聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

24 詩篇一一九9-10 「預言者であるキリスト」

2014-10-28 11:03:29 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/26 ウェストミンスター小教理問答24 詩篇一一九9-10

                                          「預言者であるキリスト」

 

 前回は、キリストの職務(お仕事)は三つ、「預言者、祭司、王」だというお話しをしました。今日は、その最初の「預言者」の職務についてお話しします。

問24 キリストは、預言者の職務をどのように遂行されますか。

答 キリストは、私たちの救いのために、神の御心を、彼のことばと霊によって私たちに啓示することにより、預言者の職務を遂行されます。

 「預言者」というのは、未来を「予言」する人ではなく、神様からの言葉を預かって人に伝えてくれる人のことです。旧約聖書には、そういう預言者がたくさんいました。モーセや、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ。そういう人たちが、神様からの言葉をお預かりして、イスラエルの人たちにお話ししました。でも、今はそういう預言者はいません。何故でしょうか? それは、イエス様がおいでになったからです。イエス様こそは、神様の言葉を私たちに手渡してくださるお方です。

ヨハネ一18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 神のひとり子イエス様が、神様の事を語ってくれる以上に確かなことはないですね。旧約の時代の預言者は、全部、この真の預言者であるイエス様がおいでになるまでの、「代役」でした。イエス様が預言者たちを先にお遣わしになって、神の民に、御言葉をお告げくださっていたのですね。

 もし私たちが、言葉がなかったとしたら、どうでしょうか? 大切なことを伝えることが出来るでしょうか? 勿論、病気や事故で口がきけなくなることもあります。言葉が通じない外国の人と一緒に過ごすような事もあります。けれども、そうした時でも、日本語の代わりに、身振りや手振り、触ったり、笑ったり、困った顔をしたり、そういう「言葉」を使うから、気持ちを伝えたり、何を言いたいのかが伝わったりするのですね。そして、自分の中で、「あぁ、これはこういうことだろうな」と考える言葉を使っているのです。

 神様も、私たちに、言葉を使って、大切なことを伝えてくださるのです。言葉がなくても大丈夫、とか、何となく分かるでしょう?というお方ではなく、語りかけて下さるお方なのですね。だから、聖書にはたくさんの預言者たちがいるのです。そして、イエス様は、最後の預言者としておいでになって、弟子たちや群衆にお話しをなさいました。そうして、「神様は天の父だよ」「神の国は近づいたから、悔い改めて福音を信じなさい」「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいますよ」…。そうした沢山の言葉を語って下さいました。

 でも、イエス様は最後に十字架に掛かって、よみがえられましたけど、今は天に昇って見えません。今、私たちはイエス様の言葉を直接聞くことは出来ません。預言者がいなくなってしまって、困ります…か?

 イエス様は、十字架に掛かられる前の夜にこう言われました。

ヨハネ十四26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 こう弟子たちに教えられました。聖霊が遣わされるから、イエス様が話したことを全部思い出させてくれるよ。その約束の通り、イエス様が天に昇られてから、聖霊が降られて、弟子たちを教えて、イエス様の事を人々に伝えさせました。そして、弟子のある人々が選ばれて、イエス様のメッセージを書きまとめました。それが聖書です。イエス様はそのようにして、聖霊が導いて、弟子たちに聖書を書かせ、その聖書を通して、教会にずっと神様の言葉を教えてくださっています。

 忘れないでほしいのは、イエス様は私たちに、「これをしなさい。あれをしちゃダメだ」という決まり事、命令を教えるだけの預言者では決してない、ということです。聖書を読む時にも、神様からの厳しい、難しい、面倒くさい教えが書かれているとは思わないでほしいのです。神様が私たちに語りかけておられるのは、私たちを愛しておられるからです。わざわざ私たちに教えたり、言葉を掛けたり、慰めたり、してはいけないこと、するべきことを思い出させてくださるなんて、私たちを大事に思っていなければ出来ませんね。そして、神様の言葉は、あれをしなければダメだぞ、これをしたら救ってあげる、というような脅しではなくて、私たちを愛していらっしゃるという宣言であって、だからこそ私たちが、愛されている者にふさわしく、神にならう者となりなさい、そのために私たちは召されたのです、という言葉なのですね。

詩篇一一九9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

10私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

 そうです。イエス様は、私たちに、知恵や知識だけの言葉を一方的に語られておしまいの預言者ではありません。イエス様の言葉は生きていて、力強くて、この言葉によって、私たちが本当に救いに与って、神様の道を歩むことが出来るようになるのです。元気になり、勇気をもらって、心が燃やされるのです。イエス様がよみがえられた日、まだ信じていない弟子たちに、イエス様がそっと近づいて教えられたことがありました。イエス様だ、と分かった途端、イエス様は見えなくなってしまったのですが、

