2019/9/1 Ⅰペテロ書1章8~13節「預言者たちが語ったこと 聖書の全体像25」[1]
「預言者」。聖書には「預言者」が登場し、「預言書」が十六巻あります。この「預言」は、未来の出来事を予(あらかじ)め話した「予言」ではなく、神から預かった言葉を伝えた「預言」です[2]。聖書には将来の出来事を予告する内容の預言もありますが、それ以上に大事なのは、書かれた当時の人たちに対して、神が何を語り、何を願っているか、を聞き取ることです。そういう預言の趣旨を見失ったまま、謎めいた言葉の秘密を解き明かそうなどと企んでも見当違いなだけです。大事なのは、神が預言者を通して、人間に何を語り、どんな生き方を求めているのかを知ることで、それが今の自分たちにどう当てはまるのかが分かれば従う事、なのです。[3]
聖書の「預言者」と言っても役割は時代で違いました。最初に預言者と呼ばれるのはアブラハムで[4]、モーセや兄や姉も預言者と呼ばれます[5]。彼らは「神託を民に語る使命に専念した人」というより、神との親しい関係にいた指導者でした[6]。
時代が下って士師記の頃には、預言者の団体がいたり[7]、ダビデ王の周辺にもナタンやガド[8]といった預言者がいますが、これは地域の助言役とか聖歌隊のような楽団で、職業預言者と呼ばれます[9]。
注目したいのはその後です。活発な預言者活動が集中しています。王国が分裂し、最終的にはバビロン捕囚に至るまでの三百年に、エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤが活躍し、多くの預言書が書かれます。そして七十年後に戻ってきたけれども、かつての栄光とは程遠くて意気消沈する時代に、最後の預言者活動がありました。預言は、それを聴くに相応しい敬虔な時代ではなく、最も神から離れ、真っ暗だった時代に最も語られたのです。預言者の活発な活動は、神の憐れみの激しさでした。
もう一度、聖書の物語の流れを思い返してみましょう。神がこの素晴らしい世界を創造された時、神には大きなご計画がありました。人間が神との約束に従わなかった後も、神は最初からエバにもノアにもアブラハム、モーセやダビデを通して、神の良いご計画を少しずつ明らかにしてくださいました。将来、永遠の王が来ること、世界の民に祝福が及ぶこと、安心して住まう国といった幻を下さっていました。それだけでなく、その時その時に、将来の約束を垣間見るような現実の恵みも下さっていました[10]。それなのにイスラエルの民はどうしたでしょう。その約束を脇に置いて、今の生活が他の国のように豊かになることを願って、神ならぬものを礼拝して慕い求め、人の痛みを封じる社会を造ったのです。主の約束を待ち望むことを忘れ、主が語っておられた平和とは違う、自分たちの楽園を欲しがったのです。そのために不正や差別も横行しました。奴隷生活であったエジプトから救われたのに、人はその場所で人を尊厳をもって人間扱いせず、奴隷のように使う社会を造り、人が人として感じる痛みや苦しみに耳をかしません。そんな社会、神の幻とは違う支配が旧約の最後の時代が現す、人の罪の姿です。
その時、神はどうしたでしょうか。神は預言者を他の時代以上に送ってくださったのです。彼らの罪を指摘して、虐げられている人たちの叫びを神は聴いておられることを訴えました。時代時代に応じたユニークな方法で、後の時代の私たちには意味不明な表現さえ用いて、神は尚も熱く語りかけてくださいました。背信の北イスラエルにさえ、エリヤやエリシャが大きな奇跡をして語りかけました。神は、背かれても、尚も真剣であること、そして希望を用意しておられ、キリストを送ること、その備えをするようにと呼びかけ続けたのです。そうして旧約時代は終わり、四百年の沈黙の後、預言していた方、キリストが本当に来られたのです。
今日のⅠペテロ1章では、ペテロはイエス・キリストにある「栄えに満ちた喜び」を語っていました。それはイエス・キリストによって「たましいの救い」を得ているからで、
1:10この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。11彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。12彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです…。
かつての預言者たちが見る事を悲願とした言葉がついに満を持して成就して、あなたがたはキリストの救いをもう成就したものとして聞いている。そういう素晴らしい救いなのです[11]。ここで、預言者の働きを
「キリストの苦難とそれに続く栄光を証しした」
と書かれています。私たちはキリストが既に来られて、苦しみを受けた事を知っています。そこからよみがえった事と、今は神の右に座して治めおり、やがてもう一度来られて、栄光の支配を完成される事を知っています。「既に」と「やがて」の間にいます。預言者たちはどちらも「やがて」でした。ですから、本当は二つの山が重なって一つに見えるように、キリストの苦しみと支配とを語りました。私たちは「既に」と「やがて」を知っていますから、混乱していると思いますが、預言者の時代にとってはまだ「やがて」なので良いのです。かえって、それによって神がこの世界とともに苦しむ神であることが強く浮き彫りにされるのです。
