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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

没頭できるもの

2019-01-18 13:42:06 | 教育

(略)
>○ 仕事ができる人間と学歴は関係がない
>汐見 稔幸(しおみ としゆき)/東京大学名誉教授。1947年生まれ。東大教育学部卒業、同大学院博士課程修了。専門は教育学、教育人間学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。2007年から現職。同短大学長も兼務(撮影:梅谷秀司)
>──人には得手不得手があると。
>もともとそう。>誰もがそんなにいろんなことができるわけではない。 >むしろ可もなく不可もなしのことをいっぱいやり、満遍なくできる人間ほどつまらないものはない。

そうですね。満遍なくは、没個性ですからね。

>それより、こっちは苦手だが、これをやらせたらすごいという人はたくさんいる。>でも、「平均的な底上げ」を得意とし、「年相応の学び」を提供してきた学校教育は、そういう人間を伸ばせるシステムとはいえない。

そうですね。金太郎飴の製造工場のようになりますね。

>──優れた大人のイメージは父親ですか。
>印象的だったのは近所の大工の棟梁。>その人のやっていることを見ていると、すごく格好いい。

そうでしょうね。’好きこそ物の上手なれ’ ですね。

>僕自身、自分用の大工道具一式を小学校に入る前には持っていた。>父は仕事人としては一人前だが、学歴がないからNHKの音響技師に応募して断られたということもあったらしい。

父子ともども並外れた才能の持ち主ですね。

>本当に仕事ができる人間と学歴は関係がない。>上手な手助けのシステムがあれば、人は勝手に育っていく。>自分で自分の人生を作っていると実感できれば後悔もない。

そうですね。

>もちろん医学など大学に行かないと学べないことはたくさんある。>だが、そこに行かないと研究できないのだから、それはほとんど職人仕事だとも言ってもいい。

そうですね。高度と称される職業は、実学 (技術) ですね。

>──没頭できるものとの出合いが大切?
>世の中、こういう枠組みがあるから、そこに入りなさい。 >その中で、点数取りの競争をして、それに向いているからと銘柄の大学に入って、それも末は博士か大臣かではなく大企業の課長止まり。 >今のリクルートシステムの主流はこう作られているが、教育はそんなつまらないものではない。

現在の学校は、序列人間を作るための装置になっていますからね。同次元の序列争いの中で、序列人間は作られる。わが国のような序列社会では、公的な序列が何よりも重宝がられていますね。

>文学作品を読んで感動して、こういうものを書いてみたいと文学教室に入ってみる。>いろんな人と出会い、切磋琢磨し合う。 >結局プロにはなれなくても、今でも自作に励んでいる。 >そうであれば人生に満足できる。

そうですね。自分の意思に従って生きれば、悔いはありませんね。

>文章ではなく、料理にはまってその世界に入っていってもいい。

‘私は、首相にならなかったら、料理人になっていた’ というドイツ人の政治家もいましたね。

>本当の文化に出合い、そこで没頭する、凝ってみたいと高揚する。 >それこそが生きていくうえでのテーマなのだから頑張ってみる。 >そういうシステムがあったら、もっと面白く、アイデア豊かな人間が育つのでないか。

本当に、そうですね。個性豊かな人間が育成されるでしようね。

(略)



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表意・表音

2019-01-17 14:46:39 | 言語



>日本語の不思議 表意文字と表音文字 >リンク より
>今回は、日本人のユニークさの真意というものを文字という言語面からみていこう。>実は、どの世界を見ても、言語を示す文字というのは、基本、一種類しかない。

そうでしょうね。

>しかし、こと日本人に限っては、ひらがな、カタカナ、漢字という三種類の文字を使い分けている。>中には、ローマ字と数字を加えて五種類だ!という方もいるが、実は、日本では、言語を記すために、複数の文字を使い分ける希有な国民であるのだ。

そうですね。日本語の ‘ボーイ’ は、文中で ‘boy’ にはなりませんね。確かに使い分けられていますね。

>ただ、特筆すべきは、単にその種類が多いというだけの話ではない。>実は、日本人は大別して二種類の文字を同時に使い分けている。>それが、ひらがなを代表とする表音文字と漢字を代表とする表意文字である。

