聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/1/1 元旦礼拝 詩篇一三九篇「とこしえの道に導かれるために」

2012-12-31 09:45:52 | 聖書
2013/1/1 元旦礼拝 詩篇一三九篇「とこしえの道に導かれるために」

 例年のことですが、今年の教会のテーマとして、提案しようとしています聖句を、元旦礼拝の箇所としてお話ししようと思います。詩篇一三九篇です。これは、主が私たちを完全に知っていてくださり、ともにおられる、ということを実に生き生きと、豊かに歌い上げた詩篇として知られています
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
 2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
 遠くの神様だから私には関心などさほどないだろう、というのではない。また、神様にも何かを隠しておけるとか、見せないでおくということは出来ない。
「 3…私の歩みと伏すのを見守り、…
 4ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
 本当に主は私のことを全部ご存じであられる、と歌い上げます。7-12節には、天に逃げても黄泉に逃げても、海の果てに行っても、闇に隠れようとしても、決して神様から逃げることは出来ない、というのですね 。
 13―16節では、もう自分が生まれる前、母親の胎内にいる時から、主が私の内蔵も骨も組み立てられた方だ、その時に、もう私の地上の日々も全部、主が私の人生をすべて書かれた、と言います 。人間のちっぽけな脳味噌なんかでは理解できない、物凄い神様の知恵と力の中に自分があるのだ、と告白するのです。
 ただ、これは、すべてが決まっているんだからもう私が何をしてもいいんだとか無駄だとか、そういう「運命論・決定論」ではありません。5節に、
 「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」
 これは、祝福の手です。神様が私たちのすべてをご存じであられる、というのは恐ろしいほどの不思議ですけれども、同時に雁字搦(がんじがら)めでどうしようもない、というのではなく、そうやって私たちに祝福の御手を置いてくださる、主の温かく、御真実な御心をも確信するものであるのです。このことを理解して、私たちの人生は本当に神様に知られて、覚えられていて、何が起ころうとも祝福を約束されているのだ、意味のないことはないし、神様の手からもこぼれ落ちてしまうのではないかと杞憂することもない。ここから、神様の偉大さを覚えるとともに、深い平安をいただくことが出来るのです。
 しかし、この詩はこれだけではなかったのですね。19節から雰囲気が一変します。
 「神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。」
 物騒な言葉が始まります。どうも、彼の周りには、とんでもない悪人がいたらしい。みだりに御名を口にし、結局は神を憎み、人の血を流すような敵に悩まされていたらしい、と分かるのです。具体的なことは分かりません。彼自身の命が危ないとはありませんが、悪に振り回されて、自分ではどうしようも出来ない状況にあったらしい、と分かるのです。
 そうしますと、1節からの言葉の意味も違った響きで聞こえてくるのですね。追い詰められた状況、自分の無力感、将来への不安、そうした逆風の中で、
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
 2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
と歌っていた。私の状況も、腸(はらわた)煮(に)えくりかえる心中の言葉も、逃げ出したくなるような思いも、この一日一日も、すべてが、主よ、あなた様の前には決して隠れていないのです、と、振り絞るように祈っていたのです。ただの一般的な知識とか教理として、神様は私のすべてをご存じです、と歌っていたのではありません。神の御名を呼んでいるが口先ばかりで、本心では神を憎んでいるような、そういう者たちに囲まれている中、黒雲広がる空を見上げながら、その向こうの天にいます主に望みを繫いで祈る一三九篇だったのです。
 そして、敵への呪いのような言葉を吐き出した後、詩人は最後の祈りを捧げます。
「23神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。」
 自分の心を探ってください、知ってください。私の思い煩いを知ってください。そればかりか、
 「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て」
と言います。この23、24節をそのまま歌詞にした歌もありますが、そこでは「傷つける心」という言葉です 。悪の道、悲しみの道、とも訳せますが、自分だけでなく、他者をも傷つける道、ということでしょうか。いずれにせよ、詩人は傷の道が自分の中にあるかないかは自分では分からなくて、主よ、あなたです、と言っています。その傷のある道を知らないまま歩んでしまうのではなく、
 「とこしえの道に導いてください」
と祈るのです。これこそが、詩人が一三九篇で結論とする願いだったのです。
 敵に囲まれた中、彼らに対する呪い、憎しみをも吐き出しますが、その中で詩人が見つめるのは、自分自身の心の問題でした。状況に変わって欲しい、あの憎い奴らさえいなくなってくれればいい、というのではない。それも吐露しつつ、最終的には自分のために、「私を探り、知り、調べ、知り、見て、導いてください」と五つの命令形を重ねて、自分のために祈るのです。そして、思うに、敵のために傷ついた自分、というよりも、敵の存在を通して気づかされた、無意識の傷、思い煩い、不安、恐れ、怒り、という意味での「傷のついた道」だったのではないでしょうか。ただのこの時の問題、というよりも、自分が「とこしえの道」から実は離れていた道を歩んでいたことに気づかされた、という真剣さが感じられるのです。
 こうした願いを踏まえて、もう一度、最初から振り返って読み直してください。主が私を探り、知っておられるということ、主の前から逃れようとしても不可能であるくらい、主が自分のそばにおられること、母の胎内から人生の最後の日に至るまで、そのすべてが主に知られていること…それは、自分の中にある思い煩い、傷の道もまた、主の前に隠されていないことに通じています。言い換えれば、これらすべてが、私を探り、私を知り、私を傷の道からとこしえの道に導いてください、という祈りを秘めていたのです 。
 一人一人の心にある「傷の道」。それは情緒的に傷を受けた、というだけでなく、御心にそぐわない、歪められた思いも含みます。それが、自分では気づけない、ということは、人の数だけ違っているのだとも分かります。私の中に、確かに傷ついた道があり、それが何かは自分でも分からないのだけれど、確かに自分をも人をも傷つけてしまう。そして、とこしえの道から遠ざけている。信仰の健やかな成長は、この自分の傷を、主によって知り、否定せずに受け止め、主に取り扱って戴くこと抜きには始まらないのでしょう。
 では、どうすれば私たちの傷の道から永久の道に導いて戴くことなどが出来るのでしょうか。それは、キリスト御自身が傷を負ってくださったことによってでしょう。キリストが私たちのために、十字架に掛かり、打たれてくださいました 。私たちの傷の道が、キリストが歩まれた傷の道となりました。このことによって、私たちの道はとこしえの道となるのです。傷がなくなることではなく、そこが永久の道へと続いていくのです。
 私たちの歩みを知り、心の底の思いも、将来の人生最後の一頁までもご存じの神は、ただそれを知っている、知り尽くしておられる、というだけではありません。私たちを永久の道へと導こう、傷に無自覚に振り回されて終わらせるまい、敵にいたずらに苦しめ悩ませたりもなさらない。私たちを愛するゆえに、知って、導いていてくださるお方です。そのために、御自身が深く傷を負われたお方です。
 自分の欠けを知らされ、そこから具体的にとこしえの道、主の道に自分が向かうとはどういうことかを気づく。それは結局、私たちが主御自身を知る、ということとも不可分な歩みです。自分を知り、神を知る。そして、私を本当に完全に知っておられ、生まれる前から、とこしえの道へと至る生涯を、傷や敵もあるけれども結局はそれをも通して私たちのうちにいのちへの道が整えられるように、とご計画なさっていたその方を知る。そして、私たちがいっそう主に信頼することにより、更に周りにも主のみわざが広がるのです。今年もまた、そのような歩みであり、またそれを意識する一年を共に過ごしたいと願います。

