聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/26 マタイ伝26章47~56節「剣を鋤に打ち直す方」

2021-12-25 12:46:01 | マタイの福音書講解
2021/12/26 マタイ伝26章47~56節「剣を鋤に打ち直す方」

 マタイの福音書をずっと読んできまして、今年最後の今日、主イエスが遂に捕まり、人々の手に引き渡される-これ以降は囚われた身で十字架に向かわれる、その大きな節目を読んで、新しい年を迎えることになりました。この言葉を今ともに聞けることを感謝しています。

 この逮捕は、前から予想されていたことではありましたが、それでも腹立たしい場面です。裏切り者の弟子ユダがやってきて、何食わぬ顔で
「先生、こんばんは」
と口づけする[1]。しかしそれは、群衆がイエスを捕らえるための目印、全く裏切りの挨拶です。しかしイエスはなお、ユダを叱ったり呪ったりはしません。毒づいたり非難したりせず、「友よ」と呼びかけて働きかけます[2]。けれども、イエスは黙っていても、弟子たちの方が黙っていられませんでした。

51すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

 この弟子はヨハネの福音書によるとペテロだと分かります[3]。彼が剣を抜いて斬りかかったのです。勇気よりも、恐怖の余りで、闇雲に振り回したらたまたま耳に当たって、しまったと青ざめたのではないかと思います。
 いずれにせよ、イエスはその弟子に言われます。

52…「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。[4]

 剣を持つ群衆や裏切りの口づけにも、イエスは弟子たちが剣で抵抗することを許されませんでした。武器を振り回す抵抗を放棄させます。決してイエスが無力だからではありません。

53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。

 父なる神にお願いすれば、ご自分と十一人の弟子たち一人ずつに御使いの一軍団を送ってもらうことだって出来る。でも、イエスの目はもっと先にありました。それは、聖書の成就です。

54しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

 これは、ただの義務とか命令という以上に「神のご計画の中での定め・必然」を指します[5]。神の大きなご計画は、この世界が神のものとして回復されることです。神に背いた人間が、神に立ち戻ることです。それこそが、神の「こうならなければならない」です。イエスは弟子たちに、剣や御使いの力を借りて自分たちが勝利する以上のこと、聖書の「こうならなければならない」へと目を向けさせられるのです。それは55、56節での群衆への言葉でも同じです。

55また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」

 聖書の所謂「預言書」[6]に限っても、「剣」がたくさん出て来るのです[7]。人間の罪が戦争や搾取とか、力尽くで他者を排除する暴力になって、結局、自分も滅ぼされる。その滅びの象徴の一つが「剣」です。勿論、文字通りの剣に限らず、近代的な兵器とかテクノロジー、色々な武器もそこに含まれるでしょう。直接武器は使わなくても、言葉や策略、圧力で人を傷つけることだって出来る。そうした色々な剣で弱者や相手を傷つけては、最後は自分にもそれが返ってくる。そういう幻をもって、預言者たちは罪の報いが滅びだと語ります。けれども、預言者たちが語るのはその先の、神の回復です。将来の希望です。その事を典型的に示すのが、

イザヤ書2:4
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。[8]

 剣を鋤に打ち直す。これが、聖書が「こうならなければならない」と語る神の定めです。
 神は剣を鋤に打ち直させられます。人を敵から同僚にし、世界を戦場から畑に変え、争いを躍りに変える。それこそイエスが生涯掛けて教えられた「神の国」です[9]。ここでも剣を捨てさせ、聖書の幻を弟子にも群衆にも思い出させます。人の力や企みよりも遙かに強く、待ち望ましい、平和こそ神が成就される必然です。こう言われた後、主は、剣よりも大きく遥かに呪わしい十字架を引き受けられました。そして、その十字架が罪の赦しの恵みの象徴に変わったのです。

 ここで「剣を収めよ」と言われることが絶対的非暴力主義で、一切の抵抗を禁じたと考えるのは極端です。イエスは弟子たちが留まって殉教するなど望まれませんし、ヨハネの福音書ではハッキリと弟子たちを逃がさせておられます[10]。自分や人や敵をも、出来る限り守るのが、
「殺してはならない」
の意味です[11]。その根底には、神が私たちの命を尊び、滅びることを望まない御心があります。剣を振り回して滅びで終わる事ではよしとしないのです[12]。やがて剣を鋤に打ち直して、ともに地を耕し、ともにいのちを育てるために汗を流すようなあり方を創造させなさるのです。それこそが、神にとっての必然だと思ってくださるのです[13]。