ルカ二四32「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

と言いました。イエス様は今も私たちに語りかけて、私たちの心の内に火を灯し、生き生きとした、誘惑に負けないきよい心を造ってくださいます。私たちの周りには、沢山の言葉が見えたり、聞こえたりしています。けれども、イエス様だけが、聖書の言葉を聖霊によって私たちに教えてくださって、本当に確かな歩みへと導いてくださるのです。

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ルカ十九29-40「主がお入り用なのです」

2014-10-28 10:59:32 | ルカ

2014/11/26 ルカ十九29-40「主がお入り用なのです」

 

 イエス様がガリラヤから都エルサレムまで上って参りまして、いよいよエルサレムに入られるところです。周りの人々は、イエス様がエルサレムで、いよいよ王として御力を現されるのではないか、と期待していたと11節に書かれてありました。それほど、都エルサレムというのはユダヤ人にとっては、重要な場所、聖なる町として特別視されていたのです。その時にイエス様は、二人の弟子をお遣わしになって、

30言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

31もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

32使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。

 そして、ほどいているとやっぱり持ち主たちが問い質してきまして、その通りに答えた、とあるのですね。そんな答で、持ち主が納得して連れて行かせてくれたとは不思議なのですが、だからといって、予めイエス様がこの持ち主たちと話をつけておられたんじゃないかとまで考える必要もなくて、ここでルカは、驚きを込めて、イエス様が話されたとおり、だれも乗ったことのないロバの子が繋いであったし、イエス様が話されたとおり、質問もされてきて、イエス様が話されたとおりに、弟子たちは答えたのだ。そう、諄(くど)いほどに強調しています。そして、連れて来たロバの子に、二人の弟子は自分たちの上着を掛けて鞍(くら)にしてイエス様のお尻に敷いてもらってしまう。人々も道に自分の上着を惜しみなく敷き並べて花道にし、自分たちの崇敬、忠誠を現しますし、いよいよオリーブ山の麓にさしかかってエルサレムが見えてきますと、

37…弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、

38こう言った。
「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。
天には平和。栄光は、いと高き所に。」

 これほどの態度に繋がっていくのです。ですから、イエス様が仰ったようにロバの子が用意されていたことは、イエス様の「力あるわざ」、不思議なイエス様の千里眼と備えとして読みたいのですね。

 それにしても、人々が期待したのは、そのイエス様の力を思う存分発揮して、政治問題や貧困、経済、健康や生活の悩み、問題を解決してくださる、という事だったはずです。幸せや繁栄、満足、そして悪人を成敗してくれる力を夢見ていたことでしょう。それは、まるで軍馬に跨(また)がって槍や長刀(なぎなた)を振り回すような王です。戦いの王です。けれども、イエス様は、そうした力、威力を見せつけるような王様としてではなく、ロバに乗るお方としておいでになりました。

 旧約聖書を見ますと、ロバに乗って来ることは、高貴な身分の印でもありました[1]。しかし、有名な預言がゼカリヤ書九9にあります。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。

それも、雌ろばの子の子ろばに。

 この預言を成就する柔和な王、でも柔和だけではなく、正しく、救いを賜る王として、イエス様はこの時、子ろばに乗って、エルサレムにお入りになったのです。

 群衆も、弟子たちも、まだそんなことは分かっていません。それでも、弟子たちがイエス様を精一杯喜んで、上着を敷き、大声で神を賛美していることを、それこそイエス様は「柔和」に受け止めておられます。弟子たちの賛美に、

「天には平和。栄光は、いと高き神にあれ」

とあるのは、イエス様誕生のときに御使いたちが歌った大合唱を思い出させますね。

ルカ二14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 でも、少し言葉が違います。御使いは「地の上に平和が御心に叶う人々に」と言っていたのに、弟子たちは「天には平和」と言います。イエス様が天から地に下り、お生まれになったのは、地に、御心に叶う人々を起こしてくださり、平和をもたらすためでした。失われた人々を捜して救うためでした。でも、今までずっと見てきたように、まだまだ弟子たちもそのイエス様の深い御心がピンと来ないのです。神の国が、今ここで私たちの中に始まる、と言われているのに、見える形や実感ばかりを求めていました。そういう意味で、まだまだ弟子たちの理解は不完全で、不十分です。けれども、その弟子たちの声を、パリサイ人たちが窘(たしな)めるよう言ってきた時には、

40…「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

と強く仰います。弟子たちを黙らせるなら、石が代わりに叫ぶ[2]。この弟子たちの不十分な賛美をも、主は力強く肯定されました。黙らそうとすることは間違いなのだ、と窘め返されました。これもまた、イエス様の柔和さからの言葉です。

