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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

タタミゼ効果

2017-12-07 10:16:27 | 政治
>著者は我が国言語学界の大御所鈴木孝夫。>鈴木は言う、(略)
>二足歩行を始め大きな脳を手に入れた人間は、知と言葉を得て文明を発展させた。

そうですね。

>そして、西欧文明は個を発明した。個の観念は生物には存在しない。人間の創造である。知ゆえの発明である。あらゆる生物の中で個の存続を種の存続よりも優先させるのは人間だけであると言う。

人間の創造力によるものでしょうね。

>知に拘り、個を偏愛した西欧文明は哲学を得るとともに一神教に囚われた。

そうですね。考えの内容は個人個人で違いますから哲学になりますね。

>知を偏愛し、本能を軽視し、情を蔑ろにすることは、人間を人間でなくすることである。

知を軽視すると、人間は限りなくアニマルに近づくことになりますね。

>個人主義を追求することは、全体を捨て、すべてとの繋がりを断ち切ることである。

そのようなことは無いでしょう。個人の考えの中には全体があります。世界観があります。個人個人で考えは違いますからね。個人を擁護しなければ、個人の考えも擁護されません。

>情を持つ人間は知だけでは耐えられない。繋がりを失くした人間は絶対孤独には耐えられない。

人は、世界観を共有する必要がありますね。

>かくして人々は絶対者に救いを求めた。この行為は情の行為である。知を至上のものとし情を捨てた挙句、情の行為に走らざるを得なかったのである。

他力本願・神頼みのようなものですか。人間は弱いですからね。

>この絶対矛盾を西欧文明は知の論理で取り繕うとしてきた。しかし、今やその矛盾は隠し遂せなくなってきた。一神教は本質的に他者を認めない。共存を許せない。それが一神教の一神たる所以である。

そうでしょうね。あまり神がかるのは危険ですね。一神教は、他神を認めない。しかし、その信者は他宗教をも認める。だから、ユダヤ教は布教をしないそうです。されど、ISISはやるか。

>地理的条件ゆえか、幸い日本語は知と情のバランスを失わずにこられた。そして、極端な個人主義の病にも侵されなかった。日本文明は一神教を必要とはしなかった。

日本語は個人の特性が現れない言語ですから、日本人に個人主義の習得は難しいですね。一神教も難しい。

>西欧文明と日本文明は本質的に異なる文明である。日本は近代化によって西欧文明を大量に取り入れた。しかし、それは表面だけのことであって、日本人のものの考え方の本質はほとんど変わってはいない。近代化によって日本語の本質が変わったわけではない。

そうですね。言語は考えるための道具でしょう。日本語文法が変わらなければ、日本語の本質は変わらないでしょうね。今後も文法は変わらないでしょうね。

>この日本語を世界に広めるべきだと鈴木は言う。

そうですね。日本語は、哲学には不毛だが、実学 (技術) に適した言語でしょう。おかげさまで我が国は、技術立国を経て、経済大国になった。日本語を世界の人に覚えてもらうのが良いですね。
言語の習得には、音読が効果的ですね。日本語をローマ字 (alphabet) 表記にすれば、難解な音読の問題は、たちどころに解決します。この改革は、特に非漢字圏から来た技術研修生の福音になるでしょう。

>日本語にはタタミゼ*効果があるのだと言う。タタミゼ効果とは、日本語で話していると柔らかい人になるのだと言う。日本語には「私」という言葉が必ずしも必要ではないので、日本語の中では状況全体がざっくりあって、全体の中に何となくいることが、ふぁーとして心地よいのだ、と或るフランス人も言っているのだそうである。

自己主張が無ければ、ふあーとして心地よいですね。自己主張があれば、相手の闘争心を感じますね。聞き手は、それとなく不安になります。

>この日本文化と日本語の同化の力が何によるものなのか、鈴木はまだ正確な分析をしたわけではないが、現代の日本に根強く残る自然との融和性や共生的世界観、そして日本語自体に秘められている感性的なユニークさが、外国人をしておのずから日本化させてしまうのだ、と言っている。

