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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

精神年齢

2020-05-10 21:27:51 | 文化

>340807 精神年齢が低い=自分の世界が全て  >匿名希望          18/11/13 PM07 【印刷用へ】
>精神年齢が低いというと、「ワガママを言う」や「好き勝手な行動をする」という特徴がイメージしやすいですが、実際には、対象世界が「自分だけ」、「見える範囲だけ」なので、相手の期待を捉えることができず、仕事の成果が上がらないという欠陥があります。

そうですね。それは、恣意 (私意・我儘・身勝手) でしょうね。

> 仕事の成果も人間関係(そこで育まれた充足体験)と親や学校からの解放度(脱管理度)に規定されるといっても過言ではありません。 >リンクより引用します。
>1精神年齢が低い人の特徴
>・1-1基本的に他力本願
> [精神年齢が低い=中身が子供]ということなのでそのまま年齢だけを重ねると、親がやってくれる代わりに他人がやってくれるのを望みます。

それは、’他力本願・神頼み’ でしょうね。

>・1-2被害者意識の塊
> 自己中な困った行動の根底にあるのは「私は悪くない。私は被害者。私を守って。」という被害者意識になります。

日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は仕方が無いので、無為無策でいる。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   
意思のある人には加害者意識というものがある。意思の無い人には被害者意識しかない。わが国では、一億総被害者であるから、実に恨めしい社会です。

>・1-3自己責任の意識が全く無い
>「周りがそうしろと言ったから」 > 「あの人に言われた通りにしただけ」などと、自分に落ち度が無いように立ち振る舞います。

意思の無い人には責任もない。序列社会 (上下社会・縦社会) では、上意下達が習慣となっている。’上意’ とは、上位の者の恣意のことである。とかくこの世は無責任。

>2精神年齢が低くなる原因
>・2-1両親からの愛情不足
> 子供は親の愛情が感じれないとそれを受け取るために色んな手を模索します。>その注目の集め方として自分が被害者になることによって親からの注目を集めるパターンがあります。

甘えたいから、すねてみせる。ということですね。

>・2-2両親の過保護
> 本当ならば子供の自立を促さなければならない部分も親が干渉してしまい、子供が親に頼りきったまま大人になってしまう訳です。> 社会に出るまでずっと親の判断、親の保護下、親の責任の下で育ってきたので、いざ自分の判断を求められた時に決断できません。

尤もですね。

>・2-3他人と正面から向き合ったことが無い
>自分の気持ちが中心で、自分の感情に支配されて、自分の基準が世の全てだと思っています。

そうですね。自己中心的ですね。

> 本来は他人と向き合う経験をすると「自分の基準は他人には通用しない」というのが分かるはずなんです。

そうですね。何処の国でも恣意は他人に通用しませんね。 

>・2-4自己理解が甘い
>精神年齢が低い人は自分の感情に支配され、ワガママになったり、すぐに感情的になったりします。 > 他人と深く関わるには/相手の気持ち/相手の立場/自分の伝え方/自分の感情などをしっかり考える必要があり、その体験がとても重要です。

同感です。

>3精神年齢が低いとどうなるか
> ・3-1見える範囲が狭くなる
>子供って自分の感情や欲求が全てですよね。 >つまり視点が「自分の感情と今ココ」しかないんです。

そうですね。日本語も ‘今ここ’ に立脚した言語ですね。 フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)  

> 周りにいませんか?仕事や上司などの愚痴しか言わない人。>こーいう人はまず経営者の視点がありません。>人の上に立つ上司の視点もありません。>職場環境も長期的に考えたらプラスかもしれなくても、長い目で見る視点がありません。> 今ココの感情だけで生きているので、今イライラするならそれだけで不幸だと感じます。

同感です。ナウな感じのする人ですね。

(略)



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只ならぬ凄み 2/2

2020-05-10 01:44:01 | 文化

>大衆が相互監視させられながら、権力の思惑に嵌められてしまう。

そうですね。権力者への忖度が、大衆に課せられた務めのようになりますね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  

>事実の追求が歪められれば、権力とマスコミの思うが侭になってしまうということだ。

そうですね。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59) わが国の評論家や官僚は忖度 (推察) という言葉を理解と誤って記憶しているようですね。忖度と理解は似て非なる言葉ですから注意が必要ですね。

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)  

>マスコミと権力が結託すれば、事実の歪曲は容易、人々の意識の潮流も捻じ曲げられてしまう。

日本人には自己の世界観 (world view) がない。だから、自分の考えを基準にした批判精神 (critical thinking) というものがない。そして、反権力の立場に立つことも無い。上位下達に慣らされているからである。わが国のマスコミは権力者に言われたことをただ記事として垂れ流すだけである。だから、各紙ともどんぐりの背比べのような状態になっていて、有力紙が存在しない。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。(p.54) 
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)  

>この私権社会の世論操作との闘い、コロナ騒動から21世紀の社会を展望する事実追求に立ち向かっていきたい。

現実直視を軽視しているわが国の社会においては現実操作がかなり行い易くなっているでしょうね。そうした虚構によりもたらされる国内外の混乱は止められませんね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。


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