「(23、24節)新しい年の歩みがどこへ向かうにせよ、あなた様へと近づいている、いいえ、あなた様が私共に近づいてくださるのです。私共を知り尽くして、すべてをご計画し、またこのような私共を通して、あなた様の栄光を現し、救いのみわざを推し進めようとの御心を知らされて感謝します。心を恵みによって新しくされるこの一年としてください」

文末脚注

1 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
2 これは、舟で逃げようとしたヨナや、お釈迦様の手で躍っていた孫悟空を思い出します。
3 胎内のことは「地の深いところ」と言われるほどに古代イスラエルにおいて神秘であったのでしょう。では今はどうでしょうか。医療技術を駆使して、胎内の様子、胎児の成長などは、写真でも見ることが出来るようになり、よく分かるようになりました。しかし、それでも生命のことは神秘です。十月十日の間に二百余りの骨、五十億余りの細胞が造られる、と分かることにより、一層、驚嘆せざるを得ません。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞を取りましたが、それは生命の研究が未だに神秘であるからこそ、でしょう。
4 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
5 英訳聖書のほとんどもその意味に取っています。Wicked way (KJV, NKJV, RSV; ASV, WEB, HNV); Hurtful way (NASB); Offensive way (NIV)。ESVとYLT、DBYは「悲痛な道」Grievous wayとしています。Blue Letter Bibleサイトより。
6 カルヴァンは、本篇の要旨を、「ダビデはその心をあらゆる偽善から浄めるため、この世の大部分が誤って巻き込まれている空しい言い訳のすべてを見分けつつ、多くの文章を重ねて、神の目が到達しないような隠れ場は存在しない、と結論する」としています(『詩篇注解Ⅳ』p.325)
7 イザヤ書五三5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」


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2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」

2012-12-31 09:43:17 | ローマ書
2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」
創世記八6―22 詩篇五一篇

