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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

黒川清氏  

2022-11-05 17:50:12 | 文化

>プレジデントオンライン   >なぜ東大医学部の教え子は爆弾魔になったのか…「日本の偏差値エリート」が抱える根本的な欠陥   > 黒川 2022/11/05 10:15  

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>日本のエリートにはなにが足りないのか。   

>東京大学名誉教授の黒川清さんは「大学入試に合格するための勉強しかしておらず、自分の頭で考えることが少ない。   

 

そうですね。日本人は思考を停止していますね。   

 

>それが知的なもろさにつながっている」という。   

>黒川さんの著書『考えよ、問いかけよ 「出る杭人材」が日本を変える』(毎日新聞出版)からお届けする――。

>アメリカで痛感した日本の大学との決定的な差   

>1973年にUCLAの医学部内科助教(Assistant Professor of Medicine)に、1974年にはUSC(南カリフォルニア大学:University of Southern California)医学部内科准教授(Associate Professor of Medicine)になりました。   

>教員になると講義を受け持つことになります。   

>私も150人近い医学生を相手に講義を行うようになりました。   

>日本の教員の中には「学生による授業評価」に批判的な人も多いのですが、アメリカの教員は学生に評価され、その評価が自分と内科のチェアマン(主任教授)に届けられ、定期的に査定が下されることが当たり前です。   

>私自身は英語で話しているつもりなのに、何人かの学生からは「Dr.クロカワは日本語でしゃべっているので、講義の内容が全然わからない」と酷評されたことがありますし、一方で、授業の内容について「工夫がされていて非常にわかりやすかった」と評価する学生に励まされることもありました。   

>授業がつまらないと、学生はどんどん教室から出て行ってしまいます。   

>学生の評価が低ければ、それがどんな地位の人間であろうと大学からは切られてしまいます。   

>ですから、教員は「どのような講義をすればよいか」を必死で考えて、ときにはほかの教員の授業にも出て参考にします。   

>それが自身の価値を高めることにつながります。   

>日本の大学では軽視されがちな「教育に対する評価」ですが、このような直接的なフィードバックは教員にとっては非常に大切なことだと強く感じました。   

 

そうですね。   

 

>違和感を覚えた「東京大学的ではない」という言葉   

>1978年には私はアメリカの内科専門医と腎臓内科専門医の資格を持っていましたから、研修医を複数入れたチームを率いて、毎日、患者の回診も行っていました。   

>この研修医たちの評価も、すぐに査定に影響します。   

>研修医も2年目、3年目となると勉強を重ね、知識も豊富ですので、私も彼らに負けないように、『NEJM(ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン:The New England Journal of Medicine)』や『Lancet(ランセット)』といった主要な医学雑誌には毎週すべて目を通し、知識をアップデートし続けました。   

>このように、私は日本の組織から独立した個人として、アメリカの大学で医師として研究、臨床、教育に従事し、キャリアを積み上げ、1977年にはUCLAからオファーがあり医学部内科准教授に、1979年には同内科教授(Professor of Medicine)になりました。   

>既定路線を進まず、組織の看板を背負うこともなく、個人として他流試合を続けていた私の履歴は、日本の保守本流から外れているものだったのかもしれません。   

>当時、東京大学の医局でのキャリアを捨てて、その経歴がまったく通用しない海外に出ていく選択をした人は極めて少数だったはずです。

>実際、帰国してから日本の大学人にはよく「東京大学的ではない」と言われました。   

>東京大学関係者からも「ズレている」と言われたこともあり、「なぜそんなことを言うのだろうか」と不思議に思うこともありました。   

 

あなたが序列人間の流儀に従っいてないからでしょう。   

 

>世界の一流大学は「個人」をフェアに評価する   

>アメリカの大学では、個人のプロフェッショナル意識が強く、競争はとても激しく、息つく暇もありません。   

>トップアスリートの間で世界ナンバーワンの座がめまぐるしく入れ替わるのと同じように、努力を続けて自分の価値をさらに高めていかなければ、より優れた人材にすぐにポジションを奪われ、他大学に移るか開業するかなどの選択を迫られます。   

 

その競争は序列人間の日本人には耐えられないことですね。日本人には安全第一ですからね。      

 

