聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

夏期学校メッセージ(案) だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

2018-07-23 18:01:37 | 聖書

だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

 

 今年の夏期学校のメッセージテーマは「しっぱい」です。いつのまにか子どもの読書ランキングには「ざんねんないきもの」「失敗図鑑」「しくじり歴史人物伝」などが並んでいました。しかも、大人気!

 「しっぱい」なら聖書だって負けません。「聖書」は「聖人」ばかりが出て来て、美談や訓話が集められているかと思ったら、意外や意外。出て来る人は誰もが、ひと癖もふた癖もある人ばかりです。

・    神様との小さなたった一つの約束を破った…アダム

・    泥水…ノア

・    殺されると思い込んで、妻を「妹です」と偽って王様に差し出す…「信仰の父」アブラハム

・    兄のふりで父を騙して、二〇年も家出…ヤコブ

・    カッとなって人を殺し、四〇年後も石に八つ当たり…モーセ

・    戦勝して調子に乗って、次の敵に騙される…ヨシュア

・    怪力の秘密をばらしてつかまってしまう…サムソン

・    不安で二枚舌の嫉妬王サウル

・    不倫と隠蔽殺人…ダビデ王

・    燃え尽き症候群と鬱…エリヤ

・    行き過ぎた愛国主義…ヨナ

・    天使に反論…ザカリヤ

・    優柔不断…ニコデモ

・    相続財産を放蕩…放蕩息子

・    口を開けば順位争い…12弟子

・    ポピュリスト…ピラト

・    献金詐欺…アナニヤ夫妻

・    熱心すぎて悪役に…パウロ

 

※ 「失敗学」では、「失敗」の定義を「人間が関わったひとつの行為が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」としています。「望ましくない」と期待するのがだれか、によって「失敗」かどうかの判断も変わります。犯罪は、犯罪者から見るのと、被害者から見るのとでは全く逆の判断になります。その時は「失敗」と思ったものが、後には「失敗」とは評価できなくなることは多くあります(特にキリスト者はこの慰めを持っています)。ですから「失敗」とは「客観的な間違い」というよりも「自分にとって望ましくないという主観的な状況と真理」をどう扱うか、という問題です。 

 こんな例を見ていくと、そもそも人間を作った神様が大失敗したのでは?と思いそうです。もっとましな世界を造って、もうちょっと清らかな人を選べば良かったのではないか、と神様が疑わしくなります。世界は、神様の大失敗なのでしょうか?

 神様は、世界をお造りになる時、絶対に失敗のない「完璧な理想世界(ユートピア)」を作ることも出来たのかもしれません。間違うこともなく、神の命令に絶対服従する、ロボットのような人間を生み出すことも出来たのでしょう。けれども、それは神の方法ではありませんでした。神は「従わない選択」も出来る人間をお造りになりました。その結果、たくさんのざんねんな出来事が起こるとしても、ロボットより人間を作りたいと思われたのです。

 人間は神様ではありません。ですから出来ないことがあります。分からないことがあります。分かっても受け入れられないことがあります。分かったつもりで大きく勘違いしてしまうこともあります。そういう人間が一緒に暮らすと、もっと大変な事が沢山起きます。でも、神様は、そういう世界を造られました。失敗のない世界よりも、失敗の避けられない世界を造ることで、神様のご計画を果たそうとされたのです。

 「失敗学」によれば、「人間は必ず失敗する」のだそうです。人間は必ず失敗する。そのつもりで、ではどう準備していけば良いのかを考えるのです。聖書では端的にこれを「人間は神ではない」と言います。人間は神様ではないので、完璧ではないし、間違えます。だから失敗が悪いのではありません。神ではない人間が失敗したからと言って、神は責めません。「失敗するな」なんて「神になれ」に等しい無理な話です。「失敗しない」がゴールではなく、「失敗から逃げない」が大事なのです。

 ところが、神に背を向けた人間は、おかしなことに「神のようになりたがる」のです。失敗しない自分になりたいのです。『失敗学』の言い方では、「失敗から目を逸らして、隠したり、人のせいにしたりして、もっと大きな間違いをしてしまう」のです。

※「失敗」は三種類あります。

1.   織り込み済みの失敗。ある程度の損害やデメリットは承知の上での失敗。

2.   結果としての失敗。果敢なトライアルの結果としての失敗。

3.   回避可能であった失敗。ヒューマンエラーでの失敗。

 1.と2.の失敗は、「失敗は成功の元」となり得る失敗である。また、この2つの失敗については、状況・結果などがある程度予測できたり、経験からくる的確な判断で対処したりすることができる。

 3.の失敗は、失敗からさらなる悪循環が生まれる失敗である。予想しておけば回避可能であったにも関わらず、予想をしていなかったためにパニックに陥り、ますます、状況を悪くしてしまう。

「重要なのは、不可避である『いい失敗』から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで『悪い失敗』を最小限に抑えることである。失敗や事故が隠蔽され、教訓として生かされないまま同じことが繰り返されるなら、社会的な損失は計り知れない」。

Wikipedia「失敗学」 

 イエス様には、十二人の弟子がいました。そのリーダーは、ペテロでした。このペテロが、とてもおっちゃこちょいで、失敗だらけの人でした。頑固で、お調子者で、いばりたがってしまう人でした。いつも弟子たちとの間では「だれが一番偉いか」を話題にするのが好きだったみたいです。イエス様の弟子になったら、格好いいなぁ、イエス様が王様になったら、自分もその次に偉い大臣になりたいと思っていました。他の弟子たちも同じような思いがありましたが、ペテロもそうでした。

