だいじょうぶのかみさま 聖書はしくじり大図鑑!
今年の夏期学校のメッセージテーマは「しっぱい」です。いつのまにか子どもの読書ランキングには「ざんねんないきもの」「失敗図鑑」「しくじり歴史人物伝」などが並んでいました。しかも、大人気!
「しっぱい」なら聖書だって負けません。「聖書」は「聖人」ばかりが出て来て、美談や訓話が集められているかと思ったら、意外や意外。出て来る人は誰もが、ひと癖もふた癖もある人ばかりです。
・ 神様との小さなたった一つの約束を破った…アダム
・ 泥水…ノア
・ 殺されると思い込んで、妻を「妹です」と偽って王様に差し出す…「信仰の父」アブラハム
・ 兄のふりで父を騙して、二〇年も家出…ヤコブ
・ カッとなって人を殺し、四〇年後も石に八つ当たり…モーセ
・ 戦勝して調子に乗って、次の敵に騙される…ヨシュア
・ 怪力の秘密をばらしてつかまってしまう…サムソン
・ 不安で二枚舌の嫉妬王サウル
・ 不倫と隠蔽殺人…ダビデ王
・ 燃え尽き症候群と鬱…エリヤ
・ 行き過ぎた愛国主義…ヨナ
・ 天使に反論…ザカリヤ
・ 優柔不断…ニコデモ
・ 相続財産を放蕩…放蕩息子
・ 口を開けば順位争い…12弟子
・ ポピュリスト…ピラト
・ 献金詐欺…アナニヤ夫妻
・ 熱心すぎて悪役に…パウロ
※ 「失敗学」では、「失敗」の定義を「人間が関わったひとつの行為が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」としています。「望ましくない」と期待するのがだれか、によって「失敗」かどうかの判断も変わります。犯罪は、犯罪者から見るのと、被害者から見るのとでは全く逆の判断になります。その時は「失敗」と思ったものが、後には「失敗」とは評価できなくなることは多くあります(特にキリスト者はこの慰めを持っています)。ですから「失敗」とは「客観的な間違い」というよりも「自分にとって望ましくないという主観的な状況と真理」をどう扱うか、という問題です。
こんな例を見ていくと、そもそも人間を作った神様が大失敗したのでは?と思いそうです。もっとましな世界を造って、もうちょっと清らかな人を選べば良かったのではないか、と神様が疑わしくなります。世界は、神様の大失敗なのでしょうか?
神様は、世界をお造りになる時、絶対に失敗のない「完璧な理想世界(ユートピア)」を作ることも出来たのかもしれません。間違うこともなく、神の命令に絶対服従する、ロボットのような人間を生み出すことも出来たのでしょう。けれども、それは神の方法ではありませんでした。神は「従わない選択」も出来る人間をお造りになりました。その結果、たくさんのざんねんな出来事が起こるとしても、ロボットより人間を作りたいと思われたのです。
人間は神様ではありません。ですから出来ないことがあります。分からないことがあります。分かっても受け入れられないことがあります。分かったつもりで大きく勘違いしてしまうこともあります。そういう人間が一緒に暮らすと、もっと大変な事が沢山起きます。でも、神様は、そういう世界を造られました。失敗のない世界よりも、失敗の避けられない世界を造ることで、神様のご計画を果たそうとされたのです。
「失敗学」によれば、「人間は必ず失敗する」のだそうです。人間は必ず失敗する。そのつもりで、ではどう準備していけば良いのかを考えるのです。聖書では端的にこれを「人間は神ではない」と言います。人間は神様ではないので、完璧ではないし、間違えます。だから失敗が悪いのではありません。神ではない人間が失敗したからと言って、神は責めません。「失敗するな」なんて「神になれ」に等しい無理な話です。「失敗しない」がゴールではなく、「失敗から逃げない」が大事なのです。
ところが、神に背を向けた人間は、おかしなことに「神のようになりたがる」のです。失敗しない自分になりたいのです。『失敗学』の言い方では、「失敗から目を逸らして、隠したり、人のせいにしたりして、もっと大きな間違いをしてしまう」のです。
※「失敗」は三種類あります。
1. 織り込み済みの失敗。ある程度の損害やデメリットは承知の上での失敗。
2. 結果としての失敗。果敢なトライアルの結果としての失敗。
3. 回避可能であった失敗。ヒューマンエラーでの失敗。
1.と2.の失敗は、「失敗は成功の元」となり得る失敗である。また、この2つの失敗については、状況・結果などがある程度予測できたり、経験からくる的確な判断で対処したりすることができる。
3.の失敗は、失敗からさらなる悪循環が生まれる失敗である。予想しておけば回避可能であったにも関わらず、予想をしていなかったためにパニックに陥り、ますます、状況を悪くしてしまう。
「重要なのは、不可避である『いい失敗』から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで『悪い失敗』を最小限に抑えることである。失敗や事故が隠蔽され、教訓として生かされないまま同じことが繰り返されるなら、社会的な損失は計り知れない」。
Wikipedia「失敗学」
イエス様には、十二人の弟子がいました。そのリーダーは、ペテロでした。このペテロが、とてもおっちゃこちょいで、失敗だらけの人でした。頑固で、お調子者で、いばりたがってしまう人でした。いつも弟子たちとの間では「だれが一番偉いか」を話題にするのが好きだったみたいです。イエス様の弟子になったら、格好いいなぁ、イエス様が王様になったら、自分もその次に偉い大臣になりたいと思っていました。他の弟子たちも同じような思いがありましたが、ペテロもそうでした。