なーなー主義による同化でしょうね。

>私は、実は、ここの処が大切だと考えており、日本語学の権威でもある鈴木孝夫の考えを聞きたいと思っていたので、この点やや期待はずれではあった。>日本語に秘められている感性的ユニークさとは具体的にどうゆうことなのか。

それは日本人の忖度 (推察) に因るものでしょう。勝手な想像・勝手な解釈でしょう。これは、西洋人の行う正しい (矛盾を含まない) 作文・正しい解釈の語学の道から外れています。だから、日本人は議論ができません。

>根強く残る自然との融和性や共生的世界観と日本語との関係はどうなっているのか。

個人の意思を感じさせないことでしょうね。さすれば、万事が自然です。

>タタミゼ効果はなぜ起きるのか。>「私」と言わないことが、なぜ、ふあーとして心地よいのか。>これらは言語学の解くべき課題である。特に日本語学の大きな使命である。

自己主張が無ければ、ふあーとして心地よいですね。精神的な疲れも少ないのでしようね。

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*タタミゼ/タタミーゼ (フランス語: tatamiser) : 畳の上の暮らし 


意思疎通

2017-12-06 23:24:01 | 国際・政治
>慰安婦像問題はもはや誰もが聞いたことのある社会問題だろう。

そうですね。

>この問題は、第二次世界大戦中に日本で行われた「慰安婦」という制度が、海外では「性奴隷」として捉えられ、日本がいくら説明しても、それは海外から見たら言い訳にしか聞こえず、胡散臭さが増していく、という構造になっている。

言い訳は、役に立たないでしょうね。

>なぜ日本の言い分が聞いてもらえないか。>それは日本人の、言わなくても相手の意図を汲むという潮流と、アジア人特有の起承転結での説明が原因だという。

以心伝心・不立文字。他力本願・神頼みですか。事の次第・自然の成り行きだけを述べても理解は得られないでしょうね。

>海外では性差別は本能的に拒絶してしまうタブーであり、その内容であることがわかった時点で、もう「性差別」という強烈なイメージが先行し、他の話を長々としても意図が伝わらない。

性差別から話をそらすことは難しいでしょうね。

>この問題を解決するのは、あたり前のことだが、相手と共認出来るまで根気強くコミュニケーションを取ること。

阿吽の呼吸ですかね。なーなー主義ですか。期待が持てませんね。

>意図が伝わっているだろう、と思い込んでいたり、伝わった雰囲気になることは往々にしてあるが、日本人はそこで満足してしまう。

意図は意思の内容ではなくて、恣意 (私意・我がまま・身勝手) のことでしょうね。恣意は、文章にはならないから、単語 (片言・小言・独り言) のままでいる。文章にならないものは、考えではない。だから、理解の対象にはならない。そこで理解は得られない。代わりに気分・雰囲気を忖度 (推察) することになるのであるが、忖度は自分勝手な解釈であるから、忖度した当人の責任になる。相手には関係が無い。

>どんな相手とも共認形成を取っていかなくてはいけない時代だからこそ、相手との意思疎通に手を抜かず、最後まで詰め切る覚悟が常に必要となる。

日本人には、意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制 (tense) というものがないから、日本人には意思が無い。
意思がなければ、意思の内容を提示することも不可能であり、理解されることもあり得ない。だから、相手との意思疎通もあり得ない。そして、信頼も得られない。内容も理解されずに、なーなーとなる。’信なくば立たず’ で、不成立になる。
海外でも納得されるように謝罪するしかないでしょうね。自己流は怪我の基になるでしょう。
一番の基は、日本人に意思が無いことでしょう。自分に意思が無ければ、加害者意識は生じません。加害者意識は罪の意識ですから、罪を感じたら謝罪することになります。罪の意識のない人が謝罪すると自虐行為になって、相手の納得も得られません。罪の意識のない相手を見れば、恨みは募るばかりです。真摯な反省の態度を示すことが難しい。この点を心に留めておく必要があります。