 弟子が剣で斬り掛かったことは、無謀でしたが多少の義憤も混じっていたでしょう。それでもイエスは弟子に「剣を収めなさい」と言われます。私たちにも言われます。私たちの剣が義憤であっても、自分で強引に成敗しようとすることを止めなさい、と[14]。暴力を容認するのではありません。剣に剣で報いる以上のことが起きなければならないからです。すべての剣が必ず剣であることを止め、打ち直され、鋤や楽器に持ち替えられなければならないからです[15]。主は必ずどの剣も打ち直されます。そのためにご自分のいのちをも惜しまれなかったのです。

 一年の終わりに自分の心を探る時、胸に刺さっている痛みがあるでしょうか。握りしめた手には見えない剣や毒があるでしょうか[16]。それを誰かにぶつけそうな私たちに主は言われます。
「剣を元に収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」
と。
 起きなければならないのは、仕返しや滅びではなく、神のご計画である平和の成就です。そのためにこそ、主は十字架を引き受けました。
 その主の愛によって、まず私たちの剣を鋤に打ち直してくださるよう求めましょう。怒りを祈りに、嘆きを踊りに、罪の呪いを祝福の恵みに、変え始めていただきましょう。

「平和の主よ。私たちの手や口や心にある剣を、平和の道具へと打ち直してください。あなたは私たちの罪を赦し、罪のもたらした断絶を癒やし、ご計画を果たすために十字架に向かわれました。あなたが成就される平和の希望に目を向けさせてください。一年の恵みを感謝し、過ちを悔い改め、痛みは包まずに差し出します。その一年の旅路どんな時も私たちとともにおられたことを感謝します[17]。あなたの善き御業への信頼をもって新しい年を迎えさせてください」

脚注

[1] 欄外にあるように、この言葉は「喜びがありますように」「お元気ですか」と訳されます。他にもマリアに告げられた「おめでとう」や、マタイ27章28節の「万歳」なども同じ言葉です。

[2] 「友よ」の後の「あなたがしようとしていることをしなさい」は欄外に「何のために来たのですか」とも訳され、原文はここにしか出てこない意味不明な文章で、明確な訳が出来ません。しかし、それでもここに、イエスのユダへの敵意や報復はないのは明らかです。

[3] ヨハネの福音書18章10~11節「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。11イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」

[4] 同様の言葉は、創世記9:9(人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。)、エゼキエル35:6(それゆえ――神である主のことば――わたしは生きている。わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎むことがなかった。だから、血がおまえを追いかける。)、黙示録13:10(捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。)

[5] デイ 神のご計画の中での必然。マタイで8回。16:21(そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。)、17:10(すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」)、18:33(私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』)、23:23(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、24:6(また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。)、25:27(それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。)、26:35(ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。)、26:54。イエスがこの時、御使いを呼ぶことも出来たのに、十字架に掛からなければならないから、我慢して、逮捕された、というような意味での「ねばならない」「しかたがない」ではないのです。神は、自由なお方です。

[6] 聖書(今でいう旧約聖書)には預言書があり、聖書全体の呼び方の一つが「預言者」でもあります。ただし同じ「預言書」といっても、現行のプロテスタントの使う聖書の区分では「イザヤ書」から「マラキ書」までの16の文書を指しますが、ユダヤ教のタナハの区分では「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記(上下)」「列王記(上下)」を「前預言書」とし、「後預言書」として「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」の三大預言書と、「ホセア書」から「マラキ書」までの十二小預言書が「預言者の書(ナビーム。タナハのナに当たります)」とされます(ダニエル書は、タナハでは「預言書」ではなく、諸書(ケスビーム)に区分されます。)。

