2016/09/18 ヨハネ九1-14「奇蹟では解決しない」特別集会より
今日のお昼には「福祉」や「介護」というテーマで特別講演をしていただきました。
夕拝も特別にして、中澤先生が教えてくれた聖書のメッセージをお分かちします。
ヨハネ九1-14には、「生まれつき目の見えなかった人」が出てきました。この人がイエスに目を癒やしていただく奇蹟が出てきました。ここには有名な会話があります。
2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
そうしてイエスはこの人を癒やされるのです。結果彼は、見えるようになり、最後にはイエスを信じるようになりました。これが「さいわい」だと言えます。
でも「幸い」とか「健康」っていったい何でしょうか。今日話して下さった中澤先生は世界保健機関(WHO)の「健康」の定義を紹介しています。
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」
をいいます。
言い換えれば、この人も目が見えなかっただけではないですね。「目が見えないのは誰のせい? きっと本人か親が罪を犯したからだ」。そんなことを言われたら、物凄く責められていることになります。そういう差別や、拒絶された思いもあったのです。そして、18節以下ではこの人の両親も冷たいのですね。生まれたときから目が見えなかった彼を、どう愛すれば善かったのか分からなかったのかもしれません。そして、毎日ここに来て、物乞いをしながら生きる、という人生。働いて仕事をしたり、結婚したり、人と遊んだりはしない一生です。
皆さんだったらどうでしょうか。耐えられるでしょうか。もっと自分のやりたいこと、生きていて善かったと思える生き方がしたいと堪らなくなりませんか。目が見えない事は変えられません。でも、目が見えないんだからしょうがない、と考えるのではなく、目が見えなくても、精一杯幸せに、自分らしく生きられるように考えられたら、もっと健康に近く生きられたはずです。パラリンピックはそれを教えてくれます。
これは、WHOが1980年に造った、「国際障害分類」ICIDHモデル、という少し古いものです。
このモデルで障害とはどういうことなのかといいますと、これは、疾患・変調が原因となって機能・形態障害が起こり、それから能力障害が生じ、それが社会的不利を起こすという図式です。これをシロアムの盲人に当てはめますと目が見えない(ここでは「先天性網膜色素変性症」)は(機能・形態障害)に当たり、その結果、歩けない、字が書けないなど(能力障害)が表れます。その結果、職を失う、社会参加できないなど(社会的不利)に陥るという図式です。
矢印一方向的です。また、バイパスの矢印があるように目が見えないというだけで差別されるという社会的不利もあるということを表します。したがって、目が見えない人が社会的不利になるのはしょうがないんだという考え方でした。これは、奇蹟でも起きて、目が見えるようになる以外、彼が幸せになることは出来ないし、両親か本人の罪だから仕方ないという図式でもあります。
しかし、そうなのでしょうか。それでいいのでしょうか。社会的不利は本人の心身の状況のみで決まることではありません。たとえば、歩くことができなかったり、移動することが困難な場合、エレベーターを付けたり、段差を解消したりすれば移動に関する障害が軽減するなど、その人の周りの環境が非常に大きな影響を及ぼします。
中澤さんはもう一つのモデルを紹介してくれました。同じWHOが2001年に造った、ICHというモデルです。
ここでは、先ほどのICIDHの変調・疾患ということばは健康状態ということばへと変わり、機能・形態障害としていたものは心身機能・身体構造、能力低下は活動、社会的不利は参加というような表現になっています。つまり、障害とか不利ということばはなくなっているのです。また、その人の生活には環境因子というその人の周りの物・人・制度や個人因子というその人のライフスタイルや価値観も関わっているとしています。そして、矢印はすべてが双方向ですので人の生活はこれらのすべてが関わり合って成り立っているということを表しています。
