>私は日本が80年代のバブルの時期に大学・大学院を卒業しましたが、その頃はまだ終身雇用・年功序列が前提で、大学は入学時に優秀な学生を選り分けるためのフィルターでしかなく、企業は一流大学の学生であれば、大学での成績など全く関係なく採用し、必要な職業訓練は就職してからしてもらえる、そんな時代でした。
社畜の時代でしたね。
>しかし、その後、コンピュータ、インターネット、モバイルデバイスなどによって、世界は大きく変わりました。>リコンバレーを中心に、あらゆる産業をソフトウェアが飲み込むという大変革が起こり、数多くのベンチャー企業が生まれ、その中で、Microsoft、Apple、Amazon、Google、Facebookなどの企業が、旧来型の企業を追い抜いて成長して来ました。
そうですね。
>日本は、この大きな変化に全くついて行くことが出来ていません。
そうですね。常に後追いの姿勢では、この国に大変革は起こせませんね。
>未だに高度成長期を支えてきた大企業が社会全体に大きな影響力を持っているし、就職先としての人気です。>政府も、その手の大企業を護送船団方式で守るという、時代遅れの政策しか取れません。
戦艦 ‘大和’ を最後まで温存していたようなものか。
>ベンチャー企業は、以前よりは立ち上げやすくなったとは言え、資金面でも人材面でも、米国と比べると格段に難しいのが現状です。
米国・米国と、米国の後追いも大変ですね。
>この「なぜ日本が変化に対応できないのか」という疑問は長年私の中にありますが、その大きな原因になっているのが、日本の官僚システムだと私は見ています。
それは、日本人の無哲学・能天気にあるのでしょう。
>米国では、政治家が法案を作るし、政権が変わるたびに官僚のトップクラスがすべて入れ替わるし、政治家が思い切った政策の変更をすることが可能です。
そうですね。彼らは個人主義ですからね。考えは、個人個人で違っている。責任者個人の意思はどこまでも尊重されますからね。そうでなければ、トップクラスをすべて入れ替えることにも意味がない。
>それに対して、日本では、法案を作るのは政治家ではなく官僚だし、政権が変わっても官僚は入れ替わらないため、政策の継続性がとても高いのです。
日本人には意思がない。自らの意思を表明する政治家もいなければ、その政治家個人の意思を擁護しようとする官僚もいない。政治家の無哲学・能天気は、政策の継続性を高めていますね。
>さらに悪いのは、官僚組織をピラミット型に保つためには天下り先が不可欠で、その天下り先が変化への抵抗勢力となってしまう点です。
官僚は、序列体制を使って変化に抵抗しますね。序列社会の弊害ですね。
>私が以前から指摘している「ゼネコンスタイルのソフトウェア作り」がいつまでたってもなくならない一番の理由は、日本のIT産業がIBMと戦っていた頃の「公共投資を使ったIT産業の育成」という時代遅れの政策が未だに続いており、そこで甘い汁を吸い続けているゼネコン企業にまっとうな進化圧がかからない点にあると私は思います。
それは、保護主義の弊害ですね。
>つまり、ますますソフトウェアが重要になっていくこの世の中で、日本企業の国際競争力を上げるには、霞ヶ関とITゼネコンの癒着・依存体制を破壊し、正しい形の進化圧をソフトウェア産業にかけて企業の新陳代謝を高めるしかないと私は考えています。
そうですね。保護主義は、体力低下をきたしますね。
>もちろん、霞ヶ関の官僚自身は決してそんな政策は提言して来ないので、政治家がリーダーシップを持って痛みを伴う改革をしなければならないので、そこが一番難しいかも知れません。
官僚は政治家ではないので、政治責任がない。だから、政策を立案することもない。
日本人には、意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人には方法がなく、指導力を発揮することができない。これは、政治家であっても状況は同じことである。ここが、一番難しいところでしょうね。
時制は日本語にはないが、英語にはある。我々日本人は、日本語と英語を学んで、意思の内容の重要性を理解しなければならないでしょう。我々が、意思の内容を明確に表現することができれば、日本の政治に道は拓けることでしょう。
.