[7] 「剣」は、旧約に423回使われますが、そのうち、イザヤ書以降の預言書が222回、半分以上を占めています。

[8] 同じ文言は、ミカ書4章3節「主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」

[9] 人の考える「当然」は「自分の敵は剣で滅ぼさなければならない」だとしても、神の「なければならない」は、世界は回復され、罪は赦され、失われた人は捜して救われなければならない。戦いや終わり、憎しみは和解し、わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合わなければならない、と思われたのです。そのために、神ご自身が犠牲を払い、御子イエスをこの世界に送ってくださいました。神の子イエスが、罪の赦しのため、自らを献げてくださいました。神は、どうにかして私たちが滅びに至る道ではなく、神に立ち戻って、神の民として祝福のうちを生きるように考えてやまれない。神は、ご自身の造られた私たちや世界を回復されなければならない、滅びから救われなければならないと思ってご計画をしてくださった。そう書いてあるのが「聖書」であり「預言者たちの書」なのです。

[10] ヨハネの福音書18章7~9節「イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。8イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」9これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

[11] 「Q67第六戒は、どれですか。 A第六戒はこれです。「あなたは殺してはならない」。 Q68第六戒では、何が求められていますか。 A第六戒が求めている事は、私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすることです。 Q69第六戒では、何が禁じられていますか。 A第六戒が禁じている事は、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です。」ウェストミンスター小教理問答67~69

[12] 武器を持っていたために不要な争いや犠牲を招く悲劇も現実にはありますし、かといって戦いに抵抗しなければ酷い悪に支配させてしまう場合も、大なり小なりある。その複雑さの中で、最終的な平和を待ち焦がれながら、私たちは生きているのです。現実の暴力や言葉や態度での暴力まで、私たちの身の回りにも剣があり、心に刺さっている言葉や握りしめている武器があるものです。その厳しさを知っているからこそ、イエスは弟子が剣を振り回すことを止めさせただけでなく、ご自分を見捨てて逃げることさえ許されました。

[13] イエスのこの時の受難は、ご自身のメシアとしての特別な死ですが、同時にこの姿は、キリスト者にとっての模範という面も持っています。Ⅰペテロ2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」

[14] ローマ12:18~21自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

[15] 今、私たちは剣が正義の象徴であるように生きています。剣に勝る神のことばの力を依り   頼みます。悪に打ち勝つのは仕返しではなく、善です。恐れに打ち勝つのは武器ではなく、希望です。そして、御使いたちはイエスを助けに来なかったのではありません。既にあの誕生の夜に、おびただしい天の軍勢が現れて、「天には栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」と歌ったのです[15]。御使いは、復活の朝にも、昇天の後にもいて、私たちに本当の力を下さいます。それは、イエスが下さった、神の平和です。そのイエスの平和を力に、私たちは今ここで剣を取らずに生きるのです

[16] 私たちは、今、この年末最後の礼拝において、この言葉を聴いています。私たちの周りにも、自分の心や手にも、気がつけば剣がないでしょうか。暴力や中傷、悪意、いやむしろ善意の言葉が心に刺さり、自分も仕返しの石を握りしめている。その私たちにイエスは言われます。「剣を取る者は剣で滅びる。」いや、それだけではなく、「こうでなければならない」とはもっと違うことなのだ、と。その正しいさばきを、神がしてくださいます。あなたを刺した剣は、鋤に打ち直されなければなりません。イエスはそれをご存じです。そして、そのために、イエスはこの時、自由の身から囚われて十字架へと向かわれる、最後の時へと踏み出されたのです。

[17] イエスは、苦しみを知らない人ではありません。人の敵意を、身に覚えのない恨みで不当な苦しみを受ける惨めさを、信頼していた人に裏切られる辛さを誰よりもご存じです。罪の冷たさ、醜さ、悲しさを、誰よりも味わい、身悶えし続けたお方です。その方が、しかし、なお苦しみ以上に見ていたものがありました。それは、すべての剣は、やがて打ち直される、という将来です。戦争や血、恐怖と死を象徴する剣は、鋤に打ち直される、というのです。鋤は農具です。畑を耕し、作物を育てます。収穫を待ち望みます。鋤は、労働、共同作業、待つこと、希望を思い描かせます。預言者は、人が傷つけあう今は、きっちりと報われた上で、その先に、剣が鋤に打ち直される幻を思い描かせました。イエスは、それを信じていたのです。

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2021/12/26 第一サムエル記17章「ダビデとゴリアテ」こども聖書㊵