生まれつき目の見えなかった人も、イエスが運よくここに現れて癒やされたから、神の栄光が現されて、幸せになれた、ということではないのです。イエスは、そういう考えそのものに挑戦されました。彼は、罪の結果、不幸を強いられた存在ではなく、神の栄光を現すための存在だと、当時の社会の考え方そのものをひっくり返されたのです。実際、イエスがなさった癒やしの結果、周囲の人は彼の存在を受け入れられず、彼を追い出してしまいます。安息日に癒やされたというだけで、彼の癒やしを否定することで納得しようとします。彼は幸せになる所か、社会からはじき出されてしまったのです。
でも、イエスは彼に出会って、新しい生き方を示してくださいました。尊厳を与えてくださいました。イエスとの関係を与えてくださいました。
そういう見方をするなら、この箇所から私たちは、また奇跡が起きることを願い、唯一の解決とするのではないはずです。むしろ、医療や介護、職業訓練でサポートが出来ます。職がないのなら役所という環境因子に働き掛けて生活保護を紹介できます。差別をなくすよう、啓蒙活動も出来ます。街中を移動しやすいよう、バリアフリーにする、移動の介助者を頼む。鍼灸マッサージ師の職業訓練を受けたら、収入も得て、仕事の喜びも持てます。私たちはこれを使ってさまざまな可能性を探していくことが必要なのです。
しかも、ICFモデルでは扱えない、心の悩みやケア、生きる意味の模索も、イエスは差し出しておられます。人の心、魂の深い所にも光をくれ、私たちの考え方を覆してしまわれるのがイエスです。イエスは、この人にも私たちにも、新しい生き方、一方向ではない生き方を示してくださったのです。
聖書には沢山の奇蹟が出てきます。しかし、奇蹟が幸せにしたのではないのです。主は奇蹟以上のこと、ご自身を下さいました。私たちが、今ここにあることに尊い神のご計画を見て、出来る形で関わる生き方に変わるのです。「奇蹟が起これば幸せになれるのに」ではないのです。イエスが私たちの所に来て私たちの全生活に関わって下さることが、私たちを幸せにするのです。その福音に私たちが目覚めて、仕えることこそ、幸せの始まりなのです。それこそ最大の奇蹟です。
2016/09/11 礼拝①「礼拝する幸い」ローマ十一33-十二2
今日からしばらく「礼拝」について聖書の言葉に聴いていきましょう。私たちは、それぞれに違っています。国籍や言葉、年齢や性別、健康状態も、信仰歴も経済状態も、抱えている問題も性格も違います。けれども、この礼拝に集っています。ですから、この教会の礼拝について、私たちが礼拝に来ているとはどういうことなのか、を共通の出発点として始めたいのです。
1.誰の礼拝でしょう?
私たちは今ここに来て、礼拝に参加しています。勿論、この儀式にただ参列しているだけではありません。ここで、天地を造られた生ける唯一の神の前で、神を崇め、神の言葉に聞き従う。ハッキリとした対象があります。私たちの教会の「礼拝指針」では
「公的礼拝の意義は、三位一体の神が御自身の契約の民に出会われることにある」
と明言しています。神が私たちに出会ってくださる。それがこの礼拝です。私たちはただ自分たちの発案で集まって、自分たちなりの礼拝をしているのではないのです。神が私たちに出会って下さる礼拝に来ているのです。
これをもう一歩踏み込んで言うと、礼拝は私たちのものではなく、神のものだ、ということです。私たちが神を呼び求め、神を礼拝し、上手な礼拝や賛美や素晴らしいお祈りの言葉で神を喜ばせる。そうして、神に祝福をもらったり、願いを叶えていただいたり、心の平安をいただく…。人間の考える「宗教」はそのような発想になります。聖書は、「人間が」という代わりに「神が」と言います。
「初めに神が天と地を創造された」[1]。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」[2]
今読みましたローマ書十一36
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
とある通りです。
これが私たちの礼拝の土台です。神が礼拝を主催され、礼拝に私たちを招いてくださり、ここで私たちに御言葉を語ってくださいます。罪からの救いを示して、信仰と悔い改めを与えて下さいます。私たちを祝福し、また送り出してくださいます。
