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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本辺境論

2019-03-16 17:16:57 | 言語

>『日本辺境論』の中で内田樹氏が「こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです」と記されているとおり、本格的な侵略を受けていない日本人の可能性はここにある。

わが国は、地政学的にも言語学的にも侵入者に対する守りは堅固ですね。

>強いて言うなら、“侵略”を受けたあと、すなわち第2次世界大戦後に作られた仕組みは役立たずということになるだろう。

第2次世界大戦後に作られた仕組みは、‘カエルの面に小便’ と言ってところですね。

>■以下引用リンク_________________________
>IT PRO 「辺境」という呪縛 >「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」、と内田樹氏が『日本辺境論』で書いている。 >…中略… >それでも、筆者が本書の中の指摘で面白いと思ったのは、「辺境人」の特徴の一つが中心部で創造された知見を「学ぶ」術に長けている、というくだりである。 >…中略… >つまり、外に何か手本があってそこに「学ぶ」ときには、「辺境性」がうまく機能するということである。

辺境性は、詰め込み教育の原点ですかね。

>この部分を理解するためには、内田氏が「学ぶ」ということをどう見ているのかを知る必要がある。>人間はなぜ学ぼうとするのか。

サルも人のまねをしますね。これを猿真似といいます。

>内田氏は、「学ぶ意欲(インセンティブ)」は、「これを勉強すると、こういう『いいこと』があるという報酬の約束によってかたちづくられるものではない」と見る。

‘良いところを取る’ と言う方策ですね。

>確かに、まだ学んでいないのだから、学ぶことによって何が得られるのかは分からない。 >分からないながらも学ぼうとするのはなぜなのか。

サルは猿真似に熱中するあまり自傷事故を起こすことがあります。

>「これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まる」という(p.196)。

はてさて、それはどうですかね。

>…中略… >内田氏によると、それは「私たちの血肉になっている」ということだから、かなり強い影響力があると見ているようだ。 >中でも特に考えさせられたのは、日本語の構造そのものに「辺境性」が影響しているという指摘だ。

日本語に近い言語は、あまり見当たらないようですね。

>原日本語にはもともと音声しか存在しなかったと言われているが、漢字が入ってきたときに、それを正統な言葉(真名)とし、もともとあった音声言語を「仮名」として隷属的な地位に退かせたというのである。

仮名を使わなくては、漢字の機能もわが国ではあまり生きてこないでしょうね。

>そして、漢字(真名)は男性語として正統な位置を占める一方で、土着の言語である仮名は、生の感情や生活実感などの「本音」を表現するという役割を果たすに至った。

漢字は建前 (言い訳・口実)、仮名は本音 (私意・我儘・身勝手) ですね。そんな感じ (漢字) がしますね。

>外から来た漢字に正統の位置を明け渡す、というところに「辺境性」がよく表れているが、面白いのは「仮名」という日本土着のものを組み合わせることによって、現実の生活者としての日本人が理解できる概念として「翻訳」する機能を果たしているという指摘である。

そうですね。日本人も、韓国人も、漢字ばかりでは理解が不十分になりますね。

>確かに、どんな学問体系でも一通り日本語訳が出され、日本語しか使えなくともある程度のところまでは理解でき、日本語で議論できるようになっている。

そうですね。ある程度まで理解可能になりましたね。

>これに対して、清末の中国ではこれまで中国語になかった概念や熟語を新たに語彙に加えるということに抵抗感があり、外来語は音訳によって取り込んだものの中国語の意味体系に変更を加えることはしなかった。>これが、西洋の近代化にキャッチアップするのが遅れた一因になっているという。

漢人 (中国人) は、漢人の考えを表すために漢字を作った。しかし、外国人の考えを表すためには漢字を作ることをしなかった。だから、自己の考えを示すことはできたが、相手の考えを知ることはできなかった。

>外のものを「正統」の位置に置きつつ、日本独自のものをうまく組み合わせるという二重構造をとることは、日本の典型的なキャッチアップ戦略ともいえそうだ。

そうですね。‘人のふり見て、我がふり直せ’ ですね。しかし、日本人の自主性のないところは、今も昔も変わらないようですね。

>_____________________________引用以上



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内田樹氏

2019-03-16 13:14:13 | 言語

>「日本辺境論」(内田樹氏)を読んで、日本における官僚の弊害、学校教育エリートの問題点について、なるほどと思える視点がありました。 >著書の中で氏は、辺境にある(中華にたいする辺境)日本において学びの効率というテーマで書かれている部分があります。 >氏は、この点をプラスにもマイナスにも評価せず、いわゆる日本人の特徴として淡々と書かれていますが、非常に面白いです。(詳細は購読を勧めます) 