 今年の最初からローマ人への手紙を説教してきました。最後の礼拝を、この赤裸々で凄まじい言葉を聞いて終わるということになりました。
「15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」
 このような言葉が延々と羅列されています。こうした言葉に戸惑う方も大勢いるでしょう。しかし、とても深く共感できる、自分の中にもこのような思いがある。するべきこと、本当にしたいと思うことが出来ずに、そんなことはしたくないと思っていることをしてしまう。まさに、これは自分の思いだ。そう思い、パウロの言葉が身近に感じられて、慰められる。そういう読み方をしている方は、それ以上に多いのかも知れません。自分の弱さ、という言い方をしてもよいでしょう。ローマ書は難しいと考えられることが多いのですが、この箇所だけは好きだ、という方だっているかもしれません。
 ただし、改めて、パウロが言いたいことはそれだけなのか。「あの大先生でさえも、心中では酷い葛藤に苛(さいな)まれていたんだな」-そういう読み方で終わっていいのか、と考えさせられました。
 ある人たちは、このような罪の苦しみは、きっとパウロがイエス様と出会う前のことを思い出しながら語っているのだろう、と考えます。イエス様にお目にかかって、もうこの煩悶からは解放されたのだ、と考える人も少なくありません。しかし、パウロはこれを現在形で語っています。また、22節には、
 「…私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、」
とありますが、神の律法を喜ぶことが出来るのは、キリストを信じる前ではなく、聖霊によって心を新しくされ、信仰を持つようになって後のことです。ですから、これは、信じて救われる以前の心境だ、と説明することは出来ないのです。あるいは、信じてからもしばらくはそういう罪の意識から逃れることは出来ないときがあるけれども、ある瞬間(聖化とか聖霊体験、「第二の恵み」などと呼ばれますが)、罪を浄められて、完全に純粋な心を持つようになる、それまでのことだ、と教える教派もあります 。しかし、これもまた、そのようなことは聖書に教えられていません。パウロが、
 「私は罪人のかしらです」
と言ったのは晩年だったのです 。
 では、これはパウロのこの時のホンネなのか、と言いますと、これはまたこれで、別の問題が持ち上がります。23節には、
 「…私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしている…」
とあります。しかし、先の六章ではこれと反対のことを言ってきたのです。
「六17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 このような言葉はどうなってしまうのでしょうか。いいえ、ローマ書の全体や、ピリピ書やテサロニケ書の、喜びと確信に満ちた言葉がすべて、綺麗事、タテマエだった、ということにもなりかねません。
 一体、パウロはここで何を言いたいのでしょうか。それは、ここまで何を言ってきたのかを思い出すことから始まります。それは、人が救われるのは決して律法を守ることによってではなく、ただイエス・キリストの恵みによる、それが福音である、ということでした。そして、それならば律法は何なのか、それを守るために律法が与えられたのでなかったら、律法は罪なのか、ない方がよかったというのか、という反論を想定して、そうではない、と言ってきたのです。
「七12…律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」
「14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」
 そういって、ここに今日の「告白」が述べられていくのですね。
 ですから、一言で言えば、これは、恵みがなくて、律法だけの下にあるとしたら、そこで明らかになるパウロの姿、なのです。本当は、これだけではないのです。これが現実の全てではないのです。喜びや感謝、確信や希望はあるのです。けれども、パウロがここで想定している、それも心配しすぎな想定ではなくて当時も今も根強く人間の中に残っている神の恵みへの軽率な反抗心という反対が正しいとしたら、どうなるか。救いを望んでも、善を行いたいと心から願っても、なおそれが出来ずに、かえってしたくない悪を行ってしまう、そういう罪を、いやというほど気づかされるだけだ。そうパウロは言っているのです。
「20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
 パウロは責任転嫁として、私じゃない、私の中の罪なんだ、と言っているのではありません。もしそうなら、24節で、
 「私は、ほんとうにみじめな人間です」
という必要もなかったでしょう。だって、それは私ではないんですから。けれども、パウロは責任逃れではなくて、自分の中に罪が宿り、いいえ、罪が自分を虜(とりこ)にして、自分の力や努力ではそれに勝つことは出来ない、と述べているのです。それが現実だ、と言うのではないのですよ。現実には、律法の下にはなく恵みの下にあるのです。そして、自分の力によってではなく、恵みの力、「わたしを強くしてくださる方」の力によって勝利をいただけるのです。でも、そうではなくて、律法だけを与えられて、頑張れと言われているだけであれば、罪に勝つことは出来ない。
 前回の7節以下で見ましたように、その罪とは盗んでしまうとか悪事を働いてしまう、という罪ではありません。むさぼり、心の中であれこれを欲しがり、妬み、自分の欲や願望が神となってしまう、という罪です。それをどうしようも出来ないのが私たちです。律法は、そのような私たちの罪を明らかにします。そのうち守れるようになる、ではなくて、どれほど守れないかを知るほかない。そして、その最後には24節の叫びになるのですね。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
 私を救い出してくれるのは誰か。それは私自身ではない。他の人でもない。律法そのものでもなかった。そこから、次の25節、
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
という言葉が出てくるのです。そうです。律法は私たちを自分の罪と向かい合わせ、誰かの救いを求めさせ、すなわち、私たちの主イエス・キリストを通しての神への感謝へと至らせるのです。ですから、もし律法がなければ、私たちは自分の罪、惨めさということに気づきさえせずに、相変わらず自分は結構良い人間だ、やれば出来る人間だ、神様もそれが分かっているから救ってくださるんだ、ぐらいに考えてしまうに違いないのです。
 ですから、私たちは自分の罪との葛藤を覚えたり無力さや弱さに自己嫌悪したりすることがあるわけですけれども、ここを読んで、「あぁ、パウロも同じような葛藤があったんだな」と、安心したり「どうせキリスト教もそんなものか」と決めつけて終わる、というのではないのですね。これは律法だけ、恵みなしの努力だけ、という世界であれば、という話です。そこでパウロは、救い出してくださる方、主イエス・キリストに至り、感謝に溢れています。私たちもまた、自己嫌悪したり傷を舐め合ったりして終わるのではなくて、そこから主イエス・キリストを仰ぐ。無力な私たちのうちに、力強く働いてくださる神を仰がせていただくことが出来るのだと気づかなければなりません。
 「みじめ」という言葉は、ただ恥をかくとか情けないという以上に、滅びに至るしかない悲惨、という意味での惨めです。この言葉は、聖書にもう一度だけ使われます。黙示録三17です 。自分が惨めであることが見えず、豊かだと思っていたラオデキヤ教会のように、あるいは自分の惨めさが自分の罪のせいではなく、人のせいだと思っていたら、また、それ以前に、神の律法を本当に願いとしているよりも、憎むべき罪、むさぼりや妬みや自己中心を愛して、嘆くこともない-そういうこともまた、私たちが陥りやすい危険であります。福音がなければ私たちがとことん悲惨である、そのことを知って深く謙るときに、神への感謝が溢れるのです 。どうか、この福音の素晴らしい力に与るためにも、御言葉により自分自身の誤魔化し得ない罪を見つめ、悔い改めて新年を迎えたいものです。

