[1] それは、3章21節以下と読み比べると分かります。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。23すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
[2] ヘブル書に2カ所、この言葉があります。2:11「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」
[3] 七章。
[4] ローマ書14章4節「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」
[5] 神学校時代の恩師、丸山忠孝氏の解説でした。文法的には、「所有的属格」か「主格的属格」か、と言います。
[6] 罪を罰し、怒るだけの神であれば、信仰は持てません。信頼より恐怖です。しかし、神の義は罰するより、救いをもたらす義です。
[7] 当時の教会は、ルターにこう反論しました。「神の恵みだけで救われる、行いは要らないなどとしたら、人々は怠惰に生きるようになって、とんでもないことになる」。しかし、聖書そのものが教えているのは、その逆です。救われるために行いが必要なら、それは偽善です。ただ、神の恵みによって私たちを救い、私たちが魂の手である信仰でそれを受け取るだけでいい。その神の義によって、私たちのうちに信仰が、神への心からの信頼、安心、憧れ、従おう、お任せしようという信仰が始まるのです。そして、神の義が私たちを支えて、ますます信仰を養われていくのです。
[i] 厳密には、2章でイエスが生まれた時点で、ヘロデが幼子キリストの暗殺を謀っています。それは、イエスの生涯が、民によって憎まれ、退けられるものであることを予告するものでもありました。また、10章の弟子の派遣では、弟子たちへの迫害・殺意の予告に、イエスも迫害され、殺されることが匂わされていました。それは踏まえつつ、権威者の側が、明確にイエスを殺そう(原文では「滅ぼそう」)と相談をしたのは、この12章14節以降です。
[ii] この言葉は「殺す」というより「滅ぼす」という言葉です。10章28節「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」の前半の「殺す」ではなく、後半の「滅ぼす」という言葉です。「神に代わってイエスを滅ぼしてしまおう」という思い上がり、横暴さを感じます。しかも、イエスの教えは、神は人を滅ぼす権威も持っているけれど、神の御心は真実の愛、罪を赦し、人を癒やす、滅ぼさずに救うことだという教えでした。そのために、安息日にこそ人を癒やされたのです。でも、それをきっかけに、パリサイ人はイエスを滅ぼす相談を始めました。自分たちがふっかけた論争に負けて、自分たちの間違いを認めるよりも、逆上しての殺してしまえ、という横暴です。しかも、その相談自体、安息日だったのでしょう。内容も勿論、相談という労働も、彼らが振りかざした「安息日にしてはならない」労働です。
[iii] 8章4節、9章30節、17章9節など、「ご自分のことを人々に知らせないように」と仰有ったのは、ここだけではありません。しかし、特にここでは、ご自分の抹殺の相談まで始まった段階で、人々が癒やされた嬉しさでべらべらしゃべったら、彼らも危険に晒されることを配慮してのこともあったかも知れません。少なくとも、イエスが人を癒やされたのは、ご自分の力を誇示するためとか、働きを広げるためにではなかったことは明らかでしょう。癒やされたのは宣伝させるためではなく、本当に癒やしたかったから、憐れまれたから、でした。
[iv] イザヤ書42章1~4節「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。2彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。4衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」 マタイが言い換えたり、省略したりしている相違も注目に値します。マタイは、4章の洗礼後の言葉との整合性を強調し、「異邦人」と訳せる言葉を反復して、ユダヤ人を読者の念頭としているマタイの福音書において、異邦人への福音という世界的な視点を主張しています。
[v] 公の活動を始めるに当たって、受ける必要も無いはずの洗礼を受ける、罪人の列に加わって、蔑まれ、苦難の道を歩み出すに当たって、天の父はイエスに承認の言葉を語られました。
[vi] 遡っては、片手の萎えた人を癒やしたら、火に油を注ぐと分かっていても、彼を癒やすことが「良いこと」だとイエスは確信していました。空腹の弟子たちが穂を摘むのを責めませんでした。疲れた人を招き、重荷を負っている人を休まようといってくださいました。そういうお方がイエスです。
[vii] そして、イザヤ書のこの言葉だけで無く、イザヤが語っていたもっと大きな約束、希望-神の御心が完成して、世界が必ず修復され、新しくなるというご計画ともつながります。世界の回復・完成の道のりは、言い争いや力ではなく、燻る灯心を消さず燃え上がらせてくださる、イエスの地味な、隠れた働きがなければ、なされないのです。イザヤ書39章から42章、そして43章や66章まで続いていく、全体をぜひ読んでみてください。
[1] 横浜指路教会礼拝説教 「日曜日は誰のものか」 伝道師 矢澤 励太 より。
[2] そして、パリサイ人がそれを指摘したのは、単なる杓子定規な適用という以上に、目障りになってきていたイエスをやり込める狙いだったのでしょう。
[3] 後のダビデ王が命を狙われて追われていて空腹だった時、神の箱が置かれていた幕屋に行った時の事です。サムエル記第一21章1~6節「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。」 このパンについては、レビ記24章に記されています。「2「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。3アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。5あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。6それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。7それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。8彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。9これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」 この言葉から、ダビデが「臨在のパン」を食べたのが、安息日だったことも推測できます。
[4] 民数記28章9-10節「安息日には、傷のない一歳の雄の子羊二匹と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それに添える注ぎのささげ物。10これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」
[5] 口語訳、新改訳、また英訳聖書のKJV、NKJVは「宮よりも偉大な者one (who is) greater than the temple」と理解しています。新共同訳、聖書協会共同訳、ESV、NASV、RSVは「物something greater than the temple」とします。旧来の「偉大な者」から、「偉大な物」への移行をうかがえます。
[6] この「喜ぶ」は「御心とする、意思する、願う」という意味のセローです。ホセア書の原語も、求める、願う、喜ぶというハファーツ。神を喜ばせるために、私たちが真実の愛があるかどうか、ではなく、神ご自身の御心の本質、方向性が「真実の愛」ということです。
[7] ギリシャ語「エレオス」。なお、こちらも参考に。「真実の愛」と訳された根拠について
[8] ホセア6章6節「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 これは、マタイが9:13でも引用していた、旧約理解のキーワードです。
[9] 出エジプト記20章8~11節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」 一方、申命記5章12~15節では「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中の中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」と、エジプトの奴隷生活から導き出された事が安息日の根拠とされ、それが、奴隷の労働をも免除する義務と結びつけられています。
[10] その「真実の愛」を覚える礼拝のために、祭司は安息日でも仕えて働くのです。
[11] 「人の子」というのはメシア(キリスト)を指す聖書の用語の一つで、イエスはご自分がメシアであることを現すのに、この言葉を専(もっぱ)ら用いました。