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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

人間管理

2017-12-26 00:06:57 | 政治
>◆人間の管理を可能にする受験制度
>受験の制度が学生にとっての重荷として存在するということは、内的な次元での人間の管理を可能にする。

人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。焦るべからず。

>受験システムの奇妙な難しさの存在、そこでだけしか通用しない近視眼的知識の網目が張り巡らされた世界の存在とは、若い人間に対する外的な管理というよりも、内的に、自動的に抑圧する管理の効果を生む。

わが国でしか通用しない人間序列のメンタリティですね。

>高校生にとって難関な大学入試の制度が存在するということは、システムによる管理的な技術であるということであって、日本のシステムとは、こういった制度的コントロールの手管については、古い時代から巧妙なものを発明する無意識的な知恵を持っていたのだといえる。

序列人間を管理する技術ですね。巧妙というか、自然の流れでしょうね。

>日本人が使うこういった手腕というのも、大抵の場合は、中国から古くに輸入されてきた中国型の統治術を応用して発明し直していることが多い。>日本の受験制度の場合も、その起源的なモデルとして見出されるのは、前近代中国の科挙制である。

そうですね。当時の先進国・中国ですね。科挙も全国統一試験でしたね。

>例えば、江戸時代に徳川政権は鎖国という制度を実行することによって、200年以上に渡る長期政権を実現したものだったが、この鎖国というコンセプトも、元を考えれば、中国的な統治術の思考であり、やっぱりそれも儒教に起源を持っている物の考え方である。

統一的な内容を考え方を利用していましたね。

>若い人間は、思想とかそういうもので理論武装してもらったのでは、扱えなくなって困る。>国家の管理の立場からすると困る。

そうですね。没個性であれば、ご唱和の世界ですね。議論は必要ありませんね。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人は、’考える人’ にはなりませんね。非現実 (考え) の内容を文章にすることが出ませんから。だから、個人主義も認められませんね。
個人を考えるのには、まず非現実 (考え) の内容に着目する必要があります。考えの内容は、個人個人で違いますからね。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要です。特亜三国の言語には、時制というものがありません。ですから、自分自らの発想を記すことが出来ません。そこで、弟子は師に教えを乞うことになります。後は、暗記一筋です。

>若い人間が、勤勉によく勉強し、優秀な労働力として育ちながら、それでいて反抗的でない、よく使える人材に育ってもらうために、そこには与えられる知識の意味については、深く考えなくなるような、労働について何故という意味を問わないような、従順なる擬似去勢が必要なのだ。

特亜三国の人には、意思が無い。意思が無ければ、方法・仕方がない。Where there’s a will, there’s a way. 仕方がないから、反抗をあきらめる。

>これは管理主義的志向を持つ国家の、無意識で暗黙の要求である。

言語に基づく基本的な成行きですね。暗黙の了解のようなものですね。言語は、考えるための道具ですから。

>結果、そういう管理体制が内的に敷かれた国家による教育方針とは、徹底的に、知識にとってはその意味を問わない、問わせない、大量で機械的な情報の回転を、連続的にこなせる人材というのが、官庁でも会社でも使いやすい、よい人材であり、よき労働力だということになるのだ。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
文章には、意味がある。もし矛盾を含んでいれば、それを指摘することも可能である。その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。矛盾のない考えは、すべて正しい。正しい考えは、一つではない。だから、我々は個人主義を擁護しなくてはなりません。

>日本の受験システムとは、まさにこのような人材を育てるのに最適なシステムとして機能し、日本人にとって発明されてきたものだ。

そうですね。自発性のない日本人に適した受験システムですね。

>80年代に、共通一次試験のシンボリックな存在とともに、日本の管理主義教育とはピークを迎えた。

日本人には、’これしかない’ といったシステムですね。目をもっと大きく開きましょう。


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大学生のマサ

2017-12-23 13:36:41 | 教育


>どうもこんにちは。現役大学生のマサです。>平成28年度は高等教育機関(大学・短大・専門学校など)への進学率が過去最高の80.0%に達しました。>参考:文部科学省 平成28年度学校基本調査>これによると、大学全体の在学者数は増加しているそうです。少子化が叫ばれているのに、学生の数は増加していて進学率も高まっている。>僕には理由が分かりません。

