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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

呉善花氏 2/2  

2022-11-16 20:50:18 | 文化

>また同時に、日本語のよさが少しずつ見えてきた。   

>日本でも最近は、「私が、私が…」と自己主張を繰り返す人が増えたが、欧米・中国、他のアジア人に比べ、他人の立場で考えられる人が多い。   

 

他人の立場では日本人の忖度 (推察) の習慣によるものですね。彼らは何処までも押してきますからね。       

 

>日本語の表現自体にそうした国民性を生みだす素地があると考える。    

 

そうですね。素地がおおありでしょうね。日本人は思考停止により無哲学・能天気の状態になっていますからね。つかみどころのない人間になっています。            

 

>日常的に使われている『受け身』(受動態)が日本語の性格、国民性を左右している。   

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。積極性がなくて、消極的である。受け身の発想しかできません。指示待ち人間になっていますね。              

 

>日本語の「受け身」は、助動詞「れる」「られる」で表現する。   

>世界的には「受け身」がない言語が多い。   

>現代文法の「受身」は、『あるものが他のものに働きかける動作を、受ける側を主役(主語)にして述べること』。   

>つまり、「叱る」「押す」「蹴る」「打つ」など、他のものに働きかける動作を示す言葉に、受け身という位置がある。   

>ところが日本語は、自動詞でも受け身で用いることがしばしばある。    

>日本語の不思議な由来である。   

>外国語では受身がつくれない自動詞なのに、日本語では普通に受け身が使われる。   

> 「ああ、先に座られちゃった」 「そこに寝られると通れない」 「そばで煙草を吸われるのは嫌だ」 「あなたに死なれると困る」   

>いずれも間接受身で、「迷惑受身」といわれ、日本語にしかない話法です。

 

そうですね。被害者意識の源のような表現ですね。   

 

>「逃げる」「入る」「座る」「寝る」「吸う」「死ぬ」・・いずれも、他のものに働きかける動作でない。   

>「迷惑受身」は外国語に直訳できない。  

 

残念・無念ですね。   

 

>韓国語には、迷惑受身がない、日常でも受け身を使わない。    

>「泥棒が入った」の能動表現になる。   

>中国語では、動詞を変化させないで、前置詞に『被』を追記して受け身にする。   

>「泥棒がうちに入った」となる。   

>日本語では、「泥棒が入った」と能動表現するが、自分の家だと「泥棒に入られた」と受け身表現になる。   

 

日本人の被害者意識が表れていますね。    

 

> 責任は私にあるという発想   

>中国・韓国で使わない「受け身」を、なぜ日本では多用する?    

>己の心に反省(自責)の気持ちが現れる。   

 

ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。世間をお騒がせしてすみません。ということですね。       

 

>タクシー待ちの場面でも ・・・ 言葉使いから、国民性、文化の違いが現れる。   

>日本人が :「(私が)先に乗られてしまった」    

>別人の存在に気が付かず迂闊だった、自責の念が感じられる。   

>主語()を付したらより明白。

>韓国人なら :「あの人が先に乗って行ってしまった」    

>相手の行為を非難するばかりで、自分が省みる気持ちは全くない。    

 

攻撃は最大の防御なり (孫子)    

日本人と韓国人の言い争いは避けられませんね。   

 

>先の、「泥棒に入られた」の例も同じで、日本人は戸締の管理を反省する気持ちが表現される。   

 

月夜に釜を抜かれるですね。   

 

>韓国人なら受身を使わないから、「泥棒が入った。家の管理が甘かった」と 言葉を追加する。   

>英語の場合は、明快・単純に気持ちを表現している。   

>「財布を盗まれた」 ○: I had my purse stolen. (had+目的語+過去分詞)    > ×: I was run by my wife. ○:My wife left me.  

