2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」
エペソ書は「パウロの修養会」とも言わる、心躍るような手紙です。何しろ、書いているパウロ自身が喜びに溢れています。今読みました1章3~10節は、元々の言葉は○で区切れることなく、14節まで一気に続く長い文章です。15節から23節も一続きです。流れるように続く美しい告白とも言えますし、止まらなくなってしまって分かりにくいゴチャゴチャした駄文、とも言われます。短い言葉には要約しきれない、語り尽くせない主の恵みを歌う。元々エペソだけに宛てた書簡ではなく、周辺の多くの教会で読まれるように書かれた手紙でした[1]。まさに全教会に対する、「パウロの修養会」という内容、私たちへのメッセージなのです。[2]
このようなエペソ書。何よりの特徴は
「愛」
です。日本語で24回、原文で17回。パウロの手紙で一番多い、「愛の手紙 エペソ書」です[3]。エペソ書には沢山の金言があります。
2:14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…
4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。…
5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。…
5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。…
22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
5章後半の妻と夫に対する教え。6章10節~の「神の武具」リストも、よく引用されます。ここには、キリスト者として生きる歩み方が、具体的に、丁寧に、教会で、家庭で、職場での関係に当てはめながら、豊かなイメージで描かれます。そして、もう一つの鍵が「一」です。
1:9…その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
キリストが一切のものを一つに集められる。それがエペソ書の中で、一つの家族とか、一つのからだとか言い換えられます。今風の言い方をすれば、一つの「物語」のかけがえない一人一人になること。エペソ書には「一つ」が13回も出て来ます。決して全体主義や画一化のような意味ではなく、皆が個性あるまま、キリストにあって一つに結ばれる。そういう壮大な御心をパウロは溢れるように語るのです。余りに壮大すぎるようですが、パウロは私たちの選び、私たちが神の子どもとされたこと、私たちの罪の赦し、という私たちの事を、「御心の奥義」という大きな枠組の中で語るのです。特に「一つ」という奥義が現れるのは教会です。今、ここで私たちが一つの元旦礼拝をともにしている。私たちが一つの鳴門キリスト教会で、各地の日本長老教会が一つの教会で、世界の教会が一つの教会だという告白を与えられている。誰も、バラバラではなく、キリストにあって一つの民とされた。それが神の御心なのだと体験しているのです。そしてここから、私たちが互いに愛し合う、と「愛」「愛」が強調されるのです。
4:1…あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
これは4章1節、つまりエペソ書の丁度(ちょうど)真ん中のつなぎ言葉です。ここでは「一致せよ」とは言われていませんね。「一致しなさい」ではなく
「御霊による一致を熱心に保ちなさい」
なのです。「一致」は神の御霊によって、既にあるのです。私たちはその一致を、熱心に保つ。決して違いを裁いて、一体感や表面的な一致を造り上げるのではなく、既にある一致を保つ、なのです[4]。エペソ書には「一つ」の延長で、「ともに」が8回[5]、「互いに…し合い」が5回も出て来ます[6]。ともに生き、互いに受け入れ合う。違う同士、異なる私たちが、違うまま、キリストにあって一つとされ、互いを自分と同じように大事にする。主の愛を知り、自分の罪の赦しを戴くこと。そして今ここでの生活、人間関係、家庭生活、職場での在り方へ向き合う。人との関係で葛藤しつつ改善を努めること。そうした私たちの、極々個人的なことを通して、神の「一つ」という奥義が実現するのです。ヘンリ・ナウエンの言葉を紹介します。
「「神の子であって、イエスの兄弟姉妹である私たちのこの世での務めは何でしょうか。私たちの務めは和解をもたらすことです。家族、コミュニティー、町、国、大陸のどこにでも、人々の間には分裂があります。これらの分裂はすべて、私たちが神から離れてしまっていることの悲しい反映です。人はみな神の一つの家族であるという真理を目にすることはほとんど出来ません。私たちに神から与えられた務めは、日々の生活の現実の中でその真理を示すことです。/それがなぜ私たちの務めなのでしょうか。なぜなら、私たちを神と和解させ、人々が互いに和解するよう力を合わせるという務めを与えるために、神はイエスを遣わされたからです。イエスによって神と和解した私たちには、和解の使命が与えられています(2コリント5・18参照)。したがって、私たちが何をするにしても中心となるのは、「これは人々の和解につながるだろうか」という問いかけです。」[7]