英語で礼拝をワーシップとかサービスと言います。サービスとは奉仕、仕えることです。神に仕えること、ではないのです。まず、神が私たちに仕えて下さる。私たちを招き、迎え入れ、もてなし、私たちの足を洗い、私たちを慰め、悔い改めを与え、新しい心を与えてくださるのです。神が私たちにサービスをしてくださるのです。それも、神がイエス・キリストにおいて、御自身を私たちのための献げ物としてくださった。そのイエスの献げ物という、神の礼拝が先立ってあるのです。[3]
2.キリストのささげ物 三位一体の礼拝
イエス・キリストは神の御子でありながら、私たちと同じ人間になってくださいました。
ヘブル九14…キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった…
とあります。キリストが、人となって、ご自身をささげ物としてくださいました。この三位一体は私たちの頭では到底理解できない神秘です。難しく考えようとしないで、今日はこう考えてみてください。神の中に、本当の礼拝の交わりがある。父は御子を愛され、御子は父に従い、人となってご自身を生け贄として献げられました。また、御子は、御霊に導かれつつ、愛する御霊を教会に派遣されました。御霊は、御父と御子との間を取りなされます。そういう交わりが三位一体の関係です。いわば、神の中に、礼拝の交わりがあるのです。イエスが、大祭司としてご自身という生け贄を神にお捧げくださった。そのささげ物によって、
ヘブル十14キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
と言われるのです。その神ご自身の惜しみない完全な礼拝があるのですね。
神は素晴らしいお方です。この広大な宇宙を造り、天の川から蝉や鳴門金時に至るまで、すべてのものを創造され、一つ一つを知っておられます。私たち、文化や言語、見た目も個性も全部違うように造られたお方です。地震や太陽のエネルギー、それ以上の宇宙の壮大さを知れば知るほど、その全部を造り、治めておられる神の偉大さに心を打たれます。そういう賛美や礼拝も、礼拝の一面です。
しかし、それだけではないのです。神ご自身の中に、礼拝が交わされているのです。イエスが完全に父に従われて、ご自身を与えることで礼拝を捧げられました。本当に惜しみない、信頼に満ちた、喜びに満ちたささげ物となられました。それも、神が私たちの罪を裁いて滅ぼすことも出来たのに、この私たちを赦し、罪をきよめ、神の子どもとして受け入れるという父の愛に従われて、ご自身が人となり私たちに代わって十字架にかかり、神への供え物となってくださったのです。そのことにおいて、イエスは、御父の赦しと憐れみの愛に心から同意され、その慈しみを賛美し礼拝されたのです。口先で賛美するのではなく、ご自身がささげ物となることによって、その全存在で、憐れみの神を礼拝なさったのです。その故に私たちは神に受け入れられ、罪の赦しにあずかります。神の子どもとされ、神を礼拝するのです。私たちの礼拝の根拠は、私たちの行為にではなく、イエスの礼拝に根拠があるのです。
3.そういうわけですから、…あなたがたのからだを、ささげなさい
ここで、もう一度、ローマ書十二章に戻りましょう。
ローマ十二1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
大事なのは
「そういうわけですから」
です。ローマ書一章から十一章までで
「神のあわれみ」
とはどういうものか、イエスが現された愛、赦し、福音とはどういうものかをずっとパウロは説いてきたのです。その、神の憐れみを踏まえた上で、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。」
と言われるのです。でも人間はすぐにこの神の「憐れみ」を誤解します。このローマ書の言葉も、私たちはつい自分中心に、人間の頑張りや形式上の正しさを神が求めて折られるように考え出します。私たちが自分で自分の心を一新したり自分を聖別したり、神を喜ばせたりしなければならない、と考えます。それは「神のあわれみ」を忘れた考えです。私たちに最大の憐れみを示して
「私がこれだけ憐れんだのだから、お前も頑張って聖い礼拝を捧げよ」
