聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」

2021-09-25 12:28:54 | 一書説教
2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」[1]

 旧約聖書で最も短いオバデヤ書です。新約のピレモン書が一番短く、ヨハネの手紙第一と第二も「章がない」書ですが、旧約で節だけなほど短いのはオバデヤ書だけです。オバデヤという人も不明です[2]。宛先は「エドム人」で、エルサレムが踏みにじられた後のことです。
10おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえを覆い、おまえは永遠に断たれる。
 エドム人が兄弟の災難の日に喜んでいることを非難するのです。でも、これがいつの災難なのかは、バビロンがエルサレムを陥落した紀元前六百年前後とするほか、いくつか候補があります[3]。この二頁少しの、イスラエルではなくエドム人に宛てた短い書が、しかし、あえて聖書の中にある。この事自体に、聖書の神の深い深い眼差しを、思い巡らしたいのです。

 ここに「兄弟」とあるように、エドム人は、イスラエル人の先祖ヤコブ(イスラエル)の兄エサウの子孫です[4]。兄弟も相続権を争ったりした複雑な関係で、その子孫たちも、衝突や[5]、同盟関係[6]、従属したり[7]、独立したり[8]などの確執が続いてきた「兄弟」です[9]。また、
3岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえを欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。
 エドムが高地に要塞を築いていましたが、それが国の精神においても「高慢」、自己欺瞞となっていました。9節までは、将来のエドムの没落が予告されます[10]。しかし、それは単に高慢だから打たれるという以上に、10節で実際の残酷さ、暴力が理由だと明言されていました。
11他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、…[11]

 そして
災難の日に    見ていてはならない
滅びの日に    喜んではならない
苦難の日に    大口をたたいてはならない
わざわいの日に  民の門に入ってはならない
破局の日に    禍を眺めていてはならない
破局の日に    財宝に手を伸ばしてはならない
         別れ道に立ちふさがってはならない
苦難の日に    生き残った者を引き離してはならない
と畳み掛けるのです[12]。

 ところで、このエルサレムの蹂躙の原因は何だったのでしょう。旧約の律法では、ユダが主に対して背いた罪への報いが真っ先に思い浮かびます。神に忠実であれば繁栄し、神に不忠実であればその報いを受けるという大原則がありました。そのような裁きを報われた時には、周辺諸国の人々も、無残なエルサレムの廃墟を見て「神の契約を捨てたからだ」と言うだろうとハッキリ予告されていました[13]。そしてイスラエルはずっとその契約に逆らい通しでした。だから、エドムがユダの滅びの日に、あれは自業自得だ、神の裁きだ、いい気味だ、少しぐらい奪っても悪いのはあいつらだと嘲っても神がお咎めになるでしょうか。そう、主は咎めるのです。たとえ本人の甚だしい罪の報いでも、それをあざ笑うならそれはあなたがたの罪となる。
15なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
 旧約の歴史で、エルサレムが踏みにじられて、民が追い出された時は、最も暗いどん底です。それはイスラエルが神を蔑ろにした結果でした。その後悔しても仕切れない、滅ぼされても仕方ない時、神は、それを責めるエドムを咎めて、神の民を庇われて、将来を語るのです。
17しかし、シオンの山[エルサレム]には、逃れの者がいるようになる。[14]
 今は廃墟でも、やがて「逃れの者」が帰って来る。主は尚もこの先に回復を用意されている。こう言われて止まない主、厳しい裁きに見えても決して憎まず、滅ぼさずに、そこからも新しいことをなさる神の業が約束されます。それを踏まえないで、虐めてもいいのだ、とばかりに振る舞う者に、主は激しく挑まれるのです。それがこの旧約で最も短いオバデヤ書の証しです。

 ではそのように思い上がってユダヤをあざ笑ったエドムは、滅ぼされて当然なのでしょうか。虐めっ子は、虐めたのだから、生涯「虐めっ子」という烙印を貼られても仕方ない。それが正義なのでしょうか。
 確かにこの書の通り、ユダヤはバビロンから帰還し、エドムは紀元前129年にユダに吸収されます[15]。ですから国家としてのエドムはありません。けれどエドム人はイドマヤ人と呼ばれて新約にも出て来ます。その一人はマタイ2章のヘロデ大王です[16]。そして、
エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。[17]
 イドマヤからもイエスの元に来る人々がいました[18]。

 オバデヤ書の結びはこうです。
21救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。
 ここに本当の「救う者」であり、神の国(王国)の福音を伝えたイエスを、私たちは重ねずにはおれません。イエスはシオンの山、エルサレムに上られました[19]。それは、神の子イエスが罪の罰を引き受けて、人を罪(歪んだ正義)から、神の生かす正義へと救うためでした。愛を壊す罪から救い出して、完全な回復へと私たちを導いてくださるさばきを現すためでした。
 この主が来られた世界の中に生かされているのです。それを忘れて、災難があれば更に塩を塗るように人を叩く、「バッシング」がいろんな形であります。私たちもつい本人が悪いように言って済まそうとします。けれど、親、先祖、過去を辿れば、誰も完全な人などいません。それでもこの世界を神が、正しく、罪の報いとそのどん底からの回復をくださるから、私たちはいきてゆけるのです。