2021-12-25 12:34:02 | こども聖書
2021/12/26 第一サムエル記17章「ダビデとゴリアテ」こども聖書㊵

 巨人ゴリアテと、少年ダビデの戦い! これは聖書の中でも最も有名な話の一つかもしれません。後の王さまとなるダビデの、純粋で勇敢な信仰を伝えてくれます。
Ⅰサムエル十七4一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを漬けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。…



 見上げる身長と怪力の巨人。そのゴリアテが率いるペリシテ人が、聖書の物語に出てきて、神の民を圧倒しています。今ここでゴリアテに飲まれて震えています。彼は、
8…叫んだ。「…一人を選んで、おれのところによこせ。9おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」

 このように言われるのは、イスラエル人にとって、自分たちだけでなく、自分たちの神、主をも馬鹿にされる、酷い屈辱でした。怒って立ち向かって当然でした。でも、彼らは何も出来ないのです。聖書には、本当の神様が、ここまで導いてくださった物語が続いていました。今までも、何度も救われて来ました。大きなエジプトの国に奴隷として捕らわれて暮らしていた所を、神の力によって救い出されて、ここまで旅をして来たのです。それなのにすっかり怯えています。そこにやって来たのが、少年ダビデでした。

 ダビデがその戦場に来たのは、戦うためではありません。まだ少年でしたから。ダビデのお兄さんたちが戦いに出ていたので、お父さんからお弁当を預かり「これを食べて頑張って」と言うためです。しかし、お兄さんたちもどの兵士たちも怯えてしまっています。ダビデはゴリアテの言葉を聞いて、驚いて、腹を立ててしまいます。

26ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

 これを聞いてお兄さんは、生意気な、と腹を立ててダビデを叱りますが、ダビデは黙りません。それを聞いたサウル王がダビデを呼び寄せると、ダビデはサウルに言います。

32…このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

 こういうダビデは、決して無鉄砲ではありませんでした。少年といっても既に十五歳よりも大きかったはず。そして、羊飼いとして羊を獣から守るため戦ってきました。

36しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37…「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

 この通り、ダビデはここまで戦ってきた経験がありました。またサウル王は自分の頑丈な鎧兜を貸してくれました。けれど、それはダビデには重すぎて、歩くのもやっと。ダビデはその鎧は断る勇気をもってお返しします。頑丈でも重すぎる鎧は、かえって危ない。そんなことを十代のダビデも十分知る経験値、現実を見る目を持っていました。

40そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。


 
近づいてくるダビデを見て、巨人ゴリアテはすっかりコケにします。

43~44節「…おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。…さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。

 こんなに笑われてもダビデはちっとも動じません。神様がいるのですから勇敢です。

45…おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46…すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47…この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 すると、ゴリアテはダビデに近づいて来ます。ダビデはゴリアテに走って行きます。

49ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。51ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。



 こうして少年ダビデは巨人ゴリヤテを倒し、ペリシテ人は散らされてしまい、戦いに負けそうだった臆病なイスラエルの国は生き延びることが出来たのです。


 ダビデの神は、私たちの神です。世界を創り、私たちをも今日まで守り、導いてくださいました。それでも私たちは新しい壁にぶつかると、神を信じるより、絶望したり諦めたりしやすいものです。今までの恵みを忘れて、もうダメだと思い込んでしまう。そうした時、神は意外にもダビデのような少年を突破口とします。教会に来たばかりの人、未信者の家族、眼中になかった部外者、無神論者さえ、神は遣わされて、私たちの疑いを超えた、神の力を見せてくれる。そんな体験も聖書にはちりばめられているのです。

 何よりも神の子キリストがそうです。力強い英雄として現れることも出来たのに、小さな赤ん坊で現れ、田舎者として活動し、最も惨めな十字架に殺された。しかし、それは最も強い神が、人のあらゆる思い込みを超えた勝利でした。
 今、皆さんが恐れているのは、どんな敵でしょうか。ダビデがゴリアテを倒したように、イエスはすべての敵を打ち負かされるお方です。そのお方に私たちも信頼しましょう。そして、私たちもそこに加えられましょう。私たちのこれまでの小さな経験、信頼を、いや私たち自身を一つの石として、主の物語が進むために、どうぞ用いて下さい、とお献げしましょう。