と言い放つなら、憐れみではなく厳格で、恐怖しか感じません。むしろ、私たちは神の完全な憐れみ、イエスの完全な生け贄という福音に安らぎ、信頼するからこそ、私たちは自分を捧げ、心からの礼拝と献身をして歩むのです。[4]
三位一体の神は、互いに愛し合い、喜び、深く自分を与え合うことにおいて一つです。その神が私たちをもその交わりに、ドラマやダンスとも言える交わりに、招待して下さいます。この礼拝で私たちは、そのような三位一体の神とお会いしています。習慣で来て、神のご機嫌を取って、終わってホッとして帰る儀式ではありません。イエスは、人となられ、私たちの罪も苦しみも人間としての悩みもすべてを知っておられます[5]。聖霊は、私たちの祈りの言葉ばかりか、言葉にならない心の呻きをも残さず聴いておられます[6]。その神が私たちをご自身との交わりへ、そして私たちも自分を捧げる歩みへと招いてくださるのです。
私たちの礼拝が、イエスの犠牲に現された、神ご自身の交わりへの招きである、という大原則をまず確認しました。
「父、子、聖霊の神よ。あなたを礼拝する尊い交わりに与らせてくださり、感謝し、御名を褒め称えます。主の十字架に現されたあなたの限りない憐れみをますます知らせ、私たちの心を開いて、一新してください。神に受け入れられ、喜ばれている礼拝の民としてここから出て行きます。キリストの御霊が先立ち、独り一人を支え、慰め、あなたの御業を現してください」
[1] 創世記一1。
[2] ヨハネ三16。
[3] 今回のテーマに関しては、ジェームズ・B・トーランス『三位一体の神と礼拝共同体』(有賀文彦、山田義明訳、一麦出版社、2015年)が大いに参考になりました。
[4] 別の翻訳で読んでみます。「兄弟たち。神の憐れみに大きく目を開きつつ、あなたがたに勧めます。理にかなった礼拝の行為として、あなたがたの体を神のために聖別され、神に喜ばれる生けるいけにえとして献げなさい。あなたがたが周囲の世界の鋳型に合わせて形造られるのではなく、神によってあなたがたの心を内部から造り変えていただきなさい。それによって、あなたがたに対する神のご計画が善いものであり、神のあらゆる要求にかない、真の成熟という目標に向かうものであることを実際に証明するようになるからです。」『三位一体の神と礼拝共同体』111ページにある、J.B.フィリップス訳からの重訳。
[5] ヘブル二17-18「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
[6] ローマ八26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
2016/09/04 ハイデルベルグ信仰問答31「最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王」ルカ2章10-14節
これは何をしている絵でしょうか?
よく見ると、頭に何かをかけていますね。これは角の容れ物に入れた油を、頭にかけているところです。これは、聖書に出てくる場面で、昔のイスラエル民族が、大祭司や王を選び、任命するときに、神から特別な任命をいただいてその大事な仕事をすることを表す儀式です。これを
「油注ぎ」
というのです。そして、この「油注ぎ」をされた大祭司や王をまとめてヘブル語で
「メシヤ(油注がれた者)」
というようになりました。イエス様の時代、世界ではギリシャ語が公用語でしたので、「油注がれた者」もヘブル語の「メシヤ」から訳されて、ギリシャ語で
「キリスト」
と呼ぶようになりました。「キリスト」とは、油注がれた者という意味なのです。
問31 なぜこの方は「キリスト」すなわち「油注がれた者」と呼ばれるのですか。
答 なぜなら、この方は父なる神から次のように任職され、聖霊によって油注がれたからです。
父なる神が、イエスを任職されました。聖書の言い方で言うと、「油注がれた者」(メシヤ・キリスト)となられた。だから、イエス・キリストというのです。イエス・キリストとは「メシヤであるイエス」という肩書きで呼ぶような言い方なのです。
では、父なる神から特別に任命されて、イエスは何をしてくださるのでしょうか。