 イエス様の御力、権威、先を見通し、不思議に準備をされ、石をも叫ばせることも出来るお方は、白馬を備えることも、金の鞍を用意させることも、聡明な弟子たちに非の打ち所のない賛美を告白させることも出来たでしょう。けれども、イエス様は、まだ誰も乗ったことのない子ろばを選び、弟子たちの粗末な上着に喜んで乗られ、ちょっと的外れな賛美をも受け入れられました。強い者、見栄えのするもの、賢い知恵者ではなく、その反対のものを通して、地の上に平和を始められる。それが、御心にかなったことだったとイエス様は仰ったのです[3]。イエス様は、主の御名によって来られる真の王、栄光を受けるべき方として、小さき者を選ばれ、用いられて、御心を推し進められます。いいえ、それ以上に、ここではそんな「ろばの子」を、

「主がお入用なのです」

と言わせられるのですね。「お入用(必要)」という言葉は人間に当てられる言葉で、主が何かを必要とされる、なんて言い方は他にはありません[4]。神は全てを満たされる方で何の必要もないお方です[5]。「主が御入り用なのです」という言葉を殺し文句にして、奉仕や献金を強要することは完全に間違っています。むしろ、ここでは、本来は何の必要もない王なるお方に仕えている弟子たちが、主に導かれて、主に従った先で、「主がお入用なのです」と言った事-その結果、持ち主がどう反応したか、OKしてくれたかどうか、そうしたことは抜きに、弟子たちがそう答えたという事実そのもの-に焦点を当てていますね。

 ろばよりも馬、十字架よりも奇蹟、一ミナよりも一タラント、私たちは勝手に比べて優劣をつけてしまいますが、主はそんな秤で判断される方ではありません。私たちの人生を力強く導いてくださっている主が、備えてくださった一つ一つのことを、(決して、絶対視したり正当化したり鵜呑みにするのではありませんが)大切に、主の御業が現されることを願う。私たち自身、勘違いや間違いだらけのものですが、それでも私たちを愛され、私たちの賛美を喜んでおられる主がいてくださるのです。

 

「正しく、力ある、柔和な王である主イエス様。あなた様の尊い御力に与って、私たちの口に誉め歌と信仰告白が授けられました。これからも、あなた様が導いてくださると信じる幸いも感謝します。恐れや不安から解放してください。王なるあなた様への信頼と忠実において成長し、この地に平和を造る御業の一端を担わせてください」



[1] 士師記五10、Ⅰサムエル八16、Ⅱサムエル十六1など。

[2] 「石」が叫ぶことは、この後に登場する「石」の用法からすると、神殿の「石」を破壊し(二一5、6)、墓の入り口の「石」を動かしたもう(二四2)主の御業を暗示しているのかも知れません。ハバクク二11にも見られる慣用句です。

[3] ルカ十21「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言った。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」 ここで使われている「御心にかなった」は、ルカ二14で「地の上に平和が御心にかなう人々にあるように」とあるのと同じ言葉で、ルカが使っているのはこの2箇所だけです。

[4] ルカだと、五31「医者を必要とする」、九11「癒やしを必要とする人々」、十42「なくてならないものは多くはありません」、二二71「これでもまだ証人が必要でしょうか」。

[5] 使徒十七25「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

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ルカ十九11-28「ほんの小さな事にも忠実で」

2014-10-23 19:23:31 | ルカ

2014/11/19 ルカ十九11-28「ほんの小さな事にも忠実で」

 

 今日のお話とよく似ているのが、マタイ二五14~30に書かれている「タラントの喩え」です。今日の「ミナの喩え」を読んでも、ああ、あのタラントの喩えのことだな」と思いながら聞いていることがあるのではないかと思います。今日は、タラントの喩えのことは一切忘れて、「ミナの喩え」で言われていることに、ご一緒に耳を傾けたいと思うのです[1]。ここには、

12…ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

と切り出されます。そして、その留守を預かる僕(しもべ)たち十人に十ミナ、つまり、一人に一ミナずつ与えて、これで商売をしなさい、と言って出かけたのです。ミナというのは欄外にありますように、百日分の労賃です。年収の三分の一、きりの良い所で、五十万とか百万と換算しておくことにしましょう。そして、主人が遠い国へ行き、王位を受けて、結構な時間を経た後に帰って来た時、僕(しもべ)たちを呼び出しました[2]。すると、ある僕(しもべ)は十ミナ、ある僕(しもべ)は五ミナ、十倍、五倍と増やしていた、というのです。しかし、問題は三番目と、それに対する主人の言葉です。

20もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。

21あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』

22主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。

23だったら、なぜ私の鐘を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』

 ちょっと読むと、主人はやっぱり厳しい方だなぁ、絞れる所からは絞ろうとするし、この僕にもムカついて責め立てている、ケチ臭い主人だなぁ、と思うのではないでしょうか。そういう誤解をまず解いておきましょう。

