>(以下引用)
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> ■外国から到来した借り物の言葉
>「自由」という語がlibertyやfreedomの訳語に採択されたのは明治以降ですね。>それまでも仏教用語としてはあったようですけれど、「やまと言葉」には存在しない言葉だと思います。
そうでしょうね。家康公御遺訓には、’不自由を常と思えば不足なし’ というのがありましたけれどもね。
>「自由」は手元の古語辞典にも日本語源辞典にもありませんし、僕自身の読書体験を思い起こしても、古典文学で「自由」なんて文字列を見た記憶がありません。>日本人の生活文化にはまったく根づかない「借り物の言葉」だったんだろうと思います。
そのようですね。
>そして、明治に近代日本の語彙に登録されてから150年経ったけれど、未だにこなれた日本語になっていない。>単語としては存在しているけれど、意味を受肉していない。
そうですね。日本人には意思がない。意思のない人には、自由に意味がない。自由は、日本人にとって意味がないですね。
>(途中略)
>ですから、改めて「自由とは何か?」と問われたら、外国から到来した借り物の言葉で、日本人はその語に今もリアリティを感じることができずにいる、というのが答えになるんじゃないですか。
本当に、そうですね。
>ヨーロッパの場合だったら、その語が出現してくる歴史的な必然性がある。>古代ギリシャには奴隷と自由民という身分制があったし、中世には自由都市があり、ギルドや組合というものがあった。>いずれもローマ教皇や神聖ローマ皇帝や国王や地方領主の支配を押し戻して、裁判権や免税権などの特権を確保するための組織です。
西洋人は、意思と意思のぶつかりあいですからね。
>さまざまなレベルでの政治権力からの干渉に対峙していた人たちにとって、「自由」というのは具体的で、生活実感にしっかりと根ざした、持ち重りのする言葉だったと思います。
そうですね。干渉を受けなければ自由ですね。
>(途中略)
>だから、「日本には自由はない」と言っていいと思います。
そうですね。 自由とは、意思の自由のことですからね。 日本人には、意思がない。 だから、自由があっても意味がない。
>勘違いして欲しくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。
そうですね。日本人には意思がない。その代わりに、恣意 (私意・我儘・身勝手) が容認されています。
>■私は自由人です。凡人ちゃいます
>日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。
そうですね。意思の自由を得たからではないですね。
>すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。 >だって、そんなの大変そうだから。
そうですね。’思い通り’ は、’恣意 (私意・我儘・身勝手) の通り’ で、不可能です。
>それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。
気分・雰囲気の問題になるのですか。
>集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。
それはありますね。
>それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いた時に、日本人は解放感と達成感を覚えます。
そうですね。ほっとしますね。
>理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して……というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に、日本人はなぜか深い満足感を感じる。
そうですね。日本人には意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は未来時制の文章内容になるが、恣意はばらばらな単語まま (小言・片言・独り言) で存在する。意思は文章であるから意味があるが、バラバラな単語には意味がない。談合を開いて腹の探り合いをする。意味のないことに折り合いをつけることで忙しい。
>これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。
>(途中略)
>だから、日本人はヨーロッパ的な意味での「自由」を求めていないんじゃないかと思います。
そうですね。不自由を常と思えば不足なし。
>だって、日本社会で「私は自由に生きています」とアピールする人は総じて緊張しているから。>でも、おでこに「私は自由人です。凡人ちゃいます」というシールを貼って、こまめに周りの承認を求めようとするなんて、野暮ですよ。
そうですね。それには、意味がない。
>ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。>そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。
恣意を排除せず、恣意対恣意の対立の折り合いをつけます。
>「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。>どうです、一つナカとって……」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したマナーでした。
折半ですか。足して二で割る方式ですか。
>それは正解を得るための方法ではないのです。>いざこざを避けるための作法です。
恣意は文章にならないから、意味がない。だから、その正解もない。ただ、いざこざを避けるための作法がある。
>原理を貫徹する、信教や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。
そうですね。個人の考え (非現実) は、見ることができない。見ることのできない内容は嘘である。誰も嘘つきにはなりたくない。
