gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育の崩壊 4/4

2020-05-03 16:25:06 | 文化

>ただその高度さを隠すまでに人為的なものであるため、表面上は『自己意識』が希薄なように見られるだけである。

日本人には、それしかないですね。これは、文法上の問題ということになりましょう。

> 日本人の無為自然というのはどこまでも人為的なものであり、人の力によって無為自然を作り上げている。

そうですね。意思の無い人間の人為ですね。意思の無いアニマルのようなものか。

>そしてそれがさまざまな面で対人関係に生かされたり、芸術的に表現されたりしている。

無意思の行為は、非言語の世界 (音楽・絵画・造形美術・その他) には無理なく通用しますね。

>この『自己意識』はヨーロッパのような『神の視点』から自己を見下ろす自己意識とは違うが、水平的に場の雰囲気を読む『自己意識』として日本人に常に求められているものであり、金谷武洋氏はこの視点を『虫の視点』といっている。

‘あるべき姿’ の内容にはならずして、’気分・雰囲気’ の問題になりますね。

>このような『虫の視点』から場の雰囲気を捉える日本人特有の能力が、だんだんと失われつつある。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を十分に認識する必要がありますね。そうすれば、日本語の良さと英語の良さを共に理解することが可能です。

> 今行われている『個性化教育』は日本人の自己意識をヨーロッパ的な『神の視点』へと引き上げようにしているが、そのような文化的基盤のない日本で『神の視点』はなかなか育たないばかりか、従来日本人のもっていた『虫の視点』の良さまでもが壊れつつあるように思える。

そうですね。無知のなせる業です。共倒れの危険があります。Win-win の関係を築きましょう。

>ヨーロッパの『オーケストラ』の演奏は、一人の指揮者を立てそれに従って全員が演奏するという上からの『神の視点』に近いものだが、 日本の伝統的な『雅楽』の演奏は、全員が横並びで一人の指揮者を立てることもなく、互いが場の雰囲気を読みとりながら、それでいて全体の調和をとるという『虫の視点』に近いものである。

指揮者には自己がある。雅楽には調和がある。’共倒れ’  ‘同士討ち’ はやめましょう。

> 今の日本の教育をとりまく状況は、日本の伝統的な『雅楽』奏者が、突然『オーケストラ』の演奏のなかに引きづり込まれて、従来培ってきた雅楽の演奏方法が台なしになってしまっているのと似ている。

そうですね。無知のなせる業ですね。思慮の深い人間になることが必要ですね。

> ***以上引用終わり***



.




教育の崩壊 3/4

2020-05-03 15:57:53 | 文化

(続く)日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)  

>②へ続く。  >290956 敬語と日本語②~敬語の基本は、極力『我』を出さず、すべてのことが『自発』的世界の中で起こっているかのように表現する言葉遣いにある~  >mosimobox ( 20代 会社員 )  14/06/05 AM00 【印刷用へ】
>敬語と日本語①~日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつ~の続きです。
> 敬語の基本は、極力『我』を出さず、すべてのことが『自発』的世界の中で起こっているかのように表現する言葉遣いにある。

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。恣意は ‘我’ である。これを表さないのが日本人の作法の基本でしょうね。

>よく敬語は自分を低く見て、相手を高く見ることだといわれるが、それは決して間違いではないが、より正しくは、自分に対しても相手に対してもその行為の『主体性』消し去ることにある。

日本人には意思がないのだから、主体性もない。にも関わらず、’主体性が出る’ と言われるのは恣意の為である。

自分を下にして相手を上にした言葉遣いをしすぎると、かえって不自然で『慇懃無礼』に感じられるのはそのためである。

そうですね。だから上下社会 (序列社会・縦社会) は、難しい。

何が『自然』で『自発』的なのか、それを絶えず感知する能力が日本語には求められている。

そうですね。日本人の動作・言動は ‘事の次第・成り行き’ で決まりますからね。

その能力とは、決して子供のような『主客合一』でも『自他未分離』の状態でもなく、全体のなかでしっかりと自己を見据えていく『自己意識』である。

これは、難しい解釈ですね。序列社会全体の中での自己の位置 (序列順位) を見定めることですかね。そうであるならば、自己意識は序列意識ですね。大名行列のように、一糸乱れず行進しますね。