 一つ目、最初に申し上げたように、主人は僕たちに一ミナずつを与えました。与えたのであって、預けたのではありません[3]。それは、正式に事業を立ち上げるにはちょっと足らない、数十万という金額です。主人は、これを元手に、上手に運用せよと命じられたのではない。自分でも、

17「…あなたはほんの小さな事にも忠実だった…」

と言っているではありませんか[4]。そのはした金を、しもべたちに与えられた。でも、しもべたちはそれで遊んで使い切ってしまうのではなく、「あなたの一ミナ」と意識して、大切に運用したのですね。そこにあるのは、主人からの惜しみなさと期待、そして、僕の信頼と忠実さです。これを儲けた僕たちの台詞は、直訳すると、

「あなたの一ミナは、十ミナを稼ぎました」

というものなのです[5]。ご主人様の運用計画に水を差さないよう頑張らなければ、という気負いはありません。与えられたものを、「ほんのわずかなはした金」とは思わずに「活用してみたら、十倍になってしまいました」という喜ばしい報告をしているのですね。そして、その僅かな物に対する忠実な態度に、御主人は、なんと十の町を支配する、つまり、王様となった主人の大切なお手伝いをする、莫大な責任を与えることで報いられるのです。決して、お暇を与えるから遊び暮らせ、と報いたのではないし、十の町を好きなように食い物にせよ、と言われたのでもありません。しもべはあくまでも仕事をするしもべです。でも、そこには奴隷のような主従関係とか、効率や能力ばかりの利用ではなくて、気前よさと忠実さ、信頼と喜びがあるのです。

 それに比べて、三番目の僕はどうですか。せっかく預かった一ミナを、風呂敷に包んでしまっておいた、と言いますがなんて不用心でしょう。当時でも、お金を盗まれたくなければ、土に埋めておけと言われていました。それを、布に包んでおいただけだなんて…。盗まれても自分のせいじゃない、と言わんばかりです。

21…お預けにならなかったものをも取り立て、…

だって、おかしいでしょう? 預かっているんですから。だから主人は、銀行に預けておくべきだと言いました。その方が安全ですし、その上、わずかでも利子が付くのですから。利子分を惜しんでいるのではなく、自分のいい加減さを棚に上げて、主人をケチ呼ばわりしている開き直りを突き返されたのですね。きっとこのしもべは、たとえ十の町を任されたとしても、それでも、「ああ大変だ、こんな務めは自分には合わない。主人の嫌がらせだ」と文句を言うんじゃないでしょうか[6]

 どうしてイエス様は、こんなお話しをなさったのでしょうか。11節に、

11…それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。

とありました。イエス様が、この先のエルサレムに着かれたら、神の国を打ち立てられるに違いない。そういう期待があったので、イエス様はこんな喩えを話されたのです。イエス様は直ぐにエルサレムで王として即位されるのではなく、遠い国に行かれる、まだ先だという含みもあるでしょう。でもそれ以上に、この民が、神の国を、直ぐにでも現れるようなもの、と思っていた、その誤解を正されたいのでしょう。神の国は目に見えるように、そらここだ、そらあそこだ、と言うようにして来るものではない、とイエス様は仰っていました。

十七21…「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 また、今日の17節後半にある主人の台詞は、十六21でも言われていた事の繰り返しです。今、ここで、私たちの中に神の国が現れることを願い、受け入れる。私たちの今の人生で神様からみんなに与えられた「一ミナ」、人生は平等です。それが十ミナになる人生もあれば、五ミナになる人生もあります。あるいは、「自分の人生にはほんの僅かな物だけだ」と神様をどこかで責めながら、ないものを数える人生にすることも出来ます。そして、そういう御主人への不埒な態度をもっと突き詰めたのが、主人を憎み、

14…『この人に、私たちの王になってもらいたくありません』と言った。

民たちの姿でしょう[7]。神の国が来るのを期待しているつもりでいながら、今与えられた人生を不満で満たし、ザアカイさえ救われるイエス様の愛に呟いている人々は、イエス様を憎むようになります。けれども、それは自分に滅びを招く事でしかない[8]。そうイエス様は、この喩えで仰るのです。

 もし私たちがイエス様を、恐ろしい方、厳しい方、不公平な方とばかり考えているとしたら、そうではないことに気づきましょう。私たちの人生に与えられた物が僅かだとしても、そのほんの小さな事を忠実に受け止めること、恵みとして受け止める事にこそ、意味があるのだと、それこそが神からのかけがえのない人生なのだと深く弁えましょう[9]。イエス様は、預けない物を取り立て、蒔かない物を刈り取るお方ではなく、私たちが相応しくないものなのに確かな恵みを下さり、私たちが努力した以上に報い、無くした物を償って余りある祝福を下さるお方です。この信仰を忘れているとしたら、どうぞそれに気づいて、主の来られる日まで忠実に歩みたいのです。[10]