そうですね。わが国の学生は、漢字の字形と音訓の習得に多大な月日を費やしていますね。

>漢字は、その一字一字にその意味を象ったイメージというものがある。>昔、とある人材研修で、粘土を使って、感情を表現してください、というものがあったが、当然、そんな漠然したものを表現する場合、その作品は、その意味を象ったものとなる。>そのため、漢字はその物事の真意を反映していることが多い。

そうですね。物事の真意は、人により異なっているでしょうね。その作品は、人人により違った結果になるでしょうね。

>例えば、「我」という字。>これは、一見、自分を意味している漢字だと安易に理解しがちだが、この字の意味するところは思いのほか深い。>実は、この「我」という字は、ギザギザした、のこぎりのような刃物と矛という武具が掛け合わさった字となる。>つまり、強力な武器であると同時に、危ないものを意味するのだ。>実際、「我を出す」ということは、自分を誇示する場合に使われるが、反面、「我を捨てる」といえば、それは、「我」の持つ危険性を意味するところにもなる。

連想ゲームに限りなしか。忖度 (推察) は個人の勝手な解釈ですから、議論にはなりませんね。歌会のようなものか。

>単純に、一人称として捉えがちの字も、その意味するところは、非常に深いものなのである。

我々日本人には、‘我・私・俺’ などいろいろあって、一人称の概念は定まりませんね。
漢人 (中国人) は、自分たちの意味を漢字で表して来ました。しかし、彼らは外国人の意味を表すための漢字を作ることはやって来なかった。だか、外国人の意味を学ぶときに苦労する。

>対して、表音文字は、音を意味する。>その字自体に深い意味はない。

表音文字は音読を容易にするので、言語の習得に威力を発揮しますね。特にローマ字 (alphabet) は、非漢字圏の学生が日本語を学ぶときに便利です。

>以前、中国のネットニュースで、日本にノーベル化学賞が多く、中国に取れない理由をこの文字の差とみる面白い意見がみられた。

化学物質の名前は多いので、古来の漢字の数では容易には対応できないでしょうね。例えば、’ラジウム’ の中国語名は、 ‘日本語にはない文字 (金偏に雷: léi)’ となります。私の手持ちの漢和辞典では対応できませんでした。

>どうやら理数系の事象は、単純に数値や規則を事象として捉えるため、表意文字だとその字に対する固定観念が邪魔立てし、演算的想像力の障害になるというのだ。>だから、この場合においては、表音文字の方が適しているという。

そうでしょうね。中国人は、和文の中のカナ文字を見ると怒りに似たものを感じるようですね。表音に慣れるには、時間がかかりますね。

>しかし、日本人は、この両者の特徴を踏まえながら、ひとつの言語として併用している。

我々日本人は、漢字の ‘音読み’ と ‘訓読み’ と ‘それ以外の読み’ をフリガナの助けを借りて使って苦労して使っています。

>その思考は柔軟であり、複雑な表現に対応できる順応性を示しているのだ。

そうでしょうかね。我田引水にはなりませんかね。日本人は、忖度 (推察) に長けていますからね。しかし、その忖度は、個人の勝手な解釈によるものであるから責任を伴いません。

>日本人の高い順応性は、もしかしたら、こうした言語脳という観点からも証明できるのかもしれない。

そうでしょうね。日本人は、無哲学・能天気だから ‘つかみどころがない’ ですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>日本人は世界でも希有な国民であると。

そうですね。これは、超国家主義 (ultra-nationalism) になるでしょうね。あまり有頂天にならぬ方が良いですね。これも、序列メンタリティのなせる業か。自画自賛症候群と言うのでしょうね。
‘「こんなに世界から愛されている日本」、「イギリスに住んで確信! 日本はイギリスより50年進んでいる」、「日本人に生まれて、まあよかった」など、日本では最近、自国を自画自賛する内容の本・雑誌が増えている。これまで、「奥ゆかしい」、「謙虚」と自負していた日本人がこの種の本を書いているのは、中国や韓国などの隣国の急速な台頭を背景に、「アジアナンバーワン」との自信を保つためで、「自画自賛症候群」を患っているとの声が上がっている。環球時報が報じた。’ (引用終り)
結局、日本人は、’上と見るか、下とみるか’ の考え方からは逃れられない。上下思考は、国粋主義の源泉となるのか。日本語の階称 (言葉遣い) は、精神の危険な因子になるのであろうか。

