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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

偏差値

2017-12-12 05:33:18 | 政治

>最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。>偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。

そうですね。同感です。価値観の倒錯ですね。

>評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。>それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。

大和民族は、ひたすら序列を求めてやみませんね。

>それによって、人生の進路まで決められてしまう。

そうですね。序列社会における個人の進路は、序列により決められています。

>これは、非道だ。>人倫の道にもとる。>人間として許されざる事だ。>何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。

日本語には、階称 (言葉遣い) がありますから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は避けられせんね。判断には、上下の基準が必要です。ですから、公の基準を求めることになります。
日本人は、礼儀正しい民族で、礼儀作法も序列により定められています。ですから、人を見損なってはいけないのです。序列感覚なしでは社会生活が成り立たないのです。だから、世俗の序列を求めてやまないことになります。序列なきところに、礼儀なしです。外人・非国民にはなりたくない。

>偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。

そうですね。残念ながら偏差値が我が国では人間序列の基準に使われていますね。世俗の価値は、何を採ってもむなしい限りです。哲学が無い。ただ、処世術にまい進するばかりです。

>偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。

そうですね。個性を認めない我が国の評価法は、非人間的ですね。
考えの内容は、個人個人で違います。考えが無ければ、個人の違いは出て来ません。没個性の状態は、ちょうど幼児やアニマルの様なものであります。
日本語は、現実描写のための言語です。考え (非現実) の内容は語れない。ですから、言説から個人の違いは出て来ません。言説から個人の違いが出てくるような状況であれば、この個人的な違いを擁護するために、個人主義が必要になります。個人に違いがみられないようであれば、個人主義の必要性もありません。
言語は、考えるための手段であります。言語が違えば、考え方も違います。英語の文法には時制 (tense) というものがありますが、日本語にはありません。時制があると、非現実の三世界(過去・現在・未来) の内容が語れます。ですが、日本語文法には時制が無いので、日本人には自分の考えが語れません。ただ、恥じらいを表します。ですから、日本人は没個性です。非人間的な処遇から脱することが出来ません。
日本語と英語の両方を学んで、理にかなった考え方を致しましょう。そうすれば、禍を福となすことが出来ます。


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現代大和言葉

2017-12-11 11:52:45 | 教育

> なぜ「現代やまとことば」か?
> 巨大な言語である日本語には、日本語の中でも共通語が必要ではないかと思っています。> 母語話者として日本語を使っている人は、日本人の人口よりやや多いと言われています。> 世界中の言語の中で9位に位置する人数となっており、決して少ない数ではありません。

そうですね。日本語は、特に役立つ言語でしょうね。それにしても、ほとんどが母語話者ばかりで、国際語とならないところが惜しいところです。

>ところが、日本語話者の間であっても、会話の理解の割合は、他の言語話者に比較すると少ないと言われています。

そうですね。日本人の精神活動は文章にはならずして、人の心から心へと直接伝えられますからね。以心伝心・不立文字。日本人には意思が無いので、日本語は意思疎通のためには不向きな言語です。

>つまりは、日本語話者同士の会話であったとしても、決して言いたいことがきちんと伝わっていることではないことを示しています。

そうですね。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) では言いたいことがきちんと伝わりませんね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切です。しかし、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできません。ですから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となります。こうした精神状態では、国際社会に立つことは難しい。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならないものは、考えではありません。

>その原因としては、日本語が他の言語に比べて圧倒的に表現が豊かであることがあります。>また、民族の性格として、自分のことを多く語ることを良しとせず、「行間を読む」というような言語外のニュアンスを推察することを重んじるからだと言われています。

文章ができないから、行間を読むこと (忖度・推察) が発達したのでしょうね。しかし、文章が無ければ、意味は成り立ちませんね。これは国語教育に関する深刻な問題です。