 

「主よ。私たちはあなたに、私たちの王となって頂きたいのです。あなたを憎み、人を妬み、蔑み、呟く心を変えてください。それぞれが今与えられた物を、あなた様への忠実と感謝をもって受け止めながら、主のお帰りをお迎えする備えが出来ますよう」 

 


文末脚注

 

[1] モリス「マタイのたとえは、私たちはみな違う賜物を持っていることを思い出させるが、ルカのたとえは、私たちがみな一つの使命を持っていることを思い出させる。すなわち、信仰によって生きることだ。」

[2] ここでの「王位」は「(神の王)国」と同じ「バシレイア」です。御国とは、見える形での国である以上に、王権であり、王なる主への忠実と心服をもたらすものなのです。

[3] マタイでは「預けた(パラディドーミ)」ですが、ルカは「与えた(ディドーミ)」です。マタイの使う言葉にも、「与える」に近いニュアンスはありますが、ルカはハッキリと「与えた」という語を用いています。そして、21節でしもべが言う「あなたはお預けに(ティセーミ)ならなかったものをも取り立て」は、そこからして主人の意向を汲んでいなかったことを物語ります。

[4] マタイのタラントは、六千デナリ、二十年分の労賃ですが、ルカのミナはその二十分の一に過ぎません。マタイでも主人は「わずかな物」と仰いますが、そこには、一タラントさえ「わずか」と仰るスケールがあります。ルカの場合の「ほんの小さな物」は、たしかに商売をするには足りない額だったのです。

[5] これも、マタイでは「私はさらに五タラントもうけました」と、主語はしもべでしたが、ルカは、「あなたの一ミナ」が主語なのです。

[6] この姿勢は、先の7節の呟きや、十五章の兄息子の呟き、非難と重なります。主イエスが明らかにされた「神の国」は人々の中に、呟きや非難を引き起こしました。確かに神は「不公平」な方です。「自分にはあれもないこれもない、若さもない、昔のようでない…」と言うことも出来ます。でも、それは当たり前です。この世界の「不公平」な現実を前に、比較して、愚痴っているなら、それは支配者なる神を貶めることになります。

[7] だが、マタイとは違って、三番目のしもべは滅ぼされはしません。ルカの「ミナのたとえ」で滅ぼされるのは、敵となった民たちです。

[8] この喩えの枠組みは、エリコの人々にとっては馴染みの史実をもじっています。ヘロデ大王の息子アルケラオが、王位を受けようとしてローマに行った時のエピソードです。民がアルケラオ拒絶の使者をカイザルに送ったため、皇帝はアルケラオの王位を条件付きとしました。激怒したアルケラオは、帰還して、その民3,000人を惨殺したのでした。また、アルケラオがエリコに宮殿を立て、灌漑用水を作った、というこの町との関連もあったのでしょう。(ヨセフス『戦記』Ⅱ、10-13、『古代誌』十七340)

[9] 王位を受けて帰って来られるまでの間の、民の過ごし方は、王への信頼と喜びであるのが当然です。私たちがどれだけ賜物を生かしたか、を王は見られるのではないし、それによって、王位を受けられるかどうかが変わるのでもありません。主は確定的に王であられます。必ず王位を受ける、権威ある方です。私たちには、そのお方への賛美と献身が求められる、ということだけです。それぞれに、何をしたか、どれだけの成果を得たか、には違いがありますが、求められるのは主人へのささげ物となる心なのです。

[10] この喩えのパロディを水谷潔牧師が書いています。「若者を教会へ」と願う方々のための「たとえ話」 オススメです。

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ルカ19章1~12節「捜して救うために」

2014-10-23 19:20:55 | ルカ

2014/10/12 ルカ19章1~12節「捜して救うために」

 

 この取税人ザアカイの話は、キリストの福音を伝えるために最もよく取り上げられる有名なお話しの一つです。私たちは、今までルカの福音書をずっとご一緒に聞いてきました。その流れを踏まえて改めてこのザアカイのお話しに来たことによって、聞き慣れたはずのお話にも、新鮮な発見があるのではないでしょうか。ルカは、ザアカイのことをこう紹介します。

 2ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

 取税人も金持ちも、前回の十八章で出て来ました。取税人は、ユダヤを支配しているローマの片棒を担いで税金を取り、自分の取り分も上乗せして収入にしていました。ユダヤ人から見ると、取税人は売国奴、裏切り者、堕落した者、罪人と同格に扱われていましたし、彼ら自身、正気でいるならば、神に祈るために目を上げることも出来ず、自分の事を、