…すなわち、わたしたちの最高の預言者また教師として、わたしたちの救いに関する神の隠された熟慮と御意志とを余すところなくわたしたちに啓示し、わたしたちの唯一の大祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを救い、御父の御前でわたしたちのために絶えずとりなし、わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得した救いによってわたしたちを守り保ってくださる、ということです。
ここには、預言者と大祭司と王、三つの職務が出てきますね。この三つは、イエスがおいでになる前、旧約聖書の時代に、油を注がれて任命された、三つの立場なのです。預言者、大祭司、王。この三つを手がかりに、逆にイエス・キリストのお働きに光を当ててみましょう、というのが、この答えなのです。
預言者は、私たちに神の言葉を教えてくれます。神はどんなお方か、神が私たちに何を知らせたいと願っておられるか、私たちに伝えてくれます。道を外れそうになった時には、勇敢に立ち上がって、神の意志を告げ知らせる預言者が、聖書にはたくさん出てきます。いのちをかけてでも、大切な神の言葉を届けてくれるのが預言者たちでした。それは、自分勝手にしたのではなく、神から任命されて初めて許されたことだったのですね。イエスは、預言者です。それも、
「最高の預言者また教師」
です。
「わたしたちの救いに関する神の隠された熟慮と御意志とを余すところなくわたしたちに啓示し」
てくださる、最高の預言者また教師です。旧約時代の預言者たちはみな、この最高の預言者イエスのことを予告する代役だったのです。
次に、大祭司は、神と人々との間に立って、礼拝を司りました。神と人間との関係を結び合わせてくれるのが大祭司でした。預言者は知識を伝えてくれましたけれど、大祭司は、民のあり方を神に向けて整えるため、言葉を聞いたり知ったりするだけでは出来ない関係修復をしてくれたのです。この祭司も、油を注がれて任命されたのですが、やがておいでになるイエスがどんなお方であるかを、大祭司もその一面を見せてくれていたのです。イエスこそは、唯一の大祭司です。
「御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを救い、御父の御前でわたしたちのために絶えずとりなし」
てくださいます。
三つ目が民を治める
「王」
です。王も神に選ばれて、任命されました。民を支配し、権威を持つ王は、悪い王になって大変になってしまうことも多々ありましたが、本当は良い王様として民を守り、国を育てるための、大切な存在だったのです。その王たちも、来たるべき本当の王様であるキリストを示していました。キリストは
「わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得した救いによってわたしたちを守り保ってくださる」。
キリストは、私たちの王です。私たちを治め、守り、保って下さる。強いお方、頼もしいお方、そして、私たちが従うべきお方です。
以上、「預言者、祭司、王」という三つの職務が、「キリスト(メシヤ)」のお働きを言い表していることをお話ししました。勿論、イエスが預言者と祭司と王の役割を、取っ替え引っ替え忙しく働いていらっしゃる、ということではありませんよ。預言者であり、祭司であり、王であって、私たちの事を、知識を教えたり、罪の赦しと成長という面から整えたり、私たちのすべてを治めて守ってくださったり、あらゆる面から私たちを祝福して、神の子どもとして恵みを注いでくださる、ということです。知識も心も与え、全部を治めてくださる。最高の預言者でもあり、唯一の大祭司でもあり、永遠の王でもある。そういう豊かな方として、イエスはキリストであられるのです。
今日読みましたルカの福音書2章は、クリスマスに読まれる事の多い、イエスの誕生の記事です。その誕生の時点で御使いは
「この方こそ主キリストです」
と紹介しました。イエスは、主キリストとしておいでになりました。イエスこそ、油注がれたお方です。それは、クリスマスに始まって、イエスが天に帰られるまでだけのことではありません。イエスは、今に至るまで、主キリストです(「でした」ではなく「です」です。)イエスだけが、最高の預言者として今も私たちを教え諭してくださいます。唯一の大祭司として、ずっと私たちを取りなし、完全に神との間を修復して、強い絆を与えてくださいます。永遠の王として、私たちを治めてくださっています。
