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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の特殊性 5/5

2020-05-29 10:42:03 | 文化

>コンセンサス主義は、中枢が既得権益を持つ利害集団に独占され、調整役としてだけリーダーが存在するシステムに道を開くのだ。

そうですね。中枢は談合 (腹の探り合い) により恣意決定 (盲目の判断) をしていますね。リーダーに教養は必要ないですね。だから、わが国では、欧米流の高等教育が成り立ちません。

> 強いリーダーシップは日本では育ちにくい
> いずれにせよ、コンセンサス主義を原則とする日本では、上意下達式の突出した強いリーダーは好まれず、調整役としての役割がリーダーが求められる傾向が強い。

そうですね。無哲学・能天気の人達には突出の指導者は混乱を招きますね。

> 強いリーダーシップを発揮する上意下達式のリーダーが出現した場合でも、「ワンマン」、「独裁者」などとしてとことん叩かれ、ポストから引きずり落とされるのが落ちである。

それは、反個人主義の励みですね。日本人には意思がないからリーダーは恣意の力を発揮することになるでしょう。恣意はどこの国でも迷惑しますから認められませんね。ワンマン・独裁者による人災の危険があります。引きずり落されるのが落ちでしょうね。

>我々がコンセンサス主義に基づく秩序を好む限り、韓国のイ・ミョンバク大統領のようないわゆる強いリーダーはなかなか出現できない状況だ。>またそのような突出したリーダーシップは、たとえばかつてのオバマ大統領がそうであったように、強力な国民運動の支持を背景に出現することが多い。>これがこうしたリーダーの支持基盤となる。 

そうですね。コンセンサス主義は個人主義の敵になりますね。

>だが日本では、そうした国民運動も現れにくいので、これを背景にしたリーダーもやはり現れにくい状況だ。

そうですね。無哲学・能天気の国民では、政治哲学に導かれた国民運動は現れにくい状況ですね。

> 日本のパターン、既得権からの排除と合理性
>このように、意思決定の中枢が既得権益を持つ集団に牛耳られていると、こうした集団の利害と既得権の維持が最優先され、合理的な決定はないがしろにされてしまう。>どんな不合理なことであっても、既得権の維持に利する限り、決定されてしまうのだ。

そうですね。意思決定 (理性判断) の中枢が恣意決定 (盲目の判断) の集団に牛耳られると、こうした集団の利害と既得権の維持が最優先されて、合理的な決定にはたどり着けませんね。

>これは、戦前と戦後にかかわりなく続く日本型システムの特徴のひとつである。

そうですね。戦前も戦後もわが国民は処世術 (現実) に徹していますね。合理主義に基づく ‘あるべき姿’ の内容などは日本人の頭の何処にもありませんね。
国民の教養の低さが、わが国における英米流の高等教育機関 (大学・大学院) のまともな機能を阻害することになっていますね。

>こうしたシステムでは、既得権益を持たない集団は意思決定過程から排除される。

そうですね。既得権益を持たない人たちは常に蚊帳の外。既得権益を持たなければ調節的な利害に直接関係ない。だから、関係者とはみなされない。談合による恣意決定の過程からは排除されますね。

>日本型の権力構造は、このような抵抗集団をいつも生み出すのが常であった。

世界観を持たない人々にはグローバル (全地球的)・ユニバーサル (普遍的) な観点がない。だから、常に既得権益に関する非関係者が存在します。ですから、我が国民の政治音痴は治らない。各人に哲学は必要です。

> 排除された集団は、決定された内容には何の合理性もなく、既得権の維持だけが目的だとして中枢の集団を批判し攻撃する。 >つまり、合理性に訴えた批判を展開するわけである。

そうですね。わが国の政治論争は、’あるべき姿’ に関する論争にはなりませんね。既得権益に関して、持つ者と持たざる者の戦いに変質していますね。低次元が治らない。

>「国民の利益がないがしろにされている」、「省益が国民の利益よりも優先されている」というような、いまよく耳にする批判はこうしたものの一例だ。
>日本の近・現代史のどの局面でも、既得権から排除され、その結果合理性を標榜して抵抗するこうした集団はいつも存在していた。

