2013/1/1 元旦礼拝 詩篇一三九篇「とこしえの道に導かれるために」
例年のことですが、今年の教会のテーマとして、提案しようとしています聖句を、元旦礼拝の箇所としてお話ししようと思います。詩篇一三九篇です。これは、主が私たちを完全に知っていてくださり、ともにおられる、ということを実に生き生きと、豊かに歌い上げた詩篇として知られています
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
遠くの神様だから私には関心などさほどないだろう、というのではない。また、神様にも何かを隠しておけるとか、見せないでおくということは出来ない。
「 3…私の歩みと伏すのを見守り、…
4ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
本当に主は私のことを全部ご存じであられる、と歌い上げます。7-12節には、天に逃げても黄泉に逃げても、海の果てに行っても、闇に隠れようとしても、決して神様から逃げることは出来ない、というのですね 。
13―16節では、もう自分が生まれる前、母親の胎内にいる時から、主が私の内蔵も骨も組み立てられた方だ、その時に、もう私の地上の日々も全部、主が私の人生をすべて書かれた、と言います 。人間のちっぽけな脳味噌なんかでは理解できない、物凄い神様の知恵と力の中に自分があるのだ、と告白するのです。
ただ、これは、すべてが決まっているんだからもう私が何をしてもいいんだとか無駄だとか、そういう「運命論・決定論」ではありません。5節に、
「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」
これは、祝福の手です。神様が私たちのすべてをご存じであられる、というのは恐ろしいほどの不思議ですけれども、同時に雁字搦(がんじがら)めでどうしようもない、というのではなく、そうやって私たちに祝福の御手を置いてくださる、主の温かく、御真実な御心をも確信するものであるのです。このことを理解して、私たちの人生は本当に神様に知られて、覚えられていて、何が起ころうとも祝福を約束されているのだ、意味のないことはないし、神様の手からもこぼれ落ちてしまうのではないかと杞憂することもない。ここから、神様の偉大さを覚えるとともに、深い平安をいただくことが出来るのです。
しかし、この詩はこれだけではなかったのですね。19節から雰囲気が一変します。
「神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。」
物騒な言葉が始まります。どうも、彼の周りには、とんでもない悪人がいたらしい。みだりに御名を口にし、結局は神を憎み、人の血を流すような敵に悩まされていたらしい、と分かるのです。具体的なことは分かりません。彼自身の命が危ないとはありませんが、悪に振り回されて、自分ではどうしようも出来ない状況にあったらしい、と分かるのです。
そうしますと、1節からの言葉の意味も違った響きで聞こえてくるのですね。追い詰められた状況、自分の無力感、将来への不安、そうした逆風の中で、
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
と歌っていた。私の状況も、腸(はらわた)煮(に)えくりかえる心中の言葉も、逃げ出したくなるような思いも、この一日一日も、すべてが、主よ、あなた様の前には決して隠れていないのです、と、振り絞るように祈っていたのです。ただの一般的な知識とか教理として、神様は私のすべてをご存じです、と歌っていたのではありません。神の御名を呼んでいるが口先ばかりで、本心では神を憎んでいるような、そういう者たちに囲まれている中、黒雲広がる空を見上げながら、その向こうの天にいます主に望みを繫いで祈る一三九篇だったのです。
そして、敵への呪いのような言葉を吐き出した後、詩人は最後の祈りを捧げます。
「23神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。」
自分の心を探ってください、知ってください。私の思い煩いを知ってください。そればかりか、
「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て」
と言います。この23、24節をそのまま歌詞にした歌もありますが、そこでは「傷つける心」という言葉です 。悪の道、悲しみの道、とも訳せますが、自分だけでなく、他者をも傷つける道、ということでしょうか。いずれにせよ、詩人は傷の道が自分の中にあるかないかは自分では分からなくて、主よ、あなたです、と言っています。その傷のある道を知らないまま歩んでしまうのではなく、
「とこしえの道に導いてください」
と祈るのです。これこそが、詩人が一三九篇で結論とする願いだったのです。
敵に囲まれた中、彼らに対する呪い、憎しみをも吐き出しますが、その中で詩人が見つめるのは、自分自身の心の問題でした。状況に変わって欲しい、あの憎い奴らさえいなくなってくれればいい、というのではない。それも吐露しつつ、最終的には自分のために、「私を探り、知り、調べ、知り、見て、導いてください」と五つの命令形を重ねて、自分のために祈るのです。そして、思うに、敵のために傷ついた自分、というよりも、敵の存在を通して気づかされた、無意識の傷、思い煩い、不安、恐れ、怒り、という意味での「傷のついた道」だったのではないでしょうか。ただのこの時の問題、というよりも、自分が「とこしえの道」から実は離れていた道を歩んでいたことに気づかされた、という真剣さが感じられるのです。