預言者はその当時の社会の問題を指摘して、抑圧された人々の声を代弁します。それは罪の非難というよりも、罪のもたらす苦しみを聴き上げ、人の痛みをすくい取り、一緒に嘆いている嘆きなのです。神がこの世界の苦しみをご自身の苦しみとして叫び、悲しみ、問いかけている言葉です。ブルッゲマンという旧約学者は『預言者の想像力』という本で、預言者の働きを、嘆く力を回復することだと述べます[12]。社会の追いやられた声、封じられた悲しみを預言者は汲み取り、さらけ出して、聴き手の心に、嘆きを嘆く想像力を呼び覚まそうとしました[13]。問題を封じて、平気なふりを求めて、表面上の穏やかな社会に満足するのではなく、本当に人の心が癒やされ、慰められ、作り物でない喜びで生きる在り方を、預言者たちは神の幻として告げました。どんな理由があろうと、どんな人だろうと、神は最も小さな叫び、声にならない呻きさえ、すべて聴かれる方なのです。貧しかろうと、育ちが悪い、問題がある、女だから、黒人だから、何だからと言って、人が虐げられて人間扱いされない苦しみの叫びを、神は聴いておられて、その痛みに気づかせます。そういう想像力の回復を、預言者の働きと言うのです。
神が、上から従順や秩序を求める方では全くなく、最も低い所の痛みや叫びを嘆く神である。その事に気づいて、周りの苦しみに目が開かれ、自分の嘆く力も取り戻し、ともに嘆く力も取り戻す。苦しみの原因を取り除こうとする事も大事ですが、それには限界があるとしても、やがて神が遣わすメシア(救い主である王)が来られて、すべての人が本当に大事にされて、大事にし合う社会が始まる。主の約束された正義と平和の訪れに望みがある。それが預言書から見えるメッセージです。そのために、まず十分に闇を露わにしました。痛みを感じる心を取り戻させ、訴えを取り上げ、嘆きが聞かれ、問題に向き合わさせる必要があって、預言者たちはそれをしたのです。そして、人の心に嘆く力を取り戻させつつ、その先にある希望、本当の回復を指し示したのです。それは
「キリストの苦難とそれに続く栄光」
の証しでもありました。
預言者が預かった神の言葉とは、世界を造られた神の回復・祝福の言葉です。キリストが来ただけでなく、キリストを通して私たちが罪を赦されて神の家族とされ、神の子どもとして成長し、変えられて行くという目的こそ、確実に果たされるのです。私たちの心の底もお互いの関係も、私たちの呻きや嘆きも全てを引っくるめた回復です。だからこそ、嘆く力を取り戻していくのです。社会の安定や繁栄が永遠に続くという幻想に誘惑され、葛藤する中で、
「キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい」
です。神が全ての人とともに十分に嘆き、その先に希望を抱かせるキリストの物語。それを預言者たちは語ったのです。[14]
「天地の造り主であり完成者である主よ。罪で真っ暗な時代にこそ、あなたは預言者を通し、激しい程の想像力を掻き立てて、恵みによる回復を語ってやまず、その約束通り、主が来られて大きな約束が実現しました。測り知れない確かな御業に感謝します。その完成まで、私たちの心を照らしてください。嘆きも希望もともに分かち合いながら、主を待ち望ませてください」
[1] 聖書の物語の全体像を語って、旧約聖書をザックリと見てきました。今日は旧約聖書の最後として、預言者のことをお話しします。そして「聖書の物語の全体像」というテーマは一旦今日で終わり、来週からはマタイの福音書の講解説教を始めて行きます。
[2] 鍋谷堯爾氏は「もともと、「予言」と「預言」の区別はなく、「予言」は「預言」か「豫言」の略語であり、「預」も「豫」も「アカラジメ」という意味であるから、神託とか占いとか、宗教的特殊能力によって、将来起こるべき天変地異や人生の将来を「あらかじめ告げ知らせる」という意味であった。今日、日本語の一般的用法では、「預」も「豫」も「予」という略字に統一されながら、一方では、キリスト教的意味をもった「預言」が一般にも認められるようになった。つまり、キリスト教的な意味では、「将来の出来事をあらかじめ言い当てる」よりも、「隠れた神の御旨を伝える」とか「神の言葉を預かって、伝達する」などの意味が強調されるのである」と丁寧に論じています。『聖書神学事典』(いのちのことば社、2010年)650頁。
[3] また、「預言書」は日本語聖書では、三大預言書と十二小預言書ですが、ヘブル語聖書では、ヨシュア、士師記、サムエル記、列王記が「前預言書」で、「後預言書」が上記十五書という区分の違いがあります。
[4] 創世記20:7「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」