 神が私たちに下さるのは、罪を責め続ける言葉や罪悪感ではなく、悔い改めと赦しの言葉と、再出発の希望です。それを支え、助け合う関係です。オバデヤ書は、そのイエスの正義を、どん底のユダヤをなじるエドムを非難する言葉に託して見せてくれます。

「主よ、この短いオバデヤ書をも聖書にいれずにはおれなかったあなたが、私たちの心の目も言葉も新しくしてください。あなたこそ王です。罪を逃さず報いるのも、その報いから必ず立ち上がらせ新しくしてくださるのも、王なるあなただけです。私たちの思い上がりを捨てさせ、言葉も思いも清めてください[20]。自分の罪を悔い改めるとともに、過去の過ちをなじることや、責める言葉ではない、主の真実な言葉を与えてください。御国がここに始まりますように」



[1] 不定期に続けています聖書の「一書説教」は、原則「みことばの光」の聖書通読表を参考にしていますが(http://www.sujp.org/SUpage.html)、今月はすでにお話しした歴代誌第二とローマ書、10月も既出のローマ書です。オバデヤ書は12月に予定されていますが、なにしろ短い書ですので、以前にスルーした書でもありますので、今月はオバデヤ書を取り上げます。他の資料として、聖書プロジェクト オバデヤ書平和台恵み教会 聖書66巻 オバデヤ書 尾張小牧教会「思いあがってはならない」オバデヤ書もご覧ください。

[2] 「オバデヤ」という名前は旧約聖書に延べ13名でてきますが、その誰ともこの預言書の著者を同一視することは困難です。いっそ象徴的な名前だ、イスラエル民族のことだ、とする説さえあります。

[3] 11~14節はいつか? ①レハブアム王治下、エジプト王シシャクによるもの(Ⅰ列王14:25-26)、②ヨラム王治下、ペリシテ人及びアラビア人によるもの(Ⅱ歴代21:16-17、参照Ⅱ列王8:20)、③ユダのヨアシュ王治下、アラム王ハザエルによるもの(Ⅱ列王12:17-18、Ⅱ歴代24:23-24)、④ユダのアマツヤ王治下、イスラエル王ヨアシュによるもの(Ⅱ列王14:13-14)、⑤アハズ王治下、アラムとイスラエル、ペリシテ、エドムによるもの(Ⅱ歴代28:5-18)、⑥前605-586年のネブカドネザル王によるもの(Ⅱ列王24:1以下)。②と⑥が最有力。②の場合、紀元前850年頃、⑥の場合、前586年頃。

[4] 創世記25章19節から、二人が母の胎にいる時の出来事に始まる、長い確執が綴られています。

[5] 民数記20章14節以下。

[6] 申命記23章7節「あなたはエドム人を忌み嫌ってはならない。これはあなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。」、また、Ⅱ列王3章9節「こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。」

[7] Ⅱサムエル記8章14節「彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」

[8] Ⅱ列王8章20~22節「ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。」、14章7節「アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」、Ⅱ歴代誌28章17節「エドム人も再び攻めて来て、ユダを打ち、捕虜を捕らえて行った。」

[9] Ⅰ列王記11章14節「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。」

[10] オバデヤ書4節「鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。――主のことば。」

[11] 「…おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」

[12] 「日」が、12節(*2)、13節(*3)、14節、15節と7度も繰り返されています。

[13] 申命記29章22~28節(後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る異国人は、その地の災害と、主がそこで起こされた病気を見て言うであろう。23その全土は硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔かれず、芽も出ず、草一本も生えなくなっていて、主が怒りと憤りでくつがえされた、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようなので、24すべての国々は言うであろう。「何のために、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい燃える怒りは何なのか。」25人々は言うであろう。「それは彼らが、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出したときに結ばれた契約を捨て、26彼らの知らない、また彼らに割り当てられたのでもない、ほかの神々のもとに行って仕え、それらを拝んだからだ。27それで主の怒りがこの地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいが、この地にもたらされたのだ。28主は怒りと憤りと激怒をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。」)、Ⅰ列王記9章6-9節(もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。8この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。9人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」、エレミヤ書2章8-9節「多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、主はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、9人々は、『彼らが、自分の髪、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」、など。

[14] 「…そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。」

[15] 詩篇137篇7節(主よ 思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ 破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。)、エゼキエル書25章(12~14節)、35章、アモス書1章6-9節、9章11-15節、参照。

[16] イエスを抹殺しようとした王であり、エルサレムの大神殿を建てた建築家でもあります。

[17] マルコ伝3章8節。

[18] 聖書の描くのは、「諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。(ヨハネ黙示録21章24節)」――すべての王たちが栄光を自分のものとせず、神の都に携えて来る将来です。