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知的好奇心

2017-12-02 13:19:59 | 日本語文法
>日本企業の大半が長時間労働を厭わないのは、まさに詰込み型教育の影響がある。>知的好奇心がなければ確実にイノベーションは生まれない。>しっかりと社員には自分の時間を取ってもらい、読書や旅行を経て知的好奇心を刺激することの方が結果として企業にとってもプラスとなる。

それは良いアイディアですね。ぜひ実行に移したらよいですね。

> 以下リンク
>NewsWeekより
>-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

>長時間労働がおそろしいのは、労働者の生活破壊(過労死など)をもたらすことだが、知識への欲求(知的好奇心)を削いでしまう可能性もある。<図2>は、週間の平均就業時間と、同じ調査で「新しいことを学ぶのは好きだ」と回答した比率の相関図だ。

知的好奇心が無いから長時間労働に耐えることになるではないですか。

>右下がりの傾向で、仕事時間が長い国ほど知的好奇心が低いという、マイナスの相関関係が見受けられる(相関係数は-0.7064)。

本当に、そうですね。

>長時間労働は知的好奇心を減退させる。長時間労働が過ぎると、新しいことへの興味、未知のことを吸収しようという意欲も萎えるのはあり得ることだ。読書をとっても、頻度の減少が著しいのは働き盛りの層だ(参考記事「働き盛りが読書しない日本に、やがて訪れる『思考停止』社会」)。

我が国は、現在、人手不足に陥っています。だが、頭脳不足の声は聞かれません。

>変化の激しい現代社会では、知的好奇心を枯らすことなく、学び続けなければならない。そのことで、斬新なイノベーションも生まれてくる。<図2>の傾向に因果関係があるのならば、長時間労働は早急に是正すべきという強い提言に繋がる。

長時間労働を規制しても、この傾向は変わらないと思いますよ。人々はあくなき労働を求めています。これは、半ば本能的ですね。

>しかし上記の散布図が因果関係を示しているとは限らない。2つの変数には、共通の背因(根)があるかもしれない。>「国民性」という曖昧な言葉で片付けるのは簡単だが、両方とも子ども期の学校教育の影響によるものと考えることもできる。

そうですね。ただ国民性というだけでは、対処のしようもありませんね。
特亜三国人 (日本人・中国人・韓国人) の頭のなかには、考えが育ちません。だから、好奇心も育ちません。これが共通の背因でしょう。
考えの内容は、非現実の内容です。日本語文法には時制というものが無いので、非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を文章に表すことが出来ないのです。ですから、知的好奇心の発展も望めないのでしょう。日本語は現実描写の言語に止まっています。和文の内容は、実況放送・現状報告の内容になります。それ以外は、忖度 (推察) により生ずる独りよがりの空想・妄想になります。この特性が発展して我が国は漫画・アニメの大国にもなりました。それでも、夢と希望はこの国には存在しません。

>日本の学校教育では、長時間労働を厭わない精神が子どもに植えつけられる。皮肉なことに、教師がそのモデルになっている。また受験準備の詰め込み教育で、「学びとは苦行だ」という思い込みも刷り込まれている。<図2>の日本と韓国の位置が象徴的だ。

ひとえに忍耐・克己ですね。日本語脳の中に考えが育たないので、教育は暗記中心の洗脳教育になります。生徒は先生に教えの内容を求めています。

>もしそうなら、学校教育の問題ということになる。今年春に公示された新学習指導要領では、こうした弊害を克服する方向が示されている(アクティブ・ラーニングの重視など)。21世紀の学校では、学びの楽しさを理解させること、生涯にわたって学習する態度を育むことに重点を置かねばならない。

