[1] そして、神が私たちにイエス・キリストを贈り、罪の赦しと永遠のいのちをプレゼントしてくださったように、私たちも贈り物を贈り合い、人を招いて食事をする、キリストの誕生を歌うカロルが造られてきました。今や世界でお祝いされるようになったクリスマスになったのです。
[2] 1章1~5節でヨハネは、思いっきり遡って、世界の初めのその前のことから語り出します。「1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
[3] ヨハネの福音書8章12節。また、ヨハネの黙示録21章23節「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」、22章5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」も参照。
[4] ヨハネの福音書2章1~11節。
[5] ヨハネの福音書3章。
[6] ヨハネの福音書4章。
[7] ヨハネの福音書11章。
[8] ヨハネの福音書13章。
[9] ヨハネの福音書13章34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」。
[1] 「驚く」7:28(イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた)、19:25(弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」)、22:33(群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。)
[2] この時点での応答は、「イエスを救い主として信じる」という宗教的な信仰よりも、「イエスの語る神の国を受け入れ、イエスを王として生きる」という全人的なものです。
[3] 新改訳2017の欄外引用には、エレミヤ書12章6節があります。「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」一読して分かるように、ここでは、エレミヤの身内でさえ裏切ると言っているのであって、故郷以外では尊敬される、とは逆のことを言っています。ここからも、このイエスの言葉は一般論では無いと分かります。
[4] 拉致被害者横田めぐみさんの母、横田早紀江さんのことば。「最初の苦しみが解決したわけでは決してない。それは神さまに委ねるしかないこと。めぐみのこともそうです。本当に元気で帰ってくるか、という気持ちはどこかにありますが、めぐみのことをいちばん気にかけて、見ていてくださるのは神さまなんです。だから平安でいられます。遠く離れていても祈ってますから、この子を生かさなければ、と神さまが思われるなら、生かされるだろうと信じています。」『クリスチャン新聞 福音版』2020年12月号、4頁
[5] 主イエスが育った村はナザレですが、ここには「郷里(パルディア、マタイではこの2箇所だけ)」とあるだけで、ナザレとは一言も触れていません。
[6] 「つまずく」マタイで17回も。 5:29(もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。)、11:6(だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。)、13:21(しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。)、41(人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、15:12(そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、17:27(しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」)、18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。7つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。8あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。9また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。)、24:10(そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。)、26:31(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。)、33(すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」)
[7] 「預言者」31回。1:22(このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、2:5(彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。」、15(ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。)、17(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。)、23(そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。)、3:3(この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。)、4:14(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、5:12(喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。)、17(わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。)、12 (ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。)、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」)、10:41 (預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。)、11:9(そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。)、13(すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。)、12:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、39(しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」、13:17(まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。)、35(それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」)、57(こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」)、14:5(ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。)、16:14(彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」)、21:4(このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、11(群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。)、26(だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」)、46(それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。)、22:40(この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」)、23:29(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、30こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』31こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。)、23:34(だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。)、23:37(エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。)、24:15(それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──)、26:56(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)、27:9(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。」)
[8] ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』より、「ここで私が惹きつけられるのは、イエスはついには家族の輪の外で、家族から距離をとり、ご自分の権威を確立せねばならなかったことです。それは、イエスが十二歳のときの神殿においても、マリアが助けを求めたカナにおいても、説教したときも、家族がイエスを訪ねて来たときも、同じでした。/家族とは、私たちが大人へと成長し、人間として成熟していく場です。しかし、心の奥深くに語りかけてくる私たちの召しをまっとうするためには、そこを離れねばなりません。家族は帰属意識を与えてくれます。けれども、私たちが最も深く帰属しているもの、すなわち神への帰属に生きるためには、私たちを知り尽くしているつもりの家族から離れ、自分の命の最も深い源を見いださなくてはなりません。私たちは、両親や兄弟姉妹のものではありません。彼らから離れることなしには、まったき自由になることも、生まれる前から私たちを呼んでいる方の声を聴くことも困難になります。イエスは天の父に、心から「はい」と言えるように、家族にしばしば「いいえ」と言わねばなりませんでした。」43-44頁