>(引用終わり)



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作文下手

2019-01-16 09:52:46 | 言語


>342518 「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然 なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか1 >吉 四六 ( 大阪 会社員 ) 19/01/15 PM09  >リンク
>日本人は論理的に文章を組み立てるのが苦手だと言われる。>上智大学で教鞭をとる奈須正裕教授が歴史をひもとき、教育的帰結として生まれた「作文下手な日本人」を浮き彫りにする。>よく、日本人は論理的に思考したり表現したりするのが苦手だと言われる。

そうでしょうね。日本文化のような高文脈文化 (high context culture) の特徴は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達すること。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。

>実際、大学で教鞭をとる筆者がアメリカに送り出した留学生の中にも、最初に提出したエッセーに対して「論理性が欠如している」と評され、他の国や地域から来た学生たちと同じスタートラインにつくのに随分と苦労したと訴えた学生がいた。

日本人がアメリカのような低文脈文化 (low context culture) の国に留学したら、伝達される情報は言葉の中で全て提示されることを要求されます。ですから、勉学に破綻をきたします。それで、留学に人気が出ない。

>その原因については、長年にわたり日本が多文化性の比較的低い国であったこと、以心伝心や「空気を読む」ことをよいこと、または当然のことと考え、期待する文化的風土などから、論理明快に自分の意見を述べる必要が少なかったからではないかとも言われる。

そうですね。日本人は、忖度 (推察) を発達させていますね。何よりも文章を大切にするという習慣がないですね。必要があっても、文法上の制約もありますしね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

意思は、未来時制の文章内容ですから、単語のやり取りでは成り立ちませんね。単語のやり取りは、文章のやり取りとは同等にはならない。文章には、意味・意義がある。単語には、それがない。だから、単語を発声したら、’それがどうした’ と問われることになる。日本人は、これに答えられない。だから、日本人は論理的に文章を組み立てるのが苦手だと言われる。自己の意味・意義を表現するには、自己の文章にして語ることが必要であります。
現実は、頭の外にある。非現実 (考え) は、頭の中にある。現実の内容は、見ることができる。見ればわかる。考えの内容は、見ることができない。その内容は、単なる話である。話が分かるためには、文章を理解する必要がある。だから、英米流の高等教育が必要になる。
バラバラな単語では、自己の考えを表すことができない。考えを表すためには、時制のある文章を作らなくてはならない。だが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、作文下手になる。

時制のある文章により表現される世界は、過去・現在・未来の独立した三世界に分かれる。The sequence of tenses (時制の一致) という文法法則があって、各々の世界の内容は交じり合わないようになっている。前世・現世・来世の内容が交じり合わないようなものである。
これらの三世界について考えると、世界観になる。それぞれの世界の内容を考えると、世界を客観的に見ることができる。評価・批判も可能になる。自己の考え (非現実) がはっきりしていれば、手段の目的化という泥沼も避けることができずに自滅します。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>思考は言語に依存するという考えから、日本語の特質に由来するとの見方も少なくない。>たとえば、語順によって意味が決まる英語のような「孤立語」と違い、日本語は「膠着語」であり、助詞によって意味が決定されるため、語順の自由度が高く、それが曖昧性を生み出しているのではないか。>あるいは、日本語は述語が最後に来る「文末決定性」という特質を持つので、肯定か否定か疑問なのかが最後までわからない。>このことが、明確な主張を持たずとも、とりあえず語り出すことを可能にし、それが論理の明晰さや一貫性を欠くことの遠因ではないか、というのである。
>なるほどと思うし、ほかにも考えられる要因はあるだろう。

バラバラな単語 (小言・片言・独り言) は、とりあえず語りだすことを可能にしていますね。ですが、いつまでたっても論理的な自己主張にはならない。三歳児の悩みのようなものか。歌詠みになるのか。

(略)