>ポストを得たからといって、日本の大学のようにその後の人生は安泰とはなりません。   

>それは単なるアカデミックなランクであり、それだけで大学がお金をくれるわけではありません。   

>私が内科教授になったときも、内科のチェアマンに呼ばれて、「教授就任おめでとう。   

>ところで、あなたはどうやって稼ぐの?」と言われたものです。

>ですから、アメリカの大学の教員はそれぞれが自分の収入と研究費を維持するために、猛烈なプレッシャーの中で日々の努力を続けています。   

>そして、そんなハードな他流試合の中でよい仕事をしていれば、経歴や国籍、所属組織に関係なく、評価されるのもアメリカの社会です。   

 

そうですね。アメリカは人種の坩堝ですからね。    

 

>ですから、アメリカの大学には、能力を純粋に評価された30代や40代の若い教授が大勢いるのです。

 

学閥の日本人には少し違和感がありますね。アメリカの社会は能力のある者から利益を得る社会ですね。       

 

>私の最初の留学先のボスであるハワード・ラスムッセン博士も、医師であり、43歳という若さでペンシルベニア大学の生化学のチェアマンになった方でした。   

>ちなみにこの博士も、他の大学に3回ほど移っています。

 

そうでしょうね。アメリカには同一序列にとどまって順位待ちをするという風習がありませんね。   

 

>研究室に所属したらボスの手足となって滅私奉公し、気に入られたらやがて空いたポジションをもらえる――そんな日本のアカデミアと比べ、なんとフェアなことでしょうか。

 

フェアがよいですね。日本は我田引水ですからね。   

 

>母校・東大医学部の助教授になる   

>アメリカで他流試合を続ける中で、私の価値観は大きく広がりました。   

>そして、特に意識したわけでもないのですが、日本の大学の保守的な価値観に、いつしか疑問を覚えるようになりました。   

 

そうでしょうね。日本人は井の中の蛙ですからね。    

 

>アメリカの大学でどれだけキャリアを積もうとも、日本の大学は評価しません。   

>むしろ、既定路線を外れて大学を飛び出すようなことがあれば「裏切り者」のように扱われかねない時代でした。

 

我が国では、序列外の人は非国民・外人ですね。   

 

>アメリカで血の滲むような努力を続けて教授の地位を得ても、日本の組織には貢献していないのですから、帰国後は東京大学の医局でどう扱われるのだろうかなどと真剣に考えたりしました。   

>日本に戻れば、また入局の年次から始めることになります。   

>アメリカでのキャリアを積めば積むほど、日本には帰りにくくなっていきました。   

 

そうでしょうね。   

 

>それなのに、私はアメリカで教授になって4年が過ぎた1983年の暮れ、突然、東京大学の恩師の尾形悦郎先生との思わぬご縁と説得で帰国し、東京大学医学部第四内科の助教授(准教授。当時は教授―助教授―講師という制度だった)になりました。   

>といっても、大変な恩のある先生の説得を無下に断るわけにもいかなかったからで、1年ほどでアメリカに戻るつもりでUCLAのポジションもキープしてありました。   

>優秀な学生がいつの間にか腐ってしまう   

>しかし、14年ぶりに自分の母校である東京大学やその学生に相対したときに、「とても優秀なのに、その将来を考えると、このままではまずい。   

>今のままでは日本には真のエリートが育たないだろう」という強い危機感を抱き、考えが変わってきたのです。   

>入学した頃はアメリカの学生にも負けないほど優秀で意欲もあるのに、しばらくたつと、みんないつの間にか「腐って」しまう。   

>すなわち、年功序列的な考えにしばられ、ヨコに動けなくなり、能力を発揮できなくなるのです。    

 

そうですね。これは日本人社会の縮図ですね。    

 

>東京大学医学部の学生は、日本社会ではトップエリートとみなされています。   

>たしかに、彼らはよく勉強ができます。   

>知識もあります。   

>しかし、私が見る限り「世界の中の日本」という枠組みの中で自分が何をやりたいかということに気づいていない人が多いのです。   

 

日本人には世界観が在りませんからね。どうしても視野が狭くなりますね。      

 

>激しく変化し続ける世界の中で、自分は何をしたいのか、世界から見える日本を感じ取る感性を持ち、世界の中での出来事を自分のこととして考えられる、自分の道を追求できる、そんな「独立した精神」を持った学生がとても少ない。   

 

自由とは意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。だから、自由自体にも意味がない。それで、不自由を常と思えば不足なしと思っている。    