13…「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」

という他ないような、救われがたい人でした。また、金持ちについてもイエス様は、

十八24…「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

と仰いました。自分の財産、この世の幸せ、安心した暮らしが禍(わざわい)して、神の御言葉の招きに従うことを妨げてしまうのです。そうしたことをここまでイエス様はお話しになってこられたのですが、ここに登場するのは、取税人のかしらでもあり[1]、金持ちでもある、というザアカイでした。当時の常識から救われまいと思われていた取税人と、イエス様の教えから救われがたいと断言されていた金持ちという両方を兼ね備えていたのであって、「箸にも棒にもかからない」とはこのザアカイ以上にいない、という人です。でもイエス様は、先にも、

十八27…「人にはできないことが、神にはできるのです。」

と仰いました。そして、ここでも、まさしく最も救われがたい典型的なザアカイが救われる。

十九9…「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

という言葉を聞くのです。取税人で金持ちであったザアカイも、「人の子」イエス・キリストが、捜してくださり、救いをその家に届けてくださって、新しく変えられたのです。

 エリコの町は東西の要衝として栄えて、そこにいた取税人たちは裕福な暮らしを楽しんでいたことでしょう。でも、その彼が、イエス様を見るために、街路樹の「いちじく桑」に登ってまでイエス様を見ようとしました[2]。それは、イエス様が「取税人や罪人の仲間だ」と呼ばれて揶揄されるようなお方であったことが、ザアカイの耳にも入っていたからでしょう[3]。そのイエス様をひと目見てみたいと願っていたのでしょう。でも、ひと目見たいと思っていたら、イエス様の方から、ザアカイを見上げて、ザアカイの目を見つめて言われるのです。

 5…「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 イエス様はザアカイの名前を呼ばれました。ザアカイを知っておられました。ザアカイが木に登った真剣さや、目立って恥ずかしかったろうけれど、それがイエス様の心にかなった、というのでもありません。登りやすいいちじく桑の木々ですから、どの木にも大勢の人、大勢の子どもたちが登っていたこともあり得ます。しかし、たとえ、木登りしてイエス様を見つめる人々が鈴生(すずな)りにいたのだとしても、イエス様はその中に混じったザアカイを知っておられ、彼の家に泊まるおつもりでした。ザアカイがイエス様について聞きかじっていたことも、エリコの町のその通りを通り過ぎようとされていたのも、それをザアカイが知ってそこの木に登ったのも、全部、イエス様がザアカイを呼び、ザアカイの家に泊まるための伏線だったのです[4]

 6ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

 それは、本当にどんなに大きな喜びだったことでしょうか。しかし、周囲の人々は、一緒に喜ぶどころか、全く納得できない、イエス様を理解することも出来ない、という反応です。

 7これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。

 あの取税人という罪人のザアカイのところに泊まるだなんて、理解できない。不公平だ。そう言い合って、呟いた。それも、みんなが呟いたのです[5]。イエス様の優しさ、公平さ、分け隔てないお人柄に、みんなは魅力を感じて、イエス様の周りに集まっていたのでしょう。でも、その彼らが、ザアカイの所に泊まるとイエス様が仰ったときには、文句を言わずにはおれませんでした[6]。罪人だ、私服を肥やして裕福に暮らしている、あんな人は滅びてしまった方がいい、そう思ったのです。でも、イエス様はそういう呟きや、人間の感情(正義感、不公平感、嫉妬)などは意に介さずに、ザアカイを選んでおられました。それによって、周りの人々の呟きに挑まれました。主は、今も教会に、こういう感情を敢えて呼び覚まさせるような、好ましくない人を置かれて、私たちの狭い心を浮かび上がらせるお方です。イエス様の愛は、私たちの常識では呟かずにはおれなくなるぐらい、深く大きいのです。

 勿論、イエス様の愛や救いは、どんな人をもただ受け入れ、大目に見る、というのではありません。この時も人々が呟いている間に、ザアカイの生き方が変えられていました。

 8ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

 ザアカイがこう言ったから、救いが与えられたのではありません。ザアカイがこう言ったことに、イエス様が救いをこの家にもたらしてくださったことが火を見るよりも明らかになったのです[7]。今まで、財産を肥やし、人から騙し取っても平気だったザアカイが、自分の非を認め、生き方を変えました。人々は、こんなザアカイは滅びても自業自得の罪人だと見ていました。しかしイエス様は、こんな滅びるような生き方をしている人、「失われた人」だからこそ、捜して救うために来たと言われました[8]。「アブラハムの子」[9]、神の民の一人として、捜し求めるに値する者、と見て下さいました。

 ザアカイは木に登りましたが、主イエス様は、天の神の御座を後にして人となり、この世界に降りて来てくださいました。それは、私たちを捜して救うためでした。私たちが財産や安泰な生活ばかりを握りしめて自分を見失っていようと、また人を妬み、裁き、呟こうと、主イエス様はおいでになります。そのためにご自身が傷つかれ殺されることも厭わずに、私たちの所に来て、私たちの名を呼んでくださるのです。この主の愛によって、私たちも主を求めるようにされ、秘かな呟きも生き方も心から変え続けてくださるのが、主イエスの救いなのです。