 ある時には、イエス様をたしなめて、間違いを教えて上げようとしたことがありました。それは逆にイエス様から厳しく叱られましたが、でもそんな間違いをしてしまうペテロをイエス様は愛されていました。ペテロという名前自体が、イエス様がつけられたあだ名でした。ペテロとは「石」という意味です。石頭とか頑固者、真っ直ぐだけど融通が利かない人ということでしょうか。でもイエス様はそんなペテロの性格もニックネームにしてしまうぐらい、おっちょこちょいのペテロが大好きだったのです。

※ キリスト教は「道徳」ではありませんが、クリスチャンには、なんでも「罪」のせいにしてしまう傾向もあります。しかし、神様から離れる前にも人間は限界を持っていました。つまり、失敗する存在だ、ということです。堕落という大失敗によって、罪は始まりましたが、その前から人は有限な存在でした。そして有限な人間が一緒に暮らすところ、必ず衝突やすれ違いが起きたでしょう。しかしそれは「罪」ではなく、受け入れ、乗り越えていけるチャンスだったのです。堕落以降始まったのは、人間としての限界を受け入れず「神のようになろう」とする行動や、限界に目をつむり「罪」として責める行動、また「恥」て隠蔽しようとする(結果もっと大きな問題を引き起こす)体質です。

 イエス様は、国の偉い人々から妬まれて、最後は捕まって、十字架に殺されました。その直前、イエス様はペテロに、「あなたも私から逃げていくけれど、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(参照、ルカ二二31以下)。

 ペテロは、自分は死んでもイエス様から離れたり、イエス様を知らないなんて絶対に言わないと断言しました。けれども、イエス様が捕まった時、ペテロは怖くなって、イエス様を見捨ててしまいました。「おまえもイエスの仲間だな」と笑われたら、必死になって何度も否定しました。ペテロは自分が絶対にしたくなかった大失敗をしたのです。でもイエス様は、そのペテロを責めることはしませんでした。ガッカリだとも言われませんでした。そうではなくて、失敗を経験することで、他の人を力づけて上げる人になることを願ってくださったのです。

 教会の最初のリーダー、ペテロは大失敗をした人です。なにしろイエスをたしなめたり、裏切ったりした人です。イエス様は、そのペテロを最初のリーダーにしました。ですから今でも、教会は自分の失敗を正直に認める場所です。安心して失敗して、それでも大丈夫だと、どんな時にも一緒にいてくださるイエス様を一緒に見上げていくのが教会なのです。

※ しかしペテロと同じように、懲りずに間違いを繰り返したり、自分の失敗を認めにくいのも、教会の一面です。失敗事例に学ぶ(逆演算)よりも、成功事例ばかり語りたがる面もあります(順演算)。そうした面にも正直に向き合って、教会の負の面を(「罪の問題」として「悔い改める」だけで解決と思うことなく)誠実に知っていくことは欠かせません。今も、私たちは何かしらしでかしているに違いないのですから…。

 神様は、私たちが神ではないから、沢山の失敗をしてしまうことをご存じです。そういう私たちが、助け合ったり励まし合ったりしていくことを願われるのです。失敗のない生き方ではなくて、助け合っていく世界を、神様は今も造っておられるのです。失敗だらけの人たちの話を聖書に載せることで、神様は私たちをどれほど愛しておられるかを教えて、励ましてくださっています。また、世界を見ると「ざんねんないきもの」や「へんないきもの」がたくさんいますが、人間も「へん」で、「ざんねん」なことをしてしまうものです。そういう人間が、だれも神様になろうとせず、いっしょに生きていけたら、楽しいじゃありませんか?

 最後に、皆さんに知って置いてほしいことを三つ、お話しします。

  1. だれでも失敗します。だから、失敗した人を馬鹿にしたり、自分は失敗したからダメだ、とは思わないでください。神様でない人間は必ず失敗するのです。大事なのは、失敗しないことではありません。失敗してしまう私たちが、一緒に、ワクワクできる世界を造っていくことです。
  2. 「助けて」と言える人になってください。自分一人で何とかしようと思わず、「手伝って」「助けて」と言えるようになりましょう。また、失敗が分かった時にも早く人に相談してください。隠そうとするのは一番マズいことです。正直に相談することが、失敗をカバーする最善の道です。
  3. 「失敗」と思うものも、正直に向き合うなら、神様は必ずそこからすばらしいことを始められます。イエスの御生涯も、最後は十字架に殺され、弟子たちは逃げていき、こんなざんねんな人はいないようでした。でもそれは、神様がどんなにこの世界を愛されているかの証しでした。この世界は神様の失敗作のようにも見えます。でも、そういう世界で人が今日までたくさんのものを想像してきました。ですから、皆さんも、いつも神様に祈って、期待して、決して諦めないで、神様がしてくださることに期待しましょう。

 

 私は小さい頃、忘れ物ばかりしている子どもでした。泣き虫で、運動が苦手な子どもでした。もっと頑張っておきたかったこともあります。50歳まで生きてきて、失敗も神様が受け止めてくださって、今ここにいます。もし、「恥ずかしい、悔しい、失敗した」と思う時があったら、いつでもここに来てください。その気持ちを聞かせてください。教会は、そういう私たちが、一緒におられる場所でありたいと思っています。

(実際の話とは違います)

 

聖書の「しっぱい学」

☀人は神さまではない

☀イエスは「しっぱい」のつらさを知っている。

☀神さまには失敗はない!