>よく誤解されていることだが、日本人は『自己意識』が希薄なのではなく、> 『日本庭園』で書いたように、>リンク >『努力して努力して、どこまでも人の手を加えていながら、それでいて、涼しげな顔をして、あたかもそこに無造作に日本庭園があるように見せるところが、日本庭園のすごさなのである』。

個人に意思がないのだから、仕方のないことですね。

>それと同じように、日本人の意識は決して『自己意識』が希薄なのではなく、ヨーロッパとは違った自覚的な深い意識のあり方なのである。

それは意思の表現が不可能だからでしょう。意思は未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから。日本人には意思 (will) がない。

> 日本人の意識は、あたかも無意識から出たもののようにさりげなく表現される。

日本人にはそれしかないですね。日本人が意思決定に難渋する民族であることは明治以前から外国人に知られていましたね。
日本人には意思がないのであるから、外国人から意思の内容を尋ねられたら返答に困るのは当然ですね。意思の内容に焦点を当てて考えることが難しいのです。
フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

>しかし、だからといって決して無自覚に出されたものでなく、十分に自覚的にそして意識的に出されたものである。

それが精一杯というところですね。

>しかも、その出し方があたかも『おのずからそうなったように』、また『人の手が加わってないかのように』出されたものである。

そうですね。全ては ‘事の次第・成り行き’ で表現するのがルールですね。それしかない。そうでなければ、恣意の発現となります。

>そういう意味は、日本人の意識のあり方はどこまでも意識的なものであり、高度に人為的なものである。

意思の無い人間の高度な表現法でしょうね。これを高文脈文化 (high-context culture) というのですかね。


.



教育の崩壊 2/4

2020-05-03 15:28:01 | 文化

> 日本人にとって良い関係とは、それが人間であろうと物事であろうと、『主客合一』『自他未分離』の状態を感じさせる関係である。 

自分自身ではどうにもならないということですね。

>その関係が成立しているかどうかという判断が『場を読む』『雰囲気を読む』『空気を読む』ということであり、それが一旦成立していると見られた場合には、その関係を崩さないようにお互いが会話し行動することが求められる。

気分・雰囲気に酔うことが我々日本人の楽しみということですね。

>いわば『我』を目立たせないことが大切になってくる。>『我』を出すということは『自発』の嫌う『主体性』を発揮するということであり、その結果『場の空気』を乱すことでもある。

日本人には、意思がない。意思の表現は無いが、恣意 (私意・我儘・身勝手) の表現がある。恣意による自発・主体性を発揮するということは、腹芸のようなものになる。これは、リーズン (理性・理由・適当) の外側にある行為となる。日本人の特技というべきか。

>それはまた『主客合一』の居心地のいい状態を崩すことであり、『自他未分離』の状態から『自他分離』の居心地の悪い状態へもどることである。

子供のようなものですね。安らかに眠り続けることができるのかしら。

>このようなことから日本人にとっては『主体性』を表現しないようにすることが常に求められているのであり、そういう意味では常に『主語』を表現し『主体性』を誇示することを求められる英語の表現とはかなり違った能力が求められている、ということができる。

そうですね。今や英語は国際語ですからね。我々日本人は、地球の外側に住んでいることになるかもしれませんね。

『我』を出すばかりで、『場の空気』を乱すものはやがて排除されていくようになる。

恣意 (私意・我儘・身勝手) の表現は困りますね。昔は予防策として、滅私奉公がありましたね。今はどうなっているのかしら。

『個性尊重』の教育にともない、『自己主張』をするように絶えず求められている今の子供たちに、『いじめ』が起こりやすくなっていることはこのことと無関係ではないように思える。

日本人には意思 (will) がないから、恣意 (self-will) を出す。これが日本人の問題ですね。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
意思は未来時制の文章内容である。文章には意味がある。だから、意思は、対話・議論の対象となる。
恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。文章にならないから意味がない。対話・議論の対象にならない。
自由とは、意思の自由のことである。意思の無い日本人は、’意思の自由’ を ‘恣意の自由’ と取り違える。これが ‘自由のはき違え’ というものである。
恣意の自由は何処の国でも認められていない。だから、日本人は、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態になる。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。(続く)


.