そうですね。アクティブ (能動的) が大切ですね。
日本人には意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容で表されるが、日本語には時制 (tense) というものがありません。ですから、日本人には意思も無く、意思のない所には、方法 (仕方) がない。能動がなくて、受動ばかりがある。加害者意識 (罪の意識) が無くて、被害者 (犠牲者) 意識ばかりがある。閉塞感のある実に恨めしい生活です。
我々日本人は、日本語と英語を熱心に学ぶ必要があるのではないでしょうか。そうすれば、意思を使った発想法も習得出来て、私達の自己の表現が豊かになります。News Week のような週刊誌も発行できるかもしれません。

>-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-


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コぺル君

2017-12-02 02:28:27 | 文化
>【あらすじ】少年の名は、コペルくん。本名は本田潤一。中学二年生、十五歳。思春期まっただなか。コペル君は、二年前にお父さんを亡くし、旧市内の邸宅から郊外の小ぢんまりした家に引っ越します。そこには、お母さんの弟である叔父さんがちょくちょく来てくれます。二人は大の仲良しで、コペル君というあだ名をつけたのも叔父さんです。さて、コペル君はなぜコペル君と呼ばれるようになったのでしょう…?>●コペル君が発する問いは、いつも根源的である。>お父さんを亡くし、少年時代が終わるとともに、物事が今までと違って見える時期。>コペルくんの真摯な問いに、コペル君の叔父さんは全力で応える。>自分が知っていること、経験してきたことのすべてを賭けて。

大切な叔父さんですね。

>コペル君は、なんて幸せなんだろう。>大人になっても大部分ははっきりとは答えられない問いの答えを、丸ごと受け止めて応えてくれる大人が近くにいるのだから。

そうですね。あまり見かけるタイプの人ではありませんね。

>●常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ>コペル君は、世の中や人生について本気で考えるようになった。>叔父さんは、コペル君のお父さんからコペル君が立派な人間になるように頼まれていたので、真面目に応えようと思っている。>叔父さんがまず言ったのは、「自分の頭で考える」ということだった。

そうですね。自分の頭で考えることが大切ですね。暗記ものの勉強で時を浪費するのはよくないですね。

>人間としてこの世に生きていることはどういう意味があることなのか、立派な先人たちの智慧は残っている。 それらの書物を読み、立派な人々の思想を学ばなくてはならない。>しかし、それにしても最後の鍵は、――コペル君、やっぱり君なのだ。

そうですね。最後の鍵は、コぺル君自身の問題ですね。

>君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてい見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。>だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。>君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。

そうですね。経験哲学が必要ですね。

>そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。>それが、本当の君の思想というものだ。これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。>(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」岩波文庫P53~54)

ごまかして得になる人はいない。ごまかされて損になる人もいない。それが人生哲学です。

>世間の眼よりも何よりも、自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に魂で知ること。>いつでも、胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはならない。>いくら立派な思想や哲学であっても、自分の中で咀嚼し、体験に照らし合わせて、心身の奥底から湧き上って来るものでなくては、意味がないのだ!

そうですね。自己の哲学が大切ですね。受け売りの論客ばかりでは実りが無い。不毛の議論になります。

>●生産する人と消費する人~生み出す働きこそ人間を人間たらしめる>コペル君のクラスに、皆にからわれいてる浦川君という子がいた。>浦川君が学校を3日ほど休んだので、コペル君はお見舞いに行く。>コペル君が見たものは、浦川君が家の商売の手伝いで、油揚げを器用に揚げている姿だった。>コペル君は、感心する。運動をやらせても、勉強をやらせても、学校ではからっきしの浦川君が、器用に箸を使って油揚げを揚げるのだから。

浦川君は、勤勉ですね。’挫けちゃならない人生’ が、もう彼には始まっていたのですね。

>その様子を叔父さんに聞かせると、叔父さんは、ノートに次のように答えた。>考えて見たまえ。世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして、人間の労働の産物でないものはないじゃあないか。(中略)>自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちが立派な人間か、>どっちが大切な人間か、――こう尋ねてみたら、それは問題にならないじゃあないか。>生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。>生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。>これは、何も、食物とか衣服とかいう品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ。>だから、君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。
>(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」岩波文庫P138~140)