こうした願いを踏まえて、もう一度、最初から振り返って読み直してください。主が私を探り、知っておられるということ、主の前から逃れようとしても不可能であるくらい、主が自分のそばにおられること、母の胎内から人生の最後の日に至るまで、そのすべてが主に知られていること…それは、自分の中にある思い煩い、傷の道もまた、主の前に隠されていないことに通じています。言い換えれば、これらすべてが、私を探り、私を知り、私を傷の道からとこしえの道に導いてください、という祈りを秘めていたのです 。
一人一人の心にある「傷の道」。それは情緒的に傷を受けた、というだけでなく、御心にそぐわない、歪められた思いも含みます。それが、自分では気づけない、ということは、人の数だけ違っているのだとも分かります。私の中に、確かに傷ついた道があり、それが何かは自分でも分からないのだけれど、確かに自分をも人をも傷つけてしまう。そして、とこしえの道から遠ざけている。信仰の健やかな成長は、この自分の傷を、主によって知り、否定せずに受け止め、主に取り扱って戴くこと抜きには始まらないのでしょう。
では、どうすれば私たちの傷の道から永久の道に導いて戴くことなどが出来るのでしょうか。それは、キリスト御自身が傷を負ってくださったことによってでしょう。キリストが私たちのために、十字架に掛かり、打たれてくださいました 。私たちの傷の道が、キリストが歩まれた傷の道となりました。このことによって、私たちの道はとこしえの道となるのです。傷がなくなることではなく、そこが永久の道へと続いていくのです。
私たちの歩みを知り、心の底の思いも、将来の人生最後の一頁までもご存じの神は、ただそれを知っている、知り尽くしておられる、というだけではありません。私たちを永久の道へと導こう、傷に無自覚に振り回されて終わらせるまい、敵にいたずらに苦しめ悩ませたりもなさらない。私たちを愛するゆえに、知って、導いていてくださるお方です。そのために、御自身が深く傷を負われたお方です。
自分の欠けを知らされ、そこから具体的にとこしえの道、主の道に自分が向かうとはどういうことかを気づく。それは結局、私たちが主御自身を知る、ということとも不可分な歩みです。自分を知り、神を知る。そして、私を本当に完全に知っておられ、生まれる前から、とこしえの道へと至る生涯を、傷や敵もあるけれども結局はそれをも通して私たちのうちにいのちへの道が整えられるように、とご計画なさっていたその方を知る。そして、私たちがいっそう主に信頼することにより、更に周りにも主のみわざが広がるのです。今年もまた、そのような歩みであり、またそれを意識する一年を共に過ごしたいと願います。
「(23、24節)新しい年の歩みがどこへ向かうにせよ、あなた様へと近づいている、いいえ、あなた様が私共に近づいてくださるのです。私共を知り尽くして、すべてをご計画し、またこのような私共を通して、あなた様の栄光を現し、救いのみわざを推し進めようとの御心を知らされて感謝します。心を恵みによって新しくされるこの一年としてください」
文末脚注
1 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
2 これは、舟で逃げようとしたヨナや、お釈迦様の手で躍っていた孫悟空を思い出します。
3 胎内のことは「地の深いところ」と言われるほどに古代イスラエルにおいて神秘であったのでしょう。では今はどうでしょうか。医療技術を駆使して、胎内の様子、胎児の成長などは、写真でも見ることが出来るようになり、よく分かるようになりました。しかし、それでも生命のことは神秘です。十月十日の間に二百余りの骨、五十億余りの細胞が造られる、と分かることにより、一層、驚嘆せざるを得ません。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞を取りましたが、それは生命の研究が未だに神秘であるからこそ、でしょう。
4 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
5 英訳聖書のほとんどもその意味に取っています。Wicked way (KJV, NKJV, RSV; ASV, WEB, HNV); Hurtful way (NASB); Offensive way (NIV)。ESVとYLT、DBYは「悲痛な道」Grievous wayとしています。Blue Letter Bibleサイトより。
6 カルヴァンは、本篇の要旨を、「ダビデはその心をあらゆる偽善から浄めるため、この世の大部分が誤って巻き込まれている空しい言い訳のすべてを見分けつつ、多くの文章を重ねて、神の目が到達しないような隠れ場は存在しない、と結論する」としています(『詩篇注解Ⅳ』p.325)
7 イザヤ書五三5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