ある時には、イエス様をたしなめて、間違いを教えて上げようとしたことがありました。それは逆にイエス様から厳しく叱られましたが、でもそんな間違いをしてしまうペテロをイエス様は愛されていました。ペテロという名前自体が、イエス様がつけられたあだ名でした。ペテロとは「石」という意味です。石頭とか頑固者、真っ直ぐだけど融通が利かない人ということでしょうか。でもイエス様はそんなペテロの性格もニックネームにしてしまうぐらい、おっちょこちょいのペテロが大好きだったのです。
※ キリスト教は「道徳」ではありませんが、クリスチャンには、なんでも「罪」のせいにしてしまう傾向もあります。しかし、神様から離れる前にも人間は限界を持っていました。つまり、失敗する存在だ、ということです。堕落という大失敗によって、罪は始まりましたが、その前から人は有限な存在でした。そして有限な人間が一緒に暮らすところ、必ず衝突やすれ違いが起きたでしょう。しかしそれは「罪」ではなく、受け入れ、乗り越えていけるチャンスだったのです。堕落以降始まったのは、人間としての限界を受け入れず「神のようになろう」とする行動や、限界に目をつむり「罪」として責める行動、また「恥」て隠蔽しようとする(結果もっと大きな問題を引き起こす)体質です。
イエス様は、国の偉い人々から妬まれて、最後は捕まって、十字架に殺されました。その直前、イエス様はペテロに、「あなたも私から逃げていくけれど、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(参照、ルカ二二31以下)。
ペテロは、自分は死んでもイエス様から離れたり、イエス様を知らないなんて絶対に言わないと断言しました。けれども、イエス様が捕まった時、ペテロは怖くなって、イエス様を見捨ててしまいました。「おまえもイエスの仲間だな」と笑われたら、必死になって何度も否定しました。ペテロは自分が絶対にしたくなかった大失敗をしたのです。でもイエス様は、そのペテロを責めることはしませんでした。ガッカリだとも言われませんでした。そうではなくて、失敗を経験することで、他の人を力づけて上げる人になることを願ってくださったのです。
教会の最初のリーダー、ペテロは大失敗をした人です。なにしろイエスをたしなめたり、裏切ったりした人です。イエス様は、そのペテロを最初のリーダーにしました。ですから今でも、教会は自分の失敗を正直に認める場所です。安心して失敗して、それでも大丈夫だと、どんな時にも一緒にいてくださるイエス様を一緒に見上げていくのが教会なのです。
※ しかしペテロと同じように、懲りずに間違いを繰り返したり、自分の失敗を認めにくいのも、教会の一面です。失敗事例に学ぶ(逆演算)よりも、成功事例ばかり語りたがる面もあります(順演算)。そうした面にも正直に向き合って、教会の負の面を(「罪の問題」として「悔い改める」だけで解決と思うことなく)誠実に知っていくことは欠かせません。今も、私たちは何かしらしでかしているに違いないのですから…。
神様は、私たちが神ではないから、沢山の失敗をしてしまうことをご存じです。そういう私たちが、助け合ったり励まし合ったりしていくことを願われるのです。失敗のない生き方ではなくて、助け合っていく世界を、神様は今も造っておられるのです。失敗だらけの人たちの話を聖書に載せることで、神様は私たちをどれほど愛しておられるかを教えて、励ましてくださっています。また、世界を見ると「ざんねんないきもの」や「へんないきもの」がたくさんいますが、人間も「へん」で、「ざんねん」なことをしてしまうものです。そういう人間が、だれも神様になろうとせず、いっしょに生きていけたら、楽しいじゃありませんか?
最後に、皆さんに知って置いてほしいことを三つ、お話しします。
- だれでも失敗します。だから、失敗した人を馬鹿にしたり、自分は失敗したからダメだ、とは思わないでください。神様でない人間は必ず失敗するのです。大事なのは、失敗しないことではありません。失敗してしまう私たちが、一緒に、ワクワクできる世界を造っていくことです。
- 「助けて」と言える人になってください。自分一人で何とかしようと思わず、「手伝って」「助けて」と言えるようになりましょう。また、失敗が分かった時にも早く人に相談してください。隠そうとするのは一番マズいことです。正直に相談することが、失敗をカバーする最善の道です。
- 「失敗」と思うものも、正直に向き合うなら、神様は必ずそこからすばらしいことを始められます。イエスの御生涯も、最後は十字架に殺され、弟子たちは逃げていき、こんなざんねんな人はいないようでした。でもそれは、神様がどんなにこの世界を愛されているかの証しでした。この世界は神様の失敗作のようにも見えます。でも、そういう世界で人が今日までたくさんのものを想像してきました。ですから、皆さんも、いつも神様に祈って、期待して、決して諦めないで、神様がしてくださることに期待しましょう。
私は小さい頃、忘れ物ばかりしている子どもでした。泣き虫で、運動が苦手な子どもでした。もっと頑張っておきたかったこともあります。50歳まで生きてきて、失敗も神様が受け止めてくださって、今ここにいます。もし、「恥ずかしい、悔しい、失敗した」と思う時があったら、いつでもここに来てください。その気持ちを聞かせてください。教会は、そういう私たちが、一緒におられる場所でありたいと思っています。
(実際の話とは違います)
聖書の「しっぱい学」
☀人は神さまではない
☀イエスは「しっぱい」のつらさを知っている。
☀神さまには失敗はない!
☀「うまくやる」より「たすけあう」がだいじ!!
☀ 神はすべてを最善にしてくださる