自己の意思を表せば、当事者・関係者となる。意思の表現がなければ傍観者にとどまる。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制はなく、日本人には意思がない。
個人の意思の存在は公に認められていない。個人主義がない。それで、日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。意思を表さない人間には当事者能力がないので、責任者・交渉者には適任ではない。大切な仕事は、任せられない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本・権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<世界にあって世界に属さず>の中で日本の交渉能力について下記の段落のように述べています。
アメリカ政府はとくに、中曽根を含む日本の歴代首相との交渉を通し、日本の場合には、政府の公式首長であれ他の誰であれ、実効性のある交渉は不可能だと気づかされた。他の多くの国も今世紀を通して分かったのは、日本の交渉者とは実質的な交渉はできないということだった。日本の交渉者が交渉不能なのは、交渉者のどんな言葉に対しても本国で反対される可能性がつねに存在するためだ。この難しさが、日本に対する戦前の欧米諸国の態度を大方決めたのだった。ある日本外交史の専門家が要約するように-戦前の日本ほど、国際的信頼を得たいという強迫観念にかられながら、世界中から信頼されなかった国はない。交渉の失敗を考えることすらこわがっていたにもかかわらず、日本の指導者も交渉者も交渉は最小限にとどめたし、考えもこり固まっていたので、非難されることは必然的だった。--交渉という交渉で、指導者も外交官もあやまちをくり返すまいと意識して努力したにもかかわらず、結果は何度も何度も同じ落とし穴に落ち込んでしまうのだった。(引用終り)
個人の意思を認められない人々の思考形式は、我々の民族的な性格にまで影響を及ぼしている。‘アメリカに行く’ 意思のあるなしを尋ねる人がいたとする。私は、’ある’ と答える。そうしたら、’”ある” と答えたのになぜ如何行っていのか’ と尋ねる。’意思は未来 (非現実) 構文の内容であるから、現実を観察してもその内容は確認できない’ と私が答えると、相手は、’あなたは、理屈っぽい’、’理屈を言ってはいけない’ と私をたしなめる。こうした会話は、そこで終わりになる。だから、我が国民の思考停止に至る細かい考察などには触れることはない。こうした思考停止の状態で相も変わらず過ごしている。
非現実を考えとして脳裏に持たない人たちは、現実の世界の中で非現実の内容を探し求めている。だから、見つかるはずもない。期待の成就を意識して、つい ’まだか、まだか、まだか’ と気をもんで待つことになる。日本人が全体として気が短いのは、非現実の存在を認めていないためである。
フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の特徴の違いを以下のように述べています。
、、、、言語として、日本語は「いの、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。、、、、、(引用終り)
我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、作文における時制の大切さを十分に理解して意思の表現法を獲得して、日本国内にも国際社会においても意思疎通に役立てよう。さすれば、我々の行く手には大きな夢と希望が存在することになります。
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