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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

二つのシナリオ

2017-12-17 12:24:26 | 政治
>日本の未来に関して,日本人が選択するであろう,代表的な二つのシナリオを紹介します.>二つのシナリオのどちらが善か悪かではありません.>ただの未来予測です.

日本語文法には、時制というものがない。だから、非現実 (過去・現在・未来) の世界の内容を展開することが難しいでしょう。

>「選択をしない」という選択をした場合

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、’選択’ を決断することは難しい。

>この可能性が現状では最も大きいかも知れません.

そうですね。お変わりなきことは、天下泰平のしるしですね。めでたし、めでたしです。

>日本国民が保護国であるという現状に関して,特に選択らしい選択をしなかった場合です.

おとなしい日本人の表れですね。

>何も選択しない →当面は楽。

そうですね。伝統的な無哲学・能天気ですね。

>現状維持 →政治・文化・社会システムなど全ての面で一層の米国化 →米国と軍事一体化 →米国の敵は日本の敵となり、ある時点から日本国内でテロが頻発 →人口が密集する日本におけるテロ被害は甚大なものに →原発を続けプルトニウムも保有し、日本は核武装の潜在的な能力を保有 →従属的な戦争協力と核武装の可能性で「悪なる日本が原爆の復讐をするかも」という米国の不安が持続 →何百年たっても在日米軍基地は返還されない →日本の民主主義・法治主義・国民主権は米国(または米国に怯えゴマをする日本のリーダーたち)の許す範囲に限定 →国益・国民生活は後回し →周辺諸国からはバカにされ続ける →日本国民の自尊心は低く抑えられ社会は陰湿で抑圧されたものへ →少しずつ日本国は衰退

昔ながらメンリティですね。持続しそうですね。

>次は日本人が意識的に選択をする場合です.
>選択をした場合
>現代日本人がもし覚悟を決めて選択することを決意したなら,色々と紆余曲折はあるでしょうが,結局は以下のようになるのではと予想しています.

日本人が意思を獲得した場合のことですね。

>一切のタブーを捨て国民的な議論を展開 →米国からの独立/自主防衛という未来を選択 →「国民が日本のリーダーたちをサポートしなければ実現は不可能」と覚悟 →対米関係が悪化しないように細心の注意を払いつつ、自己主張は毅然と →米国の不安(日本人は悪/原爆の復讐)へ積極的に対応 →原発廃炉・プルトニウム放棄・核武装放棄宣言 →平和ブランドの強化 →専守防衛の自主平和憲法を制定 →攻撃型の兵器は持たない →非効率な専守防衛を可能とするため国民皆兵・徴兵制・国土強靭化などに関して国民的な議論 →自分の国は自分で守る共通認識 →米国は日本の自主独立と平和希求の決意に驚き日本を尊敬 →米軍基地を自主的に返還 →他国との軍事同盟は結ばない。

日本人には、考え (非現実な内容の文章) が無い。文章が無ければ意味もなく、矛盾も指摘できない。だから、議論もできない。日本人が英米流の考え方を獲得できるかどうかが、一切のタブーを捨てるカギとなるでしょうね。

>国連活動への派兵も行わない →軍事力以外の方法で世界の平和を推進 →周辺諸国との交流を深め地域を安定化 →核保有国との戦力バランスでは日本が不利 →不利は甘受。>不利なまま毅然と →世界が日本を尊敬し見習い核軍縮が進む →日本が中心となって恒久的な世界平和を達成

そうですね。日本人は、弁が立たない。相手に対する説得力に欠けている。結局、’自分さえ良ければ’ となる。自己慶賀の主としてとどまるのか。
現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は、頭の中にある。非現実の内容は、考えの内容である。話の内容である。
現実は見ることが出来る。非現実は見ることが出来ない。現実の内容も非現実の内容も画にはなる。
現実描写には過不足が無い。非現実の絵は文章 (考え) に基づくものには過不足が無いが、文章のない画には過不足があって、漫画・空想になる。おかげさまで、我が国は、漫画・アニメの大国になった。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を指摘して、これを取り除けば、すべての考えは正しくなる。

>いや~! ほんと↑素晴らしいサイトを見つけました.>サイト名は↓>『世界平和への絵本集-愛と癒しと和を地球へ』 (リンク)>『世界平和の絵本集』は,「平和の絵やイラストでテロや戦争の原因・心理と世界平和のメッセージを描く愛と癒しと平和のWEB絵本です」ということです.>ワシたちの前に提示されている二つのシナリオ.

日本人の精神活動は、文章内容にはならないで、人の心から心へと直接伝えられる。以心伝心・不立文字です。
日本語は、現実描写のための言語です。夢は見ることが出来るが、日本語でその非現実の内容を語ることは出来ない。話にうつつ (現) を抜かしたことになるからであります。
言語は、考えるための道具です。言語の特性は、人の考えを既定の枠にはめます。ですから、日本語脳の意識改革は難しいですね。

>どちらのシナリオを選ぶべきか?!>答えは明らかなのですが… >しかしワシは,二つのシナリオをじっくり読んで,考えぬきました.>この国,ワシらの国,日本を世界一の国にしてゆく!>そのためにワシは,老骨にムチ打ち,日々気張って生きてゆく! と,ワシは決心を新たにしました.

