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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

田中良紹氏 2/2

2020-05-06 22:39:42 | 文化

>  私は1990年8月にイラク軍がクエートに侵攻してから91年1月にアメリカが湾岸戦争に踏み切るまでのアメリカ議会の議論を見た事がある。>戦争をする国の政治の議論というものを初めて見た。

それは勉強になる知見ですね。

>夏の終わりからアメリカ議会は歴代の国防長官、国務長官、軍人、経済学者、ジャーナリスト、さらには外国の政治家まで200人近い専門家を公聴会に呼んだ。>  そこで戦争に踏み切ればどのような影響が出るかをあらゆる角度から検討した。 >中東地域はどうなる、各国の反応はどうか、アメリカ経済への影響、国民生活への影響など2ヶ月にわたって意見を聞いたうえで、議員たちが戦争権限を大統領に与えるかどうかを決めた。

さすがアメリカですね。

>その判断は自らの政治生命に関わるから、採決の日の議会は異様な緊張感に包まれた。>  全員が戦争すべきか否かを意見表明する。>民主党議員の多くが反対する中でゴア上院議員は賛成演説を行なった。>次の大統領選挙に出馬する意向を固めていたからである。>こうして湾岸戦争は開始されたが、戦争中も戦争後も軍事費を巡る議論はしっかりと行なわれた。>国民の税金を使う話だから、戦費をしっかり監視し、無駄をさせないのが政治の役目である。>シビリアン・コントロールとはこういうことなのだと実感した。

それはためになる経験でしたね。

>  ところがこの国の国会ではいつも予算の詳細がほとんど議論されない。

日本人は、議論が下手ですからね。議員の知恵がそこまでまわらないでしょう。

>今回の大震災など戦争と同じで日本経済に深刻な影響を与える事になり、しかも復興には巨額の資金が必要になるから金の話はしっかりしてもらわなければならない。

そうですね。他力本願・神頼みとならないようにしていただきませんとね。

>ところが「最後は国が責任を持つ」と手形を乱発するような話ばかりで、どうやって国民生活を落ち込ませないか、どうやって経済を上向かせるかの議論は聞えてこない。

日本人は、議論が下手ですからね。懸念される事柄は全て想定外になっているのでしょう。

>  そして「違和感」を感ずるのは何につけても責任の所在が曖昧になっている事である。

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。だから、責任者を探しても見当たらない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。 、、、、、大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り) 

>浜岡原子力発電所の運転停止も「命令」ではなく「要請」であるから最終決断をするのは中部電力で、放射能から非難する住民は「自主判断」を求められ、東京電力の社内に作られた「福島原子力発電所事故対策統合本部」は法律によらない任意団体である。

日本人は意思決定ができませんから、事の次第・成り行きで物事が決着するように努力しますね。

>法律による「原子力災害対策本部」を使わずに政府と東京電力が一体となった責任の所在が曖昧な団体がわざわざ作られている。

‘兎角この世は無責任’ という国の体質ですね。

>  政治は国民生活を守るために仕事をし、結果について責任を取るものである。

そうですね。しかし、日本人は責任というものに馴染めませんね。
イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について次のように述べられています。
、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。 、、、、 (引用終り) 

>しかし他人の意見を聞かず、責任の所在も曖昧なままの政治に「歴史の評価」を求めても、歴史が判断するまでもない事で、このままでは政治に対するアパシーが広がるだけの話である。[apathy: 無関心]

そうですね。我々日本人の政治音痴は骨の髄までしみ込んでいますね。

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田中良紹氏 1/2

2020-05-06 22:10:55 | 文化

>251437 『場当たりポピュリズムの末路』 >ラサンテ     11/05/15 AM09 【印刷用へ】
>『場当たりポピュリズムの末路』 > 田中良紹の「国会探検」より転載します。 >リンク
>浜岡原発の運転停止の首相決断については、一部の有識者から賛同の声も寄せられているが、問題なのはこの震災での対応が全て場当たり的な対応になっており、このような危ういリーダーに日本の将来を委ねざるを得ない状況が未だ続いていることだと思う。 