進学率の高まりは、我々の社会の要求に応えているからではありませんか。

>大学数が変わらず学生数が減っているのなら、入学しやすくなって進学率が高まるのも理解できるのですが、、 >まあそんな難しい話は置いといて、世間では大学進学率が高まっているのは非常に良いことのように言われてますよね。>でも大学って本当に行く意味あるのでしょうか?>どうしても気になってしまったので、自分なりに検証してみます。

あるべき姿 (非現実) を主張すれば、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない。’ と反論される。現実は頭の外、非現実は頭の中。両者は、所在が違うので、内容も同じにならない。 だから、 ‘現実=非現実’ の考えは、間違いである。日本語は、現実描写のための言語である。非現実 (考え) の内容は描写できない。だから、日本人は、’考える人’ になる事は難しい。高等教育への進学の意義にも疑問が持たれている。
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>●大学生活の実態
>正直なところ、多くの大学生は勉強がしたくて大学に入ったわけではありません。>これだけは僕の周りの大学生を見て、確実に言えます。

そうですね。それは、以前からそうですね。無哲学・能天気の民には、知的な要求はありませんからね。勉強はいらないが、箔が欲しいのでしょう。

>ほとんどの大学生がバイトやサークルに集中していて、勉強することは面倒なことだと考えています。

そうですね。彼らは勉強に興味がわかないので、キャンパスで暇を持て余しているのでしょう。

>そんな彼らが大学にくるのは単位を取得しないと卒業できないからです。>なんなら授業に出なくても単位が取れそうな講義を常に探し回っています。>これでも一応、国立の大学生ですよ。>偏差値も60以上あります。

偏差値は、知的要求度の指標とは考えられませんね。

(略)
>やる気のない教授のやる気のない授業を受けるよりも、バイトやサークルに行くほうが楽しいでしょう。>僕が通う大学でこのレベルですから、ほとんどの大学はこんな感じだと思います。>だとしたらもうほとんどの学生にとって、大学は勉強をするための場所ではないでしょう。

そうですね。無哲学・能天気の民には、はじめから勉強する場所は必要ないのでしょう。西洋人なら、大人になると ‘考える人’ になる。

>思い切って言います。>大学はサークルやバイトに勤しむための場所です。>大事なことなのでもう1度言います。>大学は仕事をせずにサークルやバイトに勤しむための「言い訳」を与えてくれる場所です。

本当にそうですね。サークルやバイトは、学生の余暇利用ですね。大学は、それ以上ものではありません。

>Q:「大学って本当に行く意味あるの?」

英米の大学にはゆく意味があります。それは、教養が得られるからです。日本の大学には、英米流の価値はありません。でも、我が国の序列社会としての特有の価値が我が国の大学には有ります。

>A:「大学そのものに行くべき意味・価値はほとんどない」「みんなが大学に進学するからといって、あなたも大学に進学しなければいけないわけではない」

日本の社会は、序列社会ですからね。’上とみるか・下とみるか’ の判断は日常的に必要ですね。大学への進学は、自分自身に日本人序列の箔をつけるための手段です。序列順位は日本人の価値感の全てです。ですから、リーズン(理性・理由・適当)に関して意味が無くても在学しているのです。カミ (上) として祀られることが日本人としての全てです。
日本人は、日本語で考える。日本語には、階称 (言葉遣い) がある。言葉遣いは ‘上とみるか・下とみるか’ の判断で使い分けられます。日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、人を見損なってはいけない。世俗の上下を心得ていないと、礼儀正しい日本人にはなれない。だから、社会生活が成り立たない。非国民・外人・棄民にされる。このようなわけで、上下判断は日本人の強迫観念の域にまで達しています。大学進学も日本人にとっての必要悪と言うべきものでしょうかね。

