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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本だけの常識

2019-03-28 22:08:47 | 政治


>日本では、教科書・教室・授業・知識をお上によって決められていることが、当たり前だ。

そうですね。わが国は序列社会ですから、お上の権威は絶対ですね。

>しかし、少し世界に視点を向ければ、それは日本だけの常識であって、かなりおかしなことだと気づく。

そうですね。’日本の常識は、世界の非常識’ になりますかね。

>特に、子どもたちの内発的意欲を引き出す学びを大切にしているスウェーデン、デンマーク、ドイツ、オーストラリアでは、子どもたちが「考える力」を大切にしており、先生が教えるという発想はほとんどない。

現実の内容は、頭の外にある。それは、誰でも見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、その文章を理解することが必要である。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ても見えない話の内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくはない。だから、自分の考え (非現実) を語ろうとしない。これが、思考停止の状態である。内発的な考える力がないから、日本人には詰め込み教育が必要になる。受験勉強で、暗記に拍車がかかる。その結果、受け売りの専門家が多数輩出する。彼らは、没個性の人達である。

>ましてや、宿題や課題を押し付け、子どもたちを拘束することもない。

それは、結構なことですね。

>日本においても、「主体的・対話的で、深い学び」として、教育改革が謳われているが、これは特殊なことでもなく、むしろ、江戸時代の寺子屋のように、子どもたちをのびのび育てるという本来の学びのありかたへと原点回帰していくことにある。

日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制が存在しない。だから、日本人には、意思がない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人には、方法がない。だから、わが国では、教科書・教室・授業・知識をお上によって決めていただくことが当たり前になっている。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから、正しい考えは、一つではない。考えは、人さまざまである。その違いは、個性の違いを表している。意思のない日本人は、没個性の人になる。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。だから、正しい考えを得るために、対話が役に立つ。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は文章にならないで、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままでいる。バラバラな単語には、意味がない。
自由とは、意思の自由のことである。だが、恣意の自由は認められていない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ になる。だから、わが国においては、’不自由を常と思えば不足なし’ となり改革は行われない。
現実の内容のみを語る人は、浅薄な人である。現実と自己の考え (非現実) を並べて示し、その中庸を選んで主張する人は考えの深い人である。自己の考えのない人には、’中庸の徳’ もない。
なぜ日本人には考えがないのかといえば、非現実の内容を文章にできないからである。非現実の内容を文章にするためには、時制が必要である。時制のある文章は考えの内容を表し、独立した非現実の三世界(過去・現在・未来) となる。これを世界観 (world view) という。理想の世界の内容 (things as they should be) も、この中にある。時制のある言語では、個人の考え (非現実) も貴重な存在としてその価値を認められている。時制のない日本語で話すと、前世・現世・来世の内容も綺麗ごとになる。その展開は不可能である。だから、僧侶は受け売りの専門家になっている。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学んで、文法における時制の大切さを十分に理解しなければならない。さすれば、意思の表現も可能になり、世界観を語ることも可能になる。そして、教育改革を実現することもできる。


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お金のない世界

2019-03-28 12:12:18 | 政治

>◆なんでも無料になったら、みんな取りたい放題、使いたい放題になって、モノが足りなくなって奪い合いの暴動が起きるのでは?
>最初は興味本位で必要以上のモノを持ち帰る人がいるとは思いますが、自分に必要のないモノを持ち帰る意味がないことにすぐに気づきますので、そういう人は必要最低限のモノを感謝や敬意の気持ちで持ち帰るように変化すると思います。