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藤原正彦氏

2019-01-15 13:06:06 | 哲学

(略)
>ベストセラー『国家の品格』の著者で数学者の藤原正彦氏は、新著『国家と教養』の中で、知識だけを詰め込んだ「頭でっかち」では、国を率いるリーダーとしては不適格だ、と指摘している。

そうですね。知識だけを詰め込んだ ’頭でっかち’ は、指導者としては不適格ですね。知識量だけでは、記憶装置に勝てませんね。

>知識に「日本人としての情緒や形」が加わってこそ、意味がある、しかし日本の官僚や政治家などには、それを身に付けている人が少ない、というのだ。>日本が諸外国に圧倒されることが多い根本の原因を辿っていくと、ここにある、というのが藤原氏の主張である(以下、引用は『国家と教養』より)。

日本の指導者の知識に ‘情緒・形’ がないということが、問題であるというのが藤原氏の主張ですか。それ以外の重要なものが欠けているのではありませんか。

>「日本人としての情緒や形を持たない人間は、舶来の形にあっと言う間に圧倒されてしまいます。>大正時代以降の教養層は、大正デモクラシーに圧倒され、次いでマルクス主義に圧倒され、ナチズムに圧倒され、戦後はGHQに圧倒され、今ではグローバリズムに圧倒されています」

そうですね。無哲学・能天気な日本人は、西洋の思想には歯が立ちませんね。

>こうした「日本の知識人のひ弱さ」は、日本人としての情緒や形を軽侮したことに原因があるのではないか、情緒や形も含んだ真の教養こそが、国を守ることにつながるのだ、と藤原氏は指摘したうえで、興味深い逸話を紹介している。

しかし、‘情緒・形’ は、非言語の内容ですね。西洋の思想は言語の内容ですから、両者はかみ合わないのではないでしょうか。つまり、’情緒・形’ を充実させても、日本人は西洋の思想に圧倒され続けることになる。言語内容には、言語内容で対応する必要があるでしょうね。そうでなければ、議論にならない。

>「江戸末期、江戸に来たイギリス人達は、普通の庶民が本を立ち読みしている姿を見て、『この国は植民地にはできない』と早々と諦めました。

当時の日本の識字率は、世界トップでしたね。’’頭でっかち’ になっていたのでしょうかね。

>『自国を統治できない無能な民のために我々白人が代わって統治してあげる』というのが植民地主義の論理でしたが、庶民が立ち読みする光景は本国にもないものだったからです。>読書は国防ともなるものです」>先人たちは、その日常の姿を見せることで、外敵を退けた。

そういうことになりますかね。でも、‘読書は国防’ という方策は、先人たちの意図した手段ではなかったでしょう。

>現代の政治家たちの官僚答弁にはそうした効果は期待できない。>情緒のみで判断する政府は問題としても、国民の気持ちを掴めない政府にもまた別の問題があるのではないか。

‘情緒・気持ち’ のみを問題にしても、政治は始まらないでしょうね。政治には、政治哲学が必要ではありませんか。
政治は、新しい社会の枠組み、新しい世界の枠組みを建設するために必要です。その枠組みは、個人の世界観 (world) の内容により決まります。
現実の内容は、頭の外にある。これは、唯一で見ればわかる。だが、非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。単なる話である。話 (文章) の内容を理解しなければわからない。話の筋は、何通りもある。だから、正解は一つではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示しています。
日本人には、現実の話ばかりがあって、非現実の話 (文章) が脳裏に存在しない。非現実の内容の話をすれば、現実離れのした内容になるので、日本人には信じられない。非現実の内容は、見てきた (現実) ような嘘になる。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、自分自身の考えは示さない。他人の受け売りばかりが山ほどいる。
西洋人は、非現実の内容を思想として是認するので、学問 (哲学) が成り立つ。だから、無哲学・能天気の日本人は、圧倒され続けます。
非現実の文章内容は、時制のある文章内容になるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、非現実 (考え) は、文章内容にならない。そして、日本人は無哲学・能天気のままでいる。英文法には、時制があるので、英米人には世界観がある。だから、情緒・気持ちに圧倒されることもない。
我々日本人も、日本語と英語を良く学び、考え (非現実) の内容表現における時制の重要さを十分に理解して、非現実 (考え) の内容を文章するように心掛けなければならない。それには、英米流の高等教育が必要である。このことを常に念頭において、勉学に励もう。