☀「うまくやる」より「たすけあう」がだいじ!!

☀ 神はすべてを最善にしてくださる

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士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

2018-07-23 17:58:01 | 一書説教

2018/7/22 士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

 今月の一書説教は聖書同盟の通読カレンダーに従って「士師記」です。ちょうど夕方からの夏期学校で「聖書はしくじり大図鑑」とお話しをします。子どもの本やテレビ番組でも「しくじり」「ざんねん」という切り口が多いことを聖書の切り口にもしてみようと思いましたが、士師記はまさに「ざんねんなヒーロー」たちのいた時代を取り上げている書です。

1.士師記の全体像

 週報にも書いたように、士師記は大きく、三つの部分に分けられます。一章二章が導入部、三~一六章が「さばきつかさ」十二人のエピソード[1]。名前だけ登場する人もいますので、詳しい活躍が分かるのは7人で半分ぐらい。しかし、理想的なヒーローは殆どいません。二番目の左利きのエフデがましなほうで、後は何かしら大失態を演じてしまいます。四章のバラクは、優柔不断で、結局ヤエルという女性が手柄を立ててしまいます。

 六章から八章は有名なギデオンですが、彼も最初は臆病で煮え切らない人でした。最後には大勝利を収めるもののその後がいけません。彼は偶像を作って人々に偶像崇拝の誘惑を与えてしまい、その上、大勢の妻を娶ります。彼が死ぬとその子の一人が他の兄弟大勢を皆殺しにして暴君になる[2]

 その後のエフタは、無謀な誓いをして娘を失う過ちを犯して、最後は自暴自棄になってしまいます。

 最後の怪力サムソンは一三章から四章かけて詳しく書かれていますが、怪力で活躍した合間に見せるのは何とも鼻持ちならず、身勝手で、いい加減で、依存症的な未熟さです。最後は美女の泣き落としで秘密をばらして怪力を失って、捕まってしまう。こんなさばきつかさばかりです。

 そして、三つ目の部分、一七章以下は、もうさばきつかさが登場さえせず、二つのとんでもない出来事が記されています。最後の段落の十七6には印象的な言葉があります。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

 これがそのまま士師記の最後、二一25で繰り返されます[3]。この言葉で士師記は結ばれるのです。王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた時代。それが、ヨシュア記で約束の地に入った後のイスラエル民族の見せた歩みでした。士師記の「さばきつかさ」は理想的なスーパーヒーローではありません。残念な人たちばかりです。「神が選ばれたのだからきっと素晴らしい英雄ばかりだろう」と期待したら見事に裏切られます。むしろ人間の弱さ、私たちの陥りやすい弱さ、その結果の悲惨さを、十分に現してくれる人たちなのです。

2.士師記のパターン

 問題なのはその士師(さばきつかさ)たちだけではありません。それは民全体の不信仰や問題を映し出す鏡に他なりません。今日読みました、二章の真ん中はこの後に繰り返されていくパターンを最初にまとめて書いている部分です。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、他の神々に仕える。それは主の怒りに触れて、主は敵がイスラエルを支配するのをお許しになり、民は苦しい思いをします。そうして民が呻いて主に助けを求めると、主は士師を起こしてくださって、敵の手から救ってくださる。民の生活は改善します。ところが、その士師が死ぬと、民はまた主から離れて、前よりももっとひどく道を踏み外し、他の神々に仕えて、それを拝む。主は怒られて、民を放っておかれる。苦しくなった民はまた主を求める。主は民を憐れんで、士師を送って下さる。助かった民はまた主に背いて行く…。

 士師記の中ではこのパターンが基本的に繰り返されるのです。反逆、自業自得、悔い改め、士師の登場、回復、また反逆…です。そういう民の軽さ、甘さ、性懲りもなさが士師記のループなのです。

 この繰り返しから学べることはいくつもあります。まず私たちは人間の愚かさをまざまざと見て謙虚にならざるを得ません。折角入った約束の地でイスラエルの民は、本当に情けない歩みをしました。神から祝福を豊かに戴いても、心に罪や自己中心、甘え、思い上がりがあって、台無しにしてしまうのです。単純な話、「クリスチャンになったから大丈夫」ではないのです。

 でもそういう愚かな人間を、神は決して諦めて捨てたりはしません。イスラエルの民が繰り返して背いても、主は呆れてしまわずに、士師を遣わして下さるのです。本当に何度でも、主は救い出してくださいます。限りなく憐れみ深いお方、何度でも助けてくださるお方です。

 ではそのような繰り返しだけでいいかと言えば、そんなことは士師記は言っていません。「失敗しても悔い改めたら神が助けてくださる」と思ったら大間違いです。もしこのパターンに乗っかって「苦しかったら悔い改めたらいいや」と横柄に構えて甘えたら、それは神の御心とは違います。神が救いを送って下さるのは、神が人間を憐れんでくださるから、赦して再び立ち上がらせて下さるためです。決して、このパターンが今も約束された「法則」なのではありません。士師記の中でもこのパターンは破られますし、神は真剣に人間に迫られるのです[4]。士師記は、神を捨てた民の殺伐とした、やりきれない現実で結ばれます。この「悔い改め・回復」というパターンでは人は悪くなるだけだ、ということを明示する書なのです。