>それよりは非妥協的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。
それができれば、この世界もアニマルの世界と同様に平和になるのですがね。
>■「三方一両損」の生存戦略
>(途中略)
>欧米風というのは、自分のやりたいことを旗幟鮮明に掲げて、そのアジェンダに賛成する人間を登用し、反対する人間は排除するというシンプルなものです。>その方が「話が早い」と人々は信じている。
個人意見の一致は大切なことですからね。
>でも、日本人はちょっと違う。
日本人は、無哲学・能天気ですから欧米風にはなりませんね。一致点がはっきりしない。
>「いや~、悪いねえ。 >どう、今回はちょっと泣いてくれない? >いや、悪いようにはしないよ。 >次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。
なーなー主義ですね。ご苦労さんです。
>欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょうね。>でもそれは、しようがないと思うんです。
無哲学・能天気ですから、あるべき姿 (things as they should be) が出てこない。
>「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。
おり合わせが、世界の住民が生き延びる資質になると良いのですがね。
>列島住民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、今さら変えろといわれても無理ですよ。
よく考えたら、新しい生存戦略も見つかるかもしれませんよ。列島住民専用の戦略だけでは各国の困難が避けられません。だから、新しい考えが必要です。
>(途中略)
>でも、僕はそれが「悪い」と言ってるわけじゃないんですよ。>そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。
そうですね。意思がない。だのに、恣意の自由も認められないですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は、自由のはき違えになるでしょう。閉塞感がある。
>たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。
アンリーズナブル (理不尽) の泣き寝入りですかね。
>「調和」と「自由」とはまったく別物です。
そうですね。まったく違いますね。
>そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。
日本人の調和は、リーズン (理性・理由・適当) を殺すやり方ですね。人類の進歩とは言えないですね。相手が外国人の場合には、猛反省をしないと手痛い仕打ちを受けることになるかもしれませんよ。日本人の独りよがりでない、現実への対処が必要でしょうね。
>(引用終わり)
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> ■外国から到来した借り物の言葉
>「自由」という語がlibertyやfreedomの訳語に採択されたのは明治以降ですね。>それまでも仏教用語としてはあったようですけれど、「やまと言葉」には存在しない言葉だと思います。
そうでしょうね。家康公御遺訓には、’不自由を常と思えば不足なし’ というのがありましたけれどもね。
>「自由」は手元の古語辞典にも日本語源辞典にもありませんし、僕自身の読書体験を思い起こしても、古典文学で「自由」なんて文字列を見た記憶がありません。>日本人の生活文化にはまったく根づかない「借り物の言葉」だったんだろうと思います。
そのようですね。
>そして、明治に近代日本の語彙に登録されてから150年経ったけれど、未だにこなれた日本語になっていない。>単語としては存在しているけれど、意味を受肉していない。
そうですね。日本人には意思がない。意思のない人には、自由に意味がない。自由は、日本人にとって意味がないですね。
>(途中略)
>ですから、改めて「自由とは何か?」と問われたら、外国から到来した借り物の言葉で、日本人はその語に今もリアリティを感じることができずにいる、というのが答えになるんじゃないですか。
本当に、そうですね。
>ヨーロッパの場合だったら、その語が出現してくる歴史的な必然性がある。>古代ギリシャには奴隷と自由民という身分制があったし、中世には自由都市があり、ギルドや組合というものがあった。>いずれもローマ教皇や神聖ローマ皇帝や国王や地方領主の支配を押し戻して、裁判権や免税権などの特権を確保するための組織です。
西洋人は、意思と意思のぶつかりあいですからね。
>さまざまなレベルでの政治権力からの干渉に対峙していた人たちにとって、「自由」というのは具体的で、生活実感にしっかりと根ざした、持ち重りのする言葉だったと思います。
そうですね。干渉を受けなければ自由ですね。
>(途中略)
>だから、「日本には自由はない」と言っていいと思います。
そうですね。 自由とは、意思の自由のことですからね。 日本人には、意思がない。 だから、自由があっても意味がない。
>勘違いして欲しくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。
そうですね。日本人には意思がない。その代わりに、恣意 (私意・我儘・身勝手) が容認されています。
>■私は自由人です。凡人ちゃいます
>日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。
そうですね。意思の自由を得たからではないですね。
>すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。 >だって、そんなの大変そうだから。
そうですね。’思い通り’ は、’恣意 (私意・我儘・身勝手) の通り’ で、不可能です。
>それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。