>リンクより



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難しい日本語

2017-12-22 10:49:44 | 文化

(略)
>日本語は身につけるのが世界で最も難しいと言われている言語の一つです。

日本語の文法の内容はあまりありませんね。ニューヨーク生まれの私の友達は、’日本語は易しい’ と言っていました。

>その代り、日本語を母語として持っている場合には、世界の他の言語を使いこなすことが比較的簡単にできるようになっているようです。

日本人は、外国語の習得が苦手ではないでしょうか。

>日本語は、世界の言語のなかで最も多くの表現方法を持った言語であると言われています。

そうですね。高文脈文化の言語だそうですからね。

>その日本語からすれば、他の言語の規則的かつ直接的な表現方法は、パターンさえつかんでしまえば思っていたほど難しいことではないようです。

それでも日本人には外国語が難しいようですよ。パターンに慣れるのが難しい。

>しかも、日本語と中国語以外の言語においては、話し言葉を中心としたコミュニケーションで成り立っています。>聞き取れないことには会話になりませんので、訛りや方言に対して聞き取ろうという姿勢があります。>そのため、母語話者以外の話であっても自分の言語を使ってくれている限りにおいては、一生懸命に理解しようとしてくれます。>また、似たような音であれば推測できる技術も高度なものを持っています。

そうですね。対訳には、似たような言語がいっぱい並んでいますね。
(略)
>その分、思考言語としてはこれほど適したものはないということになります。

そうですね。それに反して日本語は非現実 (考え) の内容を表すことが出来ませんから、思考言語にはなりませんね。

>特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

文章にならない単語には、意味もなければ、矛盾を指摘することもできません。バラバラと並んだ単語は、妄想・空想の材料となります。

>問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。>枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。

日本人の精神活動は、言語では表せません。人の心から心へと直接伝えられます。以心伝心・不立文字です。これは昔から知られていることです。物に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁をものともせずに、外国人の心に直接伝えられます。その評判も良く、我が国は技術立国を経て経済大国になりました。

>日本語で思考していると、何らかの枠をはめないとどこまででも発想が広がっていってしまいます。>そうなると、もう発想であるのか妄想であるのかわからないことになってしまいます。

日本語には、非現実 (考え) の内容を文章にするための構文がありません。それは、文法に ‘時制’ (tense) が無いからです。文章にならないものは、意味もない。矛盾も指摘できません。ですから、バラバラな単語のまま存在します。歌詠みの様なものです。単語の群れは空想・妄想の材料になります。おかげ様で、我が国は漫画・アニメの大国になりました。

>同じ言葉であっても使用する文字やアクセントによってもニュアンスが変わってきます。>多くの文字種を持っているうえに、「ひらがな」というとんでもなく広い感覚を持った使い方もあるのです。

カタカナもあるではないですか。しかし、ローマ字 (alphabet) の使い方は、まだ十分ではありませんね。

>三つの知的活動(認知活動・思考活動・表現活動)は、母語で行うことが一番効率がいいことはわかっていることです。>しかし、認知活動と思考活動が個人的な活動として自分の持っている言語だけで完結できるのに対して、理解を得るための表現活動だけは相手の言語を意識しなければなりません。

そうですね。日本人の精神活動を言語で表すことは難しいですね。その活動は、言語を介すことなく心から心へと伝えられるものですね。

>母語で表現活動を行なうことが、自分自身にとっては一番楽なのですが、それでは理解されないことにつながってしまいます。>したがって、相手の持っている言語への翻訳が必要となるのです。

そうですね。バラバラな単語では無理ですね。バラバラな単語には意味が無い。意味のない内容の翻訳は難しい。

>日本語はとても豊かな表現方法を持っています。

バラバラな単語には意味が無い。だから、理解は不可能です。そこで、忖度 (推察) で受けなくてはならない。忖度は、聞き手の勝手な解釈であり、発言者にその責任はありません。聞き手次第です。

