[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;Century","serif";color:black;'>[2] 「地の塩」塩はマタイに他の用法なし。新約全体でもコロサイ4:5-6の「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」のみ。
[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;Century","serif";color:black;'>[4] 日本でキリスト者が0.4%というのは少なくてもっと増えてほしいところですが、キリスト者を多くすることが目的ではない。
[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;Century","serif";color:black;'>[6] ローマ書8章11~17節「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。14神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」、ガラテヤ書4章4~7節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」
[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;Century","serif";color:black;'>[8] また、マタイ6:19~24「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。22からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、23目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」地上に宝を蓄えない生き方、富より神に仕える生き方。そうでなければ、光はない、と言われている。
[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;Century","serif";color:black;'>[10] Wikipediaでも紹介されている、ディートリヒ・ボンヘファーの代表的な言葉です。
[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] そして、この山上の説教の最後に示されるのは「7:28群衆はその教えに驚いた。29イエスが彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」という驚きの反応です。
[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] 口語訳は「慰められるであろう」「受け継ぐであろう」としていました。未来形だからです。しかし「だろう」では不確かになってしまいます。ですから新改訳は「だろう」ではなく「慰められる」としました。確かな将来です。
[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] マタイ7:21~23「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] マタイ11:28~30「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] そして、イエスご自身がこの通りに生きてくださいました。心の貧しい者たちとともにおりつづけ、悲しみをともにし、柔和で、平和を作ってくださいました。それをイエスは義務感や正義感でなさったのではなく、喜んで、幸いとして生きてくださいました。イエスご自身が、まず幸いを語り、幸いを生き抜いてくださいました。そのイエスに従っていく者にも、その幸いが与えられるとイエスは約束しています。人には全く意外な幸い。しかし、人にとってどんなに心外な状況や自分の貧しさを痛感するような時にも、その時にこそますます幸いが溢れて、喜びになり、大いに喜ぶような歩みを、イエスは口を開いて創造し続けておられるのです。
[11] ただし、この言葉は、アウグスティヌスの言葉ではなく、サンスクリット語の引用だという論文も見つけました。http://lisadeam.com/what-i-wish-st-augustine-had-said/