3.本当の「さばきつかさ」であるイエス

 士師記はハッピーエンドでは終わりませんし、ルツ記、サムエル記と続いて、やがてキリストがおいでになる新約聖書に至ります。ですから士師記に答や慰めを無理に見出す必要はないのです[5]。やがて神がキリストを完全な王、全き士師として遣わされます。士師記は、

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

と強調していました。問題は王がいないことだと言われており、ただ「失敗しても悔い改めれば神が助けて下さる」というループでは本当の問題解決にはならなかったのです。この後、イスラエルは王を持つようになりますが、サウルもダビデも

「自分の目に良いと見えることを行う」

王で、旧約はまだまだ坂道を転がり落ちてゆく。でもその末に神が本当の王を遣わしてくださいます。それがイエス・キリストです。

 イエスこそ本当の王であり最高の士師でした。そしてどの士師とも違う士師でした。軍事的で戦闘的な王ではなく、平和的で民族や敵味方を和解させる王でした。力で人の生活を守るのではなく、人の心の闇を照らし、癒やしてくださるお方です。上から統治して掌握する代わりに、イエスは最も低くなって人間とともにおられ、最後には十字架に架けられ、嘲られて殺されました。ご自分の武勇伝を求めるより、私たち人間の一人一人にかけがえのない物語を与えて、その人生をご自分がともに歩む美しい物語に変えてくださいます。イエスという王が来られることで本当の意味で士師記は終わるのです。

 そのような大きな流れの中で読み直すと、士師記は本当に私たちの書だと思えます。坂道をゆっくり転がり落ちる士師記にも、随所で神が働いておられます。ギデオンもエフタもサムソンも、折角の士師の立場を生かし切れない残念な士師です。英雄になろうと背伸びして失敗してしまう。その士師記を読むことで私たちは、もう背伸びを止めよう、失敗のない生き方など目指さなくて良い、自分の限界を見据えてあるがままで生きようと思えます。

 私たちは間違う者です。限界を持つ不完全な存在で互いを必要として助け合い、互いの違いを理解し合い、ともに生きていく。それが主イエスが示された人のあり方です。それを忘れて背伸びをしたり突っ走ったりして失敗をし、時にはひどく悲惨な結果を引き起こしてしまう。そういうしくじりだらけなのが聖書の民であり、教会の歴史です。主は失敗してしまう士師や私たちを愛されて選ばれ、民の失敗をも益に変えてくださいます。取り返しのつかない間違いからさえ、神は新しいことを始めてくださいます[6]。それは私たちが失敗しないようになるためではありません。主イエスの御支配にとって大事なのは、一人一人が間違いなく生きるか、成功するかどうかではなく、主を信頼し、自分に正直になり、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うことです。

「私たちの裁き司である主よ。士師記を有難うございます。あなたが今も私たちの失敗を知り、世界の痛みとともに味わい、歴史を導かれている事を励まされて感謝します。主イエスこそ私たちの王です。どうぞ偽りや傲慢を捨て、失敗からも学ばせてください。恵みが世界を覆い、破綻が癒やされ、全ての失敗さえも手がかりとされる主の豊かな御支配を現してください」



[1] 「士師」とは広辞苑ではまず「中国古代の、刑をつかさどった官」と出て来る、官僚を充てた言葉です。新改訳では「さばきつかさ」としました。

[2] 9章。

[3] 19章1節も「イスラエルに王がいなかった時代のこと」と始まります。「王がいない」は、士師記の中心テーマです。後述します。

[4] 6章7-10節、また、10章全体。

[5] 士師記に希望が見えるのは、一つには士師記が終わった後のルツ記においてです。男達が好き放題に生きて滅茶滅茶にしている時代に、辺境のモアブやベツレヘムでルツやナオミ、女性達が何をしていたか、そこに神の慰めに満ちた御業が進んでいた、という所で、殺伐とした士師記も希望に移れます。

[6] また、もっと無名の女性や周辺での出来事にも主が目を留めてくださっていたことが分かります。特に、女性達が男性よりも強くて、男性達は目を覚まさせられます。

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はじめての教理問答6~10

2018-07-15 14:20:35 | はじめての教理問答

2018/7/15 「神はどんなお方?」詩篇19篇

はじめての教理問答6~10

 先週から新しく「はじめての教理問答」を開いてお話ししています。今日は、問6から10まで、特に神さまはどんなお方か、を確認するお話しです。

問6            真実の神さまはふたり以上いますか?

答 いいえ、真実の神さまはただひとりだけです。

問7 このひとりの神さまには、いくつの位格がありますか?

答 みっつの位格があります。

問8 神さまのみっつの位格とは、どなたとどなたですか?

答 父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまです。

問9 神さまは、どのようなものですか?

答 神さまは霊であり、ひとのような体を持っていません。

問10 神さまは、どこにいますか?