取り放題・食べ放題の食堂では、自分一人では食べきれないほどの料理量を取る人が見受けられますね。

>食べきれない食料を持って帰っても意味ないので。>またモノが足りなくなったら、みんなで作ればよいと思います。

食べるのは良いが、自分で作るのは嫌ですね。

>地球上の資源や食料は、自分に必要以上のものを求める人や企業によって過剰に消費され、結果余らせ捨てられているのが現状です。

そうですね。

>企業は利益をあげるために、無理してモノを大量生産し、在庫まで余らせて商売をしてきましたが、お金のない世界ではもうそんな必要はありません。

未来の予測は、難しいですからね。

>人々が本当に必要なモノを、最低限の資源で効率良く生産すればいいのです。

それは、アニマルの世界と同じですね。余分な労力を費やすことは無い。

>◆お金のない世界とは、物々交換の時代に戻るということ?
>そうではありません。モノやサービスに数値化できる価格のような価値を設けませんので、今までのように価値100のAと、同じ価値100のBの間でしか交換取引が成立しなかった前時代的なモノの移転は行われません。>欲しいモノがあれば、ただもらえばいいのです。

‘求めよ、さらば与えられん’ ですか。極楽浄土の生活ですね。

>特に何かを代わりに提供する必要はありません。>ですので、もらってばかりの人も出てきます。

それは、結構なアイディアですね。でも、提供する側は、大変ですね。その方は、大丈夫なのですか。

>けれども、お金のない世界ではそれでもいいのです。>本人がそれでよければ。

乞食の生活は、そうですね。積極性がない。

>◆暴力はなくならないのでは?
>なんのための暴力でしょうか。>仮に、モノや資源を奪うための暴力だとすると、モノや資源が人々が必要とする以上に存在していれば、発生しないのではないでしょうか。

生産は、過剰ばかりではなく、過小な場合もありますからね。過小な場合の考察はどうなっているのでしょうかね。

>もし足りないのであれば、みんなで作ればよいと思います。>それまでは少しみんなが我慢すればよいと思います。

‘欲しがりません。勝つまでは’ でしたね。’我慢だ、待っていろ、嵐が過ぎりゃ、、、、’ ですか。

>世界的に足りてないのに、自分勝手な私利私欲でもらってばかりの人は尊敬されません。

‘衣食足りて、礼節を知る’ ですね。足りていないのに、礼節は無理か。

>また、どこで何が足りないのかの情報をリアルタイムで把握するシステムは必要になるかもしれません。

それは、金のかかるシステムですね。

>足りない情報を検知したら、すぐに有志が集まって生産すればいいのです。

そんな有志は、幸福な王子達ですね。

>◆権力者や独裁者はいなくならないのでは?
>地位や名誉を欲しがる承認欲求の強い人は、お金のない世界になってももちろん一定数いると思います。>地位や名誉というよりは、感謝や尊敬を欲しがる人ですね。

権威主義 (authoritarianism) の人たちは、感謝や尊敬よりも地位や名誉を好んでいますね。

>今までの独裁者のように、人から搾取したり、人を強制的に働かせたりする、そんなリーダーはいなくなります。

猿山のボスは存続するでしょうね。

>そういうリーダーの元でわざわざ働く人はいないからです。

ボスの意に反すると、大変なことになりますね。

>どうせなら尊敬できて楽しそうで毎日笑顔のリーダーの元で、一緒に楽しく仕事したいと思うでしょうから、そんな独裁者のようなリーダーはお金のない世界ではいなくなります。

猿山のボスには金がない。

>◆お金がなくなっても、人から競争心は消えないのでは?
>はい、消えないと思います。>人より良いモノを作ったり、人より良いサービスを生み出したり、人より早く走ったり、人より上手に歌ったり、ポジティブな競争はどんどんすべきと思います。

ネガティブな競争も考えられますね。

>ただし、お金のない世界では、相手を殺傷してまでの競争になることはないと思います。

そんなことは、無いと思いますよ。オスたちは、メスを争って殺傷することもあります。

>何に勝ち、何を得るためでしょう。

自分の子孫を残すためです。この方策で、我々は太古の昔からやってきた。

>資源や食料が足りないのであれば、みんなで作るか、みんなで分け合えばいいのですから。

そうですね。でも、人の考えはさまざまですからね。矛盾を含まない考えは、すべて正しい考えです。

>◆お金がなくなると、生活レベルは落ちる?
>自分次第です。>何をもって「落ちる」というのかによりますが、落としたくないなら、生活に必要なモノやサービスをもらい続ければよいと思います。