>つまりは、相手の言語に翻訳するのに適した日本語での表現ができるのです。

日本人の思いつかないようなことは、日本語での表現も難しいですね。

>相手の言語の文法・語順や時制の制限に合わせた表現を、日本語でしておくことによって、より的確な翻訳を可能にすることができます。

時制については、難しいでしょうね。日本人の経験した事のない考え方ですから。昔から聞きなれている、’前世・現世・来世’ であったとしても、日本語での理解は難しい。

>同じ内容を、日本語で表現しても相手は理解しようとしてくれませんが、相手の言葉であれば一生懸命理解しようとしてくれます。

日本人には、’理解’ というものの理解が難しいでしょうね。日本人は、’忖度’ を ‘理解’ と取り違えています。

>そのために、相手の言語を知る必要があるのです。

日本人は横文字文化が苦手ですね。

>最高の思考言語を生かすも殺すも、表現活動次第となることがよくあります。>相手の言語をわからずに、一方的に自分の言語で表現したら、同じ日本語でも理解されないでしょう。

そうですね。非漢字圏の人々に、日本語の音読を広めましょう。

>日本語で表現する場合には、母語としての日本語の共通語である国語をうまく利用しなければいけません。>更には、国語の中の最も基礎的な「ひらがな」をうまく使わなければいけません。 (参照:あえて「ひらがな」で書いてみる)

ローマ字を使えば、日本語はさらに国際的になるでしょう。音読が容易になれば、日本語会話も可能になります。

>日本語の持つ表現力の豊富さと感覚の広さから見れば、表現言語としての英語は極めて限られた表現力しかありません。

日本語はバラバラな単語で、忖度 (推察) により伝えられる。しかし、これは言語による本当の伝えられ方ではありませんね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>これからの日本語のあり方は、英語の存在を抜きにしては考えられないでしょう。

そうですね。我々日本人には、日本語と英語の学習が必要ですね。

>しっかりとした日本語で、知的活動の力を付けたうえで、表現言語として英語を持っていることが理想の姿になっていくのではないでしょうか。

そうですね。何よりも英語で表現することが大切ですね。以心伝心・不立文字は、知的活動とはいえないでしょうね。非言語の芸術活動とでもいうのかな。

>学校教育で表現技術を学ぶ機会のない日本の言語教育においては、基礎的な言語力が身につく中学生以降で、英語による表現技術を学ぶ方がいいのかもしれませんね。

そうですね。いずれにしても我々日本人には、英語の学習は大切ですね。

>それによって、日本語による表現技術も磨くことができるかもしれないです。>少なくとも、知的活動における最高のツールとしての日本語は、絶対に手放してはいけないものですね。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、日本語の文章になる。日本語は、風景描写のための言語です。
非現実 (考え) の内容は、日本語の文章にはならない。非現実に関する想いは、バラバラな単語のままで日本語脳裏に存在する。歌詠みの様なものか。勝手な解釈は、英文になるのか。リーズナブルな訳出になるのか。



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中国教育

2017-12-20 16:26:40 | 教育
(略)
>■「状元」の末路からみる中国教育の危機
>二日間に渡る入試が終わって結果が発表されると、さまざまな喜劇と悲劇が始まる。>入試に失敗した高校生が自殺したり行方不明になったりする事件が毎年に必ず起きてしまうが、その一方、統一試験にパスしたり、重点大学の合格証明書を手に入れたりした生徒たちと親族一同が無上の栄光と喜びを味わうのである。

悲喜こもごも、ですね。

>昔の科挙試験の首席合格者が「状元」だと呼ばれるのを因んで、大学統一試験では、その地方のトップ合格者を「高考状元=統一試験状元」と呼んで大いに褒め称える習慣がある。>「状元」となった受験生とその担任の教師は地方当局や学校から賞状と賞金をもらうのは普通であるが、盛大な祝賀会を開いたり、公衆の前で「状元」に赤絨毯を歩かせたりする地方もある。

没個性の励みに対する報酬ですね。科挙の伝統は、共産中国でも生きていますね。

>大学受験に合格すれば、特に「状元」ともなれば、あたかも栄光の頂点に立ったかの体験となるのだが、それからの人生は常に栄光の頂点に立てるとは限らない。
>実際、この数十年以来の「状元」たちのその後の人生に対する追跡調査もあるが、それによると、大学を卒業して社会人になってから、その大半は同世代の普通の人々より格別に優秀であるわけでもなければ、抜きん出で出世できたわけでもない。>激しい受験戦争は結果的に、知識の暗記だけが取り柄の人材を大量に生み出したわけである。