[19] もう一歩踏み込んでいうならば、イエスはシオンの山に上って、イドマヤ人の血を引くヘロデの前に立ったのでした。しかし、イエスはヘロデをさばくより、ヘロデの前で黙ったままでした。そして、ご自身がいのちを捧げることで、神の国を現されたのでした。

[20] 過去の刈り取りは、それ自体がなす。他者が罰を加えることは、報いではない。他者に求められるのは、自分の問題を顧みて、神の国を建て上げていくこと。

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2021/9/19 出エジプト記16章「天からの食べ物」こども聖書㉘

2021-09-18 13:34:12 | こども聖書
2021/9/19 出エジプト記16章「天からの食べ物」こども聖書㉘

 今から3,500年ほど前、エジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、神である主は解放させ、彼らは、エジプトから荒野を通る旅に出かけたのです。
出13:21~22 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

 神は見える形で、民とともにいてくださった。羨ましいですね。でも、彼らはそれで神様を信頼できた、とはなりませんでした。食べ物が、無くなってきたのです。そこで
16:2そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。3イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野から導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
なんという言い分でしょう。エジプトの奴隷生活で、肉鍋とかパンなんて滅多に無かったはずです。なのにこんな口を叩いて、神様の恩を踏みにじります。だけど、お腹が空くのは辛いですね。体の必要は、私たちにとってとても大事な基本です。腹ぺこや喉がカラカラだと心まで弱くなり、誘惑にも負けやすいのです。だからイエス様も、
「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください」
と祈るよう教えられました。私たちの生涯は日々神に養われて生かされる歩みです。

4主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。5六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」

 神は、民の不平に対して、食べ物を与えることによって、ご自身を示してくださいました。この夕方、早速神は、何十万人もいる民のために、肉を下さいました。
13すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。
 空から、沢山の鶉(うずら)が飛んできて、人々はその鶉を捕まえて、食べる事が出来ました。

また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。14その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。15イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。…

 これが、この後もその次の日も、そのまた次の日も、そのまた次の日も降りました。「これは何だろう」、ヘブル語で「マーン・フー」と言ったので、「マナ」と名づけました。

※ これに因んだマンナビスケット

 それなのに、翌朝まで取っておいたら、それは虫が湧いて臭くなりました。神は毎日毎日、食べるものを下さる。



 しかし、主は先に六日目は二倍だと仰っていました。
16:23…『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。…彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。
 六日目は2日分が与えられる。それは、七日目を休むためでした。神は、食事も休みも与えて、民の体も魂も養ってくださったのです。以前はそうではありませんでした。エジプトでは彼らは奴隷で、休みも与えられず、仕事を押しつけられていました。
5:5ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせよう(シャーバット)としているのだ。」
 そう言って、レンガを焼くための藁も与えず、燃料さえ自分で集めさせていました。そこから導き出してくださった本当の王、神である主は、労役を止めさせてくださった。この「止めさせる」から出来たのが「安息日(シャバット)」という言葉です。神は、働かなければ食べ物も与えられない奴隷生活を終わらせて、毎日、神がパンを与えて養い、疲れた者には休みを与えられる事を教えてくださいました。五日間、その日のパンが与えられ、六日目は倍を与えられ、七日目はマナが降らない。それが、イスラエルの民がこの後荒野を四十年、旅し続けた間、欠かすこと無くあった出来事でした。

 その終わりにあって、マナが与えられ続けた意味をこう振り返っています。

申命記8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

 雲の柱や火の柱があっても、民は不平を言いました。マナが降っていても、民は神を信頼せず、何度も逆らいました。今も、雲の柱やマナがなくても、神は私たちを導いて、私たちを生かしてくださっています。その事に信頼して、命と食べ物と休みを下さる主を信頼して、私たちも互いに生かし合い、休みを与え合う毎日毎週を重ねるのです。主イエス様は、このマナの教えを思い出させるようなことを仰いました。
マタイ6:31何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
 
 そして、イエスはご自分こそ、マナに勝るいのちのパンだと仰いました。

ヨハネ6:31 [ユダヤ人がイエスに言った]私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。…
35「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

「天の父なる神。荒野でマナを降らせて民を養われたように、私たちに日毎の糧を与え、休みをお恵み下さり有り難うございます。あなたこそ私たちの神、私たちの命です。どうぞあなたの豊かな養いの中で、旅を続けさせてください。私たちが互いの食べ物を奪い合い、休みを取り上げてしまうことがありませんよう。今、息詰まる思いをしている世界の私たちを憐れんでください。この日曜日、安息の日として覚えさせてください」
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2021/9/19 マタイ伝24章42~51節「賢いしもべのしあわせ」