興味がありますね。

>誤読でないことを願いつつ簡単に書くと、
>・辺境人である日本人は、世界のルール(常識)は自分達とは無縁な外の世界にあることを前提にしている。

世界の常識は、日本の非常識ですか。わが国は、孤高の国ですか。

>よって、自らが世界の手本となろうという発想がない。

自己に発想法がない。だから、日本人は、指導性を発揮できませんね。

>・辺境人である日本人は、自分達が何者であるかを、他国(古くは中国)との対比でしか考えたことがない。

他人・他国が気になる所ですね。人のふり見て、我がふり直せ。日本人は、自己の基準を持っていないので、他国・他人が気になります。子供のようなものです。

>よって、日本人とは何者か?という言葉化された共通認識がない。 >(なんとなくは在るが、観念化されてはいないので、日本人同士にしかわからない)

‘いかにも、、、、らしい’ と言うことか。気分・雰囲気の問題ですね。文章内容にならないので、意味・意義がない。日本人同士にしかわからない。

>・辺境人である日本人は、学びに対してオープンなスタンスである。 >つまり、受け入れ体質で吸収が早い。(上記2点の裏返しでもある) 

今も昔も、地理的にも、言語的にも、わが国は辺境にあり世界から隔絶しています。

>こんな体質の日本人が、先進国であった欧米に学ぼうと考え、彼らの思想や制度などを取り入れたらどうなったか?と考えると辻褄が合うように思います。 >オープンスタンスで学び、あっという間に欧米の制度、技術を取り入れて、第1次大戦の頃には5大国の一員になってしまいました。

実学 (技術) の消化は良かった。

>しかし、(他者の)借り物の思想・制度=答えのある勉強エリート達は、借り物思想でしか考えられないため、日本がどうあるべきかに答えを出せず、借り物の思想に立脚した理想を求めて暴走し、第2次大戦に敗退しました。

現実の内容は習得できるが、非現実の内容 (哲学) には、歯が立たない。 日本語の文法では、非現実の内容を文章にすることができないからです。

>日本人とは何者か?ということの答えは、借り物の思想では導き出せない。

そうですね。無哲学・能天気では、考えは出て来ませんね。

>その答えがない以上日本はどうあるべきか?の答えもないのは当然ではないかと思います。

そうですね。’あるべき姿’ (things as they should be) は、出ませんね。 無哲学・能天気の悲哀というのかな。

>また、当時の軍部中枢の軍人の多くは、「私個人としては戦争には反対だった」という言葉を残し、誰が戦争の決断を下したのか非常にあいまいな状況だったようです。

意思のある人には、責任がある。意思のない人には、責任がない。日本人には、意思がない。だから、この国がこっくり返った時にも責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人は意思を表明することが無い。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人には、方法がない。仕方が無いので、日本人は無為無策でいる。 優柔不断・意志薄弱に見える。

>ここは想像ではありますが、政策を扱う会議の場などでは、他国の帝国主義≒借り物の思想を常識とし、その常識に照らした結論は、開戦という判断にしかならなったのではないでしょうか?

‘人のふり見て、我がふり直せ’ と言うことですね。 何事も、真似が根拠となっている。

>それもそのような空気を作り出す発言のみが蔓延していたのだろうと想像します。

理屈がないのであるから、気分・雰囲気に左右されますね。ブレーキがかからない。坂道から転げ落ちます。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>だからなんとなく開戦したような気がします。

なんとなく開戦し、なんとなく敗戦したのでしょうね。ああ、むなしい。

>そして、エリートであるが故に、大衆の現実に目が行かなかったことが、早期の敗戦の決断も遅らせたのではないかと思います。

日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。責任の所在を示すことができない。意思のない人達は、無為無策でいる。

>そして、現在の日本の状況は、上記の軍人=エリート官僚とすると、同様の様相を示しています。

そうですね。意思のない人々は、恣意 (私意・我儘・身勝手) を使っている。上位の者の恣意の内容を上意下達で実行する。意思が存在しないので、説明責任が取れない。忖度・推察は、聞き手の勝手な解釈であるから、発言者に責任は無い。だから、議論にもならない。