人間そのものの価値は誰も同じでしょうが、生産する人は一般的に尊敬されますね。

>コペル君と浦川君との違い。>それは、「生産する人」と「消費する人」の違いである。>確かに浦川君の家に比べ、コペル君は裕福である。>しかし、浦川君は、すでに生産する側の人間である。>コペル君は、まだ何も生み出していない。まだ消費する専門の人間である。

他人に影響力を与える人には、注目する必要がありますね。

>いくら自尊心がある人でも、貧乏な暮らしをしていたら、引け目を感じるというのは免れがたい人情である。>人間であるからには、たとえ貧しくとも自分をつまらない人間と考えたりしないように、また、豊かな暮らしをしていても、自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打ちにしっかり目をつけて生きてゆかねばならない。>それでも、恵まれた境遇にいるコペルくんは、貧しくとも生産している人々への慎みを忘れてはいけない、と叔父さんは言う。

人には自重が大切ですね。

>●人間だけが感じる人間だけの苦痛とは?~過ちを認めること >コペル君は、友人の北見君が上級生から殴られた時、同じく友人の浦川君や水谷君のように、かばうこともできず、ただ傍観してしまう。>なぜ、自分は浦川君たちのように、北見君の前に出ていかなかったのか。>出ていこうと思ったけれど、勇気がなくて出ていけなかったのだ。

‘彼を知り己をしれば、百戦危からず’ ですね。 ‘飛んで火にいる夏の虫’ にはなりたくない。

>コペル君は、ひどく悔いる。病気になるほど悔いる。>言い訳をたくさん考える。しかし、いくらごまかしてみたって、自分が北見君をかばえず、上級生の前に出ていけなかったという事実は消えない。>叔父さんもお母さんも、過ちを犯したからこそ、正しい道が見えると説く。

そうですね。正しさが理解できなければ、過ちも見つけられないですね。強者の怒りは抑止力になる。弱者の怒りはごまめの歯ぎしりにおわるのか。力は正義である。Might is right.

>これからどのような時代になるのか、その中で己がなすべきことは何か?活力は再生するのか?をまさに大転換の現代においてみんなが模索しているからこそ、この著書を手に取る方が増えているのではないかと思いました。

そうですね。同感です。大転換が必要ですね。

>実現塾でも、○○年に××戦争が起こったとかそういう試験で問われるような表面的なものはほんとにスルーですが、歴史に貫通している普遍的な社会の構造や人々の意識を掴むことを主眼にしたとたんに、小中学生の目は輝き出し、どんどんこうじゃないか、ああじゃないかと追求し出します。その時の人々の意識に同化して、構造(幹)を掴んでいくのです!>そういう欠乏が本当に高まっている!と感じます。

そうですね。暗記ものの勉強は良くないですね。自己表現こそが大切ですね。


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人間序列

2017-12-01 15:00:46 | 政治
>いまも日本は学歴社会なのか?

いまも学歴社会でしょうね。そうでなければ、我が国の序列人間が困ります。

>◆『坂の上の雲』に見るかつての学歴社会
>教員をしていたという人から、「いまでも学歴社会なのか?」と訊かれた。出自や人格などより、学歴 (学校経歴)が社会的地位を決定する度合いの強い社会が学歴社会である。つまり、いい学校を卒業しているほど高い報酬を得られる社会のことだ。

人間序列の形成の始まりですね。

>学歴社会は、いつから始まったのだろうか。それを考えていくと、明治という時代にぶつかる。この時代の登場によって崩壊した江戸時代は、家柄が社会的地位を決定する最大のものだった。武士の家に生まれた者は武士、百姓の家に生まれれば百姓と、最初から社会的地位は決められていた。それが、明治維新をきっかけに一転した。