2021-09-18 12:38:04 | マタイの福音書講解
2021/9/19 マタイ伝24章42~51節「賢いしもべのしあわせ」

42ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。…五13ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
 このよく似た注意を、イエスは繰り返されました。その間に夾んで、
43~44節で短い「泥棒の譬え」、
45~51節でもう少し長い譬え(賢いしもべ)を、そして、
25章1~12節で更にもう少し長い譬え(十人のおとめ)
を語ります。
 その後も
14~30節(タラントのたとえ)
31~46節(羊と山羊のたとえ)の二つの長い譬え。
 段々、長い譬えを重ねながら、弟子たち(私たち)に、
 「目を覚ました生き方」
を教えてくださっています。

43次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。44ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

 この24章の最初から、弟子たちが問うていたのは、この世の終わり、メシアが栄光を帯びてくる「終わりの日」はいつか、ということでした。これに対してのイエスの答は一貫しています。ここでもそれが言われます。「それは泥棒が何時に来るか、知っておこうとするようなものだ。そんなことは無理な要求だ。神の時は、私たちには思いがけない時。いつかはあなたがたには分からない。だから、いつかを知ろうとするより、いつでも良いように生きなさい」。これが、弟子たちや私たちが将来を予想しておきたい願いを終わらせる、イエスの終止符です。
 更に、二つ目の譬えで、弟子たちの心構えをイエスは思い描かせてくださいます。
45ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
 主人から任された、ケアの働きをしている、仕えているしもべは、主人がいつ帰ってきても大丈夫ですし、普段から忠実に仕事をしているからこそ、その忠実ぶりを見てもらえるのです。
48しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、49仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、50そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 このしもべの悪さは、主人の帰りが遅いなら、任せられた務め、他のしもべを大事にする働きなんかやりたくない、好き勝手に遊んでおこう、という「悪さ」です。主人の帰りが遅いだろうと高をくくっただけなら「運が悪かった」だけになりますが、そもそも主人に対する敬意とか同僚に対する思いやりを欠いて、自分の気の合う仲間と楽しくやる事が「幸せ」だと思っているのです。
 「偽善者」は23章で繰り返されていた非難で、そこでもお話ししたように、元の意味は「仮面」を被って誰かを演じる役者を表した言葉です。悪意がある、善人ぶるというより別の人を演じている生き方です。主人が帰って来たときには、忠実なしもべの仮面を被っていよう。でも普段は、そんな窮屈な仮面を外して、違う顔で生きているのです。
 主人が求めているのは、そんな主人向けの「良いしもべ」の演技ではありません。「忠実で賢いしもべ」も、主人にいい所を見せようとしていつも忠実なら、偽善です。自分が与えられた役割を、心を込めて丁寧にすることが、本当の忠実さです。もし、主人がいつ帰って来るか知れないから、という事が動機なら愚かですし、主人に対する敬意もありません。
 以前は「神さまがいつも見ているから、悪いことは止めましょう」と教えたり、そんなこども讃美歌もありましたが、そういう言い方は神様を歪んでとらえさせて、偽善を産むと反省されました[1]。主人を心から敬い、その主人に託された自分の使命は、それ自体、大変でも面倒くさくても、尊く意味のあること、やり甲斐ある事として果たすのが賢いしもべです。しもべの忠実さ賢さも、悪い偽善も、必ず相応しい報いを得るのです。そして、私たちにとって、主の帰りは、抜き打ち検査のようなものではなく、希望であり、待ちわびる喜びなのです。
 主は、私たち一人一人に大切な務めを任せてくださっています。皆さんのいのちを、神を礼拝し、主イエスの救いを戴き、主が再び来られる事を告白するだけでなく、互いに愛し合い、仕え合う尊いいのちとして与えてくださっています。主が見ているのは、日曜日に礼拝をして、神に対しての義務を果たしている、という神さま向けの仮面ではないのです。私たちの全生活が主のものであり、礼拝であり祝福なのです。
 私たちの素顔、本心を主は知り、その私たちに私たちの人生を任せてくださり、愛し仕える関係を与えて、神の業の一環を担わせてくださいます。決して完璧には出来なくて、汚れたり片付かないままだったり、逃げた方がいいこともあるでしょう。神の裁きが必要な、不正や偽善もあって、悔しく、苦しい思いもします。それも主はご存じでいてくださいます。そして、いつか私たちには思いがけない時に、この世界の歴史を終わらせるか、その前に私たちの人生を終わらせに来られ、労ってくださいます。

 明日は「敬老の日」です。高齢者の方は、主がおいでになる時を間近に思ったり、その日を思うと緊張したりされるでしょう。その日に、主にどんな顔をするか、より、今、主が下さった人生として受け止めることです。自分の歩みが人の目には不完全でも、主が私にお任せくださった人生である以上、祝福としてくださる。そう信じて生きる事が、最善の忠実な生き方です。いつ終わりが来るか、将来の予想に囚われず、今を主から託された時、主から託された自分の務めを忠実に果たす。そんな「目を覚ました」生き方を、イエスは与えてくださいます。

