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日本社会のしくみ 2/2

2020-05-17 14:53:45 | 文化

>そうした「日本社会のしくみ」は、いつの時代に、どうやって形成されたのか。

日本社会のしくみは、昔昔日本語とともに形成されたのでしょうね。

>それは、他の国のしくみとは、どこがどう違うのか。

日本人の思考には、人間序列があって、個人がない。個性は個人の属性であるから、個人・個性が育たない。わが国には個人主義が根付かない。

> (中略)
>つまり、①何を学んだかが重要でない学歴重視、②一つの組織での勤続年数の重視、という二つが、「日本社会のしくみ」を構成する原理の重要な要素と考えられる。

そうですね。序列重視と序列持続の重視でしょうね。単純ですね。だが、没個性の序列は個性の大敵ですね。  

>またこうした「日本社会のしくみ」は、現代では、大きな閉塞感を生んでいる。

そうですね。個性を封殺された人間は、硬直性・同質性により大きな閉塞感を感じます。

>女性や外国人に対する閉鎖性、「地方」や非正規雇用との格差などばかりではない。>転職のしにくさ、高度人材獲得の困難、長時間労働のわりに生産性が低いこと、ワークライフバランスの悪さなど、多くの問題が指摘されている。

そうですね。序列社会 (上下社会・縦社会) は、序列原理により閉鎖していますね。個人の個性を封殺している事への祟りとでもいうべきものでしょう。 

>しかし、それに対する改革がなんども叫ばれているのに、なかなか変わっていかない。

それは、現在の改革運動が ‘本を正さず末に走る’ 励みからでしょう。

>それはなぜなのか。

日本語の使い方の機序 (mechanism) によるものでしょうね。日本語の階称・言葉遣い (hierarchy) が大きな原因になっています。

>そもそもこういう「社会のしくみ」は、どんな経緯でできあがってきたのか。

日本語の原理に基づく ‘社会の仕組み’ によるものでしょうね。言語は内容を ‘伝える’ 為の道具となるだけでなく、’考える’ 為の道具でもあります。ですから、日本語に焦点を当てて考える考え方が機序の解明に重要なものとなってきます。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。 、、、、、、 ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

> (中略)
> 慣習とは、人間の行動を規定すると同時に、行動によって形成されるものである。

そうですね。序列作法に従って行動する人間たちは、序列人間となって序列社会を形成しますね。

>(中略)行動の蓄積で定着する。>だがいったん定着してしまうと、日々の行動を規定するようになり、変えるのはむずかしい。>人間の社会は、その社会の構成員に共有された、慣習の束で規定されている。

そうですね。階称ある言語を使用する人間は、序列作法から逸脱することが難しい。それが嫌なら、外人になるか非国民になるかしかない。

> (中略)
>これまで労働史などにおいて、日本の雇用慣行の歴史は数多く研究されてきた。 >しかしその多くは製造業のブルーカラー労働者を対象にしたもので、ホワイトカラーの歴史研究は比較的少数であり、官庁や軍隊の雇用慣行は研究対象になってこなかった。 >官庁や軍隊は経済活動ではなく、したがって労働史や経営史の対象外だったからであろう。

労働史や経営史の研究では、日本社会の閉塞性 (硬直的で同質的) は説明できないでしょうね。

>そのため、日本企業の慣行が官庁や軍隊と似ていることが断片的に指摘されてきたにもかかわらず、それが経済史から探究されることはほとんどなかった。 >また官庁を研究する行政学や行政史は、官庁の慣行が民間にどう影響したかには関心が薄かった。

経済学・経済史、行政学・行政史でも、日本社会の閉塞性は説明できないでしょうね。

>二つの学問体系のはざまで、この点は盲点になっていたのである。

そうですね。心理学のような学問が必要ですね。

>また教育学者や経済学者は、日本の雇用慣行における学歴重視を批判してきた。 

教育学でも経済学でも、日本社会の閉塞性は説明できないでしょうね。

>しかし彼らは、日本の雇用慣行における学歴の機能を分析する点において、十分ではなかった。

そうですね。日本社会の閉塞性を説明するためには、文化人類学の観点が必要でしょうね。

>そのため(中略)企業や労働者が学歴を重視したからこそ、職員と現場労働者の平準化がなされたという逆説は注目されてこなかった。

そうですね。日本人の学歴は序列の言い換えにすぎませんね。人間の序列化は没個性の励みの為に欠かすことができません。没個性の雇用慣行が確立して平準化がさらに進行しました。