 

>大学に入った頃は学力においてはアメリカの学生とそれほど変わらないのですから、日本の高等教育のやり方や社会の制度等々において、アメリカとの間に大きな差があることは明らかでした。   

 

そうですね。わが国では英米流の高等教育が成り立たない。日本人には英米人の教養に相当するもの (哲学) がない。    

 

>私は「独立した個人」としてアメリカに長く出ていたことで、客観的な視点を持ち、日本を相対的に見ることができるようになっていました。   

>日本の強みと弱みがよく認識できるようになり、それに伴い私の中には「健全な愛国心」というものが生まれていたようです。   

>そして、やはり自分の生まれ育った国ですから、日本に腰を据えて若者の教育に携わろうと決意したのです。   

 

殊勝な心がけですね。   

 

>教育者として大きな挫折   

>私は、若い人たちに自分のやりたいことに早く気づかせ、個として独立させることが教育者の仕事だと考えています。  

 

‘Independent!’ (自主性がある) アメリカ人の子供に対する褒め言葉ですね。   

 

>特に「大学教育の目的は何か」ということを大事にしたいと思っています。   

 

大学教育は人間が大人になる為の教育ですね。自分自身の哲学を作って完成させる過程ですね。各人に哲学は必要である。        

 

>これは、留学先のペンシルベニア大学で私に三つの教えを授けてくれた恩師から学んだことです。

>帰国してからは、例えば若い医師たちには臨床、研究、教育をまんべんなく学ばせたうえで、どこに重点を置くのかは自分で選べるよう気を配りました。   

>研究でも、日本の大学の多くがそうであるように、教授がテーマを与えるのではなく、学生が自分でテーマを考えられるように指導しました。   

>アメリカで開催される学会に出席させて同様の研究をしているライバルを会場で紹介し、競争意識を高めるということもしました。   

 

競争意識は大切ですね。人類発展の基ですね。     

 

>帰国から6年後には、古巣である東京大学第一内科の教授に推挙されたことも後押しとなり、私はいつも「世界の中の日本」という枠組みで自分の責務を捉え、行動し、日本社会や日本の大学の未来の教育システムの在りようについて、大学の内外でよりいっそう発言をするようになりました。   

>優秀な研修医は大学をやめ、実行犯になった   

>東京大学第一内科で教鞭をとっていた時代には、教育者として大きな挫折も経験しています。   

>1995年にオウム真理教が起こした事件の実行犯の中に、私の教え子がいたのです。   

>東京大学を卒業した研修医で、とても優秀な学生だったのですが、内科の臨床研修の1年目の途中で「どうしてもやりたいことがあるので、辞めたい」と私に伝えに来ました。   

>何をするのかを聞いても、「今は言えません」と口をつぐんで決して話そうとはしません。   

>私は、「それが自分の本当にやりたいことならいいけれども、もし1年たって気が変わったら連絡してきなさい。   

>研修を再開できるようにしてあげるから」と言うしかありませんでした。   

>彼の普段の言動や性格などから、演劇や音楽でもやるのだろうか、といった程度のことしか頭に浮かびませんでした。   

>彼がいなくなって1年半後、オウム真理教が東京都庁に小包爆弾を送り、これを開封した職員が左手のすべての指と右手の親指を失うという事件が起きました。   

>後で知って愕然としたのですが、その真面目で優秀だった研修医が事件の実行犯の一人だったのです。   

>彼には懲役18年の刑が下されました。   

>私はご両親とときどき話をし、刑務所の彼に本を送り、控訴審では弁護士に頼まれて証言台にも立ちました。   

>最終的に、刑は15年に減刑されたと聞いています。   

>自分の頭で考えられない「日本の偏差値エリート」のもろさ   

>証言台に立って彼の眼を見たときの、あのゾッとした感覚を忘れることができません。   

>そこには自我がまったく存在しないように思えました。   

>「人はこんなにも変わってしまうものなのか」と、オウム真理教の狂気とそれに呑まれたエリートの変わりようを恐ろしく感じました。   

>医学部生という人の命を救うことを生業にしようとしていた優秀な若者が、なぜ人の命を奪おうとする凶悪な犯罪を引き起こしてしまったのか。   

>ここにも日本の教育が影響していたように思います。   

 