立派な考えですね。感心いたしました。方法論に関する考察も必要でしょうね。



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直系家族的

2017-12-16 22:35:34 | 政治

(略)
>●集団をつくると直系家族的組織になる日本人
>日本人は集団をつくると必ず直系家族的な構造にしてしまいます。

そうですね。’上とみるか、下とみるか’ の判断を繰り返して実行していると、必ず、直系になりますね。
日本語には、階称・言葉遣いがあります。上下判断を繰り返していると、直系序列になります。
日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、正しい序列判断が必要になります。人を見損なってはいけないという想いが強く、上下判断は強迫観念の域に達しています。

>後からそうした集団に入る人間は、すでに構造ができあがっていますから、合せていかなくてはなりません。

序列社会性を発揮しなくてはなりませんね。世俗の序列に疑問を抱くと、外人・非国民・棄民になる恐れがあります。すると、日本人は序列協力により得られる力を失います。

>この「後から入った」という感じがすでに直系家族原理に無意識にとらわれている証拠です。

そうですね。後から序列に加わったのですからね。無意識にとらわれますね。

>会社では「きみ、何年入社?」「ぼくと同期?」というような会話がしばしなされます。

そうですね。私は、新制高校の八期生、新制大学の十一期生です。といった具合です。

>●明治維新と直系家族的組織
>国家を統一し、政治を長く安定させていくためには、よく統率された組織が必要となる、と彼ら(明治維新の指導者)は考えたのでしょう。

そうですね。序列メンタリティの活用ですね。無哲学・能天気の民には、’これしかない’ と言ったところか。

>そのためには、直系家族的なタテ一本の構造をつくり、その頂点に、権威ある父親的な存在(としての天皇)を置かなければならない、と考えたのです。

分かりました。神武 (じんむ)、綏靖 (すいぜい)、安寧 (あんねい)、懿徳 (いとく)、、、、ですね。暗記力の問題ですね。

>●直系家族的組織の欠点
>直系家族では父親に権威があるということになっています。

‘起て一系の大君 (おおきみ) を 光と永久に頂きて 臣民我ら皆共に御稜威 (みいつ) に副はむ大使命、、、’ と私は子供の時に歌っていました。

>しかし、この権威ある父親はほとんど主体的な意思決定を行わないのです。

そうですね。日本人には意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。英語文法には時制があり、英米人には、意思があります。

>・・・権威者である父親の意をくんで、はやりの言葉でいえば「忖度して」、それぞれの成員がその意を実現する方向に向かって一斉に行動するのです。

そうですね。父親に意思が無いので、日本人は、恣意と忖度 (推察) で行くことになります。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章にならないので、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在します。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、その発言者には責任がありません。とかく、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>・・・このような意思決定者の不在、意思決定機関の不能という事象は、いま現在の日本でも至るところで目にすることができます。

そうですね。日本人には意思が無いのであるから、意思決定者はどこにも見当たりません。意思のない所に方法 (仕方) はない。Where there’s a will, there’s a way. だから、日本人は仕方がないと無為無策で諦めています。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、自著<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

>(略)







否定論主義

2017-12-15 04:22:12 | 教育
>よく、人の意見を否定する人がいる。

論客は、’ああ’ 言えば・’こう’ 言う。’ああ’ でもなければ・’こう’ でもない、’あれ’ ではいけない・’これ’ ではだめだと力説する。

>一見正しいことを述べているように思えるが、自分こそが正しいのだと思い込んでいることが多い。

そうですね。暗記力専門ですね。相手の考えは受け入れられませんね。

>一定、自分の中で理論を組み立てているから、相手の意見が不十分に感じると、自分の理論が正しいと主張する。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾のない内容は、すべて正しい考えを示しています。考えは、個人個人で違っています。正しい考えは、一つではない。

>要は、人を真っ向から否定する人というのは、相手のことを考えられず、自分が正しいことを主張したいだけなのだ。

そうですね。‘○○の一つ覚え’ ですね。相手の言う内容を理解できない人でしょう。日本人には、文章 (考え) の理解が難しいようですね。通常、日本人は理解の代わりに忖度 (推察) を使います。忖度は、聞き手の勝手な解釈で、発言者には責任が有りません。ですから、議論になりません。忖度の主は、’だって、本当にそう考えたのだから、仕方がないではないか’ と言い訳をする。理解の意味を本当に理解していないから、忖度 (推察) との区別が付けられないのでしようね。思い込みが激しいのです。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、推察にとらわれた日本人のことを下記の如く指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>しかし、私はその否定する行為自体が間違っているのではないかと思う。