そうですね。既得権益は現実の内容です。’あるべき姿’ の合理性は非現実の内容の主張です。わが国には、非現実 (考え) の内容を合議により定めて、これにより現実の内容に改めようとする習慣がない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  
だから、非現実を現実にする過程はわが国では失われています。
>-------------------------------------------------------------
>続く
(略)


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日本の特殊性 4/5

2020-05-29 06:13:35 | 文化

全ての意思は文章になる。文章にならないものは意思ではない。そして、意思には意味がある。恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在し、文章にならない。だから、恣意には意味がない。恣意決定により失敗が生じても、説明責任を取ることはできない。日本人には、リーズン (理性・理由・適当) というものがないからである。我々日本人の盲目の判断は、けじめのない社会の根本原因となっている。  
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

>いわば日本の権力の中枢は空白なのである。

意思の無い人たちにとっては、権力は何の魅力も無い。それは、権力が方法 (仕方) として役立たないらである。

>この構造はとても根深く、政治主導のようなスローガンだけでは簡単には改革できないものがある。

そうですね。根が深いですね。機序 (mechanism) の解明がぜひとも必要ですね。
日本語は、’今・ここ’ のみを表す言葉になっている。だから、日本人は現実だけに執着していて、非現実 (考え) の内容には興味・期待を示さない。だから、無哲学・能天気の人間となっている。
日本語文法の枠内では、自己の意思を人に伝えようとする者もいないし、それをあえて求める者も存在しない。’上意’ とか ‘意のまま’ という時の ‘意’ は、日本人の場合は “意思’ ではなくて ‘恣意’ (私意・我儘・身勝手) である。そして、意思の自由は認められても、恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由の履き違い’ として禁止されている。だから、無意思の日本人は、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態になっている。だからスローガンだけでは政治主導は得られない。

>それというのも、日本では会社だろうが、公益法人だろうが、また町内会だろうが、どの組織や団体でも基本的には同じ構造が支配しているからだ。

全ての日本人は、日本語を話しますからね。言語は伝達の手段であるだけでなく、考える手段でもあるわけです。同じ枠組みで考えれば、同じ構造の社会が出来ることになりますね。

>つまり、上意下達でリーダーの決定に一元的にしたがうのではなく、かかわっているメンバーの同意を事前に得て決定するコンセンサス主義である。

俗にいう ‘コンセンサス・デモクラシィ’ ですね。個人主義の無い国の民主主義でしょうね。わが国では、個人の考えの内容に人々は注意を集中できていない。

>たとえ組織の中心者と言えども、事前にコンセンサスが得られていない決定は抵抗が強く通らない。

そうですね。これでは、首相と云えども国の舵取りには不自由しますね。

>最終的にはどんな決定も、関与しているメンバーの利害の調整とバランスを優先させたかたちで行われる。

利害のある者ばかりが関係者で、彼等ばかりをの利害を調整することになりますね。日本人には世界観 (world view) がないから、自己の利害に関係ないことには口出しをしない習慣があります。自己の利益にならない争いに巻き込まれる恐れがあるからであります。藪蛇になることは避けるのが得策です。

>もちろん現場に近い末端の組織であればあるほど、コンセンサス主義はうまく機能することが多い。

そうですね。コンセンサス主義は、実業 (現実) の世界ではうまく作用しますが、哲学 (非現実) の世界では無力でしょうね。’各人に哲学は必要である’ ということは、わが国では信じられていない。Everyone needs a philosophy.  

>上意下達による命令ではなく、メンバーの事前の了解と同意を得ながら意思決定が行われるため、メンバー全員の主体的な協力を容易に得ることができるからだ。 >これが工場などの生産現場で発揮されるとき、現場で製品の改良がどんどん進むため、消費者の好みの変化に迅速に対応できる商品開発が進む。 >これが日本の競争力の強さを支える要因のひとつでもあった。

そうですね。目先・手先の改善は迅速に進みましたね。だが、日本人の政治音痴は治らない。

>しかし、同じ原理が組織の中枢で発揮されるとき、現場や末端とはまったく異なった結果となる。

そうですね。中枢の ’あるべき姿’ (非現実) は哲学で、現場は実学 (技術) ですからね。頭の中の内容 (非現実) と、頭の外の内容 (現実) との差がありますね。