私たちは、イエスがキリストであり、イエスだけが神の油注がれたメシヤであると告白します。他には王や大祭司はいません。ルカの福音書の時代も、ハイデルベルグ信仰問答の時代も、そして今も、イエスが下さった聖書の言葉とは違う教えや力との戦いがありました。教会も、そういう力に流されそうになるのです。でもそれは、イエスがキリストであることを否定することになるのだ、と抵抗したのが、ルカであり、ハイデルベルグ信仰問答を書いた人たちでした。私たちも、イエスが、イエスこそが、イエスだけが、最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王だと、大胆に告白していきたいのです。
2016/09/04 申命記三四章「主が閉じてくださる」
私は若い頃から涙もろい方で、好きな映画も最後にほろっとさせられたり、「そうきたか!」と号泣させられたりする話が多いです。現実の世界ではなかなかそういかないので、せめて人が紡ぎ出す物語に憧れるのかもしれません。今日は、ずっと開いてきた申命記の最後です。モーセの死が語られます。これはハッピーエンドとは違います。申命記だけではなく、聖書のエピソードは殆どが映画のような大団円ではありません。私たちの現実とは違う、憧れの、あちら側の世界ではなく、こちら側の、私たちの現実に近い出来事が淡々と綴られます。しかし、この私たちの現実の世界に、神は働いておられる。そういう希望が語られるのです。
1.モーセの死
まずここで、モーセがどのように死んだかを見ていきましょう。1から3節でモーセは
「ネボ山…ピスガの頂に登った」
、そして、北のギルアデ、西のエフライムとマナセ[1]、から南のネゲブを見て、すぐ対岸のエリコまでを眺めるのです[2]。これは、非常にざっくり言って、淡路島の先端まで行きながらそこから先へは進めず、高台の展望台から、はるか遠くの琵琶湖から兵庫、岡山までを眺めて、対岸の神戸に目をやる。そんな感覚が近いかもしれません[3]。
モーセはしばらく佇(たたず)んだのでしょう[4]。この三四章のモーセは寡黙です。何も言いません。ただ主の言葉だけが静かに響きます。一望の景色は、主がアブラハム、イサク、ヤコブに、その子孫に与えると誓った地です。イスラエルの民はまさにその約束の地に入ろうとしています。モーセはここまで彼らを導いて来ながら、そこに入ることが出来ない、と主は4節で言われます。モーセは切なかったことでしょうか。悔しかったことでしょうか。でもそれだけではありません。既に三一章三二章で明言していた通り、イスラエルの民が約束の地に入っていったら、直ぐにでも主に背いて、偶像を拝んだり、社会を不正や差別や利潤追求で歪めたりすることは目に見えていたのです。決して「バラ色の未来があって、そこにモーセが入れない」という単純な話ではありませんでした。折角の約束の地に入っても民はそこで神の恵みを踏みにじる歩みをする。眼下に広がる広い地方で、どんな悪や残酷で身勝手な歴史を積み重ねようとしているか。そう思って、モーセは苦しくもあったのではないでしょうか。しかしもう四〇年、モーセは民を導いて来ました。ほとほと指導者の大変さに疲れていました。民の根深い頑なさはこれからも続きます。でも、それはもうモーセの手を離れるのです。モーセの肩からは、指導者という重荷は下ろされたのです。これからの歴史についてはもう責任を負わなくて良い。モーセはこの地に立ちこめる暗雲を感じつつも、解放感もあったかもしれません。
2.私たちに必要なもの
モーセの最期は一言では言い切れません。達成感も後悔も、満足も心配もあったでしょう。まだまだ気力や体力はあったのですからやり残した思いもあったでしょう[5]。後継者のヨシュアはモーセに続く指導者としての務めを果たしますが、10節ではモーセのような指導者は起こらなかったとあります[6]。ヨシュアはモーセとは違ったのです。彼だから出来たことはまだまだあったはずです。しかし、主はそのモーセの歩みを今ここで閉じられたのです[7]。
