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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

指示待ち人間

2019-03-09 12:38:27 | 言語
(略)
>もしかしたら、今世紀に入って以降は、中国人が日本人化(自分でなくてもシステムが回るようにする)し、日本人が中国人化(自分がいないとシステムが回らないようにする)していった歴史だったのかもしれない。>その証拠に、「『指示待ち人間』はなぜ生まれるのか?」という文章をTogetterにアップする直前、指示待ち人間の多さを嘆く上司やリーダーが世にあふれていたからだ。

意思のない人間は、やる気を持っていない。意思の存在を認めない社会には、個人の自主性を破壊する力が存在する。だから、まともな責任も存在しない。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>「指示されるまでボーっと突っ立ってるんだよ?

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
日本人には、意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語脳には未来時制がない。それで、日本人には意思がない。
意思のない人には、方法がない。仕方がないから、無為無策でいる。万事、受け身になる。指示されるまでボーつと突っ立っている。

>信じられる?」 >「ちょっとは自分の頭で考えて動いてほしいよ」 >「なんでこんなことくらい、分からないのかねえ」

我々日本人は、単語のやり取りだけで用事を済ませることが多いので、作文力と読解力に不足があるのではないでしょうか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>「所詮、自分の頭で考えられる人間なんて、ほんの一握りなんだよ」と、部下が指示待ち人間ばかりなのを嘆くリーダーや上司たちの飲み会が花盛りだった。

現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。内容はただの話であるから、その文章の理解が必要である。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分の考え (非現実) を口に出して語ろうとしない。これが、とりもなおさず思考停止の状態である。自分個人の考えは、想定外になっている。そのうちに、大切な思考力もなくなってくる。自分の頭で考えられる人間なんて、ほんの一握りになっている。

英語には、時制がある。英米人には、意思がある。我々日本人も、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを理解しよう。そして、自分自身の意思の表現方法を獲得して、国内外の人達と意思の疎通を図るようにしよう。さすれば、未来社会の建設にも協力関係が得やすくなり、我々の未来には夢と希望が見えてくる。

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自由学園

2019-03-09 01:00:41 | 教育

(略)
>創立者が1932年に書いた文章の中で「学校 [自由学園] は単に社会に人材を送り出すところであるという思いに変えて、教育は新社会をつくるという信念を打ち建ててゆきたい」と言っている。

そうですね。’あるべき姿’ を実現する未来社会の建設が必要ですね。

>つまり今の社会の課題や問いにチャレンジする人を送り出すという考えのもと、こうありたいという社会、新しい社会をつくる人を学校が育てる。

自由学園が、未来社会の建設者を育てるのですね。

>では、そのためにどうするのか。>自由学園では競争社会ではなく「協力社会」をつくる人を育てるために、学校自体を、協力を実践する場にしたいと考えています。

そうですね。序列形成の為の順位争いは良くないですね。未来社会の建設には、ぜひとも協力が必要ですね。

>管理や主従関係ではない関係の社会をつくるための自治社会の実践。

主従関係は、責任に関する上下関係ではないですからね。とかく、この世は無責任となっています。

>自分たちの代表を自分たちで選び、自分たちのことは自分たちでする。>生徒自身の手にできる限り学校づくりを委ねたい。>その土台にあるのは生徒たちに対する信頼です。

そうですね。新しい社会の建設ですね。’民信無くば立たず’ ですね。

>学校で子どもたちに競争をさせ、輪切りにして、評価して、道徳で型にはめて、ってやっていけば自ずとその次の社会もそうなっていくでしょう。>そうではない社会をつくるために学校が良いモデルにならなければいけないし、新しい社会をつくっていく実験場にならないといけない。>それが、自由学園の実践でありチャレンジでもあります。

自由学園が、わが国の先駆けですね。

>■迷惑をかけあって弱さを抱え込んでもいい。

何事もお互い様ですからね。

>その先にあるつながりの価値に気づくこと。

協力の価値ですね。

>(中略)
>高橋さん 学校が生活まで持っている教育ってあまりないんですよね。

長期キャンプ生活のようなものですかね。

>「生活即教育」の中には素の自分を見せなくてはいけなかったり、迷惑をかけたり、かけられたりしながら、暮らすという意味もあります。

教えられたり、教えたりですね。

>いかしあうっていうことは、補い助けあう、支えあうっていうことですよね。

人間は、お互いに助け合って生きてゆくものですね。

>だから決して完成ということはありません。

人間は、どこまでも進歩しますね。

>(中略)
>高橋さん ここで数ヶ月生活を送ったことで、一方的に受けるのではなく、する立場になって初めて、いつも自分がしてもらっていたことのありがたさがわかったんですね。>すると、日常的な感謝もいろんな方面に生まれる。

何事も体験が大切ですね。

>先ほどの委員にしても選ばれた人、やりたい人がやるんじゃなくて全員がこの社会を支えるために小さな責任を担うっていうことが、「他人事じゃない」という主体意識、当事者意識を生むんですよね。

当番制で行うのですね。

>「生活即教育」とともに理念の柱となっているのが「自労自治」という言葉ですが、これは、学校の仕組みにおいても、自治という前に自労があるということです。>誰かに何かをやってもらいながら権利は主張する自治ではなくて、自分たちで労する自治なんですね。

自給自足の生活ですね。

>これは辞書に載っていない自由学園のオリジナルな言葉です。

確かに、そうですね。

>(中略)



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