>日本では、教科書・教室・授業・知識をお上によって決められていることが、当たり前だ。
そうですね。わが国は序列社会ですから、お上の権威は絶対ですね。
>しかし、少し世界に視点を向ければ、それは日本だけの常識であって、かなりおかしなことだと気づく。
そうですね。’日本の常識は、世界の非常識’ になりますかね。
>特に、子どもたちの内発的意欲を引き出す学びを大切にしているスウェーデン、デンマーク、ドイツ、オーストラリアでは、子どもたちが「考える力」を大切にしており、先生が教えるという発想はほとんどない。
現実の内容は、頭の外にある。それは、誰でも見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、その文章を理解することが必要である。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ても見えない話の内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくはない。だから、自分の考え (非現実) を語ろうとしない。これが、思考停止の状態である。内発的な考える力がないから、日本人には詰め込み教育が必要になる。受験勉強で、暗記に拍車がかかる。その結果、受け売りの専門家が多数輩出する。彼らは、没個性の人達である。
>ましてや、宿題や課題を押し付け、子どもたちを拘束することもない。
それは、結構なことですね。
>日本においても、「主体的・対話的で、深い学び」として、教育改革が謳われているが、これは特殊なことでもなく、むしろ、江戸時代の寺子屋のように、子どもたちをのびのび育てるという本来の学びのありかたへと原点回帰していくことにある。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制が存在しない。だから、日本人には、意思がない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人には、方法がない。だから、わが国では、教科書・教室・授業・知識をお上によって決めていただくことが当たり前になっている。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから、正しい考えは、一つではない。考えは、人さまざまである。その違いは、個性の違いを表している。意思のない日本人は、没個性の人になる。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。だから、正しい考えを得るために、対話が役に立つ。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は文章にならないで、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままでいる。バラバラな単語には、意味がない。
自由とは、意思の自由のことである。だが、恣意の自由は認められていない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ になる。だから、わが国においては、’不自由を常と思えば不足なし’ となり改革は行われない。
現実の内容のみを語る人は、浅薄な人である。現実と自己の考え (非現実) を並べて示し、その中庸を選んで主張する人は考えの深い人である。自己の考えのない人には、’中庸の徳’ もない。
なぜ日本人には考えがないのかといえば、非現実の内容を文章にできないからである。非現実の内容を文章にするためには、時制が必要である。時制のある文章は考えの内容を表し、独立した非現実の三世界(過去・現在・未来) となる。これを世界観 (world view) という。理想の世界の内容 (things as they should be) も、この中にある。時制のある言語では、個人の考え (非現実) も貴重な存在としてその価値を認められている。時制のない日本語で話すと、前世・現世・来世の内容も綺麗ごとになる。その展開は不可能である。だから、僧侶は受け売りの専門家になっている。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学んで、文法における時制の大切さを十分に理解しなければならない。さすれば、意思の表現も可能になり、世界観を語ることも可能になる。そして、教育改革を実現することもできる。
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