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日本の特殊性 3/5

2020-05-29 05:42:38 | 文化

>しかし、目に見える国民運動がめったに起こらない日本では、こうした政治家が諸外国ほどの勢いを持つことができないので、改革が長続きすることは少ない。

自己の意思を表明すれば当事者・関係者となる。表明しなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、意思の表明は無く国民は常に運動の傍観者にとどまっている。孤高の人々は声なき民である。
意思は未来時制の文章内容である。だが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。意思の表明とか決定には無縁であるので優柔不断・意志薄弱に見える。

>橋下市長と河村市長の運動にはぜひとも期待したいが、国民運動が欠如した日本では諸外国にはない困難があることも事実である。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して昔から疎かであることが書かれています。要するに、日本人は個人の意思というものに神経を集中できないのである。

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り) 

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>続く  >260117 日本の権力構造の特殊性②  >新聞会 12/01/02 PM06 【印刷用へ】  >引き続きヤスの備忘録 歴史と予言のあいだリンクより転載します。
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>失敗した民主党の政治主導
> 政府の政策の意志決定過程を実質的に支配している官僚集団を排除し、政治家が主導権を握るために開始した改革が政治主導であった。

意思の無い人間の政治主導は順調には行かないでしょうね。

>そのようにして民主党は、国民に選ばれた政治家が政策の決定権を握り政策の実行を官僚に指令するという、他の国々では当たり前の本来の上意下達の権力構造を回復しようと試みた。

日本人による猿真似は果たして上手くゆくのでしょうか。海外の常識は日本の非常識です。

>このため政策の立案をすべて政治家の手で行い、官僚の関与を排除しようとした。>しかしその結果は失敗であった。

そうでしょうね。できるものならとっくの昔に実現していたでしょうね。準備不足でしたね。

>官僚は政策立案の専門集団である。>官僚から政策立案の権限を取り上げるためには、官僚に代って政策の立案を行う能力があるスタッフが政治家にはどうしても必要になる。 >こうしたスタッフを集めるためには、それなりの準備期間と時間がかかる。 > 民主党は十分な準備がないままに政権を握り、政治主導を実行した。

‘泥棒をとらえて縄をなう’ でしたね。拙速主義は失敗のもと。

>この結果、たしかに官僚集団の関与は一時的には激減した。>だが、十分なスタッフがいない状況でこれを行ったため、繁雑な事務作業も含め、政策の立案と実行に必要となるすべての作業を政治家自らが行うことになった。

政治家が事務作業に追い回されていては、何のために選挙で選ばれたのか分かりませんね。十分な当てもなく大戦に突入したわが国のようなものか。

>鳩山政権の頃の大臣や副大臣はこうした作業に忙殺され、本来の政治家の仕事がほとんどできない状況に追い込まれた。

準備不足で彼らは自滅したのでしょうね。

> 次の菅政権の頃になると、このような状況にたまりかねた政治家は、実質的に政治主導を断念せざるを得なくなり、官僚集団の関与を認めるかつての状況に戻ってしまった。

本の木阿弥にかえったのですね。

>むしろこれで、政策の立案と実行が官僚集団にどれだけ依存しているかはっきりしたため、政治家の官僚集団に対する依存を深める結果にすらなった。>いまでは政治主導は実質的に骨抜きにされ、既得権益を持つ官僚支配は、逆に強化される方向に向かっている。

日本人は、現実社会から一歩を踏み出すことが難しいのですね。

> 中心が空白の権力構造は日本のどの組織でも同じ
> このように、中枢が既得権益を持つ集団に牛耳られ、すべての意思決定がこうした集団の利害のバランスで決定されるという構造は非常に強力である。>意思決定を行う立場にいる本来のリーダーの権限はとても弱く、利害集団の決定を受け入れ、これのバランスと調整を取る役割を持つにしかすぎない。

日本人には意思がない。だから、意思決定 (理性判断) は不可能である。だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意決定 (盲目の判断) ならば可能である。


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