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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

労働生産性  

2022-11-04 17:57:56 | 文化

>東洋経済オンライン   >高学歴化でも「日本の労働生産性が上がらない」謎 オックスフォード大の教授が指摘、海外との差   > 苅谷 剛彦 2022/11/04 14:00  

>大卒以上が増え、高学歴化した日本社会。   

>その一方でイギリス・オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏は、労働生産性も、賃金の上昇も生じなかったと指摘します。   

>いったいなにが起きているのでしょうか。   

>苅谷氏の新著『思考停止社会ニッポン』を一部抜粋・再構成し、ご紹介します。   

 

日本人の思考停止が問題ですね。学問は西洋の修道院から始まった。日本人は哲学と宗教に弱いことが知られているが、この性質が学問の弱さにつながっているのでしょうね。      

 

>下記図に示すように、2007年から17年の間に、生産年齢人口の主軸と考えられる40代の男女雇用者のうち、大卒以上がおよそ100万人増えた。   

>経済学の教科書的知識に従えば、雇用者の高学歴化は人的資本の増大を意味し、社会全体の労働生産性を高める可能性を示す(外部配信先では図や表などの画像を全部閲覧できない場合があります。   

>その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。   

>【図表】学歴と労働生産性の関係   

>その一方で、国際的に見ると日本の労働生産性や実質賃金の停滞が指摘されてきた。   

>この事実に照らすとひとつの謎が浮かび上がる。   

>労働市場が交換の場であり、高学歴化により人的資本の価値が高まれば、労働生産性を高め、その対価である賃金上昇に結びつくはずだ。   

>市場が競争の場だとしても、優勝劣敗=市場における淘汰という原理的な理解を適用すれば、社会の高学歴化は、人的資本市場から学歴の低い人びとの「退場」を促し、それが社会全体の高学歴化に拍車をかける。   

>そして他の先進国では、生産年齢人口の高学歴化が進み、それにともない労働生産性が上昇した。   

>人的資本の高度化が、変化する経済や産業のニーズにマッチした結果と見ることもできる。   

 

そうですね。しかし我が国においては人手不足は存在するが、頭脳不足というものは存在しない。だから、わが国の労働生産性は高学歴化により解決することはないでしょうね。   

 

>非正規雇用の拡大説   

>だが日本ではこの20年、労働生産性も賃金の上昇も生じなかった。   

>なぜか。   

>ひとつの答えは、非正規雇用の拡大説である。   

>非正規雇用では人的資本の価値(知識・能力)を生かしきれず、低い生産性に留まる。   

>だから労働生産性の上昇に結びつかないという説明だ。   

>この説は部分的には正しいが、当たらない面もある。   

>2007年から2017年の間に大卒雇用者(四大卒のみ)のうち、非正規職は約30万人増えたが、正規職も50万人以上増えた(下記図参照)。   

>つまり、正規職でも人的資本の高学歴者のストックが大きく増大していたからである。   

>その分は少なくとも生産性の上昇に寄与したはずだ。   

>日本の教育の質が低いという説もありうるが、それも正しくはない。   

 

賢い人は「純粋によく観察する」が、そうでない人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。   

日本人は思考を停止しているから、結果的に無哲学・能天気でいる。だから、教育の質は低いままにとどまっていますね。    

 

>OECD(経済協力開発機構)が201112年に実施した国際成人力調査(PIAAC)は、日本の成人が読解力でも数的思考力でも1位で、得点の散らばりも小さいことを示した(下記図参照)。   

>この調査は、仕事や日常の生活で役に立つと考えられる成人の基礎的な知的能力を測定することを目的としている。   

>OECDの調査結果が正しいとすれば、日本社会全体の人的資本が国際的に見ても高いことが確認できる。   

>直接の証明は難しいが、日本における学校教育や職場での職業訓練、あるいは自己学習の成果と言えるだろう。   

 

日本には子供の為の教育 (現実を内容とする教育: 実学) はあるが、大人の為の教育 (非現実 [考え] を内容とする教育: 哲学)はありませんね。   

 

>ただ、それが市場における競争や交換を通じて、労働生産性や賃金の上昇には結びついてこなかったのである。   

 

考えを内容とする教育は大人にとって必要なものですね。   

我が国においては人手不足は存在するが、頭脳不足というものは存在しない。知的な要求が皆無な社会ですね。   

 

>開かれた人的資本市場の特徴とは?   

