>しかしながら、「悪」をみんなで叩きのめしたところで、ようやく手に入れたはずの「ただしさ」による安心はやはり永続的ではない。 現実は千変万化していますからね。現実を基準にとった励みによる安心は長続きしませんね。我々は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を基準にとって励むべきでしょうね。 しかし、’あるべき姿’ は非現実 (考え) の内容ですから、時制のある構文により表現する必要がありますね。日本語には時制がないから、日本人には非現実の内容を表現できませんね。それで、我々は無哲学・能天気の状態におかれているのでしょうね。現実のみを語る人は浅薄であって、現実と非現実を合わせて語る人は思慮深い人であります。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) >またじわじわと指の隙間からこぼれ落ちていき、不安が募ってしまう。>結局のところ、いちど「悪」を叩いたらそれで終わりになるのではなく、「自粛」にともなって目減りしていく「相対的な安心感」を補修するために、さらに攻撃性を強めてまた「悪」を探し求めてしまうのだ。 これは、一億総玉砕への道のようなものかな。 > 苛烈をきわめる「感染者叩き」や「自粛違反者叩き」は、感染したことを秘匿したり、あるいは感染者の発症以前の行動を正直に報告したりすることを回避するインセンティブを強めてしまう。>感染経路の把握をより困難にし、社会的リスクをより大きくしてしまう側面もある。 それはありますね。叱られる子供は親に自分の行動の報告をしませんね。一国の隠ぺい工作は世界的リスクをより大きくしますね。 >■「コロナ以外」で死ぬ人を増やしているのかもしれない >今回の社会的混乱は、物事は単純な善悪によって二分することはできないという大きな教訓を与えている。 そうですね。我々は、常に‘清濁併せ呑む’ 必要がありますね。それが人生というものでしょう。 >日本が一刻も早く克服すべき「悪しき伝統」とみなされてきた「ムラ社会的な相互監視と同調圧力」は、さらなる繁栄を目指すウイルスたちにとってはきわめて痛手となっているに違いない。 そうですね。ウイルスたちは、’鬼畜米英’ のようなものでしょうね。 >だが、こうした徹底的な自粛ムードを共有し、「人びとの社会的活動を著しく制限することで、感染拡大のリスク回避を最優先する」ことは、「実体経済の悪化」という代償を支払うトレードオフ[trade off: 相殺する]構造を引き起こす。>いまの社会的なコンセンサスは「自粛に全社会的に協力し、感染拡大を防いでいくべきだ」ということだろう。>多くの人命を守ると同時に、リソースを保全して医療崩壊を防ぐには、他に手はないように思える。 そうですね。 >だがそれは多くの代償を支払っている。>有形無形の差別や迫害を生じさせるだろうし、新型コロナウイルスの感染で死ぬ人は減らせても、経済的リスクによって死ぬ人を増やすことにもなりかねない。>すでに倒産は全国で多数起き始めている。> 私たちはいま「すべてにおいてただしい決断」をしているわけではない。 そうですね。考えの内容は、一人一人違いますからね。わが国の指導者には大所高所に立った判断が必要ですね。 >ある側面を守るために、別の側面を犠牲にするという「苦しい取捨選択」を連続して強いられているのだ。 そうですね。‘あちらを立てれば、こちらが立たず’ ですね。中庸の徳を実現するのは難しい。 >未曽有の混沌のなか、いまこの社会で起きていること、採用された行動。>その光と影の両面を冷静に評価しながら、よりよい方策を模索していくことが望まれるだろう。 そうですね。我らの政治指導者は目下 ‘より良い方策’ を目指して努力中ですね。我々も良策を提案出来たら良いですね。 . |
>356392 なぜ日本人は「自粛しない人」をこれほど攻撃したがるのか >大崎 ( 26 会社員 ) 20/05/07 PM06
>目に見える「正解」をもとめて、そこから外れる人を攻撃する。
現実の内容には正解が一つ存在する。それは頭の外にある。だから、見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容には正解が幾らでもある。考えの内容は人によりまちまちだからである。それは頭の中にある。だから、見ることができない。その内容を知るには文法に従って文章を理解しなければならない。それは骨が折れる仕事である。考えの内容は文章になる。矛盾を含んでいない文章の内容は全て正しい考えを示している。だから、正解は幾らでもある。選択肢は多い。
> 誰しもがコロナ後の社会の「正解」が見えない中、今後必要なのは何が事実化を自らの頭で見極める力。
現実・事実の内容は一つしかありませんね。だが、考えの内容は幾らでもある。だから、それらは全て選択肢となる。よりよい選択肢も人によりまちまちである。だから、指導者の任は重い。
> 以下(リンク )
>■自粛しない人は「犯罪者」「極悪人」とみなされる
>「外出・接触8割減」のスローガンのもとはじまった、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための「自粛」要請。
いよいよ始まりましたね。指導者が自己の意思を示す形式ではなくて、国民が意思をしめす形式ですね。わが国の指導者は優柔不断・意志薄弱なのかな。
>市民社会はその要請に応じ、街は人どおりが少なく閑散としており、閉ざされた店の入口には「一時休業」の張り紙が目立つ。> 現在のところ、政府や自治体から発信されているのは、あくまで「自粛要請」というお願いベースの申し出に過ぎないものである。
そうですね。日本人はお願いが好きですね。神様にもお願い、人様にもお願いですね。自己の意思を示すことがない。他力本願・神頼みか。
>「お願い」である以上、本来ならばこちらにはその申し出を断る自由があるはずなのに、そのお願いを聞き入れなかった者は、まるで社会の法秩序を逸脱した犯罪者・極悪人であるかのようにみなされ、市民社会から「私刑」される。
それは困ったことですね。わが国は、ご唱和の世界ですからね。犯罪者・極悪人の傾向は止まないでしょうね。
自由とは、意思の自由の事であります。だが、日本人には意思がないので、自由そのものにも意味がない。そこで、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態となっています。
意思は未来時制の文章内容である。しかるに日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見えます。
>そのような相互監視的な同調圧力によって、緊迫感と閉塞感が高まりつつある。
そうですね。戦時中のような感じを受けますね。
>■どれだけ「悪」を叩いても、安心はできない
>人びとはいま「悪」に対して過敏に反応し、攻撃性を高めている。
そうですね。人々は勧善懲悪の話は分かりがよいですね。
>「悪」をみんなで攻撃することによって、自分たちは相対的に「ただしい」ことが確認できる。>それで安堵する。>自分たちの社会秩序や社会規範がまだこの社会に有効なのだと。
‘人の振り見て我がふり直せ’ ですかね。日本人の場合は現実が未来に対する目標になっていますね。
>政府や自治体の「自粛要請」に従わない人を過剰にバッシングしたり、感染した人や感染が疑われる人の「落ち度」を探して晒しあげ、差別したりする「コロナ自警団」「コロナ八分」は、まさしくいまこの社会から、人びとがよりどころにしていた安心感が急速に失われていることを示唆している。
そうですね。神様の ‘自粛要請’ には ‘祟り’ (仕返し) がありますからね。信者は決して自由ではない。緊迫感と閉塞感があって恐ろしい。
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