[1] 今回も、前回に続いて、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』第五章「毒麦とともに生きることを学ぶ」を大いに参照しています。
[2] しもべたちは畑を手入れし、ドクムギを意外・心外な出来事として憤慨している。教会戒規の不要では無く、戒規を行ってなお問題が起こる、という現実のこと。
[3] マタイ18章では「つまずきが起こることは避けられません(7節)」というテーマが論じられています。
[4] 教会が純粋であろうとしすぎて、教会は純粋であるはずだと思いすぎて、不純物を受け入れられない。そういう純粋な願いは、今もあるし、マタイの時代にもあった。初代教会は理想的だった、などという思い込みは聖書からも優しく反駁される。
[5] これは以前の訳では「敵のしわざです」となっていました。「しわざ」なんて言われたら、何かいかにも「やられた!」とか非難めいていて、悔しげで、憎たらしい感じがします。もっと淡々とした台詞ですので「敵がしたことだ」と改善したのでしょう。
[6] 「聖書で「毒麦」はマタイ13:25-40に9回出てくる。ドクムギは4000年前のエジプトの墓から発見されているが、旧約聖書には述べられていない。草丈70cmくらいの植物で、線形の歯は10~30cmある。5月頃15~25cmの穂を生じ、小穂は15~18cmで、花穂の軸の左右に互生する。雄しべは3本で、花柱は短く、実にテムレンtemulen という有毒アルカロイドを含む。これを食すると、頭痛、めまい、悪心、嘔吐などを起こし、重症の時には虚脱症状を起こして死亡することもある。また牧草に混入すると家畜が中毒する。一説によると、この毒は、ドクムギ自体ではなく、Emdoconidium temulentumという菌がドクムギについて毒化するといわれている。種子が発芽する時期も、実がつくときもコムギと同じなので、コムギと一緒に刈り取られ、コムギの品質を低下させることがある。イエスがガリラヤの麦畑を通られた時に、このドクムギもコムギと共に見られたことであろう。一緒に芽が出て、同じように育つが、実るとコムギと全く異なる。収穫の時にドクムギを先に集めてしまえば、良い麦を損なうこともない。パレスチナの農夫は雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようである。ドクムギの発芽能力は数年間保たれるようである。そこで、ドクムギの種が地に落ちても雨の少ない年には発芽率が少ない。しかし、発芽しなかったものも雨の多い年にまとめて発芽する。このように考えると雨の多い年にドクムギが多いことも納得できる。」廣部千恵子『新聖書植物図鑑』(教文館、1999年)92~93頁。他、Wikipediaも参照。
[7] ここでは、毒麦が集められるように世の終わりには「すべてのつまずきと不法を行う者たち」が御国から取り集められて、火の燃える炉に投げ込まれる事が詳しく述べられます。こちらを重視してしまうと、さばきに目が奪われますが、たとえこそが「世界の基が据えられたときから隠されていること」(35節)だったとすれば、そのバランスの中で、説明を読んだ方がよいでしょう。
[8] 実を結べ、ではなく、育てば実を結ぶ。実を結ぶことを「花を咲かせる」と思っていることもあるだろうが、目立つものこそ真っ先に抜かれるのかもしれない。花を咲かせるより、育つこと。その結果、実が結ばれる。そのようなあり方こそ、「太陽のように輝く」。この世界や人間的な「輝き」ではなく、神の恵みに生かされ、この世では評価されなかったとしても(証しになることが出来ない、と見なされるとしても)、神の収穫の時には確かに刈り入れられ、倉に収められる、ということがあるのだ。
[9] 背伸びすることよりも、養われること。みことばに養われ、自分として育てられる。誰かのように実を実らせられなくても、自分の実を結ぶことになるのです。
[10] 私たちは理想を願うあまり、問題を多少強引にでも、乱暴にでも解決しよう、少々の犠牲はやむを得ない、と思ってしまう。しかし、それこそ敵の思う壺ではないか。ドクムギを蒔いたのは、ドクムギを生やすためというより、しもべたちを苛立たせて、ドクムギごと本当の麦を抜かせようと企んだのでは無いか。
[11] 「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」(マリアの賛歌) 「「私の魂は主をあがめる」が直訳的には「私の心の中に主を大きくする」ことだと申しました。ですから、神様に近づくために自らへりくだる、あるいは謙遜になることを信仰的美徳とするとすれば、それは神様を大きくするよりも、むしろ、自分のあり方を主張することで心の中で神様を小さくしていることになるだろうと思います。それがルターの指摘した当時のフミリタス理解の誤りであります。そうではなくて、神様の前に見ばえのしないものであることが本当に自覚されるところで、逆に心の中で神様を大きくするということになる訳でしょうから、それこそが神様の目にとまる、あるいは神様のリスペクトを受けることを可能にするのだということではないかと思います。」 宮庄哲夫 見ばえのしないもの 同志社奨励
[1] 参照、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』(平野克己訳、日本キリスト教団出版局、2014年)。これは、従来の「四つの種」の理解に対する偉大な挑戦です。
[2] 土地が問題なら、蒔いた農夫のやり方が間違っているだろう。違う蒔き方をしたらいいのであって、土地のせいではない。道や岩地や茨があろうと、そちらの損を取り上げるより、良い地に落ちて確実に実を結ぶことに、農夫は満足を見出している。
[3] この「耳のある者は聞きなさい」は「聞き続けなさい」のニュアンスの現在形です。一度きっぱりと聞きなさい、という「不定過去(アオリスト)」ではありません。ここからも、この「聞く」ことが決定的な事というより、継続的なことだと分かります。
[4] 神がすべてをしてくださるのだから、私たちが何をしても良い、というのではありません。私たちは、御国のことばに耳を傾けて聴く必要がある。それは、私たちが聴いていることが幸いだと、見ていることが神の業だと、積極的に受け止め、神の力を小さく考える生き方から変えられることです。自分の聴き方のまずさや頑なさ、誘惑への弱さによって、台無しにしてしまえるかのような弱い言葉ではなく、神の力は必ず実を結び、私たちはその幸いの中に入れられていることを教えられ続けること。神の支配を小さく考えて、自分の力・支配・操作を握りしめてしまう悟りのなさを捨てていくこと。