>日本の男性は、女房守ってやれなくて情けないと、自責の念に駆られる。   

>それを聞くと、頼りない人に思う。   

>逆に能動態にして、「女房が逃げた」だと、 勝手に家を出た悪い女房、可哀相な旦那となる。   

>日本語独特の「迷惑受身」は、受けた側にも責任があることを問題にする発想が潜んでいる。   

 

世の中お互い様ですかね。真の犯人が霞んでしまいますね。       

 

>◆「自発」から「受け身」「尊敬」「可能」の派生    

>日本語の「受け身」表現の基本(特長、興味深い)は、「尊敬」「可能」「自発」の意味を、同じ「れる」「られる」の助動詞で表すことにある。    

>中学校の学校国語で習った筈だが ・・・   

>「受け身」… :先生に叱られる   

>「尊敬」…… :社長が来られる    

>「可能」…… :野菜を食べられる    

>「自発」…… :故郷が思われる    

>「れる」「られる」がどの意味かは、前後の文脈で判断するしかない。   

>日本語を学習する外国人は、混乱難解の極みである。

 

日本語は高文脈文化の言語ですから難しい。    

 

>「受け身」「尊敬」「可能」の意味の起源は、すべて「自発」の意味から派生している。   

>「自発」は無意識にしてしまうこと、言い換えると、自分超えた存在や力によって自然に起きることを表わす。

 

そうですね。日本人の生活はアニマルと共に自然の中に溶け込んでいますからね。全て自発ですね。       

 

>この「自発」を起源に、自分を超えた存在や力に敬意を表わす「尊敬」、自分ができないことを超越的な力によってできるようになる「可能」、超越的なもので自分が動かされる「受け身」の意味が、派生して生まれた。   

>日本語の世界で、超越的な力を及ほすものは、『神さま』に外ならない。   

>日本の八百万の神々は、自然界の神々、実質的には自然そのもの。   

 

神は自発の根源ですね。    

 

>四季に恵まれた日本の風土は、人びとに対する絶対的な畏敬、服従、受け身、の志向を生んだ。

 

自然崇拝ですね。    

 

>「受け身」に限らず、この志向が、今も使う日常的な言葉の隅々に現れている。   

>「なるようになる」 :自分の意思と関係なく、自然に任せた方が上手くいく。    >外人から見たら信仰に近い。   

 

無意思の特徴ですね。   

 

>「他力本願」 :他人任せで自分の意思がない、悪い意味で使われる。   

>本来、浄土宗の教えで、自力では極楽浄土できなくとも、南無阿弥陀仏さえ唱えれば、仏様が救ってくれる、が由来。   

>「おかげさまです」:日本人の「お元気ですか」に対する返事。    

>「お蔭~」は、自然の神仏、ご先祖様の霊を意味する。    

>日本人は、神仏、周囲の人々の助けに感謝の気持ちを自然と共有する。   

 

意思のない世界の特徴ですね。   

 

>◆「君を恋する」と「君に恋する」の違い    

>現代日本人は、「君に~」と「君を~」の両方を使うが、微妙なニュアンスの違いを余り意識していない。   

>日本語を学ぶ外人は、それぞれの心の状態を理解することで、日本語の奥深さを感じる。   

>「君を恋する」 :恋がしたくて、自分から相手に恋する気持ち。   

 

積極的ですね。   

 

>「君に恋する」 :君によって、自分が恋に巻き込まれていく感じを表現している。   

 

消極的な感じですね。  

 

>「君に恋する」に類した表現は、韓国語にはない。   

>また、英語でも「Love」を使って表現するのも難しい。    

>日本の古代、奈良時代まで、「君に恋ふ」と云って、「君を恋ふ」とは云わなかった。   

>古代日本人は、こちらから思う心ではなく、自然に相手に愚かれていく心こそが、「恋ふ」と感じられたのでしょう。   

>しかし、平安時代に、「に」が「を」に変わり、「人を恋ふ」というのが一般化された。   

>こちらから相手を思う心に意味の中心が移って、語法も変化した。    

>しかし、「君に恋ふ」感情が核心にあることに変わりない。   

>『源氏物語』に、社会的に恋愛関係になってはいけない相手に、止めようもなく惹かれる人の心を様々に描がかれている。   

>否定しようにも否定できない、成るようになれと肯定するしかない・・・自然の流れに身を任せる脆い人の心「哀れの美学」を感じる。   

>こうした何事にも対する受け身の姿勢が、現代日本人にも受け継がれている。    

 