[5] モーセについては、申命記18:15「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」、18:18「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」および、同34:10「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。」兄アロンと姉ミリアムについては、出エジプト記7:1「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」、15:20「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。」
[6] 「イスラエルの歴史において、イスラエルの父祖アブラハムは神から「預言者」と言われていました(創世記20:7)。アブラハムはどのような意味において、神から「預言者」と言われたのでしょうか。その答えは申命記 34章10節にあります。そこには「 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と記されています。つまり、預言者とは、「顔と顔を合わせている者」であり、「神との親しいかかわりを許されている者」、それゆえに、「神の隠された秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために神から信頼に値すると認められた者」といった意味なのです。」イエスは預言者です - 牧師の書斎より
[7] Ⅰサムエル記9章9節、10章5、6、10節など。
[8] Ⅱサムエル記7章2節、24章11節。
[9] 新約でも「預言者」が出て来ますが、当時まだ新約聖書が完成していない段階で、神が言葉を託された場合もあれば(使徒11章27節など)、教会での指導的役割を指しているだろう場合(エペソ2章20節など)もあります。そして、「偽預言者への注意」が詳しく警告されています(マタイ7章15節、24章11、24節、Ⅱペテロ2章1節、Ⅰヨハネ4章1節、ヨハネ黙示録19章20節、20章10節)。
[10] これまで話して来た通り、聖書は最初から世界を造られた神の大きなご計画を語ります。神が世界に対する尊い物語を用意されて、世界の底辺に働き、人の罪を贖い、必ず新天新地を完成させる物語です。神との約束をエバが破ったのに、そのエデンで神は、エバの子孫から救済者が現れると告げられました。その後もノアやアブラハム、モーセやダビデを通して、主は祝福の契約を明らかにしてくださいました。そのために、永遠の大祭司、永遠の王となる方が遣わされることもシッカリ仄(ほの)めかされていました。そして、その始まりとして、イスラエルの民が奴隷生活から救われて、神の約束を戴いた民としての出発を与えられていたのです。 それなのにイスラエルの民は、その約束に応える生き方を捨てて、他の国々と代わらない経済的な繁栄とか特権階級の豊かさとか、軍事的な強さに走りました。そのために、不正や貧しい人々、社会的弱者が蔑ろにされても目をつむりました。底辺の人々の苦しみは無視されて、上辺だけの豊かさに興じていました。そして、神礼拝も形ばかりのいい加減なものになっていたのです。預言者たちは、そういう時代に、それぞれの時代に向けて語りました。悔い改めを迫って、本当に神を恐れる生き方に立ち帰るように、求めたのです。
[11] マタイ13:16「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。17まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。」(ルカ10:24)、ヘブル1:1「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、2この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。」、11:13「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」。
[12] あまりにザックリしたまとめですので、長くなりますが、以下にブルッゲマン自身の「本書の議論のまとめ」を引用します。「まとめ 本書の議論をまとめておきましょう。共に歴史の中で新しいことが出エジプトとモーセの活動とはじまりました。モーセはファラオの抑圧的な帝国を解体すること、そして、神の自由の宗教と正義とあわれみの政治に重点を置く新しい共同体を形成することを目ざしていました。帝国の解体は神の民のうめきと不平からはじまり、力を与えるわざは新しい共同体の歌う頌栄からはじまります。 モーセの活動は、イスラエルにとってもあまりにラディカルでした。ですから、その活動によってもたらされた活力に満ちた新しい歴史に対抗する試みも存在しました。ファラオという古い歴史が、イスラエルの王制下でも続けられました。自己防衛をその関心事とする王制は、効果的に批判を黙らせ、活力の増強を否定します。しかし、預言者を長い間黙らせておくことは、王たちにはできなかったようです。イスラエルの預言者たちは、王族という現実に直面しつつもモーセのラディカルな活動を継続します。まず、エレミヤは王族意識に対抗するラディカルな批判を実践します。