Take (取る) , Take (取る) の生活ですね。

>ただし、その生活レベルが、お金のない世界において、過剰だったり贅沢すぎたりすると、周りの人から奇異な目で見られるかもしれません。

それは、’我が道を行く’ (Going my way) でしょう。

>それでよいかも含めて自分次第です。

自己の群れを離れると、生活できなくなるかもしれませんね。

>◆人は他人より優れていたいと思いたい動物なのでは?
>人は人としての自分の役割を担いたい動物だと思います。

それは、そうかもしれませんね。猿山のサルたちはそうですね。

>役を担うことで、人から認められ、必要とされ、褒められたい動物だと思います。

それは、そうですね。しかし、それは、自己のグループ内のことに限られますね。

>お金は、そうしたあらゆる人を一方向の物差しで測り、金額の大小で優劣をつけようとします。>本来、人の数だけ物差しの数もあるべきなのです。

そうですね。野生の王国においては、そのようになっているでしょう。

>◆誰もやりたがらない仕事は誰がやるの?
>お金のない世界では、誰もやりたがらない仕事ほど積極的にやりたがる人が増えると思います。

それは、どうでしょうかね。疑問です。

>友達同士でキャンプに行った時の最後のお片づけを想像してください。
>みんなで楽しんだんだから、汚れたりきつかったりする作業だけど、誰一人としてサボらずみんなでやりますよね。>お金がないとそうなると思います。

それは指導者がいて、グループ全体を指導するからでしょう。

>◆お金がなくなると不便になるのでは?
>いちいちレジで支払ったり、銀行口座の管理したり、家計簿つけたり、財布持ったり、振込とか、引き落としとか、支払期日とか、ツケ払いとか、、、お金がある方が面倒で不便かと思います。

何事も、’自然に帰れ’ ですね。

>◆まずはベーシックインカムや再分配でもよいのでは?
>お金の尺度による格差や劣等感が人々から消せない限り、補助金的な救済措置の要素が強く、その場しのぎの取り組みにしかならないと思うようになりました。

何事も、’自然に帰れ’ ですね。

>遠回りせずに一気にお金をなくした方が合理的かと思います。

革命により、お金を廃止した国がありましたね。金持ちと貧乏人がいなくなった。野生の王国が出現したまたね。皆がアニマルになった。’自然に帰れ’ ということか。

>◆労働の対価がなくなった時、頑張る意味は?
>人からのありがとうではないでしょうか。

それは、人から感謝を得ることは難しいでしょうね。’人は、為して当然のことをするだけだ’ と考えている民族もいますからね。’日本人は、ありがとうを言いすぎる’ と批判しています。

>◆社会主義や共産主義との違いは?
>すべて自分次第なところです。>どんな仕事をしようが、どんなモノやサービスを受け取ろうが、それを選ぶのも、どう行動するのかも、すべて自分次第で自由に決められます。

アニマルのようなものですね。恣意的な動物に変化しますね。

>ある意味、資本主義より自由な世界だと思います。

そうですね。野生の王国のようですね。

>◆お金がなくなったら、パニックが起こりそう
>お金がなくなる前に、世界全体での事前の周知徹底が大切です。

人人により、考えはまちまちですからね。言語により、考え方が全く変わりますからね。

>新世界の分かりやすいビジョンの提示、自由で可能性に溢れた数々のライフスタイルパターンの提案、起こりうるリスクの事前共有とリスク発生時の相談窓口の設置、世界中で何が足りていて何が足りていないのかの定点観測システム、などなど、しっかりシュミレートして検討を重ねれば、天変地異などの災害対応に比べれば、事前に検証できることが多いので、さほど難しいことではないと思います。

新世界の分かりやすい内容が、存在するのでしょうかね。見たこともありませんね。

>やると決まれば数年内に実現可能かと思います。

ずいぶん楽観的ですね。内容が決まらないうちに、やるとなるのですかね。


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