「私も他者も、あなた様の恵みに包まれなければ、本当に惨めなものであると、今一度心に刻ませてください。奢(おご)ったり嘆いたり裁いたりする闇から、福音の光によって救い出してください。ここまで導かれてきたのも、これからも、主の恵みの中にある。感謝します」

文末脚注


1 このような立場は、「キリスト者の完全」(本物のキリスト者は完全に聖となって歩めるのだ。そうでない教会は堕落している)という考えを保持する教派に見られます。宗教改革期の急進主義(アナ・バプテストなど)やウェスレー主義、ホーリネス(昔の?)など。
2 Ⅰテモテ一15。
3 その他、六章全体を再読してください。
4 「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」。
5 ハイデルベルグ信仰問答2「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたがどれだけのことを知る必要がありますか。答 第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」(吉田隆訳、新教出版社)。



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2012/11/25 ローマ書七1―6「よみがえった方と結ばれて」

2012-12-31 09:41:29 | ローマ書
2012/11/25 ローマ書七1―6「よみがえった方と結ばれて」
エレミヤ書三一31―34 詩篇一篇

 ローマ書の七章に入りますが、ローマ書七章と言えば、パウロが、
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
などと、赤裸々に自分の罪の心を告白している箇所として有名です。それに共感する方もいれば、なじめない思いを感じる方もいるでしょうが、今日はそういう内容に入って行く前の部分になります。しかし、この部分、そしてこれまでの六章での議論を踏まえて初めて、あのパウロの赤裸々な告白というものも、正しく理解できる。そういう意味でも、この箇所をよく心に留めたいと願うのです。
 ここで最初に持ち出されている譬えは、夫婦の譬えです。律法とキリスト者との関係を、夫婦に例えています。
「 1それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか――私は律法を知っている人々に言っているのです。――
 2夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
 3ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」
 夫の立場からすると、まぁ「随分な譬え」だなぁ、という気もしますが、逆に妻が死んだら、という譬えにしなかったのは、男性からの横暴な言い分にならないためでもあるでしょうし、それ以上に、当時の社会でも聖書でも、夫が妻にではなく、妻が夫に従うという関係がここでは相応しいからでしょう。いずれにせよ、結婚の愛は永遠であることを求められはしません。「死が二人を別つまで」という制限が、結婚の誓約の時点で告げられるのです。(勿論、相手が生きている間に、早く死んでくれたらいいのにと考えることが許されるわけではありません。)
 死が二人の関係を終わらせたら、もう妻は亡き夫に縛られることはない、と聖書は実にあっさりと告げています。しかしそれで言いたいのは、私たちもまた、律法の支配の下にはなく、新しい夫、恵みの主イエス・キリストの下にいる、ということです。
 夫婦の譬えでは、夫が死ねば、と言われていたのに、私たちの関係では、私たちが律法に対して死んだ、と言われて、少しずれているわけです。しかし、これは当然でしょう。譬えでは、自分が死んだ、とするわけにはいきません。また、私たちの事実で言えば、律法が死んだのではなく、私たちが、キリストとともに死んだのです。
「 4私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」
 夫婦の譬えに託してパウロが言いたいのは、これです。私たちが今、キリストに結ばれている。もしまだ律法という夫の支配下にいたとしたら、私たちがキリストに結ばれていることはあり得なかった。それ自体が違反であり不誠実も甚だしいということになった。けれども、今私たちがキリストに結ばれているのは、キリストが律法に従う者として完全に生き抜かれて、最後には私たちが受けるべき律法の呪いをすべて引き受けて死んでくださった。そこにおいて、私たちもまた、キリストとともに死んだとされるからです 。そこで、律法と私たちの間に、キリストの死という終止符が打たれたのです。
 誤解のないように言っておきますが、ではもう私たちは律法に従って生きる必要はない、好き勝手に暮らしてもいい、ということではないのですね。この後、七章で教えられていくのは、律法の役割とその限界ということです 。律法は、キリスト者となって初めて、本当の役に立ち、道標とされるのです。ただ、律法が私たちを救うことはありませんでした。律法、規則が人間に出来るのは、人間の非を完全に明らかにすることであり、心にある罪は外からの律法では決して解消は出来ないのです。最終的には死刑でもって罰するぞ、と脅されても人間は懲りないし、その頑なさは直らないのです。
