いが必ずしもそうではなく、連続の模様などは、段階ごとに糸を切って、糸始末を行い次のステップに入る。通常は開始場所と終了場所とは糸始末をするので、傍目ではわからない。また、糸のほつれやゆるみを無くすために、リングやチェーンを編み込んだ後には、必ず1回結びつける。

 

 基本的にはリングとチェーンの組み合わせで、場合によっては、幾つかのチェーンを利用する。ロックチェーン、(鎖編み)ジョセフィンノットなどが利用される。モチーフを吊り下げる場合や、端を結合するにはそれなりの締結金具やフックが市販されているので、それを利用する。

 

 材料のレース糸は手芸店で多種販売され、国産は値段が張るが、使いやすい。当初は100円ショップで、売られているインド産の糸を使っていた。よく用いる番手は20番である。

 なかなか奥が深いニードルタティングである。指を使い、老化防止のためと思っていたが、最近は孫からの注文も増えてきた。

 


梅雨開け

2016年07月20日 00時00分01秒 | 提言

 関東甲信越を除き、沖縄、九州、四国、近畿、東海まで梅雨明けしたとの報道があった。専門家が判断するので、視聴者は、ことさら異論を口にする必要はないが、当たっていようがいまいが、生活には変わりがないため、梅雨が明けても、開けなくても、暑さが治まるわけではない。どうも判断の根拠はあいまいに近く、明確な基準はないようである。

 

 古くから、安定した高気圧がすっぽりと日本列島上空に鎮座し、梅雨前線なるものを北側に追いやるためとばかり思っていたが、今年の気圧配置はちょっと異なるようである。梅雨による恩恵もあり、余り短期すぎると関東の水ガメに不足の状態が続くため、農業用水や、飲料水の不足が生じることになる。いつぞやは、空梅雨といわれ、節水に努めたことがあった。詳細は忘れたが、庭木への散水を止められ、水道の蛇口から出る水も勢いがなかった。ふろの残り湯を選択に使うことや、必要なだけ洗面器に水を張り、節水に努めた。

 

 以前、お世話になり二年間暮らした岩手県の盛岡市には、大慈寺の清水があり、今でも地域の方はそれを生活水と利用している。枡が3つあり、一番目の枡は飲料水、スイカなども冷やしていた。二番目の枡は、生鮮野菜の洗いや、食器洗い、コメの研ぎ等に使っていて、三番目の枡は洗濯等に利用していた。観光名所になっていると思うが、古くからの知恵であろう。

 

 水の循環は、今でも浄水場で行われているが、生活水や汚物等の下水は、家庭で生活していると詰まって使えない状態になるまで、余り気にすることはない。海外に行くと、飲料水をトイレに使っているなどと話すと、驚かれる。我が国においても、高速道路のサービスステーションなどには、飲料水ではない水の利用に出くわすことがあるが、極めて少ないようである。

 

 多摩地域には長沢浄水場があり、数年前まで稼働していた生田浄水場は使用ができないようで、取り壊されている。その理由は定かではないが、過去には名水とも呼ばれていた。幸い、断水を経験していないが、生活に欠かせない水である。豊富であることは良いことであるが、各家庭の配管の変更等が発生するが、徐々にでも庭木の散水・トイレの水は飲料水とは別のルートで供給された方が良いと思っている。とりあえずは、全体計画を関係部署で作成され、住民の要望を踏まえて新築住宅や、公共施設から取り組まれてはいかがであろうか。


成功体験その3

2016年07月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ではどのような態度や心構えで臨むかということになるが、体験できる環境があり、適切な指導者がいるに越したことはない。指導者は、親や家族も含まれるが、できれば、血縁や地縁がない者の方が良い。身内といわれる世界は甘えが自然であり、厳しさの世界を体験できないことが多い。マンツーマンの体制がベストである。指導者は、学校教育では、先生と呼ばれるが、指導者は親方、指導員、教導、教師、教育者、教授、講師など呼び方もさまざまで、所属する組織によって異なるが、要は、教育訓練の専門家である。マンツーマンであれば、四六時中付き添うことによって、受講者や弟子・生徒が、集団教育とは異なり、個人の能力に応じての教育訓練プランを作成してくれるし、進捗度に合わせて丁寧な指導が可能となる。(実際の現場では古風な指導もあり、何も教えないことを旨とする等、ある意味ばかげた世界もあるかもしれない)

 

 この場合、指導者も生活しなければならないので、かかる費用も膨大となり、保護者としては教育費用が必要となる。車で言えば、お抱え運転手のようなもので、受講生が数人まとまれば、負担も分散されるため、安価で済む。教わる内容にもよるが、高度な技術や専門性の付与には、できるだけ公共施設を利用することが考えられる。特殊な専門性を求めるならば、選択可能な範囲も狭まるし、対象となる受講者も選別される等誰にでも門戸が開かれているわけではない。

 

 少数精鋭を目的とする場合には、良い指導者との出会いは偶然性が高く、必ずしも一般的ではない。そこで、個人的な教育はさておいて、同学年が通う地域の施設等を利用することになろう。施設の評判等を参考にして選択されればよいが、向き不向きもあるので、子ともにとってふさわしい環境かどうか、事前に見学する等体験入学的な機会を利用された方が良い。

 

