>東洋経済オンライン >人は集まるが意見が集まらず日本的会議の大問題 会議は「トップやリーダーの話を拝聴する場」に > 宮本 剛獅 2022/10/19 08:30
(略)
>これは外資系企業では、ごく当たり前の会議に対する考え方ですが、日本の会社では、反対意見を言おうものなら上司に反抗していると受け取られてしまう風潮があり、余計な発言をしないことが不文律になっています。
‘雉も鳴かずば撃たれまい’ ということですね。
>会議がトップやリーダーの意見を拝聴する場になっていますから、これでは「余計なことは言うな」という雰囲気になるのも無理はないのです。
そうですね。我が国の伝統である有難いお説教の拝聴ですね。
>社内の定例会議などでよくある光景ですが、日本の会社では、ずっと黙ったままの出席者が多い会議も珍しくありません。
自己の意見のない人は出席に力を入れるしかないですね。これにより自己の仲間外れを防ぐことができます。
>たまに意見を求められても、何の根拠も示さずにイメージだけで発言したり、相手の意見を批判することが議論だと勘違いしているなど、会議の目的をきちんと理解していない出席者が多い会議も普通にあります。
自分に意見のない人は歌詠みになるか、それとも批判に徹するしかないですね。いずれにしても建設的なものにはなりませんね。
>無意味な会議ほど、退屈でムダなものはありません。
>こうした会議を繰り返していると、徐々に毎日の仕事がつまらなく思えてきます。
>現在の会議のままでいいのか、それぞれの立場で改めて見つめ直す必要があります。
日本人は思考を停止している。これを直さないと会議は現在のままで永続しますね。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
(略)
>部下を「下」と見ているから
>部下に何らかの非があった際、超一流が優先するのは「それがダメな理由」を理解させることと「対応策」を検討することです。
>「本当はどうすべきだったのか?」を一緒に考えることで、同じ失敗を繰り返さないための具体的なプランを作り、部下と共有するのです。
>「謝る必要はないから、なぜそう考えたのか、本当はどうすべきだったのか、これからはどう対応すべきなのか、そこを冷静に詰めておこう」
>頭ごなしに怒鳴られれば、部下は反省するどころか、反感を持つだけですが、紳士的な対応で一緒に善後策を検討できるのであれば、反省もするし、改善点も真剣に考えられます。
そうですね。
>部下を会社の「後輩」とか「下の者」と見るのではなく、同じ会社で働く「同志」と考えられるようになれば、感情に任せた雑な扱いはできなくなります。
同志は紳士的対応をしますね。礼儀正しい日本人は上下作法に徹しますね。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
>大人の対応を日常的に繰り返していけば、部下も自然とやる気になるのです。
そうですね。上下世界よ、さようなら。
.