「私たちの主よ、あなたのしもべたちにそれぞれの人生を与え、あなたの家の一端を担わせてくださる光栄を覚えます。人の人生とは何と尊く、かけがえないものでしょう。どうぞ、これを蔑ろにしたり、踏みにじる罪を退けて、あなたの祝福を回復させてください。あなたが派遣して下さる今週の、すべての歩みを、悪い思いから守り、忠実に、賢く、果たさせてください。特に今日、敬老感謝の祈りで覚えましたお一人お一人の上に、重ねて祝福をお注ぎください」

脚注:

[1] 報酬が、その作業自体へのやる気を損なう事については、「外発的動機付け」と言われる心理学の理論があります。パズルというそれ自体面白いものを、「この時間、パズルをしていたらご褒美がある」と言われたら、「休憩時間」にはパズルをほとんどしなくなる、という実験があります。「神が見ておられる」という動機付けは、間違ってしまうと、神から与えられた人生そのものを祝福として受け取れないことに繋がることにもなるのです。詳しくは、「終わったらゲームして良いよ」という一言が導く恐ろしい未来 を参照。

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2021/9/12 マタイ伝24章32~44節「未来は予測できないもの」

2021-09-11 12:23:24 | マタイの福音書講解
2021/9/12 マタイ伝24章32~44節「未来は予測できないもの」

 教会の無花果(いちじく)が元気で、夏から葉と実を茂らせています。マタイの福音書の後半は、春の過越の祭を背景にしていますので、この頃はまだ、葉さえ無花果には出ていないのが通常です[1]。その枝ばかりの無花果を見させながら、イエスは私たちが今の時を生きる知恵を示します。
32いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。33同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは[人の子が]戸口まで近づいていることを知りなさい。
 「これらのこと」とは4節からずっと語ってきた、キリストを名乗る者が現れたり、戦争や飢饉や地震、また迫害や神殿が汚されることなどでしょう。弟子たちは、世が終わる時のしるしを知りたいと尋ねましたが[2]、イエスは一貫して、そのような出来事に惑わされるな、どんな災害や危機も、起こるべくして起きることだと答えました。
 また33節の「人の子が」には欄外に「あるいは「そのことが」」とあるように、何が近づいているのかは省略された文です。何が近づいているかより、ああ近づいているのだ、春が夏になるように、今の時代もやがて終わるのだと知る[3]。そう仰っています。無花果の新芽に「今年も夏が近くなってきた」と思い起こし、その前には麦の収穫があり、その先には実りの秋が来る。やがて必ず来る収穫に、備える。そのように、戦争や偽キリストや地震があって、世間が「世紀末だ」と口々に言っていても動じることはない。「ああ、予定通り、次の季節が近づいている」と思い出せばいい。

34まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

 言い換えれば、あらゆる災害は必ず起きて、この時代は過ぎ去るのです。私たちは生活の安定や健康や家族の安全が、合って当たり前のように思いたいのです(それは自然なことです)。過去を振り返れば分かるように、生活は変わり、病気や老いとつき合いながらの人生を、それぞれが歩んでいるのです。
「私たちは「生の真っ只中で死にそうだ」と言うが、実は「死の真っ只中で生かされているのだ」[4]
という言葉をよく思い出します。生きているのが当たり前、ではなくて、生かされていることは奇蹟であり、色々な事が起こり、この時代も過ぎ去る。
35天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません[5]。

 天地という今の住まいは、やがては過ぎ去る「仮小屋」です。大きな災いに驚いたり、惑わす声に揺れたりする度に、それを思い起こすのです。やがて、その戸口が開き、私たちの世界そのものが大きく変わります。それは、決して消え去ることのない主の言葉の世界です。主の言葉こそが、すべてを治めている世界に生かされるのです。
36ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 どんな出来事も「終末のしるし」ではない、と言って来た言葉から更に踏み込んで、その日その時は誰も知らない、と明言されます。「子も知らない」を、では全知全能ではない、神ではないのかと疑うよりも、イエスは神でありながら、正真正銘の人間になった、という以上、何かしらの制限は受けられたのです。それは、イエスを小さく引き下げるのとは逆の、計り知れない神秘です。ご自分が再びこの世界に来ることの当事者(主役!)であるのに、それがいつかを自分は与(あずか)り知らない、ただ父だけがご存じだ、と平然としている。任せきっています。父を信頼しきっているのです。ですから私たちも、そのイエスに倣う。その時を占おう、未来を知ろうとするよりも、父なる神がご存じの「時」にお任せして、この仮小屋での生活を整える。それが、その主をお迎えするのに、最もふさわしい過ごし方に他なりませんね。