そうですね。ナウな感じのするリーダーですね。

> 湾岸戦争を引き起こした前ブッシュ大統領のミスリードは明らかだが、そのアメリカでさえ、少なくとも開戦にいたる議会はじめアメリカ国内の意思決定のプロセスを経ている。

そうですね。アメリカ人には意思がある。が、日本人には意思がない。
意思は未来時制の文章内容ですが、英文法には時制 (tense) というものがある。だから、英米人には意思 (will) がある。それで、意思決定ができる。
ところが、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人には意思がない。だから、意思決定 (理性判断) ができない。優柔不断・意志薄弱に見える。しかし、我々には意思がなくても恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意決定 (盲目の判断) ならできる。だから、これで行くことになっている。

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> 13日の参議院予算委員会で菅総理は浜岡原子力発電所の運転停止要請について「評価は歴史に判断を頂きたい」と大見得を切った。

彼は歌舞伎役者のようなものですね。

>この要請を「大英断」と持ち上げる向きもあるから高揚した気持ちがそう発言させたのだろう。 >だとすれば「墓穴を掘る事になる」かもしれない。

それは残念なことですね。

>  多くの権力者の栄枯盛衰を見てきたが、権力を失うきっかけは絶頂期に高揚した気持ちで判断した事から生まれ、権力を失う時は外の敵ではなく内側の味方から崩れていくのが常なのである。

身から出たさびですね。

>  大震災の発生直後からの政治の対応にどうしようもない「違和感」を感じてきたのは私だけだろうか。>理解できない動きの連続に唖然としてきた。>それを「想定外の事が起きたから」という言い訳で政権は切り抜けてきたが、とてもそれだけで納得できるものではない。

そうですね。想定外ということで、万事が切り抜けられるものではありませんね。

>  前に「大災害から国民と国土を守るのは国防そのものだ」と書いたが、さらに刺激的な書き方をすれば「今の日本は戦争状態」である。 

そうですね。油断をすれば国民の命が失われます。

>自然から攻撃を受けて被災した国民を守る一方で、福島を戦場とする「原子力との戦い」は瞬時の休みもなく続いている。>この戦いに勝つためには何よりも日本経済の力を損なってはならない。 >「欲しがりません、勝つまでは」の日本が平時を上回る増産体制を敷いたアメリカに敗れたように、戦争の帰趨を決するのは経済である。

そうですね。

>  ところがそうした意識をこの政権から感じ取る事が出来ない。 >「一生懸命やっている」と言うが事態は一向に良くならない。 >浜岡原子力発電所の停止要請など悪化する一方の「フクシマ」から目をそらさせるための「目くらまし」に過ぎないと私には見える。 >しかもこの「目くらまし」の論理が滅茶苦茶なのである。>  地震が起こる確率が87%と異様に高いから防潮堤が出来るまで停止すると菅総理は言ったが、防潮堤建設に投資したら中部電力は100%原発を再開しようとするはずである。 >そうしないと投資に見合わない。>そして防潮堤が確実に防護するかは「神のみぞ知る」話なのである。

そうですね。

>  しかも柏崎・刈羽原発も福島原発も地震の確率が低いところで事故が起きた。>今必要なのは目先の数字に躍らされるのではなく、想定を越える事まで考えて対策を練ることではないか。

そうですね。想定外になることが多すぎますね。

>原発を見直すにしても、局部ではなく日本のエネルギーの全体像を俯瞰し、経済の落ち込みを少なくする方法で手を打っていかないと政治にならない。

そうですね。政治家には政治哲学が必要ですね。無哲学・能天気の指導者にそれを期待しても無理なのかな。

>  菅総理は浜岡原発の停止要請を「熟慮」で決めたと言うが、ただ一人の専門家の意見も聞いていない。>それは日本の全体を考えた話ではなく、国民感情に動かされたポピュリズムだからである。