 しかし、キリストが私たちのために死んでくださったとき、律法は私たちをもうそれ以上罰したり支配したりすることは出来なくなりました。そして、私たちは今やキリストの花嫁とされて、キリストの恵みの下に支配される者となったのです。
「 5私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」
 「肉」とは、ただの肉体・私たちが今も持っているこの体のこと、ではありません。ここからパウロは、「肉と霊」という言い方をして、御霊に導かれた神中心の生き方と、御霊から離れた自分中心の生き方とを対比させていきます。肉・からだが悪い、というのではなくて、神に背いていたときは、という言い回しなのです。そのときは、結局、神から背くばかりだった。律法が私たちに正しい道を示しても、私たちはますます抜け道を捜したり反発したり欲望を刺激されたりして、罰を招くしかできませんでした。
「 6しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
 今は、律法の下、「古い文字」ではなく、御霊の新しい御業の下にあって仕える者、実を結ぶものとなりました。それは、律法のように、上から、外側から「こうしなければだめだ」と規制しようとするのではなく、御霊の恵みによって一方的に罪との関係を終わらされて、キリストに結ばれる新しい関係をもたらしてくれて、私たちの心にも新しい願い、神の御心を喜び、自分の罪を心から悲しむ、そういう御霊の業によるのです。
 今でも私たちは、恵みを知らない者であるかのように、肉の原理、この世界の欲望や価値観にフラフラと流されることがあります。妻が夫に従うように、恵みならざものの欺きに足が向いてしまうことがあります。しかし、今日の箇所が言うのは、それは、生きているキリスト、教会の花婿なるお方から離れて、死んだ夫、もう無関係な幽霊によろめくような愚かなことだ、という事実です。
 キリストが、私たちを、夫婦よりも強い絆で御自身に結びつけてくださいました。そして、このお方が死ぬことはもうないのです。一度だけ十字架に死なれましたが、それは、私たちを律法に対して死んだ者とするためでした。そして、もう死ぬことはなく永遠に生きているのです。そして、私たちもまた、もう死んでも、キリストとの繋がりは切れることがありません。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
 ですから、もうキリストと私たちとの関係は、永遠に夫と妻のように離れることがないのですね。決して律法や罪や他のものに騙されて離れても必ずこの本当の主人のもとに帰ってこなければならない。そして、主は私たちを律法によって、外面的な行動や規制、条件付きの優しさで縛るのではありません。(もしそうなら律法と何が変わるのでしょうか)。イエス様は私たちが何らかの条件を満たせば、というような規準ではなく、私たちを限りない愛をもって捕らえ、私たちの弱さも危うさもすべて知っておられ、永遠の忍耐をもって私たちとともにいて、導いてくださるお方です。そして、私たちもまた、その御自身の恵みによって生きることを御心とされているお方なのです。
 主に似た者へと変えられて、私たちも条件付きで人を愛するのではなく、すべての人を尊ぶ。あるいは、私たちが律法の支配から解放されたように、私たちも人を支配しよう、周りをコントロールしたいというあり方からも解放されていく、と言ってもいいでしょう。あらゆる意味で、私たちが「恵みならざるもの」から自由にされていくことにこそ、古い夫ではなく、キリストを主人とする新しさは表れてくるのです。そのためにも、主イエスは、忍耐をもって私たちに関わり、付き合い、教え育て続けてくださると約束して織られるのです。キリストが夫であるということは、私たちと神との関係が変わるだけでなく、私たちのすべての関わりがキリストを主とするものとしてふさわしく変えられていくことでもあるのです。そして、それは決して私たちの力によるのではなく、ただ神の御霊の恵みによることです。この幸いを感謝して、祈りつつ歩みましょう。

「主が私共のために十字架に死なれたとは、どれほど大きなことでしょうか。どうか、その大きさ、力を忘れ疑って、律法の世界に舞い戻ってしまう愚かさから今週もお救いください。自分で頑張ろうとする前に、ひたすら、あなた様が永久の主であってくださる、この事実のうちに絶えず立ち帰り、真の恵みの器とならせていただきますように」


文末脚注

1 ローマ七19。
2 ローマ七24。
3 ローマ六4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
4 これは、ロイドジョンズの七章講解説教のタイトルそのままになっています。
5 ローマ六11


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2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」

2012-12-31 09:39:37 | クリスマス
2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」
ミカ書五2―4 ルカ伝一68―79