この批判の実践は、本質的には、葬儀を思い起こさせ、死につつあるイスラエルの悲しみを公に表現させることです。「この世界は変化することなく、永遠に続く」という偽りを言い張る王族共同体の無感覚という拒絶を打ち破ることを目的として、エレミヤはその活動を行います。第二イザヤは、王族意識に対抗して、ラディカルな活力の増強を実践しています。彼は王の即位式典を思い起こさせ、復興されたイスラエルの驚きを公に表現することによって、力を与えました。ものごとが永遠に終わってしまった、と決めつけている王族共同体の精根尽き果てた絶望を打ち破ることを目的として、第二イザヤはその行動を行いました。 続いて、預言者であり、預言者以上の方であるナザレのイエスが最もラディカルな形で、預言者のわざとその想像力の主要な要素を実践したと論じてきました。まず、イエスは周囲の死せる世界を批判しました。この解体のわざは、十字架刑をもって完遂されました。イエスが解体された存在そのものを十字架において体現したのです。次に、イエスは、神が授ける新しい将来に力を与えました。このわざは、イエスの復活において完全に人々の前に現されました。イエスは復活において神の与える将来を体現したのです。」W・ブルッゲマン『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(鎌野直人訳、日本キリスト教団出版局、2014年)、223-224頁。
[13] ひょっとして「預言者」というと、怪しげな出で立ちで現れて、不吉な言葉で聞く者を不安に陥れて、行いを改めさせようとする…そんなイメージを持っている人もいるかもしれません。神の代弁者として、生真面目で、容赦なく、罪を見逃さず、ニコリともしない…。しかし、聖書の預言者は、そんな厄介な人ではなさそうです。
[14] キリストは、預言者の成就であるだけでなく、キリストご自身が預言者であり、ことば(ロゴス)である。神の約束の成就そのものであり、私たちはそのキリストを宣べ伝える。キリストの言葉を宣べ伝え、私たち自身がキリストの言葉である。預言は私たちのうちに実を結ぶ。預言は、キリストの救いだけでなく、神が世界を治め、私たちに喜びや賛美、和解と平和を永遠に回復してくださる、という預言なのだから。それが成就するとは、私たちがただ主の恵みによって、その回復に入れられるということ。そのようにして、私たちを通して、神の栄光が現される!ということ。
2019/8/18 Ⅱサムエル記7章18~29節「この方が私たちの王 聖書の全体像23」
「聖書の物語の全体像」をお話ししています。このⅡサムエル記七章は、ダビデ王に主が約束されて、ダビデの家から「永遠の王」が出ると宣言された、大切な節目です。羊飼いであった少年ダビデを選んで王となさったばかりか、その子から永遠の王を起こす。その王が、主の民を正しく治めて、恐れ戦いたり、不正な支配者に苦しめられたりしないようにしてくださる。そういう確かな将来も含んだ、大きな約束がここにあります。これは詩篇八九篇[1]、一三二篇[2]などで
「契約」
と言われ、「ダビデ契約」とも呼ばれます。この「ダビデ契約」を聞いて、ダビデが主の箱の前に行き、感慨を漏らして語っている長い祈りが今日読まれた箇所です。
18…「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。19神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。
圧倒されている告白が続きます。自分が王になっただけでも大きな恵みなのに、そればかりか遥か先の事まで約束してくださった。その事に驚いて、主を誉め称える言葉が続きます。このダビデの告白が長々とここに記されることで、私たちも主がしてくださることがどれほど驚きか、どれほど大きな、思いがけない祝福かを思い起こします。聖書には驚きが満ちています。イエスがなさったことも弟子や群衆達を驚かせ続けました。私たちの信仰には、正しさとか清らかさだけでなく、驚きがあります。神は真面目であるより私たちを驚かせる方。キリスト者の信仰の特徴は、謙虚や自己否定よりも、驚きや期待なのです。こうも言われています。
23…地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。24そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。
神はイスラエルをご自身の民となさった。その事自体が主のユニークさ、吃驚(びっくり)せずにおれない恵みでした。決して大きくも立派でも善人ばかりでもないイスラエルを、一つの国にしてくださったこと、そして、そこに
「とこしえまでもあなたの民」「あなたは彼らの神となられました」
という、確かな結びつきを下さいました。この
「主があなたがたの神となり、あなたがたが主の民となる」
という文言は、アブラハムの時から繰り返されていた、聖書の契約の定型文です。大事な概念の言葉です[3]。しかし、このⅡサムエル記七章のここだけが、将来の約束でなく、
「あなたは彼らの神となられました」