世の中が変わったのですね。

>日清・日露の戦争の前後を描いた小説『坂の上の雲』で、著者の司馬遼太郎は、この小説の主人公の一人である秋山好古の父の次のような言葉を記している。 「信や、貧乏がいやなら、勉強をおし」信とは、秋山好古の幼名である信三郎からきている。彼の父が上記のようにいった理由を、司馬は次のように記す。 「これが、この時代の流行の精神であった。天下は薩長にとられたが、しかしその藩閥政府は満天下の青少年にむかって勉強をすすめ、学問さえできれば国家が雇用するというのである」

政府は、学問と雇用を結びつけたのですね。

>信は、佐幕藩として明治維新を迎えた伊予(愛媛県)松山藩の武士の子だった。明治の最大の出世コースだった薩摩と長州による藩閥とは無縁だったわけで、これに抗して社会的地位を得て高い収入を得るためには「学問さえできれば国家が雇用する」という道を選ぶしかなかった。だから父は、「勉強をおし(しなさい)」といったのだ。

身分による序列の固定が外れてよかったですね。

>その言葉のように明治政府は、行政官や技術者を育てるために大学をつくり、近代的な教育を普及させるために師範学校をつくって教員を養成し、優秀な軍人を得るために士官学校をつくった。そして、藩閥に関係なく優秀な人材を採用した。そうした学校を卒業して行政官や技術者、教員、軍人になることが「貧乏」とは無縁な生活を送る手段だった。まさに、学歴社会だったのだ。

実学 (技術) は、職業教育になりますからね。

>◆教育の世界だけが、いまも学歴社会を信じている

人間序列の形成には、学歴が頼りですからね。学歴の中身が問題となるのではない。ものの上下にこだわりがある。

>現代でも我が子に対し、信の父同様に「勉強しなさい」という父親や母親は多い。信の父は口うるさくいったわけではないが、口やかましく言いつづける現代の親は少なくない。そこには、信の父と同じように「貧乏がいやなら」という気持ちがこめられている。父親も母親も、現在も学歴社会がつづいていると信じているわけだ。

学歴以外に序列順位を決める手立てが外に見当たらないです。

>親だけではない。子どもたちも、学歴社会を信じている。その傾向は、強まってさえいる。

日本語には階称 (言葉遣い) がある。だから、序列メンタリティは避けられませんね。

>ベネッセ教育総合研究所の「第5回学習基本調査」(2016年1月)で、一流の会社に入るために学校の勉強は役立つかという質問に、「とても役立つ」と答えた小学生が2015年で46.2%いる。2006年の同じ調査では32.6%だったので、学校の勉強が一流の会社に入るために役立っていると考える小学生が増えていることになる。同じ調査で、中学生でも同様の傾向になっている。

日本語の社会は、序列社会になりますね。小学生も中学生も序列人間の卵です。

>つまり、明治時代とも共通する学歴社会が、親や子の意識のなかではつづいているのだ。だから子どもたちの多くが、夜遅くまで、休日返上で、学習塾にかよっている。その安くもない授業料を、親たちは負担している。

教育費は、国家負担にすると良いですね。

>しかし、明治のころのような「学問さえできれば国家が雇用する」という傾向は希薄になった。雇用する主体は国家から企業に移った。

官業は廃れましたからね。

>その企業は、さかんに「人材不足」を嘆きつづけている。一流といわれる大学の卒業生を大量に受け入れている企業でも、「人材がいない」と平気で口にする。だから、一流といわれる企業に入社しても、一生が補償される状況ではなくなってきているのも事実だ。合理化という名の下に整理されることもめずらしいことではない。

人手不足などではない。我が国は、頭脳不足でしょう。

>学歴社会は壊れてきている。それでも、教育の世界だけは学歴社会を信じようとしている。しがみついている、といっていいかもしれない。それが、ほんとうに子どもにとっての幸せにつながっているのだろうか。

学歴は、教育者の飯のタネですからね。執着しますね。何しろ、無哲学・能天気ですからね。今だけ、金だけ、自分だけでしょう。処世術を捨てて、哲学の勉強をしなければいけませんね。さすれば、我々は教養人になることが出来ます。



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