山本七平は「『空気』の研究」のなかで、日本人のメンタリティの欠点を指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
これは、’意思’ (will) 対 ‘恣意’ (self-will) の問題である。
明確な根拠に基づく ‘意思’ の方は、文章で表すとかできる。だから、矛盾が淘汰でき、正しい考えになる。
根拠はもっぱら空気とする ‘恣意’ (私意・我がまま・身勝手) は、文章で表すことができない。文章に表せないものは、考えでない。矛盾でもない。
恣意は、文章にはならないから、考えの埒外である。だがしかし、それは気分・雰囲気となって現実に現れる。そして、その場の空気を読む人たちにより察知され、大きな感動を与えるものとなる。
意思は、未来時制の文章内容であり、非現実の内容である。この現実離れをした内容は日本人に親しみが無い。
一方、気分・雰囲気は現実の内容であるから、実況放送・現状報告の内容となる。かようなわけで、日本人の最終的決定は現実に流されざるを得ない状況にある。無言の圧力を受けているというのか。浪花節の内容か。これは、時制のない現実肯定主義の欠点である。その理由は、付和雷同して正しい考えを見捨てるからである。
理解ができないときには、’訳が分からない’ という。日本人のいう ’訳’ (わけ) というのは、事の次第・成り行きのことである。実況放送・現状報告の内容 (things-as-they-are) である。だから、確たる行動指針にはならず、日和見主義になる。他人からの信頼を得ることが難しい。
英語のリーズン (理由・理性・適当) は、それとは違って、あるべき姿 (things-as-they-should-be) のことである。日本人の口からは、この時制に基づくリーズンは出てこない。
哲学を示して、その実現の意思を自ら示す。この誓いが人々の信頼を勝ち得る方法である。
日本人には哲学が無いから、政治家にも政治哲学が無く、’あるべき姿’・’行き着く先’ (大同) を示せない。それで彼らは政治音痴になる。議員は小異にこだわり離合集散を繰り返し、処世術を頼りにして、恣意で行動する。
日本人には意思がない。意思決定に難渋している。だから、無為無策でいる。座して死を待つ。挫折する。意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way) ‘意思が無ければ、挫折もないのではないか’ という人もいるが、挫折はある。意思はないが、恣意が有る。堪え難きをたえ、忍び難きを忍んで恣意の実現に励めば、南の島に雪が降る。
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