創世記から申命記までの五つの本は「モーセ五書」とか「律法(トーラー)」と呼ばれます。旧約聖書の中でも最も重要な部分をされます。しかし「律法」とは言っても、規則や命令よりも、モーセやアブラハムやヤコブの生涯のほうが多いのですね。そして、この申命記の最後三四章も、申命記だけでなく「律法」の最後でもあるわけですが、ここには規則や命令よりも、モーセの死と生涯の総括が述べられます。それこそが、律法の結びです。まとまったハッピーエンドというよりも、私たちに対する語りかけ、問いかけでもって、律法は結ばれるのです。[8]
私たちは人生が最後は幸せに囲まれて終わるドラマに憧れています。現実には無理だと思っていても、もしもっと自分に力があれば、お金や恵まれた環境や、清く正しい心があれば、立派な信仰があれば、そういう人生になるだろうと考えやすいものです。あるいは、キリスト教や宗教、信仰を持つことによって、少しでもそんなスッキリした人生になることを期待していることもあるでしょう。モーセほどの信仰者なら、きっと後悔も傷もない、平安な最期を迎えて、神様に「よくやった。よい忠実なしもべだ」と言われるんじゃないかと思い込んでいたりします。しかし、そういう幻想はここで砕かれます。人間が理想通りにドラマのような人生を紡げるわけではありません。神の力を借りて自分が神になろうとするのは間違いです。むしろ、私たちは、神の大きなドラマの中で、自分の与えられた役割を果たす者に他ならないのです。
この後、讃美歌310番を歌います。三番は
「静けき祈りの時はいと楽し。聳ゆるピスガの山の高嶺より故郷眺めて上りゆく日まで慰めを与え、喜びを満たす」
です。ピスガの山から約束の地を眺めたモーセのように、私たちもやがて神様の大きなご計画の全体像を見るのかもしれません。そして、そこに生きる自分も含めた人間がみんな、過ちを犯し、限界があります。いろいろな戦いや苦しみ、孤独や恐れを抱えます。そういう私たちが、自分たちが人間に過ぎないことを神の前に認めて、静かに祈る中で、慰めを与えられ、喜びを満たされる。そうして祈りながら、やがてピスガの高嶺よりも先、神ご自身のもとに召されるまで旅をするのです。
3.モーセにまさる主の導き
ここにはモーセのような預言者は再び起こらなかった、とあります。同時に、申命記の一八章には、モーセのような預言者を与えるという約束があります[9]。「使徒の働き」では、イエスこそこの
「モーセのような預言者」
だと宣言しています[10]。イエスはモーセ以上の完全な預言者であり、完全な指導者として、約束の地に私たちを導き入れてくださいます。でもそれだけなら、私たちはこの時モーセが見通していたように、神が下さった祝福の中で神に背いたり、恵みを乱用したり、人を自分のために傷つけ、裁き、利用しようとします。神の律法に従う代わりに、自分の理想や自分の欲望に従おうとするのが罪の姿なのです。イエスはその意味でも完全な預言者です。イエスはご自分が
「律法を廃棄するためではなく、律法を成就するために来た」
と言われました[11]。私たちの基準から神の律法に生きるために、イエスは来られたのです。イエスを信じれば神の律法を守らなくても良い、ではないし、ただ形式や強制で無理矢理にでも神の律法を行わせる、という意味でも決してありません。イエスが「わたしは律法を成就するために来た」と仰った山上の説教では、天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい、ということこそが律法の極意として語られます。天の父なる神が憐れみ深いことを私たちが深く味わい知ることこそ、律法が成就していく唯一の秘訣です。
ここでもそうではないでしょうか。申命記の最後に示されるのは、モーセと主との静かで深い時間です。モーセの失敗も働きも丸ごと引き受けつつ、その生涯を閉じられる主です。11節12節にまとめられるモーセの働きも、モーセが、ではなく、主がモーセを通してエジプトに対してもイスラエル人に対しても権威をお示しになるためだった、と言われます[12]。そして、主がモーセの生涯を今ここで閉じられるのです。
ここで、モーセその人以上に、モーセを通してここまで働き、今その生涯を終えた主が中心です。そしてモーセは死んでも、主は今も変わらず生きておられ、欠けや様々な思いのある私たちに語りかけ、導かれます。主イエスはモーセにまさる預言者として、私たちを教え、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。
