>また同時に、日本語のよさが少しずつ見えてきた。
>日本でも最近は、「私が、私が…」と自己主張を繰り返す人が増えたが、欧米・中国、他のアジア人に比べ、他人の立場で考えられる人が多い。
‘他人の立場で’ は日本人の忖度 (推察) の習慣によるものですね。彼らは何処までも押してきますからね。
>日本語の表現自体にそうした国民性を生みだす素地があると考える。
そうですね。素地がおおありでしょうね。日本人は思考停止により無哲学・能天気の状態になっていますからね。つかみどころのない人間になっています。
>日常的に使われている『受け身』(受動態)が日本語の性格、国民性を左右している。
そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。積極性がなくて、消極的である。受け身の発想しかできません。指示待ち人間になっていますね。
>日本語の「受け身」は、助動詞「れる」「られる」で表現する。
>世界的には「受け身」がない言語が多い。
>現代文法の「受身」は、『あるものが他のものに働きかける動作を、受ける側を主役(主語)にして述べること』。
>つまり、「叱る」「押す」「蹴る」「打つ」など、他のものに働きかける動作を示す言葉に、受け身という位置がある。
>ところが日本語は、自動詞でも受け身で用いることがしばしばある。
>日本語の不思議な由来である。
>外国語では受身がつくれない自動詞なのに、日本語では普通に受け身が使われる。
>「 女 房 に 逃 げ ら れ た 」 「 泥 棒 に 入 ら れ た 」 「ああ、先に座られちゃった」 「そこに寝られると通れない」 「そばで煙草を吸われるのは嫌だ」 「あなたに死なれると困る」
>いずれも間接受身で、「迷惑受身」といわれ、日本語にしかない話法です。
そうですね。被害者意識の源のような表現ですね。
>「逃げる」「入る」「座る」「寝る」「吸う」「死ぬ」・・いずれも、他のものに働きかける動作でない。
>「迷惑受身」は外国語に直訳できない。
残念・無念ですね。
>韓国語には、迷惑受身がない、日常でも受け身を使わない。
>「泥棒が入った」の能動表現になる。
>中国語では、動詞を変化させないで、前置詞に『被』を追記して受け身にする。
>「泥棒がうちに入った」となる。
>日本語では、「泥棒が入った」と能動表現するが、自分の家だと「泥棒に入られた」と受け身表現になる。
日本人の被害者意識が表れていますね。
>◆ 責任は私にあるという発想
>中国・韓国で使わない「受け身」を、なぜ日本では多用する?
>己の心に反省(自責)の気持ちが現れる。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。世間をお騒がせしてすみません。ということですね。
>タクシー待ちの場面でも ・・・ 言葉使いから、国民性、文化の違いが現れる。
>日本人が :「(私が)先に乗られてしまった」
>別人の存在に気が付かず迂闊だった、自責の念が感じられる。
>主語(私)を付したらより明白。
>韓国人なら :「あの人が先に乗って行ってしまった」
>相手の行為を非難するばかりで、自分が省みる気持ちは全くない。
攻撃は最大の防御なり (孫子)
日本人と韓国人の言い争いは避けられませんね。
>先の、「泥棒に入られた」の例も同じで、日本人は戸締の管理を反省する気持ちが表現される。
‘月夜に釜を抜かれる’ ですね。
>韓国人なら受身を使わないから、「泥棒が入った。家の管理が甘かった」と 言葉を追加する。
>英語の場合は、明快・単純に気持ちを表現している。
>「財布を盗まれた」 ○: I had my purse stolen. (had+目的語+過去分詞) >「 奥 さ ん に 逃 げ ら れ た 」 ×: I was run by my wife. > ○:My wife left me.