>そうだとすると、別の答えが必要になる。   

>そして、謎解きの鍵は、日本の(閉じた)人的資本市場における交換と競争の関係にある、というのがここでの仮説である。  

 

そうですね。日本人は閉じた人的資本市場を形成していますね。      

 

>思考実験として、人的資本市場(大学入学市場、就職市場、転職市場・昇進市場)がグローバルに開かれているモデルについてはじめに考えてみよう。    

>まず、大学入学市場では、質のより高い学生を求める競争がグローバルに展開している。   

>入学者獲得のグローバル市場に、その国の大学入学市場が組み込まれているということだ。   

>その場合、優れた学生を集めるために、大学間では、よりコストを要する質の高い教育や恵まれた研究教育環境の提供、授業料をめぐる競争が起きる。   

>そして競争力の高い大学ほど、比較的高額の授業料でも質の高い学生を集めることが可能となる。   

>その結果、学生募集や外部資金調達で有利になる、質の高い教授陣を高い賃金を支払って招くことができる。   

>奨学金の給付の面でもその資金力が力を貸す。    

>英語圏の大学で生じる質を高める循環的な現象だ。   

 

そうですね。英語圏は教育重視の社会ですね。    

 

>そこでは、学生市場も教員市場も外部資金市場も国境を越えて開かれている。   

>それだけに、そこでの競争からの脱落は、優れた学生、優れた教員、外部資金の獲得・調達で不利な立場に振り落とされることを意味する。   

>つまり、市場での競争力を持つグローバルな、「ワールドクラス」の大学は、市場での交換において有利な交渉力を持つことになる。   

>その結果が、市場が競争の場になることで生じる不平等である。   

>グローバルな大学ランキングはその表象といえる。   

 

そうですね。大学は競争の場ですね。   

日本の学生は英米流の高等教育について行けない。だから、英米留学に興味を示さない。そして、井の中に閉じこもる。    

 

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)      

 

>これらの大学の卒業生が参入する労働市場でも、求職者はその能力に見合う職をめぐり国境を越えて競争する。   

>学歴やスキルに見合った対価を求めた開かれた競争である。   

 

そうですね。学生市場も教員市場も外部資本市場も労働市場も国境を越えての競争ですね。       

 

>そして雇用主の側は、質の高い人材を引きつけるための賃金や処遇、とくに能力発揮の機会の提供をめぐる競争を繰り広げる。   

>「人材をめぐるグローバルな戦争 the global war for talent(グローバルな人材獲得競争とも訳される)」である。   

>ある文献ではこうした事態を象徴する言葉として、ブリティッシュ・ペトロリアム社のホームページに掲げた次の表現を引用する。

>私たちの目的は、グローバルなメリトクラシー(能力主義)をつくりあげることです。   

>そこでは、あらゆるバックグラウンドをもった人びとが歓迎される。   

>若者、年配者、男性、女性、いかなる人種や国籍をも問わず、身体的な能力によらず、宗教、さらには性的嗜好や同一性を問わずに。    

>P. Brown, S. Tannock, 2009,Education, meritocracy and the global war for talent, Journal of Education Policy,Volume 24, p.380)    

 

そうですね。地球全体の能力主義の建設が目的ですね。     

 

>能力のみが重要な人材獲得の基準   

>人種や国籍、性別といった能力以外の属性は問わない。   

>能力のみが重要な人材獲得の基準だとこのグローバル企業はいう。   

>そして、質の高さをめぐる開かれた人材獲得市場での競争が求人側・求職側の両者で生じれば、優秀な人材=人的資本の獲得は、労働生産性の上昇、したがって企業の収益につながると考えられている。   

>ここでも好循環が想定されている。   

>この市場での競争で劣位に置かれることは、ここでも市場での交換における交渉力の弱さに結びつく。   

>負のサイクルに陥るということだ。   

>逆に優位であることで、優秀な雇用者を雇い入れ、労働生産性の上昇に応じて企業の生産性も高まり利益を生む。   

>それが雇用者の処遇(賃金やその他のベネフィット)に反映し、さらなる循環(より良い処遇の提供による市場での交渉力の優位性)が生じる。   

 

そうですね。   

 

>しかも、こうしたグローバル企業の多くは、内部昇進にこだわらずに、外部から質の高い人材を引きつけ、それに見合う仕事、賃金、処遇を提供する。   

>人的資本市場をめぐるグローバルに開かれた展開である。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)             

 

 

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