と唯一、過去形で表現している箇所です。ダビデは本当に主の契約が果たされ、自分たちが主の民とされていると告白し、主の御名をほめたたえているのです。そして、その約束に基づいて、25節以下の祈りで応答しています。
しかしこの後、ダビデは誠実な統治を通したわけではありません。ダビデは人として多くの欠点を晒します。特に11章では、部下の妻を召し入れて妊娠させて、その部下と他の兵士たちを戦場での死に追いやらせるのです。ダビデが特別立派だったとか信仰深かったから、神がダビデを選んだ、のではありません。ダビデを選んだのは主ご自身の不思議な恵みです。ダビデが王の立場を乱用して悪を行うなら、主はダビデをハッキリ責めて、悔い改めを迫ります。でも、主はこの契約を守って、ダビデを王座から退けません。それだけでなく、ダビデの後の時代も、主はこのダビデ契約に基づいて、ダビデの子孫の王座を支え続けるのです。
旧約聖書の後半を一気に観ましょう。ダビデの息子のソロモンは、ハッキリと主から心を離して、他の神々に礼拝を捧げ、主の契約を守らなくなってしまいます。それで、主はソロモンの次の時代に、王国を半分に引き裂きます。紀元前九二二年頃、イスラエルの国は南北に分裂します。北がイスラエル王国、南がダビデのユダ部族を中心とするユダ王国です。しかし、その事を予告するⅠ列王記11章でも、主はソロモンにこう言われるのです。
12…あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。13ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える[4]。
「ダビデに免じて」…。この言葉はソロモンの後にも繰り返されます。「ダビデに免じて…ダビデのために」と5回繰り返されます[5]。ダビデの子孫らはしくじりながらも退けられず、回復を与えられます。北イスラエルは違います。210年の歴史で二十人の王が乱立して十の王朝が入れ替わり、722年にはアッシリア帝国によって滅ぼされます。一方の南ユダ王国は586年にバビロンによってエルサレムが陥落するまで、ダビデ王朝の20人が続きます(一時期、異国からの女王が君臨しますが、それも摂理的に終わります[6])。それでも悔い改めずにますます堕落していったため、最終的には主のさばきとして、バビロンによって打ち負かされます。しかしそれまで四百年続きました。一つの王朝が四百年続いた例は歴史上ありません(徳川時代も二六〇年です)。これ自体が主の特別な憐れみです。旧約に、この世界に現実にあった王国時代が、何はともあれ、長く詳しく記されています。それ自体が、ダビデ契約の証しです。神がこの地に御心にかなった王座を立てるのです。神の御国が永遠に続くことを見据えておられるのです。ダビデ契約は、世界に対する主のご計画が、神の国の確立にある現れです。
紀元前千年 ダビデ王即位
前九二二年 王国、南北に分裂
南ユダ王国 北イスラエル王国
・ユダ部族中心 ・10部族
・ダビデ王朝(一時除く) ・10の王朝乱立
・王20人 ・王20人
・400年の歴史 ・200年の歴史
・586年、バビロンにより陥落、捕囚 ・722年、アッシリアにより滅亡
・539年から帰還 ・離散
その後、イエスがおいでになって、「神の国の福音」を語りました。
マルコ1:14…イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。15「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
時が満ちて神の国が近づいた。あなたのそばに神の国が始まったと語りました。「天国」の話ではなく、この世界に神が王となる「神の国」です。言わばダビデ契約の完成です。「福音」という言葉もただの「良い知らせ」という以上に、「新しい王が即位した」「皇帝に世継ぎが生まれた」という場合に使われたそうです。勿論、それは「皇帝目線」の押しつけでしょうが、本当に良い王の即位は確かに国にとって素晴らしい知らせです。イエスの福音は、ダビデに約束されていた永遠の王がおいでになった、という宣言です。民を不安から救い、幸いを下さるため、神が遣わした王。そして民のために命を捧げ、民に仕え、民を育ててくださる王です。私たちの王であるだけではありません。世界全体を、神の恵みの御国となさるのです。全てのもの、目に見えるものも見えないものも、神を信じない者も全てを、イエスは治めています。
その支配は余りにも大きくて、深くて、私たちには到底理解できません。それでも、イエスが王としてすべてを治めていて、私たちの近くにいて、最善をなし、御心をなさる。私たちはそう信頼して、自分が心を込めて出来ることをしていけばよいのです。神は、ダビデとその子らを憐れみつつ、決して悪い支配や独善的な統治を放っておきませんでした。その神が遂に遣わして下さった王を、私たちは信頼して、希望を持つことが出来ます。そのイエスが教えて下さる「神の国」がどのようなものか、罪や罰や競争ではなく正直で恵みと喜びに満ちた神の支配を信じるとは今どう生きることなのか。御言葉を通して教えられていくのです。更に、私たちが、ダビデ契約も含めた聖書全体の大きな物語の中で、イエスがおいでになったことを知り、やがてこの世界に永遠のイエスの国が訪れるゴールに向かっている。それを驚きながら、今ここで、神の国の民として生かされ、その生き方を学びつつ歩んでいるのがキリスト者なのです