>ほとんどの人が同じような社会生活を行なっているときは、それでも何の問題もなかったのだと思います。

そうですね。なーなー主義の生活ですね。非言語生活を送るアニマルの様なものです。

>ところが、社会の層や幅がどんどん広がるにしたがって、自分の知らない社会が広がっていきます。>より細かくなり専門化していきます。> 様々な専門用語が生まれ来るとともに、それまでの言葉も使われ方が変わっていきます。> 結果として、同じ日本語のカテゴリーではあっても自分の理解しにくい言葉が増えていくことになります。

そうですね。膨大な数の外来語は、純然たる日本語ですからね。

> 特に、漢字はとても造語力のある文字ですので、新たな言葉は日々生まれていると言ってもいいくらいです。

それにしても、漢字には字数の制限が加えられていますからね。時代に即した新しい漢字の導入は今後も期待できませんね。

> 私は「現代やまとことば」として、ひらがな+訓読み漢字による表現を推奨しています。>あまりに便利すぎる漢字に頼ることで、意味が伝わりにくくなっていると考えているからです。

そうですね。いっそのこと漢字を廃すれば、日本語の音読も容易になり、日本語の習得もずっと楽になります。

>なぜ、訓読み漢字なのか?> 漢字による表現を確認することで、その理由をみていきたいと思います。> 日本人は、漢字を使いこなすことによってさまざまな文化を取り込んできました。> 漢字は表意文字ですので、文字として見ただけでその意味するところを感じ取ることができます。>しかも、音読み漢字は簡単に重ねていくことができますので、何文字繋がろうともその意味するところは容易に理解できます。

そうですね。漢文と同じですね。

> 反対に、漢字がたくさんつながっている言葉ほどその実態をより具体的に正確に表していくことができます。> 役所や会社の部署や役職などがそのいい例ですね。

そうですね。漢字オンリーの国では、ものすごいことが起こっているわけですね。

>ところが音読み漢字がたくさん重なると、文字としては正確さが増したとしても音として聞いたときには「?」となることが多くなります。> 中国語を分からない日本人が中国語の発音を聞いたときに、一生懸命に漢字を思い浮かべようとしていることと同じことが起こります。

そうですね。私もアメリカ製の中国地図を見ているときに、一生懸命に漢字を思い浮かべようと努力しています。

> 音読み漢字は文字として見える場合にはその力を充分に発揮しますが、音としてのみ伝える場合にはとても理解しにくくなるのです。

そうですね。同じ漢文 (同文) を使っていても、地方が違えば中国人同士でも言葉は通じません。ですから、北京大学の新入生も中国語の勉強を始めなくてはならなくなるのです。

> 日本語の発音の基本音は母音を軸とした「ひらがな」の音でできています。> 他の言語に比べて基本となる音の数が極めて少なくなっています。>その分、同音異義語が多く存在することになります。>この現象は、音読み漢字において典型的に見受けられます。

原則として一字一音の中国人が驚いていますね。逆に、当然のこととして、異音同義語もできています。’城’ という漢字も、宮城 (ぎ)、与那城 (しろ)、金城 (じょう)、玉城 (き)、中城 (ぐすく)、などとなります。

> 馴染のない音読み漢字の重なった言葉を聞いたときには、頭の中でその音を持った漢字を探します。>それが意味のない文字の組合せしか浮かばない場合に「?」となります。>また、発信側の意味する漢字の組み合わせと異なったものを思い浮かべることもあります。>この場合は、完全な誤解として理解されてしまいます。

そうですね。

>また、音読み漢字には動詞がほとんどありません。> 思いつくものは、「論ずる」、「牛耳る」、「講ずる」、「動じる」などでしょうか。> 音読み漢字は、そのほとんどが名詞なのです。>これには、漢語の導入前に存在していた文字のない時代の言葉である「古代やまとことば」の存在が大きいです。> 漢語導入以前の「古代やまとことば」においては、基本動作を表す言葉は既に存在していました。