「大いなる神様。1年の最後に、今日までの恵みを覚え、感謝と賛美を捧げます。クリスマスの、主の計り知れない謙りと十字架と復活の力を崇めます。その恵みに預かりながらも、今置かれている困難にはあなたの新たな力により道が開かれることをその都度必要としています。ここまで導かれた主よ、どうぞこれからも導いてください。それを信じさせて、そのために私たちをお使いください。そうして御名を崇めさせてください」
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2021/12/19 こどもクリスマス おはなし

2021-12-18 14:34:32 | こども聖書


 今年のクリスマス絵本、どうでしたか? 特に印象的だったのはどんな絵でしたか?
 僕も、ヘロデ大王の顔が一番大きいなぁ~と思いました。クリスマスなのに、イエス様よりも、ヘロデ大王の顔のほうが大きい。そう思って聖書を読んでみると、確かに、聖書の言葉でも、ヘロデ大王はイエス様が生まれたことを妬み、殺そうとした人です。この人の事は、当時の歴史の資料にも残っています。大変、権力欲が強く、純粋なユダヤ人では無いのに、ずる賢く立ち回って、いくつもの窮地を切り抜け、ローマ帝国に取り入って、「ユダヤ人の王」という地位を手に入れました。彼は建築家として、エルサレム神殿も立てました。しかし、非常に疑り深く、権力の座を脅かす人は、妻や実の子どもでも次々に処刑しました。自分の権力の座を絶対に手放したくない王だったのです。
 そのヘロデと対照的なのが、イエス様です。イエス様は、この世界の本当の王、永遠の権力者です。私たちが礼拝し、感謝と賛美を捧げるべきお方は、イエス様です。しかしこのイエス様は、その権力の座にしがみつきませんでした。むしろ、その栄光の座を惜しまずに捨てて、人間となることを選ばれました。誉められるとか仕えられるとか、自分の地位を脅かされたり、笑われること。どれも、ヘロデ大王なら我慢できなかったことでしょうが、イエスはそんな事には拘りませんでした。なぜなら、イエスは、誰がなんと言おうと、王であり権力をお持ちの方だからです。本当に強い人は、人がなんと言おうと動じることはありません。ヘロデ大王は、本当の王ではないからこそ、自分の立場にしがみついて、それを失うことを恐れました。イエス様は、本当の王だから堂々と見た目に拘らず、完全に虚しくなり、マリヤの胎に宿り、赤ん坊として生まれてくださいました。それは、私たちに一番近づくため、私たちの心に触れて、私たちの王となってくださるためでした。そして、やがては私たちの罪のために十字架に殺されるためでした。イエス様は、私たちのことをひたすらに愛し、ご自分を与える王なのです。
 クリスマスの話でも、ヘロデ王が出てきます。今、教会でクリスマスを祝って、聖書の言葉を聞いても、普段の生活ではなんだか全然違うなぁ、ニュースになることにも、学校でのことも、神様なんて全然出てこないなぁ、と思っているかも知れません。でもそれこそイエス様が、ヘロデと同じような権力者の王ではない証です。人の上でチヤホヤされることを願う王ではなく、私たちの所にまで降りて来られて、近くにおられて、私たちを強めてくださる。私たちの罪も妬みも知って、その赦しのために、十字架にまで卑しめられることも厭われませんでした。そういうイエス様こそが、本当にこの世界を治めて、本当に平和な世界を作って下さるのですね。ヘロデや一番を狙う人たちには到底出来ないことです。
 だからこそヘロデもイエス様の誕生を恐れました。そして、私たちが、イエス様を知って、この世界で目立ちたい誉められたいという生き方から、仕える生き方に変えられていくことは、この世界のあり方をじわじわとひっくり返していくことなのですね。

 クリスマスにお生まれになり、私たちのために十字架にかかり、甦ったイエス様は、本当に私たちを変えてくださり、この世界を変えられる王なのです。

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2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

2021-12-18 12:55:59 | クリスマス
2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

 クリスマス、イエス・キリストの誕生の出来事は、聖書の四つの福音書が全て記している訳ではありません。マルコとヨハネの福音書ではキリストの誕生は端折っています。ルカは1章と2章、七頁にも亘って詳しく、母マリアに御使いが現れた受胎告知やベツレヘムの羊飼いの事などを伝えています。いくつもの歌がこのルカの記事から造られて、今も歌われています。
 この舞台となるのは「ガリラヤのナザレ」という町。都エルサレムから遠く離れた、北の田舎の目立たない村でした。その村の娘の一人がマリア[1]。そのマリアの所に御使いが来て、