答 神さまはあらゆるところにいます。

 ここでは神さまってどんなお方かを言い表そうとしていますが、その前に、先週お話ししたのは、神さまが私たちも世界の全てをもお造りになった、と言うことです。世界を造られた神さま。その神さまは何人もいるのでしょうか。世界中には沢山の宗教や神さまが崇められています。そこで中には「宗教の数だけ、人の数だけ神さまはいるんだ」と言い切る人もいるのです。ですから

「真実の神さまは二人以上いますか? いいえ、真実の神さまはただ一人だけです」

という問をここではしています。そして、私たちにとっても本当の神さまはお一人です。人間が沢山の宗教を持っていようと、本当の神さまはただ一人。そう信じることはとても大事なことだと思います。

 しかし、そのお一人の神さまとは、私たちの理解には到底収まりきらない、偉大なお方です。私たちは、世界よりも大きな造り主の神さまを、到底この小さな頭の中で理解しきることは出来ません。神さまが、私たちには考えられないくらい偉大なお方だという事を忘れないようにしましょう。その最も典型的なことが、一人の神さまに、三つの「位格」がある、ということです。一人の中に、三つの神さまの位格がある。それは

「父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様」

の三つのお方です。これを「三位一体」と言います。父と子と聖霊なる神様、三つは別々ですが、神として一つ。神は一人であって、三人の神がおられるのではありませんが、父と子と聖霊と、三つの方がおられるのが神。それは私たちのこんな頭では到底理解できっこない、神の偉大さです。人はこんなふうに、三位一体を説明しようとしてきました。三角を使ったり、三つで一つのリングを考えたり、水と氷と水蒸気とか、色々な例を使った説明があります。

 けれども、どれも不十分です。世界の中のことでは説明できません。なぜなら、神はこの世界よりも大きな方ですから。そして、その大きな神がこの世界を造り、治めておられるのです。

 三角や水や味気ない譬えよりも、こちらのほうが三位一体のイメージとしては素敵です。

 説明しようとするよりも、父なる神が作られた世界、子なるキリストが地上でなされた御業や十字架、聖霊なる神様が今も人の中に働いて、私たちを生かし、慰め、導いてくださっていること。その父と子と聖霊がともに働いておられる神のお姿を、限りなく想像させてくれます。神様の豊かさを膨らませてくれます。

 神に対するイメージには二つの種類がある、と書いてある本がありました。一つは、世界を上から治めている神がいて、人間社会に時々口を出したり、介入したりしてくる神です。世界の上に立つ神です。世界の頂点におられる神、上から世界を支配している神。ピラミッドに象徴されます。一番上に君臨している王です。強く偉大な神ですが、しかし、恐ろしい気もします。

 もう一つは、その逆です。神が世界の下からいつも世界を支えておられる。人間が気づこうと気づくまいと、神は世界を一番下から支えておられて、世界を生かしておられるのです。そしてこの三角は、ピラミッドのように頂点から世界を牛耳る三角ではありません。三位一体の三角です。父と子と聖霊の神が、互いに結ばれて、一つに世界に働いておられるのです。三位一体の神が、世界を支えておられるのです。ひとりの神に三つの位格がある、というのは人間の理解を超えた神秘ですが、父と子と聖霊の神が一緒に世界を支えておられて、ともに私たちに命を下さっている、と考えるなら、神がもっと身近になります。神様が慕わしく思えます。

 今日読んだ詩篇19篇。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」

と始まりました。天、大空、そして宇宙も世界の全ても、神の栄光を僅かばかりですが、映し出しています。神の偉大さ、測り知れない大きさを、自然は豊かに表しています。それが続いて

「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ
主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。

それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく
 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い」。

 神の教え、神の言葉が、私たちの魂を生き返らせてくださる。神の言葉は、純金よりも蜂蜜よりも素晴らしい、と私たちの事にグッと引き寄せました。そしてそれが

「どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。
あなたのしもべを傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。」

と、私たちの心の奥に隠れた罪の願いにまで深くされました。天、大空から、私たちの隠れた思いにまで、神は働いてくださる。天の事だけにかまけている王ではなく、この世界の全てを支えて、どこにでもおられて、私たちの心の奥までも支えておられる。それが神です。そのような神だけが、ただ一人の真実の神である。そう私たちは信じています。

 この神は霊であって、体はありませんから、見ることが出来ません。それでも、どこにでもおられます。神はあらゆるところにおられます。神がおられないところはなく、いつでもどこでも神はおられます。神なくして存在するような場所はどこにもない。神はいつも私たちを支えておられます。その事を何よりも示してくれるのは、主イエスの御生涯です。

 イエスは、低くなり、小さくなり、私たち人間の中に来られました。人々の涙を拭われ、弟子たちの足を洗うほど低くなりました。罪を負って、十字架にかけられました。イエスは「わたしを見た者は父を見たのです」と言われました。三位一体の神がどんなお方か、イエスが仕えるお方であったことに最もよく現されています。私たちはこの神を信じています。だから、私たちも互いに仕え合い、生かし合うのです。

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使徒の働き二八章1-16節「親切と尊敬があれば」

2018-07-15 14:16:42 | 使徒の働き

2018/7/15 使徒の働き二八章1-16節「親切と尊敬があれば」

 「使徒の働き」最後の章です。嵐の地中海を2週間漂流して、最後には全員が無事に助かりました。その辿り着いた先がマルタ島で、そこでの顛末が少し書かれた上で、目的のローマに到着する流れになります。マルタ島は鳴門市の面積の二倍ほどの島で[1]、小説や映画でも知られていますが、今は絶景の観光地として売り出しています。その南に一節の海岸があります[2]

1.「人殺し」から「神様」に

 パウロたちは上陸した海岸で島の人々に助けられます。欄外に

「バルバロイ」

とありますが、バルバルとは日本語の「ベラベラ」みたいなもので、何を言っているのか分からない野蛮人を指す、蔑んだ差別的な言い回しです。ローマ帝国では野蛮人と蔑まれている人々が