そうでしょうね。

>その言葉を書き表す文字として漢語を利用しました。>その漢語の読み方が訓読みなのです。> 文字としては漢語(漢字)を使いながら、読みとしては「古代やまとことば」を元にしたものが訓読みなのです。> 漢字の訓読みは、文字の無かった「古代やまとことば」に対応した充て字なのです。>ですから、訓読みは音では「やまとことば」(ひらがば)になるのです。> 音だけで理解できる言葉になるのです。> 反対に、訓読み漢字から「古代やまとことば」で使われていた言葉のニュアンスを知ることができます。> 例えば「かく」と読む漢字を並べてみましょう。> 書く、描く、欠く、掻く、画く、などが出てきます。>これらすべてに共通する動作なり動きが「古代やまとことば」における「かく」という行動になります。

そうですね。古代大和言葉の勉強にもなりますね。日本語の理解ですね。

> 「現代やまとことば」、ひらがな+訓読み漢字は音で聞こえるものはすべてひらがな(やまとことば)になります。> 漢字を探す必要のない言葉です。> 音だけで意味が理解できる言葉です。

そうですね。現代大和言葉は、表音文字で意味が理解できますね。日本語をローマ字 (alphabet) 表記にすると、音読が容易になりますね。特に、非漢字圏の人々の日本語学習が楽になります。

> 伝える環境や条件が厳しくなればなるほど「現代やまとことば」が生きてきます。

日本語を国際語にするように努力すると、我が国は世界規模の実学 (技術) の普及に貢献することができますね。頑張りましょう。
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ひどい話

2017-12-08 17:23:56 | 文化
>日本人のやることはすべて嘘。> 外面、比較、他者との競争でしかない。>リンクから引用させていただきます。
>---------------------------------------
>学校に行けば、勝ち負け、何番で、比較ばかり。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断ですね。勝負で決めるのが一番わかりやすい。我が国では、人間の序列が大切ですね。

>音楽や美術も、楽しいから、わたしがやってみたいから、という心の内側からのものではなく、比較、競争、コンクール主義。 勝ち負け、うけるか否かの世界。

そうですね。品定めが大切ですね。

> (中略)
>生きること自体を問う「恋知(哲学)」の文化はなく、学校ではそういう時間はゼロ。代わりに「道徳教育」とは恐れ入る。

日本人は、無哲学・能天気ですからね。自己の哲学が無ければ、判断基準としてお仕着せの徳目を暗記するしかないでしょう。

> (中略)
>言葉ではいいことを言う人も、本音(日々の生活仕方・価値観)は、五十歩百歩です。

本音は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) ですね。人に話すことは出来ない内容のもの。

>「日本に哲学なし」とか「日本人は生まれながらに哲学とは無縁」といわれて久しいですが、目の前主義で「外面人間になる努力」以外は知らないで生きる人の集団が日本人だとしたら、言葉を失うほど悲しいこと。

内面が無ければ、外面だけになる。
内面の内容は、哲学 (非現実)であって、見ることは出来ない。話になる。あるべき姿の内容である。
外面の内容は、処世術 (現実) であって、見ることができる。今だけ、金だけ、自分 (たち) だけの結果となる。

>日本にあるのは、ただの事実学の累積と技術知だけかもしれません。

そうですね。我が国の実社会に対応する学問は、実学 (技術) です。教養はありません。

>哲学までもその延長で、西ヨーロッパの近代哲学(キリスト教化された視点から解釈されたギリシャ哲学も含む)の書物の読解が哲学と思われているようです。それでは、大学教授の職業テツガクにすぎません。

そうですね。我が国の大学から、受け売りの論客が輩出しています。不毛の議論で会議が空転しています。

> 自分が感じ想うところから、自分の頭で考えるという人間の人間的な生がフィロソフィー(恋知)なのに、その基盤・土台が脆弱なために「情報」や「書物」に頼り知ったかぶりをするのはヒドイ話です。

日本語は、現実描写のための言語です。非現実の内容は、文章になりません。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、見ることが出来ます。ですが、非現実の内容は見ることが出来ません。だが、話 (文章) になります。これは、考えの内容です。
現実の内容は、頭の外に存在する。非現実の内容は、頭の中に存在する。両者は所在が違うので、内容が同じにはならない。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。暗記の様なもの。
非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになる。人間の知力のたまものである。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。哲学の基盤・土台が脆弱なためです。

>これを読んでいるあなたも要注意! 