暗記は、一種の物まねですからね。猿まねの数が増えるだけですね。
現実の内容を現実の世界で再現すれば、それは模倣となる。
非現実の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造したことになる。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。
特亜三国の学生は、いずれの国においても受験勉強 (没個性の励み) に苦しんでいる。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
文章には二種類ある。一つは現実描写の文章であり、もう一つは非現実の内容の文章である。現実の内容は風景画になり、非現実の内容は哲学になる。
現実描写の内容は、個人により格別優れているわけでもない。日の下に、新しきものなし。非現実の内容は、個性を表している。伸びる可能性を持っている。

>こうした受験戦争に嫌気をさしたのか、最近、海外留学の道を選ぶ若者は増えている。
>現代版の中国流「科挙試験」はますます多くの若者にそっぽを向かれることとなろう。
>そこにあるのは、中国という国全体の深刻な教育危機である。

海外留学は、おおすめですね。非現実の内容を文章にするためには、時制というものが必要です。特亜三国の言語の文法には時制というものがないので、人々は非現実の内容を語らない。どこの国においても、話にうつつ (現) を抜かしてはいけないのです。
文章にならない非現実の内容には、もちろん意味が無い。矛盾も指摘できない。それをあえて三国の言語で敢行すれば、空想か、妄想になる。行き止まりです。漫画・アニメの大国になるのかな。
だから、英米に留学をして、時制のある英語を使って非現実の内容を文章に表現する勉強するのが得策ですね。そうすれば、人間固有の創造力が発揮できます。
現実の中に閉じこもる科挙の試験は、空しい限りですね。没個性の内容は、グローバルにもユニバーサルにもならない。そこにあるものは、中国全体の教育危機です。


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各氏の観察

2017-12-19 08:50:24 | 政治
①現実の内容は、頭の中にある。非現実の内容は、頭の外にある。両者の内容は所在が違うので、同じにならない。非現実の内容は、考えの内容である。現実の世界は一つで、非現実の世界は、過去・現在・未来と三つある。非現実の世界は、時制のある文章内容として語られる。だが、日本語には時制が無いので、日本人には、考えが無い。論客は、ああ言えば・こういう。ああでもなければ・こうでもない、あれではいけない・これではだめだ、という。だが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものが無いからである。だから、受け売り専門になる。かくして、不毛の議論は避けられない。

山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)

②時制がなければ、考えの内容を入れる構文ができない。だから、日本人の想いは、バラバラな単語のままで存在する。意味もなければ、矛盾も指摘できない。意味の理解は諦めて、忖度・推察に専念する。’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と弁解する。だから、日本人には理解が無くて忖度がある。独りよがりで現実直視は難しい。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

③日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容である。しかるに、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思が無い。かくして、優柔不断・意志薄弱に見える。意思が無くては、方法 (仕方) がない。仕方がないから、あきらめる。無為無策でいる。座して死を待つのか。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) 氏は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

④日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱な態度を改めさせるのにはどうするか。その時は恣意を利用する。恣意 (私意・我がまま・身勝手) を意地・根性として鍛え抜く。恣意はどこの国でも認められていない。日本独特なのであろう。意思には文章があり、リーズン (理性・理由・適当) がある。恣意には文章が無く、アンリーズナブル (理不尽) である。’何が何でも’ である。洗脳された通りに動くしかない。はたして、日本兵は強いか。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

⑤意思があれば、加害者意識もある。意思が無ければ、罪の意識も無い。だから、深刻な反省にはいたらない。’過ちは繰り返しませぬから’ と誓う人もいるが、加害者意識が無くては、何が過ちであるかを指摘することも難しい。西洋人は、思春期になり言語機能が発達すると罪を意識するようになるので入信を始める。日本人は、大人になっても罪の意識が無いから、贖罪のための宗教 (キリスト教) もはやらない。大人でありながら、罪の意識のない人達を見るのが恨めしい。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)


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