「非常に親切にして」

くれました。雨や寒さの中、暖を取れるように火を焚いてくれました。276人の遭難者が暖を取れるためにはかなりの薪が必要でしょうが、その手間を惜しまないでくれました。

 そこでハプニングが起きます。3節でパウロが枯れ枝を一抱え集めて、火にくべると薪の中から蝮が這い出してきて、パウロの手にぶら下がったのです[3]。島の人々はこれを見て、

「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。」

と言いますが、しかしパウロが平気でいるのを見て考えを変え、

「この人は神様だ」

と言い出すのです。非常に親切な人たちでしたが、蛇に噛まれると「折角この嵐を助かったのに、それでも毒蛇に噛まれるなんて、よっぽど悪人に違いない」と決めつける。それが助かったら、今度は掌を返すように「この人は神様だ」と持ち上げる。似た事が前にもありました。14章のリステラでパウロたちの奇蹟を見て、「神々だ」と驚喜した人々が、直ぐ後でパウロに石を投げつけて殺そうとしました。ここでもパウロが毒蛇よりも強かったスゴイ奇蹟とか、そのために人々がパウロを崇めたから万歳、ではないのです。むしろ人は「あの人は人殺しだ」と言った舌の根も乾かぬうちに「神様だ」と言うものなのです。人の評価など聞き流して善い。聖書は単純な因果応報、何かあったらそれは何か原因があるに違いないと決めつける考え方から人を自由にします。

 パウロは過去に多くの信徒を殉教させた迫害者ですが、それでも神の恵みのゆえにこんな言葉を受け流せています。私たちも人の非難や賛美は気にしなくてよいのです。

2.深い尊敬を

 大事なのはその続きです。7節以下、島の長官プブリウス[4]がパウロたちを歓迎して親切にもてなしてくれました。彼の父親が病気で伏せっていたため、パウロはそこに行って手を置いて祈り、癒やしました。続いて島中の病人がやって来て癒やしてもらいました。そして人々はパウロたちに深い尊敬を払うようになり、三ヶ月後に船出する際は必需品を用意してくれる程の強く温かい関係が築かれていたのです。最初に「人殺しだ」とか「神様だ」とアップダウンした単純な見方から、病気を癒やされ、痛みを理解してくれたことで、もっと深く強い絆が始まったのです。パウロは島の人の病気を見て「きっと何かのせいだ」とは言いません。自分が言われたように「正義の神の裁きだ」と言ったり、悔い改めや改宗を求めず、癒やしたのです。

 この三ヶ月にパウロがマルタで伝道した様子はないし、尊敬は受けたけれども主イエスを信じた人があったとも書かれていません。パウロはこの島のバルバロイを「伝道対象者」とは見ませんでした。そうではなく、父親の所に行って手を置いて祈り、他の病人たちが来ても癒やしてあげた。その姿こそ、逆に尊敬になったのです。蝮に噛まれたのは人殺しだから、病気になったのは祟りがあるから、何か問題があると神が怒っているに違いない、そういう考えに人間は陥りがちです。パウロはそのような単純な発想から自由でした。相手が「野蛮人」であろうとその親切を感謝して受け取って、「人殺し」と言われようと「神様」と言われようとスルーして、病人がいれば行って手を置いて祈り、他の病人たちにもそうしました。

 もしそこでパウロが、これをチャンスとして癒やしのカリスマ的な力でカルト集団を作ろうと思えば出来たかもしれません。「蝮殺しのパウロ様」を人々は恐れたでしょう。でも、いくらそこに「深い尊敬」は築けなかったでしょう。

 先日オウム真理教の教祖たちが死刑を執行されました。宗教がどんなに魅力的で、スゴい奇蹟や預言や体験を提供できても、反対者への暴力を正当化するなら、それは最悪の宗教です。人の禍につけこんで、人をコントロールするような宗教はたとえキリスト教の看板を掲げていても、ない方がよいのです。イエス・キリストは正義の神でありつつ、人に天罰を与える神ではなく、人間の一人となって苦しみや痛みを味わわれ、病や孤独に苦しむ人の所に行き、手を触れ一緒に食事をし、仕えて希望を与えた。それがイエス・キリストでした。パウロはそのキリストの愛をもってここで人々と過ごしました。そしてその素朴な姿が、親切で善意に溢れてもまだ因習に囚われていた人々の中に、尊敬と交わりを呼び起こして、新しい交わりを生み出して、彼らはここを去ることになったのです。

3.勇気づけられた

 三ヶ月後、航海が安全になった頃に、パウロたちはマルタからシチリア島のシラクサを経由して、遂にイタリア半島に着き、ローマに到着します[5]。プテオリで一週間滞在したのは、ローマに彼らの到着を知らせたためでしょうか。15節でローマから兄弟(教会の信者)たちが迎えにやって来てくれました[6]。この時パウロは