はい、私も注意して読ませていただいております。

>フィロソフィー(恋知)なしに生きるなら、それは人間の人間としての生ではありません。

そうですね。アニマルもそれで生活しています。

>いまの暗記とパターン知のテストで満点を取るような人は、この基盤がない証拠です。

そうですね。ニホンザルの湯あみ程度のものかもしれませんね。

> 恋知とは、知識ではなく、誰でもがもつ自分の固有の精神世界を豊かにしていく日々の実践です。

そうですね。西洋人は、大人になると ‘考える人’ になります。
印欧語族の言語には文法に時制というものがあって、非現実の内容を盛り込む枠組みが脳裏に出来ています。この枠組みの中の空白はどうしても気になるので、考える人になります。思慮深い人が出てきます。
日本語文法には時制というものがなく、脳裏に非現実の内容を盛り込む余地はありません。ですから、無哲学・能天気のままで一生を過ごすことになります。浅薄な人間のままで過ごします。

>自分が感じ、想い、考えるのですから、誰でもいつでもできますが、その方向(沈思と自問自答)への教育がなく、個人の努力がありません。

感じ、想い、考える単語は、日本語には構文がないで、バラバラなまま存在します。ですから、日本人は歌詠みになります。バラバラな単語は忖度 (推察) されて鑑賞されています。忖度は、自分勝手な解釈であるから論拠もなく、議論の対象にはなりません。ですから、日本人は、議論下手です。

>それなくしては意味のある対話は成立せず、ただ、相手に勝つ話法と部分知識ばかりの不幸な世界。

不毛の議論ばかりですね。処世術のなれの果てか。

>(中略)
>それならば、「日本人のやることはすべて嘘」になります。

現実は本当のこと。非現実は嘘。考えの内容は、すべて嘘。現実の世界は、嘘か本当かの世界です。子供の世界の様なものか。

>心の内から湧き上がるものがないままに「優秀」な人になる!?芸術家になる~???みな「芸を仕込まれたアシカ」になるだけです。

そうですね。自己の表現が無い。個性が無い。世界に影響を与えるものが無い。

>なんともヒドイ話ですが、相当程度現実です。

当たらずと言えども、遠からず。
>--------------------------(引用終わり)-----


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右翼

2017-12-08 13:30:16 | 日本語脳
>法は、他民族や多宗教など決して分かり合えない関係社会から生まれた。

そうかもしれませんね。

>その代表は、西洋社会。>契約絶対の社会も同様で、信用ならない他人(血縁も)と関係を結ぶには契約が欠かせない。>神とも契約関係にある。

我々は、同じ地球村の住民ですからね。どうしても信用が必要です。

>その心情は、日本人には理解できない。

そうですね。言語は、考える時の道具ですからね。言語が違えば、考えられないことも少なくありませんね。

>日本人は、誰もが納得する真実があると考えており、拠りどころとしている。

日本人の世界は一つですからね。ただ一つの現実の世界ですからね。納得させられますね。

>その真実とは、世間の道徳であり、不文律の規範である。

世間とは、島国のことですね。島が違えば、不文律も違う。

> ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>右翼になろうよ♪ より
>日本人は世間の空気を読めない原理主義が嫌いリンク>日本人は法そのものを理解できない。