「世界の王なる主よ。あなたの約束がダビデを驚かせたように、私たちもダビデの子イエスの言葉を聞く度に、驚きを新たにさせてください。イエスが永遠の王として来られたという福音を、廃れることのない希望、不安よりも強い信頼として受け止め、伝えさせてください。あなたの庭であるこの世界で、生き、働き、遊び、歌い、御名をともに誉め称えさせてください」
[1] 詩篇八九篇「28 わたしの恵みを 彼のために永遠に保つ。わたしの契約は 彼にとって確かなものである。29わたしは 彼の子孫をいつまでも 彼の王座を天の日数のように続かせる。30もし その子孫がわたしのおしえを捨てわたしの定めのうちを歩まないなら31また もし彼らがわたしのおきてを破りわたしの命令を守らないなら32わたしは杖をもって 彼らの背きを むちをもって 彼らの咎を罰する。33しかし わたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。34わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない。35わたしはかつて わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。36彼の子孫は とこしえまでも続く。その王座は 太陽のように わたしの前にあり37月のように とこしえに堅く立つ。その子孫は 雲の上の確かな証人である。」セラ」
[2] 詩篇一三二篇「11主はダビデに誓われた。それは 主が取り消すことのない真実。「あなたの身から出る子を あなたの位に就かせる。12もし あなたの子らが わたしの契約と わたしが教えるさとしを守るなら 彼らの子らも とこしえにあなたの位に就く。」」
[3] 聖書の「救い」とは私たちがただ幸せになるとか楽園に行くという「極楽浄土」ではなく、私たちがイエス・キリストを通して神との関係を回復されることです。私たちが主の民となることです。それが聖書で繰り返されている約束です。
[4] Ⅰ列王記11章「11そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。12しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。13ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」」
[5] Ⅰ列王11:32「ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。」、11:34「しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。」、15:4「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」、Ⅱ列王8:19「しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。」、19:34「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」」、20:6「わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」」。
[6] Ⅱ列王記十一章。
2019/8/11 Ⅱサムエル記7章8~17節「永遠のダビデの王座 聖書の全体像23」
ダビデは、旧約聖書に出て来る最も有名な王です。聖書で、イエス・キリストに次いで詳しく生涯や言葉が記されているのは、このダビデです。そして、イエス・キリストご自身が「ダビデの子」と呼ばれますし、ダビデと重ねて語られる王です。それほど聖書において、ダビデという人物は大切な役割を与えられています。特に、今日のⅡサムエル七章では主がダビデに大事な契約を与えています。この「ダビデ契約」を巡って、数回お話ししたいと思います。
このⅡサムエル記七章は、ダビデが先の王サウルから命を狙われて逃げ続けた生活が終わり、エルサレムに自分の家を建て、落ち着いた生活が出来るようになった時に当たります[1]。
2…「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」
自分が杉材の家にいるのに神の箱はテント住まいでは…と神殿建設を考えたのですが、主はそれを気にするどころか、ダビデのためにもっと大いなる家を備えると言われるのです。
11…主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。
それは、ダビデの子どもがダビデの後継者として王となり、王国を確立する。それが永遠の王座となる。「ダビデの家」が永遠の王家となる、と主は約束されたのです。
