2018/10/28 箴言30章1~9節「知恵を下さる神 箴言」
今月の一書説教は「箴言」です。聖書には箴言を始め「知恵文学」というジャンルがあります[1]。パウロは
「宣教の愚かさ」
を語りましたが[2]、
「知恵のない者としてではなく知恵のある者として、機会を十分に活か」
すよう勧めています[3]。聖書の最初には
「善悪の知識の木」
が出て来ますし、神からの知恵が何であるのかを教え、知恵を祈るよう励ましてくれるのです[4]。
1.「主を恐れることは知識の初め」
箴言は全部で31章。1~9章は序論で、父が息子に知恵の大切さを教えます。特に8章は、交読文の中にも使われますが、知恵を擬人化した章としてユニークです[5]。この部分の最初と最後にあるのが
「主を恐れることは知識の初め」[6]。
主を恐れること、神を神として限りなく大事にすること、それが知恵の初めだよ。神である主を抜きに賢い生き方は出来ない。或いは、神を自分の人生の知恵袋やアドバイザーと考えて、自分に都合のよい知恵をもらおうというのも本末転倒です。まず神を神とする。神との関係を第一に考える。そうする時に、お金だとか、不倫や暴飲暴食や陰口の誘いにも乗らない、本当に賢い生き方が出来るのだよ、と教えます。
その後、十章からが「格言集」になります。今日読んだ30章もその一部です。前の29章は一節ずつ2行の対句になって、色々な事例を取り上げて、スパッと知恵を授けます。
20軽率に話をする人を見たか。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。
23人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。
25人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。
26支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。
スパッと言い切っています。しかし、これは格言や諺のように、原則を言い切ったもので、律法とか絶対的な約束とは違います。日本語でも「渡る世間に鬼はない」とも「人を見たら泥棒と思え」とも言います。「二度あることは三度ある」とも言えば「三度目の正直」とも矛盾したことを言います。どちらも先人の知恵で、私たちの見方に落ち着きや励ましやユーモアを添えてくれるのです。知恵文学にもそういう読み方をしてください。分かりやすいのが、
二六4愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。5愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。…12自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
聖書の約束だからゼッタイと思い込まず、極端や皮肉もこめて、私たちの愚かさに冷や水を浴びせて、冷静にならせてくれる言葉、だと思って、じっくり読むことをオススメします。
2.「知恵の初め」の上に
私がいつからかハッと気づかされたことがあります。それは、箴言が
「主を恐れることは知識の初め」
と言いつつ、10章からは具体的な格言集で、私たちの生活を様々な角度から、痛烈に、極端な言い方さえして、細々と光を当てている、ということです。つまり「主を恐れてさえいれば、どんな場合にも賢明な判断が出来る」とは言いません。それは私たちが陥りやすい過ちです。箴言は、
「主を恐れることがすべて」
とは言いません。「聖書があれば他の本は要らない」とは言いません。むしろ、本当に賢い人は他の人の助言に耳を傾ける。知恵のある人は自分で解決しようとせず、相談をする。人の言葉に耳を傾ける人だと繰り返すのです[7]。
それを実証するように、箴言そのものが外国の格言を沢山引用しています。特に、22章17節から24章までの「知恵ある者」の言葉は、エジプトの「アメンエムオペトの書」という古い格言集からの引用が沢山あります。そして30章は
「マサの人ヤケの子アグルのことば」
で、31章も
「マサの王レムエルの言葉」
とあります。マサはイスラエルの地名ではなく、外国の王の言葉です[8]。その外国の王が、
「2まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。3私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も持っていない」
と深い謙虚な言葉を残しています。
「7二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
8むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。
9私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」
と見事なバランスの祈りをしました。そういう異邦人の祈りにも箴言は真実を見て、敬意を持って引用しています。
そして31章はマサの王レムエルの母の言葉です。異邦人の母親の言葉が箴言の最後を飾るのです。更にその最後10節から31節は
「しっかりした妻」
を称える歌です。これは理想化されすぎた「ウルトラ主婦」だと誤解されやすいのですが、実は普通の主婦としての仕事をこなしている、多くの女性たちを歌っている詩ですね。王に対する賢明な勧めとして、庶民の女性たちの働きを見よ、と勧めるのです。自分の権力や美しく飾った女性に目を奪われず、市井の女性の内助の功にシッカリ目を留めなさい。愚かなプライドに目を曇らされやすい王や男性たちに、庶民の女性たちの働きこそ国を支えているのだと目を開かせる。これが知恵を語る箴言の結びです。三〇章24~28節には虫や小動物が
「知恵者」
として出て来ますね[9]。
この地上には小さいものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。
25蟻は力のないものたちだが、夏のうちに食糧を確保する。
26岩だぬきは強くないものたちだが、その巣を岩間に設ける。
27いなごには王はいないが、みな隊を組んで出陣する。
28ヤモリは手で捕まえられるが、王の宮殿にいる。