 この事を37節以降、創世記の「ノアの大洪水」を引き合いにします[6]。洪水が来ることは、前もって伝えられていたのです。箱舟の建造も何十年もかかり、完成していく大きな箱舟も見えました。それでも「洪水など来ない」と、食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていた所に洪水が来ました。それと同じです。40節41節は、畑仕事や臼挽きをしている時、本当に日常の生活が「そのとき」になる様子です。二人の一人が「取られ」、一人が「残されます」。直前の洪水がすべての人を「さらってしまう」の続きで「一人は取られ」ですから[7]、「残る」方が主の民なのでしょう[8]。いずれにせよ、大事なのは思いがけなさです。その時は分からない。
42ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。

 災いを見れば、「そうだ、この天地は揺さぶられつつやがて消え去る小屋だ。主が戸を開けて永遠を始められるのだ」と思い、日常生活では「今日主がおいでになるかも知れない」と思い起こす[9]。それが、「目を覚ましていなさい」と言われる生き方で、この後詳述されるのです。

 この箇所は、無花果を初め、「食べたり飲んだり」が沢山です! 畑も臼も食に関わりますし、45節からも「食事時に彼らに食事を与える」とあります。主人の帰りを弁えない飲み食いは警告されていますが、食事そのものを慎め、ではありません。食べる事飲むこと、畑や臼挽き、今しているそれぞれの仕事。その日常に、主は来られるのです。特別に再臨待望集会をしたり、主のおいでを周囲に警告して待つのではないのです。むしろ、私たちが誰かと畑や臼挽きの仕事をしたり、結婚し、食事をしたり、普段の生活をしている時に、主は来られるのです。そう思う時、私たちの仕事も、家事も、食事も、なんと尊いものに思えるでしょう。そのような主の約束の言葉をもって、ともに働き、一日一日を生きるのです。将来を占おうとするより、今ここでの生活を尊び、食べる時も飲む時も、主を思う。そういう「目を覚まし」た生き方を、主は始めてくださるのです。

「王の王である主よ。あなたのおいでを待って、二千年になろうとしています。この先、何年、何千年、あるいは明日か、数時間後か。それはあなたも父にお委ねしている事ですから、どうぞ私たちも一日一日を大事にさせてください。あなたは、ご自身を迎える格別な準備を求めるより、日常に来られる方です。私たちの仕事や家事や飲食、介護や普段が、どれほど尊いかを改めて思います。王なるあなたのお帰りを心に刻み、目を覚ました生き方をなさせてください」

[1] だからこそ、イエスは実を期待したのだ。マタイ伝21章19節「道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」

[2] マタイ伝24章3節。

[3] 33節の「知りなさい」は、命令形とも直説法とも訳せます。23~31節までの教えとの兼ね合いからしても「しるしを見分ける」というより、もっと自然に主の近さ(時間的近さではなく、距離的近さ)を思い出すようにと言われているはずです。

[4] 宗教改革者マルチン・ルターの言葉です。

[5] 「この時代は過ぎ去る」も「天地は消え去る」も、同じ動詞パレルコマイで、未来形・中態です。将来、消え去ってしまう、運命的なニュアンスがあります。これに対して、「わたしのことばは決して消え去ることがありません」は、不定過去の能動態です。みことばそのもののの能動的な生命力を感じさせます。

[6] 37節の冒頭には、接続詞「ガルなぜなら」があり、36節との結びつきを現しています。創世記6章~9章を参照。

[7] ただし、40節の「一人は取られパラランバノー、一人は残されるアフィエーミ」 39節の「さらって」はアイロー。「取られ」が、不信者を(ノアの洪水のように)一掃するのか、信者を(揭挙と信じられているように)天に引き上げるのか、は問題にしていない。人の子が来た時には、この世界は終わり、両者とも地上の生涯を閉じるのだから。

[8] 次の「忠実で賢いしもべ」の譬えも、家に残るのは良いしもべです。「信仰者だけが世界から突然いなくなって、天に引き上げられて、滅びる者だけが残される」という「空中揭挙」という教理を信じる教派があります。映画「レフトビハインド」などがそんな理解を演繹したフィクション(ホラー)で見ることが出来ます。そのような立場の人々は、今日のこの部分をその「空中揭挙」という教理に当てはめる解釈します。しかしそのような読み方は、本章そのものからの釈義からは、大きくかけ離れています。

[9] 「人間の状態においては、並外れた災いと通常の生活が交代で訪れる。信仰者にとっては、前者は終わりを指し示し、後者はその思いがけなさを警告する。」 Carson, Matthew, 917/1072

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2021/9/5 マタイ伝24章23~31節「稲妻のようにハッキリと」

2021-09-04 11:53:34 | マタイの福音書講解
2021/9/5 マタイ伝24章23~31節「稲妻のようにハッキリと」

 毎週礼拝で唱和する使徒信条は、キリスト教会の最も古い信仰告白文です[1]。その中で、イエス・キリストが
「父なる神の右に座…より来たりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」
と信ず、というように、キリストはもう一度この世界に来られて、世界を正しく裁かれます。それが、いつか、もうすぐだ、と煽る出来事には、一切耳を貸す必要はありません。
23そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。24偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。