モーセにまさる主イエスが、私たちを導き、確かに約束を果たしてくださることを、この申命記の結びに確信しましょう。その主が私たちに下さっている聖書に聞き従う大切さと喜ばしさを、もう一度心に刻みましょう。その主の大きな神の国を眺める日が私たちにも来ると信じます。
「主よ。私たちのいのちはあなたのものです。私たちの願う物語よりも、もっと大きなご計画の中に、あなたは私たちを導き、ともにいてくださいます。失敗や悲しみや、訳の分からない展開になろうとも、主よ、あなた様の真実を仰がせてください。今もともにおられ、最後まで導いてくださる主に信頼して、この旅路を整え、心を聖なる恵みによって清めてください」
[1] 「西の海」とは、地中海のことです。
[2] ピスガの標高は700メートルほどと考えられています。
[3] あるいは、距離感だけで言えば、高知から鳴門、岡山、愛媛まで、四国から瀬戸内海までを見渡すぐらいの感じです。
[4] モーセは約束の地に入れませんでしたが、最初にこれを見る特権を与えられました。いいえ、それ以上に、こうして約束の地全体を見回すことはモーセだけが許されたことでした。さらに、主イエスの「山上の変貌」において、モーセがエリヤとともにイエスの前に現れます。しかし、そのモーセは、自分がカナンの地を踏んでいる事以上に、主イエスの苦しみを話題としていました。地上で果たせなかった願望を果たすよりも大きなこと、永遠の御国へと踏み入れるために、神ご自身が担って下さった苦しみ、戦い、寂しさ、に心打たれているのです。ルカ九28-36。
[5] 「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」が、自分では「出入りが出来ない」(三一2)と言っています。人がよく言うように、「仕事があるからまだ生かされている」とは言いがたいのです。死は、神が納得されたから訪れるのではない。人間が自分のいのちは自分のものではないことを痛み知る出来事である。
[6] 民数機二七15-23に、モーセがヨシュアの上に手を置いて任命した記事があったことを、ここでは前提としています。それとて、その儀式に力があったのでも、モーセに権威を授ける能力があったのでもありません。神が、その任命をも用いて、働いてくださったのです。さらに、この時点で、すでにヨシュアは「神の霊の宿っている人」と呼ばれていました(民二七18)。
[7] McConvilleは「主の怒りの理由は、少なくとも申命記においては十分な説明がない。これは、次のような印象を強める。すなわち、モーセの罰は何かしら身代わりの死だった、と思わせるのだ。」(p.478)と説明しています。さらに、イザヤ書の「主のしもべの歌」にも、しもべが苦難を負い、イスラエルだけでなく諸国の民のためにいのちを捧げると歌われていることにも通じることを指摘しています。
[8] Mannは、ヨシュア記でカナン入植を終えた時点ではなく、このカナンの手前でトーラーが閉じられることを重視しています。自己満足より自己吟味、ハッピーエンドよりもチャレンジが聖書の民の立つべき模範なのです。(Westminster Bible Commentary, p.147)
[9] 申命記十八18-20。
[10] 使徒の働き三20以下「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。21このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで天にとどまっていなければなりません。22モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』24また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について述べました。」、また七37「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。」
[11] マタイ五17以下。
[12] Craigieは、最後の3節がモーセの墓碑銘のようだ、と。預言者であったが、墓碑銘が記すのは、彼がどれほど神を知っていたか、ではなく、神がモーセを知っておられた、という記述(NICOT, p.406)。