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無意思のこと

2017-11-03 13:12:24 | 政治

日本人には意思が無い。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思の無い社会には、どのような特異な現象がみられるのでしょうか。調べてみると面白い。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 日本人には意思が無いのだから、あきらめるよりほか ‘仕方がない’ ということになります。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎> の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。 、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

意思の無いところには責任もない。だから、責任感も無い。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意が無いからである。
権力は、権力者の意思を執行するものである。意思が無ければ、権力者にも権力が無い。無為無策でいる。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

来日した西洋人は、当然のこととして我が国の権力の所在を知ろうとする。が、意思の無い国では、これが見つからない。だから、気が変らなるほど、とらえどころがないということになります。
この国には、意思というものが存在しないから、自己の意思を表明することも無ければ、他者の意思を求めることも無い。だから、政治家は意思以外の力で民の同意得なければならない。
意思が無ければ、加害者意識も生じない。自分にあるのは被害者意識ばかりであるので、自分への加害者を見れば実に恨めしい。こうした人たちから恨まれないようにしなければならないので、供養に次ぐ供養が盛んである。
加害者意識は罪の意識である。日本人は、有罪・謝罪・贖罪など罪にまつわる話は大嫌いである。罪の意識にさいなまれる話は、一般的でない。罪を扱う宗教も裁判も大嫌いである。人を裁くなど、恐れ多いことだと考えている。

日本人には意思は無いが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) がある。意思は文章内容になるが、恣意はバラバラな単語のままで存在する。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。恣意には、意味もなければ矛盾もない。しかしながら、日本人はバラバラな単語から、忖度 (推察) を用いて勝手な解釈をする。ある時は ‘気が利く’ として上司から重宝がられ、またある時には、責任問題として、その ‘勝手な解釈’ が糾弾されます。これが、曖昧な言語により引き起こされる悲喜劇であります。

日本人に意思は無いが恣意がある。意思決定は無いが、恣意決定がある。これが日本人にとって恐ろしいことなのである。意思には意味があるが、恣意には意味が無い。だから、恣意決定は、無意味な決定である。この無意味が現実のものとなるのである。民主主義・多数決の下に行われるのである。だから、日本人は、自分自身を信用できない。憲法に下駄を預ける。平和憲法を金科玉条として、衆愚に対抗せざるを得なくなるのである。これが、日本人の暴走を防ぐ唯一の手段のように見える。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、その現象をとらえています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。



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