 

「私たちの心の目を開いて、私たちを見つめ、呼んで招いておられるあなた様に気づかせてください。あなた様が、尊い救いを、私だけでなく、私たちの家に、また私たちには受け入れがたい人にさえもたらすとの御言葉を、感謝して聞き続け、その成就を待ち望みませてください。私たちも、傷や破れ、すべてが合い働いて、あなた様に導かれる人生であることを感謝します」



文末脚注

 

[1] 「取税人のかしら」ここのみ。「取税人」ルカで十回。マタイ八回、マルコ二回。ルカがもっとも多い。「かしら」と合わせれば、十一回。

[2] 「いちじく桑」は、無花果と似ているが桑の木です。食用としてよりも木材として、天井材・棺によく用いられたが、手入れをしないと、根がねじけ、枝が生えてしまうのですが、おかげで木登りには容易でした。十七6で「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」とあったのは、この「いちじく桑」のことで、いかにも歩き出しそうな風貌から言われたのだとも考えられています。街路樹として頻繁に見られたようです。参照『新聖書植物図鑑』、56ページ。

[3] 七34。五27、十五1なども参照。

[4] 「泊まることにしてある」は、「泊まらなければならない」とも訳せます。九22で「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」とあったのと同じ言葉です。イエス様は、救いの御業として十字架に掛かるのと同じ言葉で、私たちの所を訪れることになっている、訪れなければならない、と言われます。

[5] この「みな」の中には、直前の十八35-43で目を癒された、盲人も入っていなかったでしょうか。物乞いをして来た彼が、悠々自適のザアカイへの救いを見たときに、どんな思いを抱いたことでしょうか。

[6] この「つぶやく」(ディアゴンギュゾー)は、ここともう一箇所だけ、十五2で出て来た言葉です。(五30の「つぶやく」は「ゴンギュゾー」。ディアゴンギュゾーは、更に強い呟きです)。律法学者やパリサイ人たちが、イエス様が「取税人や罪人たちといっしょに食事までする」とつぶやいたのです。その事をきっかけにして語られたのが、「放蕩息子」の喩えで、そこでも焦点となったのは、放蕩して帰って来た弟息子そのものよりも、その弟息子を喜び迎える父の喜びに呟き、腹を立てずにはおれない、兄息子だったのです。

[7] 「この家に」という言葉は、「アブラハムの子」ととともに、キリスト教の「救い」が個人主義ではないことを大前提として表しています。福音は、本人の心だけでなく、そこから始まって、その家庭に影響を及ぼすのです。聖書の時代は、今よりも家族、部族の結びつきが強かった時代ではあります。だが、今も、家族という親しさにも福音は必ず影響を及ぼすと信じてよいのです。現代は、家族の結びつきが薄まった分、理想化され、条件化され、幻想的になっているとも言えますが、だからこそ、そこで、まず一人一人がキリストに結びつくことには、測り知れない意味があります。神よりも、お互いに理想を求め合い、欠けを裁き合う家庭ではなく、福音に根ざして、喜び合い、与え合う関係になっていけたら素晴らしいではありませんか。

[8] 「失われた者」アポリュミは、マタイで18回、マルコで9回、ルカでは24回用いられる特徴的言葉です。「滅ぼす」(四34、十三3、5、十七27、29、二十16)、「だめになる」(五37)、「いのちを失う」(六9、十七33、「失われた人」十九10)、「死ぬ」(八24、十三33)、「自分自身を失う」(九24、十七25)、「殺す」(十一51、十九47)、「いなくなる」(十五4、6、24、32)、「なくす」(十五9)、「飢え死にする」(十五17)、「髪の毛一筋も失われる」(二一18)。特に、一五章の三つの喩えで繰り返されていました。人間の業は、キリストさえ「滅ぼす」ことでした。しかし、主の業は、そのようにして「失われている」人を見つけて、救うこと!

[9] 「アブラハムの子」というのも、血筋に根拠があるのではなく、神がこのように主権的に救ってくださることによって、「アブラハムの子」と見做される、ということ。そうでなければ、ユダヤ人全員のところ、ユダヤ人の取税人全員の所に泊まらなければならなくなります!