28…「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 勿論、御使いの登場そのものにも驚いたでしょうし、「恵まれた方。主があなたとともにおられます」との言葉にも戸惑ったろうと想像するのです。すると、御使いは彼女に言います。

30…恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 これは聖書の中の長い歴史で、ずっと悲願とされてきた方です。待ちに待っていた、よい王がいよいよ来る。それは当時、マリアも含めて多くの人が、待ち望んでいた約束の出来事です。しかし、マリアはその約束の王の到来はともかく、自分がその母になることには躊躇(ためら)います。

34…「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 母になると言われても、許嫁の状態でまだ同衾していないし、それで子を宿す話など聞いたことがありません。それだけでなく他にも沢山の疑問や戸惑いがあったでしょう。これに、御使いは、半年前のエリサベツの奇蹟的な懐妊の出来事を思い起こさせて応えます[2]。勿論、高齢の夫婦が子を宿すのと、処女のマリアが子を宿すことは全然違うことでもあります。でも御使いは、エリサベツの懐妊が
「神にとって不可能なことは何もありません」
という証だと言います。そして、この御使いの言葉に、マリアは十分として応えるのです。

38…「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 新改訳2017の欄外注には、37節の「不可能なこと」は

「「語られたことば」あるいは「語られた事柄」の意」

とあって、38節の「あなたのおことばどおり」とある同じ語です[3]。ですから、神が仰る言葉に何も不可能はない、という事で、私たち人間が神に要求するどんなことでも神には不可能では無い、ということではありません[4]。しかも、その神の仰った言葉とは、どんな事でしょうか。もし私やあなたが不可能のない力を与えられたらどんな使い方をするでしょう。いや、現に今も、世界の国々や支配者は、自分の願望を達成しようと競争しています。その足元で、貧しい国や追いやられた人々との格差が開くばかりです。しかし、本当に不可能はない神は、その力をご自分が最も低くなるために使われました。そして、都に住む美しく敬虔な女性ではなく、田舎娘で自分自身の肩書きを持たない少女マリアを選ばれて、その胎に宿ったのです。
 そして、生まれた時、居場所はなく、飼葉桶。最初にその誕生を知らされたのは、統計の数にも入らない羊飼いたちでした。それが、クリスマスが示すメッセージです。生まれたイエスは王であると共に、どんな王であるか、私たちの考えをひっくり返すメッセージです。その後の生涯でもイエスは、罪人や後ろ暗い過去ある女性、放蕩息子、嫌われ者の金持ち、裏切る弟子たちの側に立たれました。最後の十字架でも、処刑に終わる人生を送った強盗の友となり、死なれました。
 その三日目、イエスはよみがえって天に昇り、今も天の御座で、永久に私たちを治めておられます。地の低い一人一人を「恵まれた者」としてくださるのです。[5]

 それでも、世界には問題が溢れています。世界を左右しているのは、富豪や政治家、あるいはウイルスや偶然のようにも思いたくなります。ルカや福音書の記事でも、キリストの誕生後、周囲が大きく変化してはいません。一時的に驚き、熱狂しても、直ぐに冷めてしまう。でもそんな世界の中で、誰にも気づかれない密かな所で、小さくイエスの支配は始まっていました。田舎の少女の部屋で、その幼い胎の中で、ベツレヘムの馬小屋で、遠い東の国の博士たちの研究室で。闇の中に点ったような希望の光が、小さくて、闇を吹き飛ばしはしなくても、闇に消されることも決してなく、喜びと希望を点し続けて、確かにそれは広がっていきました。そして、そのキリストの光が、私たちにも届けられています。神の子キリストが私のためにお生まれになり、その不思議な支配を初め、私の中にもそれを始めていてくださる。[6]