13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
これは本当に恐れ多い、ダビデにとっては思ってもいなかった主の言葉でした。ダビデの子孫から永久の王座が出る。やがてダビデの子孫からイエス・キリストが生まれるのです。ダビデはイエスの時代から千年前の人ですが、聖書の長い大きな物語の中で、キリストが来る千年前から、永遠の王である方が来る事を予告していたのです。しかし、ここにはその「王」に伴う大切ないくつかの事も書かれています。まず、8節以下、ダビデを
「羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした」。
主がダビデとともにいて、敵を断ち滅ぼし、一介の羊飼いで親からも軽く見られていたダビデを、他の王たちと等しい王としてくださいました。その事と、10節では、イスラエルの民全体が安心して住むこととが並べて語られています。
10わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。
11それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。…
ダビデやサウルに先立つさばきつかさ(士師記の時代)以来、400年以上、民は不安定な生活をしてきました。恐れ戦いて、不正な支配者たちに苦しめられて来ました。そのような中で民が王を求めましたけれど、最初の王サウルは王という立場に執着して、神から退けられてしまいました。それがようやくダビデの統治により、民全体が落ち着いた生活をし始めたのです。ですから、この8~11節では、主がダビデを個人的に導かれたことと、ダビデの統治がイスラエルの国全体を
「もはや恐れ戦くことのないように…不正な者たちも…重ねて民を苦しめることのないようにするため」
民全体の安息のため、という公の面とが両面言われています。ダビデ個人が神に贔屓(ひいき)されて、思い上がって、民の生活が脅かされたり不安定な生活を余儀なくされることが放って置かれたり、不正な支配者と同じ道に走ってはならなかったのです。
ですから、主がダビデの家を堅く立てて、永久の王座を約束したのは、ダビデの個人的な栄誉という以上に、国民全体にとっての安心、永久の幸せの約束でもありました。特に、
14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
とあるのは、主がダビデに約束するのが、暴君になっても良い、という免許ではない証しです。王や支配者というと、特権をもって、犯罪に手を染めても目を瞑ってもらえるとか、訴えられない立場になりやすいものです。「王様は誰だ」というゲームがありますが、「王様」になった人の真似を皆がする。王にはそんなイメージが付き物です。実際、ダビデも王の立場で多くの間違いをしますし、その子たちは職権乱用をしてしまいます。そして、主は確かにその罪を見逃さずに報いるのです。言い換えれば、主はダビデを永久の王座を約束された家としますが、本当の王は主であって、ダビデもダビデの子らもその主の下にいる王に他なりません。絶対君主とか「王権神授説」とか特権階級ではない、主の恵みに生かされている自分だと深く弁えた王です。自分が主の目の前にあることを覚えている王です。この言葉は、永久の王も不義を犯すかも知れない、というよりも、永久の王だからと言って威張って暴君になることが許されることは決してない、と安心させるものだったでしょう。だからこそ、ダビデの子のソロモンが王になって、民を踏みにじったり、多くの妻を娶ったりして、最終的には偶像崇拝に流されていった時、主はソロモンの罪をハッキリ指摘しましたし[2]、その後でも王たちの不義は預言者たちによって責められるのです。それでも、15節ではこうも言われています。
15しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
主はダビデの家から恵みを取り去ることは決してないと約束し、永久に堅く立つのだ、と言い切られています。この言葉は最終的にはイエス・キリストがダビデの末裔として来て、永遠の王となってくださったことで成就しました。新約聖書の一頁目、マタイの福音書一章には長々と系図が記されていますが、ここにはイエスが
「ダビデの子」
として紹介されています。また1章6節以下はダビデ王朝の名前がずっと記録されています。ですからこの系図は、イエスがダビデに約束された「永久の王」であることを教える大事な系図です[3]。同時にそれは、人の罪、神の民やダビデの王家に祝福された者たちさえ、罪や背信を重ねてきた歴史です。その罪は当然報いを受けますが、しかしイエスは決して民を見捨てません。恐れ、間違い、疑いが蔓延している社会だからこそ、イエスは来られて、私たちを治めてくださるのです。今、イエスは私たちの王です。主は私たちを治めて、永遠に私たちの王でいてくださいます。その事に私たちは安心して良いのです。でも教会やキリスト者の「不義」-過ち、問題、傲慢は主が見逃さず、真剣に取り扱われます。それでも、決して主が私たちの王であることを止めず、恵みを取り去ることはしない。永久に私たちの王として、神の国の生き方に育てて下さるのです。