 「大きな苦難」があると「もう世の終わりじゃないか、どうやらキリストが来られたらしいぞ、その証拠にこんな不思議が起こっている。これは世の終わり、キリストが来られたしるしとしか思えない…」。そんな言葉がまことしやかに飛び交っても、信じてはいけないと仰って、
25いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
と、念を押されるのです。

 この後、紀元70年のエルサレム陥落でも中世でも、千年の節目や宗教改革の急進派でも「再臨のメシア」を名乗り大勢の人が付き従う運動が起きました。日本でも自称「再臨のイエス」を中心にする団体はいくつも思い浮かびます[2]。だからイエスは念を押して言われるのです。「キリストがもうおいでになった」と言われたら、それ自体が、「ああ、イエスが仰っていたのはこれだ。これこそ偽者の証拠だ」と思ってよいのです。

27人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。

 私は雷ウォッチャーなので、稲妻が東から西まで届くなんて、見たことも無いほどスゴい稲妻なのか、いや、東で光った稲妻で西の空も明るくなることなのか、なんて点が気になります。大抵の方が雷は嫌いでしょうが、雷は光と電気と音のこと、稲光は光だけのことです。ここではキリストの再臨は雷みたいに怖い、ではなく、稲妻が空をハッキリ照らすようにキリストが来たら明らかに分かる、というのです[3]。誰から教えられるまでもなく、わざわざ会いに行かなければ取り残されることもない。稲妻が空を照らするように、イエスが来られたらハッキリ分かる。だから「ここにキリストがいる。あそこにいる」と言われても信じなくて良いのです。
28死体のあるところには、禿鷹が集まります。
 「ここにキリストが」とか、大きなしるしや不思議に大勢の人が惑わされて雪崩打っても、「知らない人が集まっているだけ、死体には禿鷹が群がるものだ」と思えばいいのですね[4]。

29そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり[5]、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。[6]
 キリストがおいでになるのが稲妻のようにハッキリ分かる、ということが言い換えられます。
30そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ[7]、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
 「しるし」は「旗・軍旗」という使われ方がされた言葉だそうです。人の子の「旗印」が掲げられる。ここには「人の子[8]」を初め、旧約聖書に出てくる言い回しが沢山あります。特に「旗印」と「ラッパ(角笛)[9]」は「神の民がすべて集められる」という約束とセットでした[10]。そう、太陽も月も星も暗くなる中、キリストの旗印が現れて、その民を集めてくださるのです。
31人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
 稲妻が天を東から西まで照らすのは、全地の人々を竦(すく)み上がらせるためではありません。東西南北の果て、天の四方、世界の隅々までご自分の民を集めるためです[11]。世界の片隅の人も見落とされないし、「知らなかったから取り残される人」などおらず、集めてくださるのです。それが
「人の子のしるしが天に現れる」
ということです。
 だから今ここでどんな天変地異や世界がひっくり返るような出来事が起きても、「どうしてこんな事が。何か神の警告なんじゃ」と慌てて、ますます不安にならなくてよいのです。大きなしるしや不思議を見せられても、説明できなくても良いのです[12]。「もしこれが本当だったら、これを信じなかったら救われないんじゃないだろうか」などという不安とは、主イエスというお方は正反対です。

25いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
 本当にこの言葉を心に留めましょう。この時から二千年、何度も何度も、争いや病気や災害や人災が起き、そのたびに絶望に襲われ、聖書の言葉さえ用いて、不安に拍車を掛けることが起きて来ました。主はそうした私たちの悲しみをご存じです。その不安につけ込んで自分の方に引きずり込もうとする宗教とは違い、ともに悲しみ、ご自身の悲しみとされるお方です[13]。いや、たとえ私たちが言葉巧みな詐欺に引っかかって大きく道を外れてしまっても、イエスは世界の果てから私たちを集めてくださるお方です。そこまで信頼することが出来るのです。

 イエスは本当に憐れみ深く、信頼するに足るお方。私たちはその方が来られ、私たちを集めてくださることを待ち望んでいます。そして「主が来られる」と信じるからこそ、どんな不思議や恐れの中でも、世の終わりだとかさばきだという言葉で悩まなくてよいのです。どんな時も、急ごしらえで主に会う備えに力を使うよりも、祈りつつ、礼拝しつつ、その心が騒ぐ現実に対応すれば良い。「なぜこんな事が起きたか」より「今何をすることが主にならう事か」を考えればいい。これは本当に深い幸いです。主の助けと憐れみを祈りつつ、力と愛と知恵を戴きながら、今そこで出来ることをさせていただく。そういうキリスト者の姿勢によって、主はこの世界を照らされます。まやかしに走りかける人たちを守り、助けさせてくださるのです[14]。