そうですね。それは彼の意思の決定 (理性判断) ではなくて、恣意の決定 (盲目の判断) でしょうね。

>リーダーがそういう姿勢だと政治が国難を乗り切るどころか復興の方向を誤る事になる。

そうなると困りますね。


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真面目人間 3/3

2020-05-06 09:50:11 | 文化

>「お上」が平民を守ってくださる、その代わり「お上」から言いつけられたことは絶対である、という統治される側の常識。

そうですね。これが序列社会で育った序列人間の発想法ですね。臣民の考え方ですね。

>■お上の要請に従う者と従わない者
>それが現在の「緊急事態宣言」の状況下におかれても国民への「要請」を立て前とするのは、この統治客体意識、すなわち「お上」意識によって立つところにある。>お上のいうことは絶対であるという無意識のうえに、行政側が、「お上」のいうことだから聞いてくれるよね、とする「要請」の正体。

そうですね。神様・仏様の言うことですね。

> 実際に真面目な日本人はそれに従う。>むしろ、そのほうが多いことは現状を見ての通りだ。>だが、それに従わない者も出てくる。>新型インフルエンザ等対策特別措置法では、「協力要請」からはじまって、「要請」「指示」へと自治体は厳しくしていくことができる。>最初の段階で営業自粛に従わない場合には、「お上」は店名を公表するなどして、ギリギリと締め上げていく。

真綿で首を絞めるようなやり方ですね。

> 統治客体意識の訣別を目指した20年前の構造改革とはなんだったのか。 >そう疑問になるような、国民の「お上」意識に依存して、この難局を乗り切ろうとしている。

そうですね。日本人には個人のリーズン (理性・理由・適当) がない。あるのは序列関係と恣意による上意下達の命令のみである。一方通行の硬直した人間関係ですね。
その根本原因の究明が必要ですね。対症療法ばかりでは疲れます。言語は考えるための道具でもあるはずです。何事も文法に従って理解するのが近道です。
日本語には、非現実 (考え) の内容を文章にできない。現実の内容のみが真実として取り扱われている。見ることのできる内容は本当の事、見ることのできない内容は嘘である。
非現実・考えの内容は、時制のある文章により表現される。そして、日本語の文法には時制がない。だから、考えの内容は表現されない。だから、日本人は無哲学・能天気の状態にとどめ置かれている。
現実を語り、非現実をも語る人は思慮の深い人である。現実のみを語る人は、浅薄な人である。真面目のような顔をしていて、実は不真面目な人である。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク

>だが、それもいずれは「指示」に変わってしまう。 >罰則はないとはいえ、それに代わる合法的措置も検討されるはずだ。 >「お上」の仕返しが待つとすれば、その効果はてきめんだ。

それは、神様の祟り (仕返し) のようなものですね。神様を粗末にする人には罰が当たる。

>それでも、あくまで法的には「要請」なのだ。>その真意は国民が察しなければならない。

リーズン (理性・理由・適当) の無い社会では、察し (忖度) が大手を振っていますね。察しは聞き手・読者の勝手な解釈であり、話し手・筆者には何の責任もありません。話し手と聞き手の間に齟齬を生じても、議論にはなりません。だから、日本人は議論下手です。
わが国は、高文脈文化 (high-context culture) の中にある。日本文では、言外の意味が大きくて重要である。自分勝手な解釈は現実直視になっていない。そのことを忖度の主に指摘すると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発して物別れに終わる。だから、話にならない。

>しかも「要請」であり「自粛」であるとすると、国がその損失分を補償する必要もない。>東京都は営業自粛に応じた事業者に協力金を支給することをいち早く表明し、他の自治体もこれにならう方向だが、この「緊急事態宣言」が長引けば、それでいつまでも耐えられない。