>彼らは、市場拡大という戦争当時と全く変わらない思想から抜け出すことなく、大衆の現実にも目を向けることなく、そして、何の答えも見つけ出すことなく、無策、改悪を繰り返しています。 >借り物の思想を信奉しているため、アメリカの言いなりで、尻尾を振っているようにしか見えません。

借り物の思想では、考えを改めることはできません。ポチは忠犬、たぶん日本犬でしたかね。

>しかし、このエリートによる官僚制の問題から、日本人の可能性も見えてきます。

それは、助かりますね。

>内田樹氏の視点でとらえると、辺境人という日本人の「学ぶ」ことのスタンスは大きな可能性です。 >そして、欧米の思想が「借り物」の域を出ないのは、日本人のもつ本源性と相容れないからではないかと思うのです。

そうですね。言語は、伝えるためのものであり、考えるためのものでもあります。私たちの使用している言語・日本語は、印欧語とは違いますね。

>きっと日本人は、その本源性の残存度合いから、己が何者かという問いは不要だった。

そうですね。’我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ の各命題は、時制なしには考えられませんね。そして、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には哲学 (非現実) が無縁であります。

>当然その答えも不要であったため、そうした問いと答えは、輸入物で十分だったのだと思います。

欧米の思想も、インドの哲学も、日本人の脳裏でさらなる発展を見ることはなかった。

>そして、そうした問いと答えを必要としたのも支配階級だけだったのだと思います。

そうですね。支配階級は、舶来物を自己の権威付けに利用していました。

>しかし現在、私権観念≒欧米思想が役に立たないどころか、様々な弊害をもたらすにいたって、今まで考えることを棚上げにしてきた日本人も、その必要性に迫られているのではないでしょうか?

日本語を使って欧米の思想を語れば、意味の過不足が生じます。それが、怪我の元になります。

>その方法として、日本人には感覚としてわかる(潜在思念で感じる)本源性について、言語化してゆくことは、日本人とは?の答えであり、様々な社会問題に対する日本人の答えに繋がるのではないかと思います。

そうですね。日本人の精神活動は、文字・言説を以て伝えることができず、心から心へ伝えるものであります。この点が、我々の今後の研究課題でしょうね。

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虎と狐

2019-03-16 03:35:14 | 言語

>>しかし、おかしく思っても否定だけに終わっていたり、自分は関係ない(=自由=支配観念)と思って自我収束に留まっているのが現状ではないだろうか。 >このような側面もあることも考慮すると、果たして脱却に向かって前進しているのか後退しているのかは、一概には言えない。238274

持論を展開するのは、難しいですね。

>たしかにそのような感覚を多くの現代日本人は感じているとおもいます。 >特にこの数年は支配観念にしがみつく派(官僚・マスコミなどの特権階級)とその他多数の一般人の意識の乖離が大きくなっています。

自己利益にありつける人と、ありつけない人の意識の乖離ですね。

>ただ特権階級・一般人ともに共通していえるのが、しがみつく・無視する支配観念(旧観念)はもともと借り物の(西洋発の)観念という点です。

処世術のための道具立てですね。

>日本人は自分の考えをもっていない、そもそも、ものを考える・社会を考えるという経験・歴史がないというのも事実です。

同感です。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。話が分かるのには、文章の理解が必要になる。
見ることのできる内容は、本物である。本当のことである。見ることのできないものは、嘘である。
誰しも、見て来たような嘘をつく人にはなりたくない。だから、自分の考えを述べることをしない。自己の考えが、想定外になっている。これが、思考停止の状態である。かくして、日本人は、無哲学・能天気の人となる。

>このあたりの感覚を内田樹氏は「日本辺境論」で、「虎の威を借る狐の意見」として述べています。
>以下一部引用
> >「私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきあと思いますか?」と訊かれても即答することができない。

そうですね。できませんね。

>(中略)
>もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけど、自分の意見は言えない。 >なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。」

そうですね。無哲学・能天気の人は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を考えたことはないですからね。

>「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。

‘あるべき姿’ の内容を述べることは、世界観 (world view) を持たない人には難しいことですね。ですから、この場は ’しのぎの術’ で行くしかありません。

> >そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲み出した意見ではありません。 >だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。 >人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾つけて聞いた方がいい。 >これは私の経験的確信です。

そうですね。’妙にすっきり’ は、受け売りの作法ですね。

>自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。 >途中までいってから言いよどんだり、一度いっておいてから「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり・・ >そういう語り方は「本当に自分が思っていること」をいおうとじたばたしている人の特徴です。