そうですね。日本人は思考を停止していますから、無哲学・能天気の状態にありますね。洗脳を受けやすい状態ですね。      

 

>偏差値を重視した全国一斉の筆記試験、つまり日本の大学入試に合格するための勉強をするばかりで、物事の善し悪しを自分で考えてこなかったからでしょう。   

 

日本人には世界観 (非現実) がない。だから頭の中に現実と照合して判断を下す基準 (非現実) が存在しません。それで、良し悪しの判断が下せない。日本人は哲学と宗教に弱いといわれています。          

 

>そして、入試に合格した後も、日本に真の大学教育がなかったことから、自分の頭で考えるということが身につかなかった。

>自分の頭で考えられないから、パーリ仏典やらチベット密教といった既存の宗教の寄せ集めでつくられた教義を鵜呑みにし、上から言われるままに凶悪な犯罪すら実行してしまったのです。   

 

そうですね。彼らは人の受け売りと後追いに熱中していましたね。哲人とは逆な道を歩いた人たちでしたね。       

 

>「日本の偏差値エリート」の知的もろさともいえます。   

 

そうですね。一段と水準の低い人間ですね。わが国では、難関出身者として幅を利かせていますけれどもね。いかにも後進的ですね。          

 

>彼一人なら「特殊な事例」だったと捉えることもできるでしょうが、オウム真理教信者には一流大学卒のエリートとされる人たちが大勢いました。   

 

オウム真理教は難関出身者の得意分野なのかもしれませんね。彼らは筋金入りの人間になっていました。       

 

>そのことに私はショックを受け、教育者としての自分の責任を強く感じました。   

 

わが国の教育者は目覚める必要がありますね。   

 

>教団は多くの死刑囚を出し、すでに全員の刑が執行されていますが、その中にも多くの優秀な頭脳を持つ若者が含まれていました。   

 

惜しいことに彼らには英米流の教養 (哲学) がなかった。この現象はわが国の国語と深い関係がありますね。      

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

死刑囚の刑が一斉に執行されたというニュースを見ながら、「日本の偏差値神話は完全に終わった」と思ったものです。   

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

 

>世界の一流大学が最も重視していること   

>私は若者たちに賢慮――倫理の思慮分別を持って最適な判断行為をする実践的な知恵を持つ人間になってほしいと思っています。   

>ですから、私は若者たちに常々、「他流試合に身を投じなさい」と言ってきました。   

>これは、優秀な人材を育成している世界の「一流」といわれる大学で、最も重視されていることです。   

 

対話・議論は大切ですね。    

 

>欧米の一流大学の多くは、この数十年で学部教育を大きく変化させ、意図的に海外や異文化といった多様な背景の人材を混ぜ合わせるということをしています。   

>これは、学生と教師に多様性の中で常に他流試合をさせるためです。   

>例えばアメリカでは、まず学部で理系や文系といった区別なくリベラル・アーツを学んだ後に自分の学問分野を選び、勉強したうえで卒業します。   

 

アメリカでは高度な職業人には教養が必要と考えられていますからね。教養課程を卒業した人に大学院 (専門教育) を受験させる制度になっています。   

 

>そして社会人となってからロースクールやビジネススクール、メディカルスクールといった専門の大学院に進みます。

>このとき、大学院は自校の学部出身者を採用しないのが基本です。  

 

これは身びいき・我田引水をさけるためですね。   

 

>別の大学の卒業生や他国からの留学生を積極的に受け入れ、さまざまな学部卒や出自の違う人材を混ぜ合わせるということをしています。   

>男女比についても同様の取り組みが行われています。   

>ハーバード、ケンブリッジ、スタンフォード、プリンストンなど、世界のトップとされる大学の学部生の男女比は、ほぼ11   

 

これは学部における男女共同参画社会ですね。    

 

>さらに、2021年時点で、アメリカのアイビー・リーグ8校(ハーバード大学、コロンビア大学、プリンストン大学、イェール大学、ブラウン大学、ペンシルベニア大学、ダートマス大学、コーネル大学)のうち、ブラウン大学、ペンシルベニア大学、コーネル大学の3校は女性が学長です。

>日本の中で閉じこもってはいけない   

>一流とされる大学がこのような努力をし、多様性を実現させているのは、世界がよりグローバル化する今の時代、大学に多様な属性の学生が集まれば、大学の教育や研究力も多様性を増すという常識があるからです。   