そうですね。必要な関係が明白になりませんね。

>もっとも、事後チェック型の社会であれば、あとで補償を求めて国や自治体などを提訴すればよい。>その為に構造改革があったはずだ。>すでに訴訟社会のアメリカでは、ミズーリ州が新型コロナウイルスを蔓延させた元凶として、中国政府に対し、賠償を求める訴えを起こしている。> 一方で、裁判沙汰を嫌い「お上」に楯突くことを嫌う日本人に、「お上」を訴えることができるだろうか。

わが国ではお上を提訴すれば、’理屈を言うな’ とお叱りを受けるでしょうね。理不尽な世界に止め置かれますね。我々は、今なお浪花節の世界に住んでいます。

>できないのなら、そこは真面目に「要請」に従うしかない。

我々は、不真面目な真面目人間ですね。

> 引用元:リンク          



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真面目人間 2/3

2020-05-06 04:44:22 | 文化

>356341 日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識-統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが-②  >匿名希望         20/05/05 PM10  
>■事前規制型行政の弊害
>この「行政改革会議」を経て、1998年1月に、政府内に総理大臣を本部長とする「行政改革推進本部」が設置され、その下に「規制緩和委員会」が立ち上がる。>これは翌1999年4月には「規制改革委員会」に名称を変更し、さらに組織が強化される。> 小淵恵三首相に代わった1998年8月には、内閣の諮問機関「経済戦略会議」が組織される。>バブル崩壊後のどん底の状態にあった日本経済の建て直しが急務となったこの会議では、発足からわずか半年後の翌年2月に「日本経済再生への戦略(経済戦略会議答申)」が提出されている。>これらの諮問機関の審議の中で、「事前規制(調整)型」の行政(すなわち、事前にあれやこれやと規制をかけつつ、全体を調整しながら、企業や国民を守って戦後成長を支えた行政姿勢)から、規制を撤廃して自由競争を促進させる「事後チェック型」の行政への転換が求められるようになり、そこで「小さな政府」という言葉が用いられて、米英型の新自由主義社会こそが、日本経済再生の道であると方向づけられていく。

さうですね。自由とは ‘意思の自由’ のことである。しかるに日本人には意思がない。意思がなければ自由にも意味がない。それで、’不自由を常と思えば不足なし’ という状態になる。
意思は未来時制の文章内容である。しかるに、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。しかし、日本人には恣意 (恣意・我儘・身勝手) がある。意思疎通は無いが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) は無いが恣意決定 (盲目の判断) はある。恣意は、ばらばらの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するから文章にならない。だから、意味も無い。それを忖度によりくみ上げようとして談合を開く。腹をくくって決着する。万事がうやむやで推移して、後には何も残らない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>ここでは、自由競争社会で事後チェックと救済の機能を果たすものが、司法であるとされた。>そこで次に司法制度改革が求められた。>2001年6月、「司法制度審議会」が当時の小泉純一郎首相に「司法制度改革審議会意見書&#8195;―21世紀の日本を支える司法制度―」と題する報告書を提出している。>ここで、裁判員制度の導入も提言された。>その中に「改革の基本理念」として、行政改革からはじまる一連の構造改革を以下のように統括するところからはじまっている。> 「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。>統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。(報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向 &#12316; 第1 21世紀の我が国社会の姿」より)」
>ここではっきり「お上」という言葉が記載されているように、国民の統治客体意識とは「お上」に支配されているという江戸時代から染み込んだ国民意識に他ならない。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列判断は日本人には欠かせない。
その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、序列メンタリティ (考え方) が疎かな人であっては、礼儀正しい日本人にもなれない。非国民か外人になる。 


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真面目人間 1/3

2020-05-06 04:17:03 | 文化

>356340 日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識-統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが-①  >匿名希望           20/05/05 PM10  
>新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本全国に「緊急事態宣言」が発令され、国民には外出の自粛、特定の業種には営業の自粛が要請された。