 インドで死にゆく貧しい人々を助けたマザー・テレサは「あなたがしていることは大海の一滴に過ぎないのではないか」と質問されて「その一滴を止めたら、海から一滴分、水が減ってしまうのです」と応えたと聞いたことがあります[7]。クリスマスは、まさに、神が一人一人の王となってくださった出来事です。そのためにご自身が小さくなり、最後は十字架にいたる生涯をも厭わなかったのです。その言葉を、私たちはマリアとともに、私たちへの言葉として聞くのです。
「おめでとう、恵まれた方」
という言葉も、
「神にとって不可能なことは何もありません」
も、私たちを代表したマリアへの言葉です。この方の謙りに、私たちの生き方、願いをひっくり返されます。この方の言葉を、今この時、私たちへの言葉として聞くのです。そして、私たちも

「私は主のものです。お言葉通り、この身になりますように」

と言うのです。

「大いなる主よ、あなたの言葉には不可能はありません。あなたの御支配も世界の回復も、私たちの救いと新しいいのちも。あなたご自身が私たちへの捧げ物となってくださったからです。今あなたの飼葉桶と十字架を想って謙り、あなたを褒め称えます。「おめでとう、恵まれた者」との言葉を戴きます。この周囲でどんなに嵐が吹いても、力を競う声が誇り叫んでいても、あなたが私たちとともにいます。その喜びに支えられる幸いを、私たちの力としてください」


脚注:

[1] 「ダビデの家系のヨセフという人の許嫁」とあり、当時の結婚年齢が12歳ぐらいで、マリアもその年頃だったのでしょう。

[2] 35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。36見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。37神にとって不可能なことは何もありません。」

[3] ギリシャ語「レーマ」。

[4] 確かに、この大きく、不思議な世界を創造された神には不可能はないでしょう。でも、その何でも出来る神が、そこに生きる小さな星の人間、それもご自分に背いた人間に対するにも、いくらでも他に方法はあったかも知れません。そもそもご自分に背かないような世界を創ることだって出来たでしょう。背いた人間など放っておいて、もっといい世界を始めることだって出来る。せめて、その支配者として人間が望むような王を送ることも出来る。しかし、神はそんな自分の手を汚さず、痛みも少ない方法を採るよりも、違う形で「いと高き方の力」を現すことを選ばれました。神の子イエスご自身が、この星の人間となり、聖霊によって一人の女性の胎に宿るという方法を選ばれました。他にいくらでも方法はあるだろう、不可能はない方が、ご自身がマリアの胎に宿るという形でこの世界に来られました。

[5] この世界の、人間の計算とか思惑とか、もし力があればとんでもない事に使うことを思いつきかねないこの世界の大きな流れの中で、神のよい御支配を信頼する人々、この私たちのために自ら謙ってともに宿り、私たちをも神のこどもとし、神の業を生み出す者としてくださると仰る言葉を受け入れる人々がいます。私たちも、その一人です。

[6] 「そこでルカは、驚くべきことを告げます。神はその宝物を、その時代のあらゆる場所の中で最も弱く、最も小さく思われる場所――女性の子宮――にお預けになった、と。…きっとルカは、わたしたちに知らせたかったのです。福音という宝物は、いつの日か、みずからの力によってこの地を満たすものではあるが、最初は弱くて無力な場所にいる者たちの中に、その宝物を最も待ち焦がれ、その宝物に最も深く飢え渇き、それゆえ、それを最も信じて大切にすることの出来る者たちの中に植え付けられなければならない、ということを。…神が今ここにいてくださる、という驚くべき出来事が突然起こる場所は、わたしたちの人生やこの世界の弱い場所であることがとても多いのです。そして、まさにそのようなところこそ神が宝物を置く場所である、ということそれ自体が、福音の一部でもあります。」、トマス・G・ロング『何かが起ころうとしている アドヴェント・クリスマス説教集』、(平野克己、笠原信一訳、教文館、2010年)、84~87頁。

[7] 「私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。私たちは弱気になってはならないのです。勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。」『マザー・テレサの愛という仕事』80頁より。

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2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

2021-12-11 12:50:06 | こども聖書
2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

 聖書に出て来る「ダビデ」は、旧約聖書の中でも最も詳しく描かれている人です。この人が、イスラエルの歴史で、二番目の王となりました。ダビデは、聖書の中で、イエス様の次に愛されている人かも知れません。今日は、そのダビデの話の最初です。
 最初の王サウルは、ひどく神から離れ、神はサウルを王から退けることにしました。祭司サムエルは、とても悲しみました。そのサムエルに、主は言われました。