教育の崩壊 1/4

2020-05-03 14:44:29 | 文化

>290955 敬語と日本語①~日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつ~  >mosimobox ( 20代 鹿児島 会社員 )  14/06/05 AM00 【印刷用へ】 >以下、教育の崩壊リンクより引用します。
> ***以下引用***
> 『できる』は『可能』を表す言葉であるが、>この『できる』は、『いでくる』→『でくる』→『できる』と変化したものである。> 『「いでくる」というのは >「(内にあるもの、隠れているものなどが進み動いて)表に現れる」 > 「(なかったものが)新しく生じる。できる」(日本国語大辞典)>といった意味である。』 > (敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)

何かキノコの成長を表現するような感じですね。

>このことは、 > 『「自然展開」「自発」的であるものが、そのまま日本人にとって「可能」となり得ているということを意味している。

そういうことになりますね。

>したがって日本人にとって何かが「可能になる」ということは、その人の主体性においてその「可能」をつかみ取るということではなく、まさに「自発」の世界と同じように「主客合一の世界においてある行為が成立する」ことなのである。』 > (同書 P112) >ここでいう『自発』とは、> 『自発的に行動しなさい』の『自発』ではなく、> 『おのずからそうなる』という意味の『自発』である。

そうですね。それは、‘事の次第・成り行き’ による結果ですね。

>この『自発』においては、その行為の『主体』(subject)性はかえって妨げになるものである。>そこでは『誰が』ではなくて『おのずと』が大切になる。

そうですね。それが、’事の次第・成り行き’ というものでしょうね。

>したがって『自発』を表現する文においては『主語』(subject)は不要であるばかりか、かえって自発本来の意味を損なうものとなる。> 可能表現の根が自発表現に発しているのはほんの一例であり、その他にもさまざまな表現がこの自発表現から発している。

そんな感じがいたしますね。

> 『(「明日来られるか来られないかはお天気次第ですね」の「れる」「られる」は本来「自発」表現だが、)> 「自発」「自然展開」をよしとする日本人の価値意識は「自発」を本意とする言葉に「価値」の意味を付与することになる。>すなわち「自発」「自然展開」的になされる行為に価値を与え、価値を付与された語によって「尊敬」をあらわすという言語史的展開が見られるようになる。> 「先生は明日来られる」に見られるように、本来「自発」を意味する「られる」によって尊敬をあらわすようになってゆくのである。』 > (同書 P120)

尊敬は、人間を対象としたものではありませんか。「スズメは明日来られる」の表現は成り立ちませんか。

>また、> 『「れる」「られる」、「できる」のような本来「自発」をあらわす言葉は、「自発」が日本人の価値意識の中核に存在している故に、それがそのまま「可能」(例「自転車に乗れるようになった」)「尊敬」をもあらわすべき契機を本来的に秘めている。』 > (同書 P122) 

「万引きができる (いでくる) ようになった」の表現には尊敬の念は無いでしようね。

>さらに、> 『「れる」「られる」に見られるような「受身」(例「雨に降られる」)の意味は「自発」とほとんど重なるようにしてある。』 > (同書 P112)> 『自発』と『受身』はそのどちらもが行為の主体性を消し去っているという点で共通している。

日本語には意思の表現形式がないので、主体が消し去られますね。

>このような特徴を持つ日本語のなかで、『主体性』を意識させ、『主語』の使用を条件づけようとすれば、日本語のもつ表現の細やかさは、大きく後退するにちがいない。 > 『自発』表現は『主客合一』『自他未分離』の状態に足場をおいた表現であり、『自我』や『主体性』や文法上の『主語』表現を嫌うものである。

そうですね。主語の表現を嫌うのでは、自主・独立の運動は不可能でしょうね。

>このように、日本語のバリエーションの多くは『自発』または『受身』を中心にしてその周囲を取りまいている。

そうですね。‘働きかけ・能動’ がなければ、陳述の内容は ‘自発・受け身’ になりますね。

>なかでも『主語』を必要としないのは『自発』のほうであり、その意味で最も特徴的な表現は『自発』であるといえる。> 日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつのである。

そうですね。人為を嫌いますね。盆栽・箱庭・一坪庭園など明らかに人為であっても自然とみなして喜びますね。ですから、キャンプのような手つかずの自然を楽しむ風習はありませんね。

 >『自発』とは、さきに見たように、『主客合一の世界においてある行為が成立すること』であり、そのことは日本人の感情の心地よい原点が、『主客合一』『自他未分離』にあることを示している。

そうですね。没個性の極みですね。


.