例年のことですが、今年の教会のテーマとして、提案しようとしています聖句を、元旦礼拝の箇所としてお話ししようと思います。詩篇一三九篇です。これは、主が私たちを完全に知っていてくださり、ともにおられる、ということを実に生き生きと、豊かに歌い上げた詩篇として知られています
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
遠くの神様だから私には関心などさほどないだろう、というのではない。また、神様にも何かを隠しておけるとか、見せないでおくということは出来ない。
「 3…私の歩みと伏すのを見守り、…
4ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
本当に主は私のことを全部ご存じであられる、と歌い上げます。7-12節には、天に逃げても黄泉に逃げても、海の果てに行っても、闇に隠れようとしても、決して神様から逃げることは出来ない、というのですね 。
13―16節では、もう自分が生まれる前、母親の胎内にいる時から、主が私の内蔵も骨も組み立てられた方だ、その時に、もう私の地上の日々も全部、主が私の人生をすべて書かれた、と言います 。人間のちっぽけな脳味噌なんかでは理解できない、物凄い神様の知恵と力の中に自分があるのだ、と告白するのです。
ただ、これは、すべてが決まっているんだからもう私が何をしてもいいんだとか無駄だとか、そういう「運命論・決定論」ではありません。5節に、
「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」
これは、祝福の手です。神様が私たちのすべてをご存じであられる、というのは恐ろしいほどの不思議ですけれども、同時に雁字搦(がんじがら)めでどうしようもない、というのではなく、そうやって私たちに祝福の御手を置いてくださる、主の温かく、御真実な御心をも確信するものであるのです。このことを理解して、私たちの人生は本当に神様に知られて、覚えられていて、何が起ころうとも祝福を約束されているのだ、意味のないことはないし、神様の手からもこぼれ落ちてしまうのではないかと杞憂することもない。ここから、神様の偉大さを覚えるとともに、深い平安をいただくことが出来るのです。
しかし、この詩はこれだけではなかったのですね。19節から雰囲気が一変します。
「神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。」
物騒な言葉が始まります。どうも、彼の周りには、とんでもない悪人がいたらしい。みだりに御名を口にし、結局は神を憎み、人の血を流すような敵に悩まされていたらしい、と分かるのです。具体的なことは分かりません。彼自身の命が危ないとはありませんが、悪に振り回されて、自分ではどうしようも出来ない状況にあったらしい、と分かるのです。
そうしますと、1節からの言葉の意味も違った響きで聞こえてくるのですね。追い詰められた状況、自分の無力感、将来への不安、そうした逆風の中で、
「 1主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ 、
私の思いを遠くから読み取られます。」
と歌っていた。私の状況も、腸(はらわた)煮(に)えくりかえる心中の言葉も、逃げ出したくなるような思いも、この一日一日も、すべてが、主よ、あなた様の前には決して隠れていないのです、と、振り絞るように祈っていたのです。ただの一般的な知識とか教理として、神様は私のすべてをご存じです、と歌っていたのではありません。神の御名を呼んでいるが口先ばかりで、本心では神を憎んでいるような、そういう者たちに囲まれている中、黒雲広がる空を見上げながら、その向こうの天にいます主に望みを繫いで祈る一三九篇だったのです。
そして、敵への呪いのような言葉を吐き出した後、詩人は最後の祈りを捧げます。
「23神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。」
自分の心を探ってください、知ってください。私の思い煩いを知ってください。そればかりか、
「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て」
と言います。この23、24節をそのまま歌詞にした歌もありますが、そこでは「傷つける心」という言葉です 。悪の道、悲しみの道、とも訳せますが、自分だけでなく、他者をも傷つける道、ということでしょうか。いずれにせよ、詩人は傷の道が自分の中にあるかないかは自分では分からなくて、主よ、あなたです、と言っています。その傷のある道を知らないまま歩んでしまうのではなく、
「とこしえの道に導いてください」
と祈るのです。これこそが、詩人が一三九篇で結論とする願いだったのです。