日本語と受け身は切り離せませんね。    

 

>キリスト教、儒教文化の人も、どうにもならない恋心の苦しさ、心の葛藤は同じである。   

>しかし、そのどうしようもなさを、人為を超えた自然の働きに重ねる美学は本人(日本語)だけのものである。

>日常の何気ない言葉にも日本文化の本質が表現されている。   

 

日本文化の本質は無意思ですね。   

 

> 所感:   

>美しい日本語の背景にある自然感を知れば、難解な[受け身・尊敬・可能・自発]の使い分けが可能になる!    

>計算機エンジニアの作成文章で陥りやすい易いのが 【丁寧>自発>可能】の多用で、曖昧な表現になり易い。    

>コンピュタ処理に畏怖する言葉を使う必要もない。   

>能動態 (自発>受け身を排除) の明快な表現が良い。   

>要求定義書・製作仕様書は物創りさせる側の立場、取説は使う側の立場、障害報告はベンダーの立場 ・・で相手を考えた、ストレート・明快な肯定文で、曖昧さを排除した文章が望まれる。   

> 気になる言葉:~が表示される ~が更新される ~出力(入力)される ~処理される ~伝達された ・・・ :~書かれた ~云われた ~報告された ~説明された     

>顧客に提出する技術文書で、尊敬・謙遜・丁寧の配慮は、二の次で良かろう・・・明快な文面内容が最優先する。   

 

 

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呉善花氏 1/2  

2022-11-16 20:33:12 | 文化

>『日本の曖昧力』 融合する文化が世界を動かす    >PHP 新書)   

>著者 善花(おそんふぁ) 1956 年生、韓国済州島生、大東文化大・東京外語大院;北米地域研究   

>著書 「蝦夷の韓国 開国の日本」「日本語の心」「韓国人から見た北朝鮮」 ほか   

>冒頭 日本人は「物事をはっきり云わない」「自主性がない」などと非難されることが多い。   

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>韓国出身の比較文化学者の著者は、『むしろ曖昧だからこそ、日本は世界有数の豊かな国になれた』と判断した。   

>これからは世界全体で、調和がとれた人間関係・環境への順応性を生み出す「曖昧力」が必要な時代。   

 

これからは国際的な話し合いが必要な時代です。議論が出来ないといけない。曖昧な態度でいては挫折するでしょうね。   

 

>◆外から見た日本文化   

>国際社会では、自分たちの文化を説いて、認識してもらえることが重要である。   

>日本で通用する感覚・観点をそのまま世界に持出すのは無理がある。   

 

そうですね。   

 

> 世界的な視野で日本文化を大枠で理解する日本人は少ない。   

>日本人は、問題点・悪い面ばかり気にして、恥を感じても、誇らしく感じる機会は極稀である。   

 

そうですね。日本人は極めて窮屈な生活をしていますね。     

 

>責任をはっきりさせない、結論がない、自己主張がない・・・・ これらを欠点と感じている日本人がとても多い。   

 

そうですね。意思がない。責任がない。世界観がない。批判精神がない。自己主張がない。などなど これらは我々日本人の欠点ですね。    

 

>しかし、日本の曖昧さが、今の世界が陥っている限界を切り開き、世界を動かす起動力として期待されている。   

 

それは初耳ですね。  

 

> 食事に誘い「何を食べますか?」:「何でもいい」、商談の場で「この条件でどうですか?」:「考えさせて下さい」と答える。   

 

日本人には意思がない。だから、意思決定の必要な場合には戸惑いをみせる。   

 

>日本人同士だと、直接言葉や態度に出ない相手の心の内を察し、時・場所・状況に照らして相互理解ができる。    

 

それは忖度 (推察) によるものですね。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈によるものですから責任を持つ人がいないですね。       

 

>そのような、曖昧さを察し合う、コミュニケーション文化が日本社会にある。   

 

そうですね。ありますね。   

 