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日本社会のしくみ 1/2

2020-05-17 11:40:29 | 文化

>349008 日本社会の変化を阻む「しくみ」とは  >匿名希望 19/09/03 AM00 【印刷用へ】
>大きく時代は変化している。

そうですね。現実の世界は千変万化してとどまるところを知りません。

>そのなかで、周りの慣習に合わせて(それで問題なければ何もないのだが)、不整合を感じても流してしまう=流すのが正しいとして、思考することを止めて生きていては、時代に取り残されるだけ。

そうですね。思考停止では困りますね。わが国は、国際社会から遅れますね。’心ここにあらざれば視れども見えず’ ですね。我々は考える人 (the thinking man) になる必要があるでしょう。

>その変化に対応しようとする力や意欲を阻むのは、「硬直的で同質的な」ものが一番集団にとって良いとされる、学校教育なのではないか。

そうですね。わが国の学校教育の機能は、‘人の振り見て、我がふり直せ’ と思考停止をしている人間に呼びかけることですね。

> 「硬直的で同質的…日本社会の変化を阻む「しくみ」の謎に迫る 私たちの「働き方」はこうして生まれた」 

思考停止をしている人間は、自己の安全・安定のために社会の変化を拒みますね。
人の考えの内容は非現実であるから、様々ですね。様々な考えの内容を否定すると硬直的で同質的な社会が出現しますね。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでいない文章は全て正しい考えを示している。人の考えは様々であるから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考え方を示すものとなる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が役に立ちます。だから、我々は対話・議論を盛んにしなければならないでしょう。さすれば、我々の生活方法の選択肢は増えます。

>リンク >――――以下、リンクより引用――――
> 2018年6月21日の『日本経済新聞』に、こんな記事が載った。 >タイトルは「経団連、この恐るべき同質集団」。

日本人の社会は同質集団から成り立っていますね。

>その内容は、経団連の正副会長一九人の構成を調べたものだ。 >全員が日本人の男性で、最も若い人が六二歳。起業や転職の経験者がゼロ。

そうでしょうね。同一の規格により選ばれた人間集団は、同質集団ということになりますね。

>つまり、「年功序列や終身雇用、生え抜き主義といった日本の大企業システムの中にどっぷりとつかり、そこで成功してきた人たち」だとこの記事は報じている。

そうですね。要するに、序列社会の序列人間ばかりで経団連が出来上がっているということの証明ですね。

>この記事は、19人のうち「会長以下12人が東大卒。次いで一橋大が3人、京大、横浜国大、慶応大、早稲田大が各1人だった」とも述べている。>京大をのぞいて、すべてが首都圏の大学卒業生ばかりであることも、この記事は問題だと指摘している。

規格化されて集められた人間たちは容易に序列化できますから取扱いに便利なのでしょう。

>ただし、卒業した大学名は詳細に記されているが、学部や専攻については何も述べていない。

個性的な内容を無視することが序列化に最も必要な条件になりますね。

>学校名は問題だが、何を学んだかは問題ではないのだ。

そうですね。学校名は、学閥作りに必要ですが、その学校で何を学んだかは序列化には意味がない。学校で個人の個性を伸ばしたことは論外になりますね。

>なぜこうなるのか。

それは、万事に序列原理が働いているからでしょう。

>そこには、どういう原理が働いているのか。

‘上と見るか・下と見るか’ の形式的な原理が働いているのでしょう。
日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。世俗的な上下判断ができないと日常的な日本語会話にも支障をきたすほど重要な判断であります。
序列判断に埋没した人間は、全てを人間の序列で結論に導くことになります。日本人は、より高い序列順位の得られる行為を望んで止まない。これを日本人は向上心とか出世欲と呼んでいる。日本人の活動の原動力と見なされています。
わが国のような序列社会でこの世俗的な序列の判断を誤るとひどい仕返しを受けることになります。わが国では、人様にも神様にも祟り (仕返し) というものがある。世俗的な序列判断の誤りにより祟りを受けた人間は自己利益を失うことになる。だから、日本人は ‘人を見損なってはいけない’ と深く念ずるようになる。この想いが皇民化教育の基本になっていました。
日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗的な序列判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。それで日本人社会での信用を失うことになります。だが、こうした世俗的な序列判断は日本国内でしか通用しないので、国際的な人間関係を結ぶときには障害になります。日本人は、序列なきところに礼儀なしですから。 


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