これは、我が民族に課せられた試練ですね。

>ところが、休日になると湘南の海に人が殺到。>慌てた自治体は、地元の駐車場を閉鎖して、県知事が「神奈川には来ないで」と会見で訴えた。>休業要請に応じず営業を続けていたパチンコ店に、大阪府知事は全国で初めて店舗名を公表して、法に基づくより強い要請を出した。> 人との接触を最低7割、極力8割削減することを呼びかけた政府は、その目標に近づけようと、経済団体はじめ、あちらこちらに、とにかく「要請」を出し続ける。> 夜の東京の繁華街には警察官や都の職員らがまわって、帰宅の呼びかけや営業中の飲食店の閉店を求めている。>是が非でも「自粛要請」を徹底しようと、行政側はあの手この手を尽くす。

日本人には自粛が必要ですね。

>なぜ、ロックダウン(都市封鎖)をしないのか――。>欧米諸国のように、市民の外出禁止を伴うロックダウンを実施してしまったほうが、早くて効率的ではないのかと考える読者の方もいるだろう。>しかし、日本にはそうできる法的根拠はない。

法律の不備ですかね。

>■日本の統治機構の歴史を考えてみる >「緊急事態宣言」の根拠となった改正新型インフルエンザ等対策特別措置法には、国民の外出自粛の要請、施設や事業の営業の自粛要請ができるが、そこに罰則規定はない。>あくまで行政から国民への「要請」なのだ。>そこには、日本の統治機構の歴史に染み込んだ国民性が根本にある。

そうですね。わが国には神の意思も無ければ人の意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。

>そもそも、国民に外出禁止や営業停止を強いることは、私権を奪うことである。>強制や強要となれば、戦争に突き進んだ過去の苦い経験が、重くのしかかる。>戦後に制定された日本国憲法とも齟齬が生じかねない。>それが歯止めとなって、罰則のない国民への「自粛」と「要請」で「緊急事態」を乗り切ろうという日本独自の姿勢を貫いている。>そう考えると、強制力行使への抵抗から、法律に「要請」しか盛り込まなかった理由もわかりやすい。

そうですね。強制力には個人の意思が必要ですからね。日本人には、その意思がない。日本人の言動は、事の次第・成り行きにより出現するものですからね。

>だが、それだけだろうか?&#8195; >むしろ、「要請」でも日本人は真面目に従うという、日本の歴史に裏打ちされた統治機構側の無意識が働いていたというべきだろう。>いまから20年前のいわゆる「小泉構造改革」を思い出してほしい。>郵政民営化など、小泉純一郎内閣が取り組んだ政策課題だ。>もっと言えば、新自由主義への転換を目指したものだった。>その一連の構造改革の流れは、もっと前の橋本龍太郎内閣の時代からはじまっていた。>折しも、終戦から50年が過ぎ、バブル崩壊の余波が押し寄せてきていた時期だ。>その最初は、行政改革だった。1996年11月、当時の橋本首相を会長とする「行政改革会議」が立ち上がり、翌97年12月には「最終報告」が取りまとめられた。>そこでは、当時の日本は、第1に黒船来航にはじまる明治維新、第2に1920年代の世界恐慌と軍部の台頭から戦争、第3に敗戦と米軍の駐留、戦後復興に次ぐ、第4の転換期にあると位置づける。>そして冒頭において、行政改革の趣旨としてこう記載されている。> 「われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。(「行政改革会議」最終報告「はじめに」より)」

自律的個人には意思が必要ですね。日本人には、その意思がない。意思の内容は個人個人で違っている。わが国には、その個人主義がない。

>ここに登場する「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質」という言葉。 >すなわち、国がなんでもやってくれるというまさに国家への依存体質であって、国民は統治される側の客体であるという意識が色濃く残っていたことを指している。 

日本人には意思がない。だから、万事が ‘受け身’ の発想になる。統治客体意識の基礎をなしている。


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