 イエス・キリストがお生まれになったとき、また、お生まれになる前、そのおいでを知らせたのは、御使い(天使)たちや星、東の国からの博士たちなどであったと、聖書のクリスマス記事は伝えています。また、先に読みましたミカ書のように、五百年以上前に書かれていた旧約聖書の文書も、イエス様がやがて来られることを様々に予告していたのです 。イエス様がおいでになったことは、歴史も天界も総動員するほどの、本当に大きなことだったと分かるのです。
 お生まれになったのは、小さな可愛い(とは聖書に書かれていませんが)赤ん坊でした。クリスマスの絵や置物によくあるように、人の泊まる宿ではなかったのですが、小さな小屋でもそこにマリヤとヨセフに挟まれて、飼い葉桶に寝かされているお姿は、ほのぼのとした、という表現がピッタリだと思うのではないでしょう。何かそこに神々しさとか偉大さなどを持ち込むことは、興醒めのようにも思われるのかも知れません。しかし、そのどちらもあってのクリスマスなのですね。
「 1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」」
 ユダヤ人の王を拝みに、遠い東の国からの博士たちがやってきました。当時のヘロデ王は、そんな偉大な王が来るなら自分の立場が危うくなると恐れました。
 「 3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」
 しかし、そうして博士たちが導かれて探し当てたのは、
 「11…母マリヤとともにおられる幼子…」
だったのです。しかし、彼らはそれでガッカリしたりはしませんでした。
 「10…彼らはこの上もなく喜んだ。」
のであり、
「11…ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
 はるばる旅をしてきて拝ませていただくにふさわしいお方。高価な贈り物をささげるに価する偉大なお方。そして同時に、だれも顧みないで人間の宿さえ与えられないような迎えられ方をされて、暗い飼い葉桶に寝かされて、それでも怒ったり不機嫌になられたりせずにスタートを切られたお方。それが、イエス・キリストなのですね。
 それは、当時のエルサレムの宮殿に踏(ふ)ん反(ぞ)り返っていたヘロデ王とは見事に対照的な王でした。「王らしくない王」と言ってもよいでしょう。私たちが思い描くような王とは全く違うお方。クリスマスの歌にはそういう歌詞のものが沢山あるのも頷けます 。
 けれども、神様の中では「偉い」というのと「威張る」というのは同じではないのですね。本当に偉いお方、力強いお方ですが、そこで人間みたいに偉そうにするとか成金根性が出るとか、そういうことは考えもしないのが神の子イエス様なのです。それでも、イエス様は、まことの神であられ、まことの王であられます。この王様は、ご自分の国である世界が、正義から背いて罪に満ち、自分のことばかりを考え、滅びに向かっているのを本当に悲しまれ、怒られて、そこから私たちを救い出すために、王として来られたのです。
 祈祷会で学んでいますテキストで、キリストを預言者とか祭司としては信じているけれども、王だとはっきり信じていない教会が多い、という文章がありました。王だと全く信じていない、というのではないのだと思います。ただ、王だとはいえ、力がない。決定権を持たない。落ちぶれた王、ぐらいに考えている、ということなのでしょう。
 勿論、イエス様のお姿を見れば、イエス様が権力を振るって、上から人間を治めたり、私たちに無理強いをしたりなさるお方ではないことはハッキリしています。赤ん坊になって来られたイエス様は、すべての武器を捨てて、丸腰で来られたのです。けれども、だから王様でもなくなった、というのではなくて、そういう方法で私たちを本当に治め、御自身のご計画を間違いなく確実に実行される王であられる。外からの力尽くではない、ということも私たちにとっては有り難い恵みですし、でも私たち任せで指をくわえておられるというのでもなくて、見えない形で私たちを導き、心に語りかけてくださり、あらゆる形で私たちが神様に立ち帰るよう働きかけておられる。外から無理矢理ではありませんけれど、内側から進んで悔い改め、信仰を持てるようにと働いてくださる。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」
という通りです。ただ、そこには、私たちの外側のこと、生活だの外見だのも入るのですが、一番肝腎なのは、やはり私たちの「心」ですね。見えはしませんが、私たちの思いや行動の根っこにある心。「生活の座」、一番奥に隠している「自分」、そこに神に対する罪があります。自分が神になろうとする。あるいは、神にさえ触らせるもんか、と思っているエゴがある。そこが神様の前に正されない限り、決して神様が私たちを喜ぶことはあり得ません。私たち人間には決して自分の力で直すことは出来ません。そこで、イエス様がおいでくださった。私たちを幸せにするとか、欲しい生活をくれるとか、そういうためにではなく、私たちを治めるため、私たちの心の一番奥底までも、神様の光によって照らし出して、罪を認めさせて、自分が神ではなく、まことの神を神として歩ませるためです。自分が王様ではなくて、イエス様を王としてお迎えして歩むようにならせるためです。
 王であるイエス様が来られたとき、みんながそのイエス様を大歓迎したでしょうか。凱旋行列を造ってお迎えすべきお方のパレードをしたでしょうか。いいえ、今日のマタイの福音書が伝えているクリスマスの記事は、イエス様を殺そうとしたヘロデが、周囲の二歳以下の男の子を皆殺しにした、という出来事を語っています。残酷な記事です。クリスマスには相応しくないような、読むに堪えない事実です。ここを読まない教会も多いでしょう。しかし、世界で祝われるクリスマスには、必ずここも読む。クリスマスの劇をするときは、この幼児殺しまでちゃんと演じるという伝統もあるのだそうです。それは、自分たちが、独裁者の圧政に苦しんだとか、敵の支配下で子どもを殺されたとか、そういう歴史がある町や村が、ヘロデの幼児殺しまで演じるのだと、何かで読んだことがあります。そういう、残酷な歴史を肌で知っている人たちにとっては、クリスマスがそういう暴力のただ中で起きたという事実に、深い意味を見出している。これをカットしてしまったら、なんとも薄っぺらい話になる。そう思われているのでしょう。
 私たちもまた、イエス様を王として知り、心にお迎えし続ける必要のある者です。クリスマスや日曜だけイエス様を誉め称えはしても、いつしかすぐに自分が王様になる。神様にも誰にも従いたくない、と思う自分がいる。その末はヘロデの姿です。今年、シャロンの会で学びました子育ての話では、子どもは周りを支配しようとするものだけれども、大人になっていくとは、周りを変えようとするのでなく、自分の行動や感情や生き方に責任を持てるようになることだ、ということを軸に学び続けました 。けれども私たちは何とそれを間違えやすいことでしょうか。そうかと思えば、イエス様が王として私を捉えていてくださる、すべてに働いていてくださる、と信じられず、疑ってしまう。
 勿論、神様が働いてくださるのだから何もしなくていい、ということではありません。博士たちははるばる東から旅をし、ヨセフはマリヤと幼子を連れて、エジプトまで逃げなければなりませんでした。イエス様がこれ以上出来ない行動を取られたように、私たちも自分の力や知恵や忍耐を尽くして、行動していく。イエス様が王であられる、とは私たちがイエス様の足跡に、喜んで従って行く、ということでもあるのです。しかしそこにも、イエス様が私たちの王であられて、私たちを導き、守り、必ず支えていてくださる、という信頼が裏付けとしてあるのです。私たちを、御自身の民として、子どもとして、訓練し、新しくし、成長させてくださる。そう信じるのです。
 一昨日、陸前髙田に行き、被災地の現場を走って、保育園を周り、子どもたちへのプレゼントを届けてきました。喜んではいただきましたが、お話しを聞いたり、瓦礫の山や荒野のような場所を見て、圧倒的な無力感を感じてきました。私自身、自分の今を考えても、どうなるんだろう、どうすればいいんだろうと思う問題があります。クリスマスは、そういう私の所に、人間のどうしようもない現実の中に、イエス・キリストがおいでになった。ひっそりと、けれども確かに王であるお方がおいでになって、そこに必ず御業を進めてくださっている、というメッセージでもあるのです。どうかそのことを信じて、そしてその主に従う柔らかな心もいただいて、クリスマスの喜びに歩んでいきたいと願うのです。