そうですね。 あなたは、観察力が鋭いですね。

>すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。 > >断定的であることの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。 >全面的に受け入れるか否定するかのどちらかしかない。

そうですね。教条的な人の表れですね。何せ、頼まれ仕事ですからね。

>このように主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。

そうですね。

>「虎の威を借る狐」は「自分ではないもの」を演じているわけですから、「私(狐)はほんとうはなにがしたいのか?」という問いかけを自分に向ける習慣を放棄しているからです。

そうですね。それは、演技する俳優のようなものか。自分のことは、想定外になっている。

> *暴走を続ける特権階級は、決められた路線(虎の思考)をただ突き進むのみ。

そうですね。それしかない。

>一般の人はそのような狐の姿に期待を封鎖し、ものを考えることを放棄している、これは現代日本の姿だし、縄文時代以降一貫して日本人はそのスタンスで社会に適応してきた・・ともいえます。

自己の意思を示せば、当事者・関係者になる。示さなければ、傍観者にとどまる。日本人は、孤高の人か。

> *また文中にある、妙に断定的なものいいより、淀みながらでも伝えようとする姿勢に人は共感し現実に動くことができるという考察は、日常の仕事場面やなんでや露店などでも実体験として多くの人が経験していることだとおもいます。 >(小沢一郎氏・田中角栄などは政治家としてはめずらしく後者のタイプのようにうつります)

同感です。

>※さてこのように「自分の意見をもたない・主張しない=すべてが借り物の思想」の日本人は今後まったく可能性がないのか?といえば、答えはNOだし、可能性を見出していくことが私たちの役割だとおもいます。

日本人には、つたないけれども日本流のやり方がある。

>そのヒントを同じく「日本辺境論」より引用します。
> >私たちは国のあるべき方向を決めるときにも、(武士道などの)師弟関係に準拠してことを行っている。

そうですね。 日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。日本語会話には、’上とみるか・下とみるか’ の判断は、欠かせない。その上下関係を整理して行くと、日本人の序列が出来上がる。これが、師弟関係の始まりである。序列メンタリティは、わが国のどこにでもある。

>それは師弟関係というものがきわめてすぐれた(おそらく考え得る最高の)「学習装置」であると日本人がどこかで信じているからです。

日本人は、日本語に裏付けられて序列社会を作り、序列人間になっている。

> >もし、ものを学ぼうとしている人に、「就いて学ぶべき師を正しく選択できるように、師たちを客観的に適正に格付けできる予備能力」を要求したらどうなるでしょう。

このような場合には、世俗の序列に関する相場表が役に立ちますね。 

>そんな予備的能力を要求されたら、私たちは一生学びはじめることができないでしょう。 >学び始めるには、「なんだかわからないけど、このひとについていこう」という覚悟が必要だからです。

そういうことになりますね。

>そしてこの予備的な考察抜きでいきなりその覚悟を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。> *自分でものを考えることが苦手な日本人は、その反動か?吸収力は格段に優れています。

そうですね。日本人は、恣意を働かせますね。これは、アニマルと同じです。

>そして、「なんだかわからないけど、このひとについていこう」という『覚悟』は縄文時代からつづく日本人の体質でもあり、物事にたいする肯定感や、充足・安心基盤に収束する気質です。

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂としている。かくして武士道が出来上がる。武芸の鍛練により動作の機敏な人間が育てられるが、知的判断の方はどうにもならない。

>これを人類史として遡れば、万物の背後に精霊を措定し、そこに期待し応えていく思考を継承したものです。

意思のあるところに、方法がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人間には、方法 (仕方) がない。仕方がないから、無為無策でいる。他力本願・神頼みになる。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制はなく、日本人は意思の表現ができない。それで、意思の内容が想定外になっている。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は文章になる。だから意味もある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままであるから、文章にならない。意味も無い。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。そして、考えは、一人一人違っている。だから、正解は一通りではない。幾らでもある。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くために、対話が役に立つ。議論には、意思の疎通が欠かせない。

>日本人の受け入れ体質の本質は、万物や自然の摂理から学びとろうとする姿勢にあるといってもよいとおもいます。

現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣である。 非現実 (考え) の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになる。 特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。

>このような「学ぶ姿勢」が、本源収束を実現する基盤になるとおもいます。

我々の努力が、自己実現の方向に向かうと良いですね。


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