 職業訓練に長年従事した関係で申し上げれば、短期間の訓練の成果は、就職に必要な技術的要素を段階的にまた知識については体系的に指導する。訓練は、見るだけではなく、自らが、道具を使い、工程通りに実施することが大切で、指導員がやって見せて、それと同じ動作ができるように繰り返し練習させる。ただやらせるのではなく、次の工程を考え、失敗すれば、その理由を考え、成功する方法を編み出すのである。指導者は決してすべてを教えない。世間でいう、出し惜しみや、教えてしまって立場が逆転するなど言われるが、そのようなことはない。指導者であっても、すべてが分かっているわけではなく、教えてすべてを無くすなどは考えすぎというものである。

 


成功体験その2

2016年07月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 誰しも認めるところとして、成功体験の連続というわけにはいかない。成功体験を継続できることはできないこととの比較において、勝負では負ける、ものづくりではできない、知識では理解が不十分で、分からない等成功とはいえない事柄の方が多いのかもしれない。

そこで大切なことは、失敗やできない、分からないことが生じた場合の気持ちの持ち方であろう。

 

 解決の糸口を探すことに気持ちの切り替えができればしめたものであるが、通常、失敗すると、失敗の原因を考えもせずに、諦めてしまう。これがまた次の失敗を誘い、その結果、ダメ人間を作ってしまうことである。再挑戦をするためには、やみくもに同じことを繰り返すと、負のスパイラルに落ち込んでしまい、出口が見えなくなってしまう。

 

 誰しも何事においても、初めて挑戦することは、失敗のリスクをすでに抱えていて、成功する方が稀であろう。したがって、初めから成功するなどと思わない方が気楽になれる。スポーツ選手の例が分かりやすい。本来持っている力だけでは、競技会等で入賞できるかどうか不透明で、ドングリの背比べである。一番になるためには、練習を行い、必要な筋力や持久力を高め、限界に挑戦する。常に他者との比較は、自己能力との挑戦となる。

 

 最新機器を利用して、自己の持つ能力の限界を知り、理想的な体形や、技の向上を図る。ビデオ等で、他者の弱点を知り、または己の弱点を知り、弱点を改善することによって、一歩前進するのである。前回、孫の優勝の話をご披露したが、前回行われた競技会で、優勝し宿敵に負けたという悔しさは、大いに、発奮する原動力になったと思える。なぜ負けたのであろうか、なぜ勝ことができなかったのか等の原因を探ることから始めたようである。熱心な父親がビデオで撮った映像を一緒に分析したとも言っていた。

 

 勝負は時の運でもある。体調一つにとっても、体調不良であれば、挑戦する意欲すら減退するであろう。しかし体調管理ばかりではない。誰も教えてはもらえないカンやコツは、自らがその状態になって初めて理解できるものであり、繰り返すことによって、自然と身につくものである。技の世界は、理論が優先するのではなく、体得した技が成功の成否を決める。何事にもいえることで、自転車を乗れるようになるのも、理論的な組み立てではなく、バランス感覚を体得して初めて乗れるのである。知識で分かっていても自転車に乗れなければ、意味をなさない。技の世界は知識とは異なる習得のメカニズムであることはご理解いただけたであろう。


成功体験

2016年07月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 社会の中で人は学んで成長する。学ぶイコールまねるである。その顕著な例は言葉であろう。人、高等生物まで広げてもよいと思われるが、母親の体内にあったときから音を聞いていて、言葉につなげていく過程では同じ言葉を何回も耳にし、周囲の状況等と重ね合わせることによって、言葉の意味を知り、己も声を出してまねていく、学ぶのであり、繰り返すのである。

 

 訓練は体感し、同じことができるようになるまで繰り返す。習熟曲線なるものがあるが、訓練を行うことを意識して行うとすれば、子弟の関係の場で、グラフにすると、縦軸に習得度、横軸に時間・回数を取ると右肩上がりの曲線となる。途中、いくつかの段階があり、プラトーというなだらかな曲線が数回現れる。スランプといってもよい。習熟が進まないのである。最初は、急なカーブを刻むが、途中に止まるところがある。これを脱するとまた急カーブとなる。

 

 この習熟曲線は、年齢、興味の程度、提供される機会、指導者の有無等によって異なり、学ぶ対象の難易度によっても遅速が異なる。つまり、条件の与え方によってその展開が異なるため、できるだけ環境に考慮し、指導者を選び、学ぶべき機会を適切にコントロールしていかなければならないが、本来的に生まれながらにして親等から授けられた遺伝子の働きも無視できない。あまり先天性をいうと、後天的な学校等の教育を否定することに通じるため、断定しないことにするが、とにかく、成功体験の影響が強く影響するといえる。

 

 興味を存続させるということなのであるが、競争させることで、対抗意識が生まれ、新たなステージへの呼び水となるのも確かなことである。さらに付け加えれば、達成目標を与え、本人が少しの努力で、その達成目標をクリアさせることを意識して行うと、本人の習得進度にあっていれば、次のステージの目標を与えるのである。この時もあまりにも達成が困難な課題では逆効果になりやすい。一般的にいわれるステップバイステップである。このことは階段をイメージすることもある。

 

 実はなぜこのテーマにしたのかは、小学校3年生になった孫が地域の空手選手権で年齢別・クラス別の競技会で優勝したのである。また、大人を含めた参加者の中で、MVP(最優秀者に贈られる)に輝いたのである。経験年数からすれば5年ぐらいだと思うが、今の帯は有段者の黒と無段者の白のほか多くの色別があるようで、8本の帯をクリアしたらしい。将に習熟にあった学習が行われた結果である。