「神に感謝し、勇気づけられた」

と言います。パウロは勇気づける立場だったのではないでしょうか。今まで弱気や緊張などは見せていませんでしたが、でも「勇気づけられた」という素直な言い回しです。ここでしか使われない言葉で、パウロのもらった力、特別な勇気を感じさせます。Ⅱコリントではパウロは教会の兄弟姉妹、諸問題、悩みを思う時に心が痛まずにはおれず、自分が弱くなると正直に告白しています[7]。だから「勇気づけられた」というのもパウロの実に素朴で、飾らない感情表現です。パウロは鉄の心臓で何にも動じない人ではありませんでした。人に勇気づけられる人でした。それも嵐の中のサバイバル体験でも、蝮にも負けない奇蹟や、人の病気を癒やして大勢の人が押し寄せてくるような出来事でも「勇気」にはなりませんでした。このローマから兄弟たちが何人か、自分を迎えにやって来てくれた、その単純な歓迎で、神に感謝し勇気づけられた、と言える人でした。言ってしまえば「淋しい人」かもしれません。でも、寂しさを恥じずに、「人から勇気もらった」って言えたらどんなに素晴らしいでしょう。カルトの教祖や諸団体のリーダーが自分の寂しさを認められたら、犯罪やテロなど起こさずに済んだのではないでしょうか。

 この時パウロを迎えに来たローマ教会も、八年程後、パウロが再び投獄された時、ローマの監獄でテモテへの手紙第二を書いた時には、パウロが囚人であることを恥じて、会いに来る事が少なかったようです[8]。教会のキリスト者の思いも、いつも愛や温かさがあるわけではなく、移ろうものです。自分たちの思いも、何かあれば揺れて消えるような感傷に過ぎません。でもその迎えでパウロは勇気をもらいました。また、マルタ島の人々が示した親切を受け取り、その尊敬を有り難く受け取りました。そういうパウロの影響が静かに、力強く証しされています。

 マルタ島の人々同様、今の私たちも、悪いことがあれば原因を探し、いい目を見た人がいればその人をヨイショしてしまいます。そういう言葉や考えは、人を結びつけません。親切を終わらせます。イエス・キリストはそのような単純すぎる見方から私たちを解放してくれました。私たちが蛇に噛まれたり嵐で全てを失ったりカルトに巻き込まれたりして苦しんでいるどんな人を見ても、何の役にも立たない憶測をやめることが出来たらどんなに世界は住みやすくなるでしょう。自分とは言葉も考えも通じない人にも小さな親切を与えて、その人の中に神を見て尊敬をすることを選べたら、イエス・キリストが新しいことをなさるお手伝いになるのです。

「私たちの旅路を導かれる主よ。嵐に流された先にも、あなたの新しい業が始まりました。私たちがあなたに導かれて出会う先々でも、あなたの命の御業がなさってください。互いに助け合い、不幸や奇蹟があってもなくても、互いに尊び合い、親切を尽くせる。寂しさも勇気も隠さず分かち合える。そういう主の御業を、今ここでも作るよう、私たちを新しくしてください」



[1] マルタ島の面積は246 km²。「マルタは地中海に浮かぶ諸島で、シチリア島と北アフリカ沿岸の間に位置します。ローマ人、ムーア人、マルタ騎士団、フランス人、イギリス人により支配されてきたこの国には、その一連の歴史に関する史跡が残っていることで有名です。たくさんの要塞、巨石神殿群が存在します。また紀元前 4000 年頃に造られた埋葬室と広間からなる複合的な地下建造物として有名なハルサフリエニの地下墳墓が残っています。」Wikipediaより。

[2] マルタ島の「St. Paul’s Beach」は現在も観光地の一つです。

[3] 新改訳は「かみついた」とし、新共同訳は「からみついて」としています。新共同訳の方が、直訳です。

[4] 「新改訳」では「ポプリオ」でしたが「新改訳2017」では「プブリウス」になりました。これはローマによくある名前ですが、有名なのは前4世紀の政治家前4世紀頃のローマの政治家。「4度執政官 (コンスル ) に就任。前 339年に最初のプレプス (平民) 出身の独裁官 (ディクタトル ) にもなっている。またプレプスのパトリキ (貴族) に対する社会的平等の闘争に画期的な3つの法制定に貢献している。その法は,(1) 戸口総監 (ケンソル ) 職がプレプスに開放されたこと。 (2) 平民会の投票がローマ国家全体に拘束力をもつようにしたこと (ホルテンシウス法制定への関与) 。 (3) 父権に基づく提案は,ケンツリア会に提出されるまでは形式上の承認にとどめたこと。彼は最初の法務官 (プラエトル ) にもなり (前 337) ,戸口総監として新しい部族マエキアとスカプチアの創設に助力し,前 327年の執政官のときにはネアポリス (現ナポリ) を包囲した。内政上では対立した保守派のアッピウス・クラウディウスの南進政策に協力した。」 コトバンクより。https://kotobank.jp/word/プブリウス-125682

[5] マルタに滞在していたアレクサンドリアの船については「その船首にはディオスクロイの飾りが付いていた」とあります。ディオスクロイは「神の子ら」、すなわちゼウス神の双子カストルとポルックスです。それは船旅の守り神の飾りでした。嵐の中を助かったキリスト者にとって、異教徒の「お守り」は皮肉な意味合いしか持ちませんが、しかし、パウロはそれを揶揄したりしません。なんとも不思議なこの挿入です。

[6] ローマからアピイ・フォルムまでは、64kmほどだそうです。

[7] Ⅱコリント十一28-29、十二9-10など。

[8] Ⅱテモテ一8、12、16-17。

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はじめての教理問答1~5 「あなたを作ったのはどなたですか?」エペソ1章3~12節