「主よ、あなたが偉大な力と栄光とともに来られる日に、今日も1日を積み重ねています。不安に疲れ、暗くなる心に、あなたの光が今も閃きますように。あなたの良き御力と、確かで計り知れない約束を覚えさせてください。疑いや不安を駆り立てる惑わしからお救いください。私たち自身の思いや言葉も整えて、あなたへの信頼と感謝に根ざすものとなりますように。また、あなたの深い悲しみ、あわれみが、今私たちの心となり、生き方となりますように」

[1] 「使徒信条」はローマの教会で2世紀に使用されていたもので、西方教会では最も古いものです。その後、4世紀に、東方教会と西方教会との総会議において「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」がまとめられました。これが全キリスト教会全体に共有されている信仰告白文ですが、それより短い使徒信条を用いている教会も、プロテスタント教会には少なくないようです。

[2] 「イエスの方舟」や、オウム真理教、「幸福の科学」など。

[3] 「黒い雲が広がった真っ暗な空を見ていると、一瞬空が明るくなり、その後に「ゴロゴロ」と大きな音を立てて雷が光るのを確認できます。まさに、その「ゴロゴロ」と雷鳴を轟かせながら放電する自然現象のことを「雷」と呼びます。一方、雷が地面に向かって落ちる際の光の筋が「稲妻」です。稲妻はあくまでも「光」自体を指し、音を伴わないのが特徴です。」雷と稲妻の違い

[4] 勿論、そういう偽キリストが現れた事自体が「終末のしるし」でもありません。

[5] 29節「太陽は暗くなり」イザヤ13:10(天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。)、24:23(月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。)、エゼキエル32:7(あなたが吹き消されるとき、わたしは空をおおい、星を暗くする。太陽を雲でおおい、月が光を放たないようにする。8わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地を闇でおおう。──神である主のことば──)、ヨエル2:10(地はその前で震え、天も揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。)、2:31(主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。)、3:15(太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。)、アモス5:20(主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。)、8:9(その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。)、ゼパニヤ1:15(その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、16角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。)

[6] 「星は天から落ち」 イザヤ34:4(天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。)

[7] 「胸をたたいて悲しみ」コプトー 11:17(『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』)、21:8(すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。)とここ。マタイでは三回。黙示録1:7、18:9。また、この語は、預言書を背景にしています。ゼカリヤ12:10-14「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。11その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。12この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く14残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」「地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ」キリスト者は嘆きを免れるのでしょうか? いや、私たちも神を人の子を見て、その悲しみに、胸を引き裂かれる思いをするのではないでしょうか。心を麻痺させて閉じて、悲しみや痛みを避けてきたことを、深く取り扱われて、嘆く心を取り戻すのでも無いでしょうか。その方が来られる時、地のすべての部族は「胸を叩いて悲しむ」のです。恐怖とか後悔とかでなく、深く悲しむ心を呼び覚まされる。イエスがどんなにこの世界の痛みを嘆いておられたか、世界の隅々の破れをご自身に担ってくださっていたかを知る時、まず私たちキリスト者こそ、胸を叩いて悲しみたいと思うのです。

[8] ダニエル書7章13節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」

[9] 「人の子は大きなラッパの響きとともに」エレミヤ32:37(「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。)、イザヤ27:13(その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われていた者や、エジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。)、エゼキエル36:24(主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。)。27節 ゼカリヤ9:14「主は彼らの上に現れ、その矢は稲妻のように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。」

[10] 「しるし」は、イエスが来る前のしるしというより、イエスが来られて、ラッパ(角笛)の音とともにすべてのご自身の民を集める、というしるし。D. A. Carson, Matthew (The Expositor’s Bible Commentary), p910/1072。そこで引用されている聖書箇所は、以下の通りです。イザヤ11章12節(主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。)、18章3節(世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗が揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。)、27章13節(その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われていた者や、エジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。)、49章22節(「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。)、エレミヤ書4章21節(いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。)、6章1節(ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。)、51章27節(この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。)

[11] 「天の果てから果てまで四方から」 四つの風から、天の一方の端から他方まで。東から西と似ている。主イエスが稲妻のように現れる、という以上に、選んだ民を東から西まで、集めてくださる。エゼキエル書37章9節(そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」)、ダニエル書8章8節(この雄やぎは非常に高ぶったが、強くなったときにその大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、際立った四本の角が生え出て来た。)、11章4節(しかし彼が起こったとき、その国は崩壊し、天の四方に向けて分割される。その国は彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなくなる。彼の国は根こそぎにされ、その子孫以外の者のものとなる。)

[12] ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器 なぜ人は動かされるのか』でも第7章「希少性 わずかなものについての法則」で述べられるように、人間は「こっそり教える」に弱いのです。

[13] イザヤ書53章3節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

[14] 私たちが「選ばれた者」であるのは、他の人が「捨てられた」という結論に一足飛びにはいきません。聖書の契約によれば、神の「選び」は、その人々を通して世界が祝福されるためです。

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