「その誕生とご生涯の貧しさによって、私共を本当に豊かに、深く、治め、あなた様の愛に似せてくださる恵みを感謝します。どうぞ頑なな心を恵みによって砕き、主の喜びに満たしてください。王である主。あなた様に従わせてください。御心が見えない時にも、心に光を灯して、望みに生かし、恵みの器として強めてください。御国が来ますように」


文末脚注

1 ミカ書は、紀元前八世紀から七世紀ごろに書かれたと考えられています。
2 たとえば、讃美歌101番「君の君なれどマリヤより生まれ、うまぶねの中に産声をあげて」、107「黄金の揺り籠、錦の産着ぞ、君にふさわしきを」など。
3 ローマ書八28。
4 ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント『聖書に学ぶ子育てコーチング』(あめんどう、中村 佐知訳、2011年)

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2012/12/16 ローマ書七7-13「むさぼってはならない」

2012-12-15 03:38:43 | ローマ書
2012/12/16 ローマ書七7-13「むさぼってはならない」
イザヤ書十一1-9 ルカ伝一46-55

 ローマ書七章の今日の箇所から、パウロは「私は」と、一人称単数で語り始めます。有名な、パウロの告白に入っていきますが、今日は、その入口でしょう。次回からは現在形で語りますが、今日のところでは過去形です。
「 7それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」
 律法によって罪を知った、という言葉です。ここでパウロは、ずっと続けてきた、私たちがもはや罪に対しては死んでいる、恵みによって救いの中にすでにある、ということを語っていますが、律法の下にはいない、とも言い換えてきたわけです。そこで、では律法は罪なのか、という反論を想定してこう言うのです。ただ、パウロは決して一般論とか知識を弄んでいるのではなく、自分自身の体験として語っているということも心に刻みたいところです。
 「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」
 そうは言っても、決して律法が来るまでは全く罪意識というものがなかったのではないはずです。人間には最初から律法が与えられており、ユダヤの社会もローマ帝国も、善悪の概念を持ってはいたのです。しかし、それは人間の基準で考えた「罪」です。「最大多数の最大幸福」と言ったり、社会を形成する上でのルールを考えたりするのであって、それ自体が人間を中心としていて、天地の主である神に従うものではありません。ですから、神の律法が来るときに初めて、人は罪を知るのです。
 とはいえ、パウロはユダヤ教徒として、生まれた時から律法の中で育てられてきたはずです。彼はパリサイ派に属していましたから、厳格に律法を学び実践しようとしてきたのです。それならば、なぜ、こういう言い方をパウロはしているのでしょうか。
 ここでパウロは、
「律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、」
と言っています。これは、律法の中心である「十戒」の最後に当たる第十戒「むさぼってはならない」を要約しているのでしょう 。私は以前、ここで「するな」と言われたらかえってますますそれがしたくなる、という人間の心理のことを言っているのだろう、というぐらいにしか考えていませんでした。「むさぼるな」でも「盗むな」でも、とにかく人間はそういう反抗心を持っているのです。けれども、それはそうですが、ここではやはり、「むさぼるな」であることに意味があるのですね。
 十戒は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」としてはならない行為を示していますが、最後の第十戒だけは、むさぼってはならない、欲しがってはならない、と心の思いを規定しているのです。これは、十戒全体が、外面的な行為だけではなく、内面の思いをも要求していることを表しているわけです。そんなことまで言われたら堪らない、と大方の人は思うでしょう。ユダヤ人たちもそうでした。厳格に律法を守るとしたパリサイ派、律法学者の教えでさえ、行為は厳格に律しても、それさえ守っていれば律法を遵守したことになる、と考えたのです 。
 本来ならば、私たちの心が正しくあることは喜ばしいことであり、いのちに至ることです 。10節でもパウロは、
 「いのちに導くはずのこの戒め」
と語っています。しかし、心に貪りがある罪の現実を、私たちは言われたからといって正すことは出来ないのですね。パウロが言う通り、
「 8…罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」
 パウロは、エペソ書五5で、
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者、むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-」