2018-07-09 16:06:18 | はじめての教理問答

2018/7/8 「あなたを作ったのはどなたですか?」エペソ1章3~12節

はじめての教理問答1~5

 今日から新しく「はじめての教理問答」というシリーズをお話しします。

今、長老教会の教育委員会で、子どもたちが聖書の真理をよく分かるようにしたいと取り組んでいるのが、この本です。一緒に読んでいきたいと思うのです。とても簡単に、分かりやすく、そして大切なことを、繰り返して味わって、神さまを賛美したいのです。全部で150問ありますが、短いので、今日は五つを見ていきましょう。

問1 あなたを作ったのはどなたですか。

答 神さまです。

問2 神さまはほかになにを作りましたか。

答 神さまはすべてのものを作りました。

 今日は、一番初めの基本的なこと、神さまは造り主です、ということです。「あなたを作ったのはどなたですか。神さまです」。いいや、私はお母さんから産まれてきましたって言われたらどうしましょう? それはそうですね。人間はお父さんとお母さんとがいて、お母さんから産まれてくるものです。また、神さまが私たちを生かしてくださっていますが、目に見えるのはご飯やそれを作る沢山の人たちだったり、植物や家畜、太陽や地球です。そういう科学と、神様を信じることとは時々ぶつかるように見えます。でも難しく考えなくて良いのです。この世界、お母さんから子どもが生まれたり、自然が巡り巡って食べ物をくれたり、生かし合ったりしている、このままの世界が、神がお造りになったものなのです。あなたを作ったのも神さまですし、すべてのものは神がお造りになったのです。世界は偶然に出来たのではなく、神がお造りになった、巨大な作品です。そして、その世界の中の、本当に本当に本当に小さい私たち人間も、一人一人が偶然に産まれたものではなくて、神さまがお造りになった、特別な存在なのです。

 今日の聖書の箇所には、こう書かれてありました。

エペソ一4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 神は世界をお造りになるより前、その土台を作るよりも先に、私たちを選んで、神の子どもとしようと決めておられました。神が世界をお造りになる時に、もう私たちを作る時を見ておられたなんて、信じがたい事ですが、聖書にはそう書かれています。それも私たちが神から離れても、イエス・キリストによって神の子どもになる、というのが神さまのご計画でした。そういうことを定めるような、神さまは愛のお方なのです。そして私たちがイエス・キリストによって神の子どもにされる時、私たちは神をほめ称えます。神が愛する子イエス・キリストを送って、私たちを神の子どもにしてくださった恵みを賛美せずにはおれません。問3でこう言われていました。

問3 神さまはなんのために、あなたをふくめ、すべてのものを作ったのですか? 答 ご自身の栄光のためです。

問4 どうすれば神さまの栄光をあらわすことができますか。 答 神さまを愛し、お命じになることをおこなうことです。

問5 どうして、神さまの栄光をあらわさなくてはならないのでしょう? 答 神さまがわたしを作り、やしなってくださるからです。

 神が私たちやこの世界をお造りになったのは、神の栄光のためです。その神の栄光とは、エペソ書では「恵みの栄光」と言われていたように、神が私たちを愛されて、神ご自身が愛する子イエスとともに私たちを神の子どもとしてくださるという栄光です。そういう神の愛や喜びが、この世界に現されています。私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、この神の愛を最もハッキリと伝えられています。神が私を愛して、全ての罪を赦して、私たちを神の子どもとして受け入れてくださるのです。

 そればかりではありません。この世界そのものが、その神がお造りになったもので、世界が神の栄光を現しています。

 世界を知れば知るほど、動物の不思議や宇宙の神秘に打たれます。神さまの想像力は豊かです。宇宙も海の生物も、人間、地球…まだまだたくさんの驚きがあります。ぜひ、世界を知ってください。ゲームやテレビやスマホよりももっと面白い世界が、現実です。そして、その世界に支えられ、生かし合っているなんて素晴らしいことです。私たちはこの宇宙の中で、世界とつながって存在しています。このとてつもない大きな世界の中に、神は私たち小さな人間を置かれました。そして、この私たちのために御子イエスが来て下さることによって、神の栄光は何よりも愛の栄光なのだと現してくださいました。

 だから、私たちがどうすれば神の栄光を現すことが出来るのか、といえば、私たちが神を愛し、神の命令にお従いすることによって、です。私たちが神を愛する時、それが神の栄光を現すことになるのです。大きなことやスゴイことをするのではなく、ただ神を愛し、神の愛を受け取る時に、それが私たちに出来る神の栄光の現し方なのです。「神の命令に従う」も、神が聖書において示して下さっている大切な命令の事ですから、自爆テロみたいな怖いことではないのです。

 神が私を作られ、世界を造られたと知る時、そして、世界がどれほどユニークで、大きくて、不思議かを知れば知るほど、私たちのために神が用意されている人生や役割にもワクワクしてきます。真面目に礼拝に来て、聖書を読んでいても、神を小さく堅苦しく考えるのは、つまらない生き方です。聖書を読む者は、神が作られた世界をも楽しみ、眺めて、神を称えるよう招かれています。神が愛されている一人一人を愛おしみ、これからも神が美しいご計画を用意されていると信じる。そしてもはや自分のためではなく神の栄光のために生きるのです。神がイエス・キリストによってご自身の子としてくださった皆さんを通して、神はどんな栄光を現されるでしょうか。皆さんにどんな人生を歩ませてくださるでしょうか。本当に楽しみにして、一緒に見て行きたいと思います。

 

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