そうですね。矛盾のない考えは、すべて正しいですからね。正解は、一つではない。しかし、相手を理解できなければ、答えは一つになります。唯我独尊です。

>誰しもそれぞれ考えはあって、その考えがまだまだ不十分であることも多々ある。

足らないところがあったら、そこを補えばよい。だから、議論が役に立ちます。

>そこからどうするかを考えていくのが楽しいのであって、それを付け入るように否定(指摘)するのは、相手の活力を奪うことになる。

建設的な意見は、楽しいですね。不毛の議論は、相手の活力を奪うことになるからやめましょう。

>不十分な状態から、上の段階にステップアップするためには自分たちの枠を越えようとする本人の活力が必要なのだ。

そうですね。不十分なものには、それを補う活力が必要ですね。

>どうせ、意見を出すなら、相手の活力を生起させるような言葉をかけてあげるのがベストだろう。

同感です。否定論主義 (negativism) は、良くないですね。考えのない人には、生起させる言葉が見当たらないのでしょう。

>決して、相手もしくはできていないことを否定することはしてはいけない。

そうですね。相手無視は、’役立たず’ ですね。正しい作文 (考え) と正しい理解が必要ですね。それには言語の勉強が必要です。

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フィンランド

2017-12-14 00:30:24 | 教育
>番組「テッペン!世界くらべてみたら」より
>スタッフ「日本だと髪の毛を染めちゃダメとかピアス付けちゃダメってあるんですけど・・・。」>子供「私なら絶対学校に来ない」

我が国では ‘見かけ’ が大切なのですがね。

>生徒は学校についてどのような認識なのか尋ねたら。>子供「学校は勉強しに来るところよ。だからどんな格好をするかは全然関係ないわ。」

フィンランドは ‘生徒らしさ’ を求めている国ではないのですね。

>寝ながら授業を受けても怒られない。>先生「生徒が集中して勉強できることが何より大切なことですから。」

理解のある先生ですね。

>フィンランドの校則は服装、髪型、携帯電話の持込など全て自由。>フィンランドでは子供たちの自主性を重んじることで勉強に対するヤル気を育てる方針とのこと。>ここまで自由にして世界一高い学力を誇っているのだから、日本も見習うべきだろう。

日本人には意思が無いので、自主性は発揮できませんね。意思のない所には、方法 (仕方) がありません。
恣意 (私意・我がまま・身勝手) はありますが、これは ‘自由のはき違え’ となり禁じられています。’不自由を常と思えば不足なし’ です。

>教員の好みを生徒に押し付けているだけというのはもっとも指摘。時代はどんどん変わっていくのだから、今時茶髪が不良というわけでもないし、ピアスもオシャレの一環。

日本人は、生徒に対して ‘生徒らしさ’ を求めています。気分・雰囲気の問題です。’趣味には論拠がありません’ ので、そのリーズン (理性・理由・適当) を述べることもできません。ああ、空しい。

>おかしいのは、学校ではひたすら真面目さが求められるのに、いざ就職活動を始めると勉強はさほど評価されず、サークル活動や課外活動が評価のポイントになったりすること。>言わばガリ勉よりもリア充が求められるのだ。>学校で育まれる人物像と社会で求められる人物像にギャップがある状態は好ましくない。>日本の学校教育は間違っているという前提で海外の成功事例を取り入れるべきだ。

日本人の猿まねで、間違いはないものでしょうか。大分、文化に差があるようですね。’仏作って魂入れず’ になるのではないでしょうか。うまくゆくと良いですね。

>(リンクより一部抜粋)

推察

2017-12-13 20:57:10 | 教育

>書く力の向上は、まず話す力から

自分の話す力は、正しい (矛盾のない) 文章作りから始まるのではないでしょうか。

>書く力のない子は、話す力も乏しいという特徴があります。>きちんとした文章ではなく、単語で話すことが多いのです。

考えを表すための文章ができないために、単語で話すことが多いですね。文章にならないものは、意味もなく、矛盾も指摘できません。議論にもならないです。

>たとえば、話す力が乏しい生徒が宿題を忘れてきた時、
>「先生、・・・宿題・・・」としか言わず、あとは推測してと言わんばかりにもじもじしながら立っています。
>「宿題が何?」と聞き返すと、
>「宿題を・・・忘れました。」と、短い文章で話したあと、また宿題を忘れたボクに何か指示をしてくださいと言いたげな顔だけして、下を向いています。
>「宿題を忘れたから何なのか、はっきり言いなさい」と促して、ようやく「次回持ってきます。」とまた短い言葉が返ってくるのです。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから日本人には意思が無い。英語には時制がある。英米人には意思がある。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本人の想い (非現実) は文章にはならない。未来時制の構文がないから、未来時制の文章内容にならない。意思のための単語は、バラバラなままである。小言・片言・独り言を本人が言うのを聞いて、相手は忖度 (推察) する。なれ合いか、アニマル風か。忖度は、自分勝手な解釈であるから、発言者には責任がない。とかく、この世は無責任。忖度は、我が国の無責任体制の始まりであります。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、バラバラな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」


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