>『日本辺境論』の中で内田樹氏が「こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです」と記されているとおり、本格的な侵略を受けていない日本人の可能性はここにある。
わが国は、地政学的にも言語学的にも侵入者に対する守りは堅固ですね。
>強いて言うなら、“侵略”を受けたあと、すなわち第2次世界大戦後に作られた仕組みは役立たずということになるだろう。
第2次世界大戦後に作られた仕組みは、‘カエルの面に小便’ と言ってところですね。
>■以下引用リンク_________________________
>IT PRO 「辺境」という呪縛 >「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」、と内田樹氏が『日本辺境論』で書いている。 >…中略… >それでも、筆者が本書の中の指摘で面白いと思ったのは、「辺境人」の特徴の一つが中心部で創造された知見を「学ぶ」術に長けている、というくだりである。 >…中略… >つまり、外に何か手本があってそこに「学ぶ」ときには、「辺境性」がうまく機能するということである。
辺境性は、詰め込み教育の原点ですかね。
>この部分を理解するためには、内田氏が「学ぶ」ということをどう見ているのかを知る必要がある。>人間はなぜ学ぼうとするのか。
サルも人のまねをしますね。これを猿真似といいます。
>内田氏は、「学ぶ意欲(インセンティブ)」は、「これを勉強すると、こういう『いいこと』があるという報酬の約束によってかたちづくられるものではない」と見る。
‘良いところを取る’ と言う方策ですね。
>確かに、まだ学んでいないのだから、学ぶことによって何が得られるのかは分からない。 >分からないながらも学ぼうとするのはなぜなのか。
サルは猿真似に熱中するあまり自傷事故を起こすことがあります。
>「これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まる」という(p.196)。
はてさて、それはどうですかね。
>…中略… >内田氏によると、それは「私たちの血肉になっている」ということだから、かなり強い影響力があると見ているようだ。 >中でも特に考えさせられたのは、日本語の構造そのものに「辺境性」が影響しているという指摘だ。
日本語に近い言語は、あまり見当たらないようですね。
>原日本語にはもともと音声しか存在しなかったと言われているが、漢字が入ってきたときに、それを正統な言葉(真名)とし、もともとあった音声言語を「仮名」として隷属的な地位に退かせたというのである。
仮名を使わなくては、漢字の機能もわが国ではあまり生きてこないでしょうね。
>そして、漢字(真名)は男性語として正統な位置を占める一方で、土着の言語である仮名は、生の感情や生活実感などの「本音」を表現するという役割を果たすに至った。
漢字は建前 (言い訳・口実)、仮名は本音 (私意・我儘・身勝手) ですね。そんな感じ (漢字) がしますね。
>外から来た漢字に正統の位置を明け渡す、というところに「辺境性」がよく表れているが、面白いのは「仮名」という日本土着のものを組み合わせることによって、現実の生活者としての日本人が理解できる概念として「翻訳」する機能を果たしているという指摘である。
そうですね。日本人も、韓国人も、漢字ばかりでは理解が不十分になりますね。
>確かに、どんな学問体系でも一通り日本語訳が出され、日本語しか使えなくともある程度のところまでは理解でき、日本語で議論できるようになっている。
そうですね。ある程度まで理解可能になりましたね。
>これに対して、清末の中国ではこれまで中国語になかった概念や熟語を新たに語彙に加えるということに抵抗感があり、外来語は音訳によって取り込んだものの中国語の意味体系に変更を加えることはしなかった。>これが、西洋の近代化にキャッチアップするのが遅れた一因になっているという。
漢人 (中国人) は、漢人の考えを表すために漢字を作った。しかし、外国人の考えを表すためには漢字を作ることをしなかった。だから、自己の考えを示すことはできたが、相手の考えを知ることはできなかった。
>外のものを「正統」の位置に置きつつ、日本独自のものをうまく組み合わせるという二重構造をとることは、日本の典型的なキャッチアップ戦略ともいえそうだ。
そうですね。‘人のふり見て、我がふり直せ’ ですね。しかし、日本人の自主性のないところは、今も昔も変わらないようですね。
>_____________________________引用以上
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