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問23 ヨハネの黙示録十一章15節 「キリストは、預言者・祭司・王です」

2014-10-23 19:18:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/19 ウェストミンスター小教理問答23 ヨハネの黙示録十一章15節

                                          「キリストは、預言者・祭司・王です」

 

 「キリスト」とはどういう意味か、知っていますか。それは「油を注がれたもの」という意味のギリシャ語です。油を注ぐ? 聖書の舞台となったイスラエルの世界では、油を注ぐのがおもてなしであったり、おしゃれであったりしたのです。それよりも大切なのは、人の上に立つ大事な任務に着く時に、儀式として、油を注ぐということをしたのです。油注ぎの儀式をしたと書いてあるのが、特に、祭司と預言者、そして、王様です。そして、新約聖書の時代には、「油注がれた方」と言えば、神様から私たちのために任命されて来てくださる、すばらしい支配者、完全な王様のことを指すようになっていました。イスラエルの人たちが話していたヘブル語では「メシヤ」、そのギリシャ語訳が「キリスト」です。でも、もともとは油注ぎをしたのは、預言者と祭司と王という三つの指導者です。そこで、今日の所ではこういう問答をしています。

問 キリストは、私たちの贖い主として、どのような職務を遂行されますか。

答 キリストは、私たちの贖い主として、謙卑と高挙いずれの状態においても、預言者と祭司と王の職務を遂行されます。

 イエス様がキリストだ、ということは、どういうことでしょうか。それを分かりやすくするために、キリストとは、「預言者と祭司と王の職務を遂行される」と考えたらいい、ということです。ただの、「救い主」とか「助けてくださる方、愛して、守ってくださる方」でも間違ってはいないのですけど、聖書に出て来る「キリスト(油注がれた方)」はハッキリと、預言者、祭司、王に任命されたのですから、イエス様も私たちの預言者で、祭司で、王様、なのですね。次から詳しく一つずつ見ていって、その後に、

…謙卑と高挙…

についても見ることにしますから、今日は黙示録から、イエス様がどのように描かれているかを見ておきましょう。

ヨハネの黙示録十一15…天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

 この世の国はすべて、イエス様のものとなる。そして、主は永遠に支配される、というのは、言い換えれば、イエス様が王であられる、ということですね。メシヤを英語では「メサイア」と発音しますが、「メサイア」という長い音楽があってその一番有名な部分が、この言葉を歌詞にして歌う「ハレルヤコーラス」ですね。The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of his Christ! と歌い上げるのです。

 そして、同じ黙示録の一章に、イエス様がヨハネに姿を現す場面があります。イエス様が栄光に光り輝いて現れます。想像しながら、絵に描いてみてください。

ヨハネの黙示録一12そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

13それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

14その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。

16また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

 どうですか。七つの金の燭台とは教会のことだと書かれていますが、その真ん中に立っておられるのがイエス様です。足まで垂れた衣で胸に(腰にではなく)金の帯を締めているのは、正装している格好で、大祭司に通じます。頭も髪の毛も目も足も、燃えるように光り輝いていて、限りなく力強い。そして、

…口からは鋭い両刃の剣が出ており、…

とあるのは何でしょうか。これは、イエス様の口から出る御言葉です。神様の御言葉をもし見ることが出来るとしたら、それは、両刃の剣のように、鋭く、戦って負けることがないのですね。これは、イエス様の「預言者」としての面です。「預言者」という時は、未来のことを「予言する」ではなくて「言葉を預かる」と書きますね。神様からの言葉を預かって、人間に伝えてくれるのが預言者です。イエス様は、究極の預言者として、私たちに真理の御言葉をお語りになります。

 イエス・キリストを信じる、というのは、昔々、遠いユダヤでイエス様が十字架に掛かられたと信じるだけのことではありません。今、見えないけれどもどこかで私たちを見守っておられる、と信じることでもありません。十字架にかかり、よみがえられたイエス様は、今も生きておられて、私たちに真理の言葉を語っておられる預言者です。今も、私たちと天の神との間に立って、私たちの手をとって、神様に執り成していてくださる大祭司です。私たちの世界の真ん中に立っておられて、私たちを支配しておられる王様です。もし、このようなイエス様でなかったなら、私たちはどうなったでしょうか。私たちは神様から真理を教えられることがなくて、真っ暗な世界で迷うしかなく、不安で愚かな生き方をするしかなかったでしょう。でも、イエス様は私たちの預言者として、私たちに生きた御言葉、剣のような力強い真理を教えてくださいます。

 私たちは、神様の前に出ることなど出来ないし、神様に怒られて滅ぼされるしかない醜い罪の心がありますが、イエス様は私たちの大祭司でもあられます。私たちひとりひとりのすべての罪を取り扱って、神様の前に出られるようにしてくださいます。

 そして、真理を知らされても、罪を執り成して頂いても、それでも逃げ出すかもしれない、勝手なことをしてしまいかねない私たちをも、イエス様は「王」として治めて、しっかりと支配しておられます。私たちの歩みだけでなく、私たちの心も治めて、また、私たちに降りかかる悪い事も、この世界の全てのことを支配していてくださいます。そうやって、私たちを、罪と悲惨から確かに救い出してくださるのが、イエス様なのです。

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