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道徳の教科化

2018-12-10 15:30:20 | 教育

(略)
>戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。>それが「修身科=悪玉論」の実体である。

わが国においては、感情論が支配的ですね。歌詠みのようなものか。

>しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。>また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。>今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。

そうですね。しかし、議論が出来なければ、問答無用の二項対立に終始せざるを得ませんね。世界観 (world view) がなければ、自他の世界観比べ (議論) は不可能ですね。
世界観は、考え (非現実) の内容ですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。その数は無数にある。
現実 (事実) の内容は、頭の中にある。見ることができる。数は唯一である。見ることのできる内容は、’本当’ のことである。そうでないものは、’嘘’ である。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、自分の考え (非現実) の内容は明らかにしない。そして、議論にはなりません。

日本人には、現実があって非現実がない。唯一の正解があって、多数の正解がない。没個性があって、個性的な人々が存在しない。個性的とは、アニマルのような目の色や毛の色の違いではなく、考えの違いのことである。
文章があれば、意味もある。日本人は、ばらばらな単語のまま (小言・片言・独り言) で用事を済ませることが多いので、発言に意味がない。それでも用がたせるのは、聞き手の忖度 (推察) による。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるので、発言者に責任はない。とかく、この世は無責任。だから、議論にはなりません。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制のある文章は、非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。時制は、英語はあって、日本語にない。だから、日本人は考えの内容に注意を払わない。その結果、無哲学・能天気の状態になる。学問的に検証し、未来の展望を切り開くのが難しい。だから、我々日本人は、日本語と英語の学習を熱心に行い、時制のある文章内容の重要性を理解することが大切ですね。そして、文章内容を通して自己実現を目指しましょう。

>以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。

そうですね。評価しますね。

(略)