>デイリー新潮編集部 >2019年1月15日 掲載


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立身出世

2019-01-14 14:11:45 | 教育

>■被仰出書と個人の出世
>学制が公布されたのと同時に被仰出書(おおせいだされしょ)と呼ばれる文書が出されていたのですが、その文章というのは簡単に説明すると「学問に励めばあなたも将来出世して豊かになれます」という期待感を抱かせる内容です。

被仰出書は、‘序列順位昇進の夢’ を抱かせるものですね。

>学制が始まる前の日本国では、学問というのは個人の出世の為ではなく国(藩)のために行うものだとされていました。>それも支配階級だけに必要とされ、大多数の庶民には基本的には必要とされていなかったのです。

そうですね。藩校が設立されましたね。

>また江戸時代までは日本は身分社会であり、武士の子供は武士で農民の子供は農民だったので例外的な場合を除いて立身出世の意欲など持つ意味がありませんでした。

家元制度ですね。今でもこの排他的制度は残存していますね。

>しかし学制は国民皆学を実現させることを目的とした制度ですので、今までのように一部の人や支配階級の人間しか学ばないという事態になっては困ります。>そこで、被仰出書にある「学校で勉強すれば貧しい家庭のあなたでも将来豊かになれます」という立身出世の思想を全面的に国民に布教し始めたのです。

‘小さいからだに、大きな望み’ ですね。学校では、’身を立て 名をあげ やよ、励めよ’ と歌わせる。

>学制自体がもともと西洋諸国の義務教育制度が元になっていることはお伝えしましたが、その中には個人主義というものが関わってきており、個人の繁栄・成功は国家の発展につながるという思想がありました。

日本人は、思考停止の状態にありますね。ですから、個性がない。没個性的であることは、アニマルと似たようなものです。
西洋人は、考える人ですね。考える内容は、一人一人違っている。だから個性的になる。個人主義というものが理解されている。

>逆に言うならば学校で勉学に励んでいれば将来出世できるという思想を国民に植え付けない限りは、殆どの家庭が子供を学校に通わせるような事は有り得なかったと言えるでしょう。

そうですね。没個性的でありながら、’頑張って、頑張って’ というわけですね。個性的な考えの内容よりも、没個性的な序列順位の方が大切でしたね。この方が無哲学・能天気の人々には、わかりやすいものです。
ただ今の日本は、深刻な人手不足である。だが、頭脳不足であるという話は、ついぞ聞いたことがない。きっと日本人は、目先・手先の仕事に神経を集中しているのでしょうね。個性的な考えは、天下の秀才たちには無縁なものになっているのでしょうね。

>そして、この立身出世主義の布教に加えて国民が負担していた授業料の金額を徐々に減額・無償化するなどしてようやく日本の就学率は上昇し始めたのです。

こうした日本人の序列メンタリティ (考え方) は、おいそれとは治りませんね。敗戦により、この国がひっくり返っても、羹に懲りて膾を吹いても、階称 (言葉遣い) に基づいた序列メンタリティは治りませんね。新憲法の前文には、’….国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ とちゃんと書いてある。これが日本人の根深い序列メンタリティ問題の一端をのぞかせているであることを意識している日本人は少ないでしょうね。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ればわかる。正解は、ただ一つである。だから、現実の内容は、受験勉強の好教材になっている。
非現実 (考え) は、頭の中にある。この内容は、見ることができない。わかるためには、理解が必要である。人人により、考えは違う。正解は多数ある。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。矛盾を含む文章も、その矛盾を除去すれば、正しい考えになる。だから、討論は有用である。
非現実 (考え) の内容を表す文章には、時制 (tense) というものが必要である。英文法には時制があるので、英米人は自己の考えを表明することが可能である。日本語文法にはない。だから、日本人は、自分の考えを表明することが難しい。そして、勢い現実の内容だけを述べることになる。これを ‘浅はか’ という。

(略)


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