敵に囲まれた中、彼らに対する呪い、憎しみをも吐き出しますが、その中で詩人が見つめるのは、自分自身の心の問題でした。状況に変わって欲しい、あの憎い奴らさえいなくなってくれればいい、というのではない。それも吐露しつつ、最終的には自分のために、「私を探り、知り、調べ、知り、見て、導いてください」と五つの命令形を重ねて、自分のために祈るのです。そして、思うに、敵のために傷ついた自分、というよりも、敵の存在を通して気づかされた、無意識の傷、思い煩い、不安、恐れ、怒り、という意味での「傷のついた道」だったのではないでしょうか。ただのこの時の問題、というよりも、自分が「とこしえの道」から実は離れていた道を歩んでいたことに気づかされた、という真剣さが感じられるのです。
こうした願いを踏まえて、もう一度、最初から振り返って読み直してください。主が私を探り、知っておられるということ、主の前から逃れようとしても不可能であるくらい、主が自分のそばにおられること、母の胎内から人生の最後の日に至るまで、そのすべてが主に知られていること…それは、自分の中にある思い煩い、傷の道もまた、主の前に隠されていないことに通じています。言い換えれば、これらすべてが、私を探り、私を知り、私を傷の道からとこしえの道に導いてください、という祈りを秘めていたのです 。
一人一人の心にある「傷の道」。それは情緒的に傷を受けた、というだけでなく、御心にそぐわない、歪められた思いも含みます。それが、自分では気づけない、ということは、人の数だけ違っているのだとも分かります。私の中に、確かに傷ついた道があり、それが何かは自分でも分からないのだけれど、確かに自分をも人をも傷つけてしまう。そして、とこしえの道から遠ざけている。信仰の健やかな成長は、この自分の傷を、主によって知り、否定せずに受け止め、主に取り扱って戴くこと抜きには始まらないのでしょう。
では、どうすれば私たちの傷の道から永久の道に導いて戴くことなどが出来るのでしょうか。それは、キリスト御自身が傷を負ってくださったことによってでしょう。キリストが私たちのために、十字架に掛かり、打たれてくださいました 。私たちの傷の道が、キリストが歩まれた傷の道となりました。このことによって、私たちの道はとこしえの道となるのです。傷がなくなることではなく、そこが永久の道へと続いていくのです。
私たちの歩みを知り、心の底の思いも、将来の人生最後の一頁までもご存じの神は、ただそれを知っている、知り尽くしておられる、というだけではありません。私たちを永久の道へと導こう、傷に無自覚に振り回されて終わらせるまい、敵にいたずらに苦しめ悩ませたりもなさらない。私たちを愛するゆえに、知って、導いていてくださるお方です。そのために、御自身が深く傷を負われたお方です。
自分の欠けを知らされ、そこから具体的にとこしえの道、主の道に自分が向かうとはどういうことかを気づく。それは結局、私たちが主御自身を知る、ということとも不可分な歩みです。自分を知り、神を知る。そして、私を本当に完全に知っておられ、生まれる前から、とこしえの道へと至る生涯を、傷や敵もあるけれども結局はそれをも通して私たちのうちにいのちへの道が整えられるように、とご計画なさっていたその方を知る。そして、私たちがいっそう主に信頼することにより、更に周りにも主のみわざが広がるのです。今年もまた、そのような歩みであり、またそれを意識する一年を共に過ごしたいと願います。
「(23、24節)新しい年の歩みがどこへ向かうにせよ、あなた様へと近づいている、いいえ、あなた様が私共に近づいてくださるのです。私共を知り尽くして、すべてをご計画し、またこのような私共を通して、あなた様の栄光を現し、救いのみわざを推し進めようとの御心を知らされて感謝します。心を恵みによって新しくされるこの一年としてください」
文末脚注
1 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
2 これは、舟で逃げようとしたヨナや、お釈迦様の手で躍っていた孫悟空を思い出します。
3 胎内のことは「地の深いところ」と言われるほどに古代イスラエルにおいて神秘であったのでしょう。では今はどうでしょうか。医療技術を駆使して、胎内の様子、胎児の成長などは、写真でも見ることが出来るようになり、よく分かるようになりました。しかし、それでも生命のことは神秘です。十月十日の間に二百余りの骨、五十億余りの細胞が造られる、と分かることにより、一層、驚嘆せざるを得ません。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞を取りましたが、それは生命の研究が未だに神秘であるからこそ、でしょう。
4 2節の「あなたこそ」は、強調の「アッター」が使われています。
5 英訳聖書のほとんどもその意味に取っています。Wicked way (KJV, NKJV, RSV; ASV, WEB, HNV); Hurtful way (NASB); Offensive way (NIV)。ESVとYLT、DBYは「悲痛な道」Grievous wayとしています。Blue Letter Bibleサイトより。
6 カルヴァンは、本篇の要旨を、「ダビデはその心をあらゆる偽善から浄めるため、この世の大部分が誤って巻き込まれている空しい言い訳のすべてを見分けつつ、多くの文章を重ねて、神の目が到達しないような隠れ場は存在しない、と結論する」としています(『詩篇注解Ⅳ』p.325)
7 イザヤ書五三5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」