>多様な人材が集う大学では、学生は他者と自身を比較する機会に恵まれ、自らの長所や短所に気づきやすくなります。   

>また、優秀でない学生も優秀な学生から学べる機会が増えますし、個人の特性や能力についての評価がより広いコミュニティーで共有もされます。   

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>一方、日本の大学では多くの学生が同じ大学の学部、大学院で勉強をします。   

>学位をとった後も、同じ研究室に5年、10年といることはめずらしくありません。   

>ほかの大学の学生や人材と混ざり合うことはかなり少ないでしょう。   

>逆に、混ざり合わない方がいいとする風潮すらあります。

 

白は白同志、黒は黒同志の社会ですね。ありますね。      

 

>他流試合に対して、「格差が広がるのではないか」という否定的な見方をする人もいます。   

>「厳しい競争においては、個々の能力の差がより明確になり、それが結果として貧富の差を生むことになる」と考えるようです。   

>実際、すでにアメリカでは、個人の能力の差、貧富の差は拡大し、社会は二極化しています。   

>そして、それらの格差は、次世代に再生産もされています。   

>現実として、知能は親から子へとある程度遺伝し、その発達の過程においては環境に大きな影響を受けます。   

>知的能力が高く、社会的地位があり、経済力のある親のもとで育つ子どもは、より豊かな学びの環境が与えられ、それが遺伝的な能力の高さを押し上げるのです。   

>日本には「個人の才能」を伸ばす教育が必要だ   

>アメリカは、人種も価値観も宗教も違う多彩な移民たちが集まった国だからこそ、格差も容認できるのかもしれません。   

>反対に、コミュニティーの均一性の高さを尊んできた日本の社会からすれば、このような格差が生じる仕組みは心情的に受け入れがたいのかもしれません。    

>しかし、老人たちが好む「古きよき日本」にしても、決して格差がなかったわけではありません。   

>江戸時代には強く固定された身分制度があり、明治以降にしても、大学に入学した時点で、その後の社会的地位が決まり、それが所得格差につながっていたはずで、「一億総中流」の意識が国民に根づいたのは、高度経済成長で国民の生活レベルがある程度均質に向上した近年のことです。   

>ここ数十年に起きた世界のグローバル化によって、日本がつらい時代を迎えているのはたしかです。   

>しかし、世界の多様さに気がつかないふりをし、他流試合を封じ、鎖国したような状態の国の中で極端な「弱者救済システム」にこだわり続けている点は改めるべきでしょう。

 

そうですね。護送船団方式には限界がありますね。    

 

>実力主義にもとづく激しい競争社会が、必ずしもベストというわけではありません。   

>しかし、世界のグローバル化が止まらない以上、日本もその変化に対応していかなければ国際社会の中で生き残ることはできません。   

>貧富の差がよくないのはたしかですが、能力の差までを否定し、個人の能力を伸ばす教育を行わない、高等教育機関である大学がそのための環境を十分に整えないというのは間違いです。   

 

大学入学が大人を子供の時代に押し込める方策になりますね。   

 

>人はそれぞれ違う適性や能力を持っています。   

>それぞれが己のキャリアを自分で選択し、持っている能力を最大に活かせるような社会であるべきです。   

>そのような社会を実現する日本独自の新しい教育システムを創り出すことこそ、日本の真のエリートに求められる役割でしょう。   

 

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)          

 

>---------- 黒川 清(くろかわ・きよし) 東京大学名誉教授 1936年、東京都に生まれる。   

>1962年、東京大学医学部卒業後、同大学院医学研究科修了(医学博士)。   

>東京大学医学部附属病院などでの勤務を経て1969年、渡米。ペンシルベニア大学医学部生化学助手などを経て、1979年、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)医学部内科教授に就く。   

>1983年に帰国し、東京大学医学部第一内科教授(1989年)、東海大学教授・医学部長(1996年)、総合医学研究所長(2002年)などを歴任。   

>著書に『世界級キャリアのつくり方20代、30代からの〈国際派〉プロフェッショナルのすすめ』(石倉洋子氏との共著、東洋経済新報社、2006年)、『大学病院革命』(日経BP社、2007年)、『イノベーション思考法』(PHP新書、2008年)、『規制の虜 グループシンクが日本を滅ぼす』(講談社、2016年)などがある。    

>----------  

 

 

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