Ⅰサムエル記十六1…「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 こうして、サムエルは、ベツレヘムの町に行き、エッサイという人とその家族と会うことにしました。エッサイは、サムエルに言われて、息子たちを連れてきました。

6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
 
 エリアブは長男でしたから最初に連れて来られたのでしょう。そして、サムエルが見ても、長男エリアブは背が高くて、体格もよくて、一目で好きになりました。そして、今の王サウルも、背が高くてハンサムでしたから、サウルの代わりになる新しい王も、見た目も大事。…私たちもそう思いますよね? ところが主はサムエルに言われました。

7…「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 サムエルはエリアブのうわべ(外見)を見ました。しかし主は心を見て、エリアブを退けていました。神様は外見で人を選ばれることはなさらないのです。そして、次男が連れて来られ、三男が連れて来られました。

10エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」

 どうしましょう、こうして連れて来られた全員が、主の目には叶いませんでした。

11サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子がのこっています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」

 お父さんのエッサイは、末の子は連れて来なくていいだろう、と思ったのですね。お父さんの目にも、あの子を連れてくるなんて必要ない。そう思った子がダビデです。

12エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」

 ダビデは末っ子で小さかったのですが、血色が良く、うわべは美しかったのですね。神様はうわべを見ない、ということは、見るからにだらしない人を選ばれる、ということでもありませんね。ダビデの姿は立派でしたが、だから選ばれたのではないのです。主がダビデの心を見て、お選びになったのです。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
 私は、これは聖書で一番大切な言葉の一つだと思っています。私たちはどうしても見える所しか考えませんが、主は私たちに見えない、心をご覧になっています。私たちのことも、心をご覧になっています。神は私たちの見せかけではなく、心をご覧です。それも、私たちの心の罪や弱さも、あるがままを深くまで見て、愛しておられるのです。

 こうして、主はダビデを選ばれて、将来の王とされました。この後、ダビデが正式に王の座に即位するのは三十歳のころ。この時はまだ十代前半だと思われます。ですから、十五年前後、ダビデは王となるまでの訓練を受けるのです。その最初が、実は、最初の王サウルに仕えることでした。彼は王の立場のプレッシャーに耐えきれずにいました。

14さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。15サウルの家来たちは彼に言った。「16…上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」

 そして、家来の一人が琴の上手な弾き手として名前を挙げたのがダビデでした。

21ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。…23神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。

 音楽の力って、スゴいですね。こうしてダビデは、不安に怯えるサウルを慰め、支えることからその働きを始めました。この後も王になるまで、戦ったり逃亡生活をしたり、自分の心を試されたり、人から励ましを受けたりします。何より、主がどんな時もともにおられることを味わい知る、大事な準備をしていきます。主がダビデに求めたのは、見た目の格好いい王で、人からチヤホヤされるヒーローであるよりも、ダビデが、自分の心を見ておられる主を見上げて、人に仕える王であることを願っておられたからです。



 この時からやがて千年ほどして、もう一度神は、
「ベツレヘムに行きなさい。そこに王がいます」
と仰せになりました。今いる王に失望して悲しむ人たちをベツレヘムに行かせ、新しい王と出会わせました。その王は、人が思うような立派な姿ではありませんでした。王に相応しい豪華な産着と立派な揺り籠の代わりに、布にくるまれて、家畜の餌入れに寝かせられていました。それは、このダビデのずっとずっと後の子孫として生まれた、イエス・キリストでした。この方も、人から仕えられるためではなく、人に(私たちに)仕えるために来られ、悲しむ者、捨てられたと思って狂いそうな人たちを慰めてくださる王です。私たちとともにおられて、音楽や試練や仕えることを通して、私たちを治めてくださるお方なのです。クリスマスは、その王の誕生をお祝いする時です。



「ダビデの子、イエス・キリストの主よ。私たちはうわべしか見えなくても、あなたは心をご覧になり、心に働いておられます。小さなダビデを選ばれた出来事も、私たちへの素晴らしい贈り物です。どうぞこのクリスマスに、私たちの王である、ダビデの子イエスを覚え、あなたの良き御支配に、私たちの目を開き、私たちを新しくしてください」
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