> 日本人に特有な曖昧さが、人と人との親和で平穏な関係を生み出す    

>他の国にはみられない大きな利点で、これからの調和と融合をめざす国際社会では、『曖昧力』の働きが大きな役割を果たす。    

 

そういったこともあるでしょうね。しかし、政治では危険極まりないですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、以下のように述べています。   

日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、一人のナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷免された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。(引用終り)  

 

> 曖昧力は環境への適応性も生み出す    

>『西洋的な自己』(アイデンティティを確定した個)でなく、『日本的な自己』:(曖昧な個)は、変化する環境で生き抜くのに最も相応しい姿を目指すものだと考える。   

 

そうですね。自然界のアニマルがその手本ですね。    

 

>グローバル化が浸透する国際社会では、曖昧な日本人の環境への適応力は非常に大切になる。

 

そうですね。日本人は様子見が発達していますからね。だが、国際社会の指導者にはなれませんね。       

 

> 曖昧さは品格の問題に繫がる    

>得意げの自慢、「いかにもそうだ」の見せ方、そのものズバリの表現は、はしたないと嫌われ、なにげない素振り、それとない装い、遠回しの言い方が、品格があって好ましいと感じられる。   

 

そうですね。奥ゆかしいですね。奥が深くて慕わしい。全ては気分・雰囲気の問題ですね。       

 

> 曖昧力は、美意識や美学にも通じる    

>室町中期の茶人:村田珠光(「わび茶」の創始者)は、「月も雲間のなきは嫌にて侯」(『禅鳳雑談』)といった。   

>満月の煌々と輝く月より、雲で見え隠れする月が好き。    

>日本人にしかない「わび・さび」の美意識は、日立った飾りを排し、清楚で簡素な古びた趣を愛す。   

>「幽玄」は、隠され秘した姿・形から深い感動を覚える。   

>「いき」は、派手な柄を嫌い、一見無地とも見える細かい紋様を一面に染めた小紋を好む。   

>日本では目に鮮やかな原色より、微妙な表現を持つ水墨画や、しつとり沈んだ中間色が好まれる。

 

そうですね。霞んでいるのが良いようですね。大気中の水蒸気の量に関係があるのかな。        

 

>「四十八茶百鼠」茶色:80、鼠色:70種類の色。    

>中間色も微細なゆらぎを湛えた色の曖昧な世界が豊かに広がる。   

>姿・形は、完全な均衡や左右対称を嫌い、わずかに壊した動きある状態を好む。   

>正形・正統性に対して軽妙な崩しをする。   

>空間を飾りで埋め尽くさずに、空白・余白を残す。    

>規則的でない、不定で流動的な動き、遊びやゆとりのある動きを好む、曖昧さの美学がここにある。   

>そして対立とは正反対の融和する文化の姿を感じ取ることがでる。   

>自然科学や情報科学の面でも、曖昧さ、ゆらぎ、ファジイ、多義性の探求は、先端テーマである。   

>日本文化はその曖昧さゆえに調和・融和の圧力が働く。   

>日本文化は対立に飽きた世界を根本から変え得るパワーであり、『曖昧力』を豊かに湛えた文化といえる。  

 

馴れ合いの文化ですね。   

 

> 日本語独特の表現 「泥棒に入られた」 (迷惑受身)    

>温泉に行きたいと、『何処どこの温泉はいいらしいね』 と云う。    

>西洋人は、曖昧な表現にイライラする。   

 

高文脈文化と低文脈文化の違いによる禍ですね。    

[高文脈文化と低文脈文化の比較の例]

《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /

《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語  / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)

 

>相手の日本人は、『なんで私の気持ちを察してくれない……』 と、ストレスがたまってしまう。   

 

忖度 (推察) は他力本願・神頼みの方策ですね。   

天は自ら助くる者を助くゆきたいものですね。   

 

>英語と日本語の成り立ちを比較・研究した。   

>互いの意見をぶつけて議論する「ディベート」を、日本語で行うには無理があることに気づいた。    

 

日本人は思考を停止していますからね。自己の内容をお互いに見せ合って議論することはできませんね。   

 

 

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