法は文章内容ですからね。理解しなくてはいけないですね。日本を教育立国にしたいですね。でも、入試地獄は困ります。

>法は、利害が対立する両者の利害を調整するものだ。>多民族、多宗教の間の決して分かり合えない関係の社会から生まれた。

我々は、小さな地球村の住民ですからね。どうしても相互理解が必要ですね。

>それに対して、日本人は法を真実を明らかにするためのものと考える。

法により真実が明らかになったら、’それがどうした?’・’その真実をどうする?’ ということが問題になりますね。

>日本人にとって真実は必ず一つであり、全員が納得する真実があると考えている。

真実 (現実) は一つですね。しかし、’その真実がどうした’ ということになりますと、個人の意見は一人ひとりで違いますでしょう。

>桝添叩き、安倍叩き、タレントの不倫叩きでは真実を求める。>しかしそれは法ではなく世間の道徳だ。

世間の道徳は、事後法の様なものですか。事後に決められるのですか。

>世間にとって、血筋、家柄、国家権力、独裁者だろうが、関係ない。>彼らも日本人であり世間の一人でしかない。>そして真実は一つであり、何者も逃れられない。

そうですね。同感です。しかし、すべてが真実であって、’それでどうする’ の答えが無いのでは、調査の意味もありませんね。意見が多数あったらどうするのですか。

>いかなる法が作られようが、それが真実を違うなら法を変えればよい。>なぜなら日本人なら真実は一つだから。

真実・現実は一つでも、人の意見は数々あって、個人個人で違うでしょう。

>だから自民党がずっと与党でもなんの問題もない。>彼らも世間の一部でしかなく、世間を見ながら政治を行う。

為政者は、日和見主義ですか。個人に意見の無いのは、問題にならないでしょうか。

>ただリベラルが面倒なのは、西洋かぶれで真面目で、世間の空気をよめない。

真面目に問題はありませんね。’空気が読めない’ とは、忖度 (推察) ができないということでしょう。忖度は、自分勝手な解釈ですからね。論拠のない判断です。理不尽ではありませんか。

>だから日本人をやめて国際人だとかほざいて、調子にのって世間と対立する可能性がある。

国際人は、非国民・外人ということになるわけですね。すると、日本国民・日本人の方は ‘井の中の蛙’ になるのではないでしょうか。

>日本人はキリスト教や左翼など、原理主義的なものが大嫌いだ。

そうですね。日本人は、’正しい作文・正しい解釈’ という語学の道は大嫌いですからね。

>なぜなら同じ日本人なのに、世間の空気を読まず、世間に対抗する。

‘空気を読む’ ということは、忖度 (推察) を働かせることでしょう。忖度は、自分勝手な解釈ですね。その判断に説明責任が取れませんね。’とかく、この世は無責任’ となるでしょう。国がひっくり返っても、その責任者は出て来ない。

>世間とは異なる真実を作ろうとする。

彼らは、世間 (現実) とは異なる未来社会 (非現実) をこの世に実現させようと努力しているのではないでしょうか。


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道徳教育の効果

2017-12-07 17:45:37 | 政治

>■道徳とは精神世界の領域
>まずこれは言うまでも無い事ですが、道徳というのは人間の精神世界の問題です。> 1 善悪の基準や価値観の理解> 2 社会通念上の決まりごとを守る意志> 3 他者への敬意> 4 周囲の人間の利益を考える高度な人格>およそこのようなものを高めることが道徳教育に求められている役割だと言えるでしょう。>しかし、現実にはどうでしょうか?>私自身は全くもってこの道徳教育がいじめや、これに起因する自殺事件を減らせるような効果は皆無だと考えています。

目的はあるが、手段は無いということですね。

>小学校低学年から道徳の授業などをこなしていても、現実問題としていじめは無くなってなどいません。>現に2000年代になってからでも、善良な人間性を持った人を育てるなどという学校現場でいじめを苦に自殺する人が全国各地で相次いでいます。>大津市のいじめ自殺事件でも、その事件のあった中学校は道徳教育の素晴らしさを文部科学省から認められていたという背景もありました。>そのお墨付きというものが存在した学校でも、あれだけの陰湿で悪質極まりない犯罪行為をする人間がいて、自殺してしまった生徒を出していたのです。

お墨付きは、いじめ防止の役に立ちませんね。

>道徳の時間割を設ければ、子供が善良になるでしょうか?>道徳の時間を増やしさえすれば、いじめが無くなり自殺する人も出なくなるのでしょうか?>・・・言うまでもありませんが、無くなるはずがありません。>これはもう過去の歴史が証明してきたことです。