と言っています。貪る者は偶像礼拝者だと言うのです 。神よりも自分の欲しいものを愛するのです。いいえ、神さえも、自分の願いを叶えてくれるしもべとしてしまうのです。これは、神に対する根本的な罪です。そして、それが罪だと言われても、人間は何とかして抵抗しようとします。反抗するという抵抗は勿論、何とか抜け道を捜したり、どこまでならいいのかとか、じゃあ何でもダメなのかとか、色々と屁理屈を並べたりする。そして、パウロが言うことには、言われると却って意識してしまう自分の心理にも気づいたということがあるでしょう。「むさぼるな」「ほしがるな」と言われることによって、パウロは自分の罪に気づいたのです。自分は、今まで生きている、正しく歩んでいる、と思っていたのが、律法によって、あらゆる貪りがうごめいている自分に気づいたのです。
 「戒めが来たとき」
という、その時に、目が開けて、律法の、神の御心の真意を悟り、自分が罪に死んでいる事実に気づいたのです。
「13ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
14では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」
 律法の戒めが悪いのではないのです。それは、いのちへの道なのです。しかし、私たちの中にある罪が、その道を毛嫌いして、自分を貫こうとすることが明らかになる。あらゆる欺きの手を尽くして、神様をも引きずり下ろして自分を通そうとする私の姿に気づかされるのです。妬みや不満も、貪りが形を変えたものに過ぎませんけれども、そういう自分の醜さは、本当に、極度に罪深いと言わざるを得ないものです。
 けれども、それは私たちをただ卑しめ、貶めるためなのでしょうか。そうではありません。自分がそれなりに善人だと思っていた幻想は打ち砕かれるのですが、それによってやはり私たちが、罪に気づき、主の救いと憐れみを求めさせることに繋がるのです。これについては、七章を続けて読むうちに見えてくることですが、今日は、それと共に私たちの救いというのが、本当に、この貪りの心を「罪」として明らかにされて、そこから自由にされていく、そういう救いであることを覚えたいと思うのです。貪りが偶像礼拝だとすれば、なおのこと、私たちの願い、欲、また妬みや不平などの感情が取り扱われて、本当に主なる神だけを礼拝するようになることは、救いにとっての本質的なことに違いありません。そして、私たちが、主にあって満ち足りて、あるもので感謝するようになることは勿論、今あるものさえも、「なくてはならぬものはただひとつ」という告白の前には、なくてもよいもの(ないほうがよい、ではないですが)そう言い切れるようになっていく。主イエス様を知れば知るほどに、自分というものも含めて、すべてを惜しまずに、ますます身軽になっていくことが、キリスト者の成長であり、救いの前進なのだと心に確りと刻みたいのです。
 アドヴェントを過ごしながら、独り子イエス様を与えてくださったほどの私共への愛を味わいたいと思います。神としての権威や富とは正反対の、丸裸の赤ん坊としてお生まれになってくださったイエス様の御愛を深く心に刻みたいと思います。私たちのために、人となられたとき、「少しはあれも」「これは捨てたくないな」などとはお考えにならなかったイエス様でした。そのイエス様によって私たちが救われているのであり、私にとって心地よい救いではなく、イエス様に似た者、神の愛において成熟する救いに与っています。
 神に従う者になりたい、愛する者になりたい-これは、貪りとは相容れない願いです。そして、私たちが「むさぼってはならない」という律法をいくら声高に与えられても決して貪らなくなることは出来ないのであって、ただ神が私たちに、聖霊によって、神を信頼し、あるもので感謝し、主に従うことと、隣人(となりびと)を愛する愛を増してくださる、その恵みによってのみ、変えていただけるのです。クリスマスに向けて、主が私たちのうちにもお宿りくださって、私たちの心を軽くしてくださるようにと祈りましょう。

「私共を愛したもう主の御愛によって、私共を新しくしてください。本当になくてはならぬものと、なくてもよいものとを見分けさせて、貪りを捨て続けさせてください 。主イエス様は、私共を愛し、喜んで丸裸の幼子になり、最後は十字架をも厭われませんでした。私共のうちにも、この主を信じる幸いを宿らせて、心から御降誕を祝わせてください」


文末脚注

1 出エジプト記二〇17「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」が全文です。
2 ですから、マタイ伝五章では、イエス様が当時の律法理解を示した上で、神の律法が要求していることの、とてつもないレベルを教えておられます。また、「富める青年」との会話でも、「彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」」と応じているのです。
3 このことは、出エジプト記十九5、レビ記十八5、申命記六25などでも明言されています。そして、イエス様御自身も、ルカ伝十28で仰っています。
4 また、コロサイ書三5でも繰り返しています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
5 有名なラインホルド・ニーバーの祈り「主よ。与えてください。変えるべきものを変える勇気を。変えるべきでないものを変えない忍耐を。そして、その二つを見分ける知恵を」より。


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