気分・雰囲気の問題になるのですか。
>集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。
それはありますね。
>それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いた時に、日本人は解放感と達成感を覚えます。
そうですね。ほっとしますね。
>理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して……というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に、日本人はなぜか深い満足感を感じる。
そうですね。日本人には意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は未来時制の文章内容になるが、恣意はばらばらな単語まま (小言・片言・独り言) で存在する。意思は文章であるから意味があるが、バラバラな単語には意味がない。談合を開いて腹の探り合いをする。意味のないことに折り合いをつけることで忙しい。
>これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。
>(途中略)
>だから、日本人はヨーロッパ的な意味での「自由」を求めていないんじゃないかと思います。
そうですね。不自由を常と思えば不足なし。
>だって、日本社会で「私は自由に生きています」とアピールする人は総じて緊張しているから。>でも、おでこに「私は自由人です。凡人ちゃいます」というシールを貼って、こまめに周りの承認を求めようとするなんて、野暮ですよ。
そうですね。それには、意味がない。
>ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。>そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。
恣意を排除せず、恣意対恣意の対立の折り合いをつけます。
>「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。>どうです、一つナカとって……」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したマナーでした。
折半ですか。足して二で割る方式ですか。
>それは正解を得るための方法ではないのです。>いざこざを避けるための作法です。
恣意は文章にならないから、意味がない。だから、その正解もない。ただ、いざこざを避けるための作法がある。
>原理を貫徹する、信教や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。
そうですね。個人の考え (非現実) は、見ることができない。見ることのできない内容は嘘である。誰も嘘つきにはなりたくない。
>それよりは非妥協的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。
それができれば、この世界もアニマルの世界と同様に平和になるのですがね。
>■「三方一両損」の生存戦略
>(途中略)
>欧米風というのは、自分のやりたいことを旗幟鮮明に掲げて、そのアジェンダに賛成する人間を登用し、反対する人間は排除するというシンプルなものです。>その方が「話が早い」と人々は信じている。
個人意見の一致は大切なことですからね。
>でも、日本人はちょっと違う。
日本人は、無哲学・能天気ですから欧米風にはなりませんね。一致点がはっきりしない。
>「いや~、悪いねえ。 >どう、今回はちょっと泣いてくれない? >いや、悪いようにはしないよ。 >次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。
なーなー主義ですね。ご苦労さんです。
>欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょうね。>でもそれは、しようがないと思うんです。
無哲学・能天気ですから、あるべき姿 (things as they should be) が出てこない。
>「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。
おり合わせが、世界の住民が生き延びる資質になると良いのですがね。
>列島住民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、今さら変えろといわれても無理ですよ。
よく考えたら、新しい生存戦略も見つかるかもしれませんよ。列島住民専用の戦略だけでは各国の困難が避けられません。だから、新しい考えが必要です。
>(途中略)
>でも、僕はそれが「悪い」と言ってるわけじゃないんですよ。>そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。
そうですね。意思がない。だのに、恣意の自由も認められないですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は、自由のはき違えになるでしょう。閉塞感がある。
>たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。
アンリーズナブル (理不尽) の泣き寝入りですかね。
>「調和」と「自由」とはまったく別物です。
そうですね。まったく違いますね。
>そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。
日本人の調和は、リーズン (理性・理由・適当) を殺すやり方ですね。人類の進歩とは言えないですね。相手が外国人の場合には、猛反省をしないと手痛い仕打ちを受けることになるかもしれませんよ。日本人の独りよがりでない、現実への対処が必要でしょうね。
>(引用終わり)
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