>日本の男性は、女房守ってやれなくて情けないと、自責の念に駆られる。
>それを聞くと、頼りない人に思う。
>逆に能動態にして、「女房が逃げた」だと、 勝手に家を出た悪い女房、可哀相な旦那となる。
>日本語独特の「迷惑受身」は、受けた側にも責任があることを問題にする発想が潜んでいる。
‘世の中お互い様’ ですかね。真の犯人が霞んでしまいますね。
>◆「自発」から「受け身」「尊敬」「可能」の派生
>日本語の「受け身」表現の基本(特長、興味深い)は、「尊敬」「可能」「自発」の意味を、同じ「れる」「られる」の助動詞で表すことにある。
>中学校の学校国語で習った筈だが ・・・
>「受け身」… :先生に叱られる
>「尊敬」…… :社長が来られる
>「可能」…… :野菜を食べられる
>「自発」…… :故郷が思われる
>「れる」「られる」がどの意味かは、前後の文脈で判断するしかない。
>日本語を学習する外国人は、混乱難解の極みである。
日本語は高文脈文化の言語ですから難しい。
>「受け身」「尊敬」「可能」の意味の起源は、すべて「自発」の意味から派生している。
>「自発」は無意識にしてしまうこと、言い換えると、自分超えた存在や力によって自然に起きることを表わす。
そうですね。日本人の生活はアニマルと共に自然の中に溶け込んでいますからね。全て自発ですね。
>この「自発」を起源に、自分を超えた存在や力に敬意を表わす「尊敬」、自分ができないことを超越的な力によってできるようになる「可能」、超越的なもので自分が動かされる「受け身」の意味が、派生して生まれた。
>日本語の世界で、超越的な力を及ほすものは、『神さま』に外ならない。
>日本の八百万の神々は、自然界の神々、実質的には自然そのもの。
神は自発の根源ですね。
>四季に恵まれた日本の風土は、人びとに対する絶対的な畏敬、服従、受け身、の志向を生んだ。
自然崇拝ですね。
>「受け身」に限らず、この志向が、今も使う日常的な言葉の隅々に現れている。
>「なるようになる」 :自分の意思と関係なく、自然に任せた方が上手くいく。 >外人から見たら信仰に近い。
無意思の特徴ですね。
>「他力本願」 :他人任せで自分の意思がない、悪い意味で使われる。
>本来、浄土宗の教えで、自力では極楽浄土できなくとも、南無阿弥陀仏さえ唱えれば、仏様が救ってくれる、が由来。
>「おかげさまです」:日本人の「お元気ですか」に対する返事。
>「お蔭~」は、自然の神仏、ご先祖様の霊を意味する。
>日本人は、神仏、周囲の人々の助けに感謝の気持ちを自然と共有する。
意思のない世界の特徴ですね。
>◆「君を恋する」と「君に恋する」の違い
>現代日本人は、「君に~」と「君を~」の両方を使うが、微妙なニュアンスの違いを余り意識していない。
>日本語を学ぶ外人は、それぞれの心の状態を理解することで、日本語の奥深さを感じる。
>「君を恋する」 :恋がしたくて、自分から相手に恋する気持ち。
積極的ですね。
>「君に恋する」 :君によって、自分が恋に巻き込まれていく感じを表現している。
消極的な感じですね。
>「君に恋する」に類した表現は、韓国語にはない。
>また、英語でも「Love」を使って表現するのも難しい。
>日本の古代、奈良時代まで、「君に恋ふ」と云って、「君を恋ふ」とは云わなかった。
>古代日本人は、こちらから思う心ではなく、自然に相手に愚かれていく心こそが、「恋ふ」と感じられたのでしょう。
>しかし、平安時代に、「に」が「を」に変わり、「人を恋ふ」というのが一般化された。
>こちらから相手を思う心に意味の中心が移って、語法も変化した。
>しかし、「君に恋ふ」感情が核心にあることに変わりない。
>『源氏物語』に、社会的に恋愛関係になってはいけない相手に、止めようもなく惹かれる人の心を様々に描がかれている。
>否定しようにも否定できない、成るようになれと肯定するしかない・・・自然の流れに身を任せる脆い人の心「哀れの美学」を感じる。
>こうした何事にも対する受け身の姿勢が、現代日本人にも受け継がれている。
日本語と受け身は切り離せませんね。
>キリスト教、儒教文化の人も、どうにもならない恋心の苦しさ、心の葛藤は同じである。
>しかし、そのどうしようもなさを、人為を超えた自然の働きに重ねる美学は本人(日本語)だけのものである。
>日常の何気ない言葉にも日本文化の本質が表現されている。
日本文化の本質は無意思ですね。
>■ 所感:
>美しい日本語の背景にある自然感を知れば、難解な[受け身・尊敬・可能・自発]の使い分けが可能になる!
>計算機エンジニアの作成文章で陥りやすい易いのが 【丁寧>自発>可能】の多用で、曖昧な表現になり易い。
>コンピュタ処理に畏怖する言葉を使う必要もない。
>能動態 (自発>受け身を排除) の明快な表現が良い。
>要求定義書・製作仕様書は物創りさせる側の立場、取説は使う側の立場、障害報告はベンダーの立場 ・・で相手を考えた、ストレート・明快な肯定文で、曖昧さを排除した文章が望まれる。
>* 気になる言葉:~が表示される ~が更新される ~出力(入力)される ~処理される ~伝達された ・・・ :~書かれた ~云われた ~報告された ~説明された
>顧客に提出する技術文書で、尊敬・謙遜・丁寧の配慮は、二の次で良かろう・・・明快な文面内容が最優先する。
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