本当に主を恐れるなら、虫や自然、他者の言葉に聞く耳を持つ。勿論、信仰や倫理では譲れない一線はありますが、逆に頭ごなしに疑わず、耳を傾け、他者に相談し、外国人にも敬意を払い、蟻や動物にも学び、母親や妻、社会の縁の下の力持ちにも称賛を惜しまない。それが、箴言を通して語られていく、本当の知恵ある謙虚な生き方です。
3.愚かな者を選ばれた神
箴言(知恵文学)は、知恵への考えを根こそぎ変えます。「箴言を読めば賢くなれる」というより、生き方の方向が変わり、主との関係を第一にして、親や妻、隣人や敵、自然や世界とも健全なつながりを大事にするようになる。家庭を大事にし、正直に、善を行うように励まされます。自分が関係の中に活かされていることを忘れて、知恵を掴もう、賢く見せようとしやすい事自体、本当に愚かで勿体ない生き方です。箴言はそう気づかせてくれます[10]。
新約で、主イエスは
「神の知恵」
と繰り返して呼ばれます[11]。そして、パウロはコリント教会に対して
「あなたがたの中に知者は多くない」
と言いました。
「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」
と言いました[12]。私たちが「自分が賢いか愚かか、正しく知恵がなきゃダメだ」と考えてしまう方向から、もっと大きな愛の中に生かされている事実に気づかされて、イエスにますます依り頼み、人と生かし合えばいいのだ、と気づきます。それがイエスが下さる本当に賢明な生き方です。知識を追い求めるのでなく、神を恐れ、人に心を開いていくのです。
イエスは神の知恵です。でもイエスは、私たちを愛し、私たちのためにご自分を献げるという愚かさを選ばれました。そして私たちに、自分の愚かさ、知識の限界を素直に認めさせ、また聖書を通して知恵を下さいます。私たちはイエスの優しさに、素直に自分の視野の狭さを認めて、喜んで助けをもらい、助言に耳を傾けるようにされます。知ったかぶりをせず、分からないことは「分かりません」と言える素直さは、神を恐れる心の恵みです。でもそこに開き直らず、人の意見や気持ちをどんな時も大事に出来て、関係を育て、何よりも知恵を祈り、御言葉の知恵に励まされる生き方を頂くのです[13]。箴言や新約の知恵ある言葉は、私たちの実生活に有益な知恵を与えて、助けてくれます。私たちとともにおられる主イエスは、具体的に、賢く、ユーモアを込めて私たちを諭して導いてくださる。箴言はその事も豊かに教えています。
「神の知恵であるイエス様。箴言を与え、知恵ある生き方を具体的に教えてくださる愛とご配慮に感謝します。あなたの尊い選びと測り知れない知恵を信頼して、あなたに拠り頼み、良い歩みをともに重ねさせてください。鳩のように素直で蛇のように賢く、と言われた通り、毎日知恵が必要ですから、どうぞ私たちの判断や思いを導き、光の子として歩ませてください」
[1] ヨブ記と箴言と「伝道者の書」。ヨブ記は「苦難」から、「伝道者の書」は哲学的に、知恵を語っているのに対して、箴言は「主を恐れることは知恵のはじめ」と歌い、父親が息子に伝える教訓という形で知恵ある生き方を語っています。特に「王」が語り手であるだけに、非常に実践的で、ビジネス書にもなる書です。
[3] エペソ五15~17「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。17ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」
[4] 創世記二章、ヤコブ書一5「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」。
[5] 世界を造る前から神は知恵を得ていた、というのはキリストがご自分のことを語っているようだ、とも読めます。しかしこの読み方は、異論もあります。あまり、旧約の随所に、三位一体やイエスの受肉を読み込みすぎる必要はありません。いずれにしても、神の知恵の奥深さ、肝心要なことを深く印象づけます。
[6] 一7「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」、九10「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」
[7] 箴言一四21「自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ」。この「隣人」は異教徒・ノンクリスチャンであろうと変わりません。だれであれ、目の前にいる人を蔑むのは、神の御心(=神の知恵)から外れた「罪人」の姿なのです。
[8] 創世記25章14節に「マサ」という地名が出て来ます。しかし、これが箴言30章31章の「マサ」と同じ場所のことなのかは、諸説があります。
[9] 蟻は、6章6節でも「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ」。
[10] 言い方を変えるなら、神との人格的な関係に生きる事こそが、「知恵」です。八章はまさにそれを言っていました。知恵が人格化されていますが、知恵とは人格的なものなのです。イエスが「わたしが真理です」と仰ったのも、「真理」とは「人格的」であること、人格者なる神ご自身であることを教えていました。知恵を得るために神との関係や人との関係を大事にするのではなく、神との関係に生きること、人との関係に生かされていること、その関係を育てることこそが本当の知恵なのだ。自分も相手もともに生かし、人が生き生きと生かされることこそ知恵ある生き方そのもの。
[11] Ⅰコリント一23「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」「30しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」など。コロサイ二3「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」
[12] Ⅰコリント一章「26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」
[13] ローマ一二16「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」