私たちが、「あけましておめでとうございます」「クリスマスおめでとうございます」と声を掛けること、教会で一緒に礼拝をすること、それはキリストの一致を保つお祝いです。夫が妻にありがとうを言う、上司が部下を尊重する。気になっている人のために祈る、時には正直に「嫌です」や「ノー」や「出来ません」を言う。そうした地味でささやかな事、なかなか難しい一つ一つが、小さくない。神の「一つ」という奥義が私たちの中でじっくり実現していくプロセスだ。そんな驚くことをエペソ書は語るのです。これを書いたパウロ自身がそうでした[8]。かつては異邦人には目もくれなかったパウロが、異邦人のための伝道者となり、教会の中の差別とも戦ってきたのです。エペソ書執筆はパウロの晩年。それも投獄され、囚人としての鎖に繋がれていた時です[9]。不自由な中、じっくりと福音を思い巡らし、円熟味のある思想をエペソ書に書いたのか。あるいは、他の書簡からも、囚人となったパウロを訪問してくれ、献金を送って助けてくれる異邦人たちもいたようです[10]。パウロは困難も多い中で、本当に神はキリストによって私たちを一つとされたのだ、と実感しながらこの手紙を書いたのです[11]。
私が最初に覚えたエペソ書の言葉は2章の「信仰による救い」を明言する言葉です。
2:4…あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。…8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
私たちは、自分の行いによらず、ただ神の賜物として信仰も戴き、恵みの救いもプレゼントされました。それは、ただ私たちが「救われる」だけでなく、私たちがバラバラな存在でなく、神の「御心の奥義」、一つとされた召しに与って、それを実らせる「善い業」も一人一人に備えられている。そういうエペソ書のメッセージに、私も段々と気づかされています。神が願っているのは、本当に深く、真実な、時間を掛けた回復です。どうしようもないほどの敵対や断絶を、イエス・キリストが命をかけて和解させてくださる御業です。それを、私たちは一歩一歩受け止めます。理想主義になって、焦ったり諦めたりしなくてよい。本当の一つを用意されている神への信頼から、本心からの和解を、心込めて受け取っていこう。私を献げていこう。そう気づかせてくれるのもエペソ書です。エペソ書3章16~21節の祈りで終わります。[12]
[1] 1章1節の欄外に「異本に「エペソの」を欠くものもある」、そちらの方が有力です。
[2] 1章の17~19節には祈りが出て来ます。3章の最後14節以下も祈りで、結びの6章23、24節も祝福の言葉。書きながら祈ってしまう、パウロの熱い説教です。今回も、大竹護牧師の説教を大いに参考にしました。エペソ人への手紙2章10節「一書説教 エペソ書~召された者として~」
[3] 英語では14回loveが出て来ます。他のパウロ書簡では、ローマ書26回(英語12、ギリシャ語14)1コリント21回(14、13)、Ⅱコリント18回(11、12)、ガラテヤ5回(4、5)、ピリピ10回(5、4)、コロサイ13回(5、7)、Ⅰテサロニケ11回(6、7)、Ⅱテサロニケ5回(3、7)、Ⅰテモテ8回(6、5)、Ⅱテモテ9回(5、6)、テトス6回(3、1)、ピレモン6回(2、3)。
[4] エペソ書には、日本語では「一つ」が11回。ギリシャ語本文では、ヘイス(一、それぞれ)が11回(2:14~16、18、4:4~7、16、5:31、33)、ヘノーテス(一致)が2回(4:3、13)、アナケファライオー(一つに集める、こことローマ13:9だけの言葉)です。
[5] 2:5「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」、22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」3:6「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」、18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」、6:24「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」。4:31(「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」)にも「ともに」が出て来ますが、ここでいう意味とは違うので除外しました。
[6] 4:2「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」、25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」、32「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」、5:19「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」、21「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」
[7] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』421頁。
[8] 2章11節「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」パウロ自身が、かつてパリサイ人というガチガチの民族主義者で、ユダヤ人以外の「異邦人」とは一緒に食事もしない人でした。しかし、パウロはキリストに出会って、異邦人とも近くされました。その個人的な独白も、三章に吐露されています。
[9] 6章20節「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」
[10] ピリピ書4章など。
[11] 神に背を向けて、罪の故にも、人間関係が壊れて、人の心の奥にも深い傷があります。神は表面的な一致や一体感や仲良しではなく、本当に深い癒やしと心からの和解と、本物の回復を与えたいと願っていらっしゃる。それをパウロ自身体験してきたのです。
[12] 3章16~21節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」