そうですね。

>文部科学省がいじめゼロの達成などというご立派な目標を掲げて、それが達成できていたという時期がありました。>しかし、フタを開けてみれば現実にはいじめ自殺が各自治体の学校現場で度々起きていたのです。>それを文科省などの教育関係者などが闇に葬って、数字だけを都合よく見せていただけだったことは既に明白の事実です。>学校の教師や教育委員会の人間らも、結局は自己保身のことだけを考えて真相を公開するどころか隠蔽しようと工作していたことも1度や2度ではありません。

教師も教育委員会も良策が見つからないので、とりあえず保身ということになったのではないでしょうか。

>とりあえず道徳をしていればいいとか、いじめ自殺が問題になってきたから道徳をとりあえず増やそうなどというのは傲慢で愚かな独りよがりの演技に過ぎないのです。

演技力では、問題解決には至りませんね。

>いじめ自殺が起きたとしましょう。>数値を良く見せないと上から評価されないから学校の教師や校長は自殺事件を隠蔽します。>教育委員会も文部科学省やメディアからの糾弾や処分などを恐れて、同じような事を続けるだけです。>そして文部科学省も教育の現場を数字で管理して、とりあえず都合の悪いことを隠してよい数字を出せばそれでいいという体質が変わりません。

良い数字を出す体質ですね。

>道徳というのはそもそもとして、数字で計測できるようなことではないのは少し考えれば殆どの人は理解できると思います。>目に見えない心・内面の成熟度というものを、目に見える形でテストのように単純に数値化などできないことを、学校の教育関係者などは本当に理解しているでしょうか?>・・・理解しているはずがありません。

心・内面の成熟度を数値化することは、聞いたことがありませんね。

>上から目線で教師や教育関係者が子供を見下ろしている限り、恐らくそうした人間たちは一生気付く事はないと私は考えます。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがありますからね。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、日本人には生涯避けられませんね。

>■教育関係者が道徳を備えていない現実
>そしてもう1つ、決定的に忘れてはならないことがあります。>それは、教育関係者などの管理する側の人間がまともな道徳などを備えていない事です。

教育関係者は、聖人・君子ではありませんね。

>いじめ自殺が起きてもそれを黙殺し、人命が失われたという現実よりも、学校の評判や自分たちの社会的身分を守ることしか考えられない大人が道徳があると言えるでしょうか?

昔からある見栄と外聞の問題ですね

>私には全くそのような倫理観や道徳観念が高い人間や組織だなどとは全く思えません。

そうですね。

>言うまでも無くもはやこうした事件が全国各地で相次いで起きており、それを葬って学校の運営などしか考えない人間などが道徳の授業をするということ自体おかしなことです。>もはや笑えない冗談・ギャグだと言われても致し方ありません。>社会正義と真実を公平・公正に追求する人間を育てるなどという学校の管理者たちが、この道徳を備えていないというのでは説得力が無さ過ぎます。

道徳を備えた学校の管理者は、いったいどこにいるのでしょうかね。

>道徳を高めるということは、もはや学校に期待しても無意味であり、的外れもいいことなのです。

そうですね。どこか的外れでない期待のできるところは有りませんかね。

>英語が話せない人に英語を教わろうなどという人がいれば、頭の痛い人だと誰もが思いますでしょう。>教育現場で起きていることというのはもうこの手のことと何ら変わらないレベルまで来ているのです。

そうですね。これは、現実描写の内容ですね。何か良い解決方法は有りませんかね。
論客は、’ああでもなければ、こうでもない’ と力説する。しかし、決して自分がどうであるかを示さない。自分には、考えというものが無いからである。
考えの内容は、’あるべき姿’ の内容である。あるべき姿は、’今はない姿’ である。それは話の内容であるので、見ることは出来ない。嘘・本当の嘘に当たる。’話にうつつ (現) を抜かしてはいけない’ と言われているので、日本人は非現実 (考え) を語ることが出来ない。だから、発言は実況放送・現状報告の内容だけになる。



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