私たちは「王」と言えば、庶民とはかけ離れていたり、服従することを求めたりする王を思い浮かべ、不正な支配者も沢山思いつきます。恐れ戦き、民を苦しめ、失敗も重ねればいつか契約も打ち切られる、そういうもんだと思い込んでいたりする。だからこそ、ダビデへの主の語られた「永久の家を立てる」という契約は、驚くべき内容ですし、イエスはその「永久の王」として来て下さった。私たちの恐れ揺れる心も治めてくださる。罪には何としてでも悔い改めと赦しを与えて、恵みにますます信頼して晴れやかに生かしてくださる。私たちの失敗や足りなさや弱さもご存じで、私たちの人生を導き、神の御心を行ってくださる。私たちには、恵みに満ちた王がいる。私たちの人生を支配するのは、私ではなく、私の罪でもなく、誰かや何かでもなく、主イエスです。それを主は聖書の昔から約束されたし、小さい羊飼いから王にされたダビデを通してハッキリと示してくださいました。その王が私の主であるのです。
「私たちの王であり、ダビデの末から生まれた主イエスよ。世界を治めるあなたが、私たちの永久の王ですから感謝します。私たちの支配者が、あなた以外の何かであるかのように思うとしても、あなただけが王であり、私たちを愛し、慰めと希望と新しい生活を下さる王です。どうぞ私たちの心も、この世界も治め、あなたの恵みと正義と喜びを高らかに表してください」
2019/7/28 ヘブル書8章1~6節「神からの祭司 聖書の全体像22」
今日のヘブル書8章で
「私たちにはこのような大祭司がおられるということです」
と言っています。これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは私たちの大祭司である。そして
「6よりすぐれた契約の仲介者」
である。この事から振り返ると、モーセ契約において、神が大祭司を立ててくださった事が、とても大切な出来事であったと改めて思うのです[1]。今日はモーセ契約の最後として、神がここで大祭司を立ててくださったメッセージを覚えます。
祭司は、民を代表して神に仕え、生贄を捧げたり、主からの神託を告げたりする働きをする人です。モーセの時代まで、イスラエルに祭司はいませんでした。アブラハムやヤコブが祭司のような働きをすることはあっても、祭司と呼ばれる人はいなかったのです。祭司は人間からは立てられず、神から与えられて初めて、神と人間の間の祭司となれるのです。そして、神はモーセの兄アロンを選んで大祭司として、アロンの子孫を祭司の家系としました。神は人に祭司を送ってくださる。神と人間との間を取り持つ存在を、神の方から遣わしてくださって、私たちとの関係を回復してくださる。神との間を執り成し、「あなたの罪は赦された。あなたはきよい」と宣言してくれる祭司を立ててくれるのです[2]。キリストは、私たちの大祭司として永遠に、完全に、私たちを神に結びつけてくださいます。その1500年前に大祭司が立てられたことは、やがて完全な大祭司キリストがおいでになることの印でした。
ですから祭司に選ばれたからと自惚れて、アロンたちが思い上がることは常に窘(たしな)められました。聖く生きる生活管理が求められ、入念な儀式の執行が求められました。一番ハッキリ書かれているのは大祭司の「祭服」です。出エジプト記28章には、大祭司の祭服について詳しく書かれています。頭にはターバン、そこには「主の聖なるもの」と書かれた札をつけていました。体には長服の上に、青い上服を着、その上に「エポデ」と呼ばれる祭司の特別な前掛けをつけ、更にイスラエルの全十二部族に因(ちな)んだ宝石を並べた胸当てを付けていました。他にも胸当てや肩当て等があり、これらは一つ一つ意味があり、栄光と美を現していました[3]。
ただし、それはこの煌(きら)びやかな服は大祭司の立派さを飾り立てるためではありません。私たちが思い描く神官や王は権力を誇示する華やかな衣装を着ますが、大祭司の場合は別です。大祭司が最初に着るのは
「ももひき」
です[4]。見えませんが、裸を覆えと言われています。人はエデンの園で神との約束を破って以来、裸を隠さなければならなりませんでした[5]。人間の罪の姿を大祭司も持っているからです。大祭司が服を着るというのは
「覆う」
という言葉です。
創世記3:21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
とあるあの言葉です[6]。大祭司は「ももひき」から着て、自分が裸で神の前に立てないこと、神からの衣を着せて戴いて立つことを現します。また、その履き物については何も言われていませんから、裸足なのでしょう。靴を脱ぐこともまた、神の前に謙って、自分の権力、特権意識、プライドを明け渡すことを表しました。大祭司は、神と人との間を執り成す特別な役割に任命されるわけですが、祭司の儀式に特別な力があったわけではありません。大祭司が生贄を捧げるのでなしに、自分自身を神の怒りに差し出すことで執り成しを果たす事件もあります[7]。逆に生贄によっても永遠に赦されないと言われる場合もあります[8]。詩篇では、「主が喜ぶのは生贄ではなく、砕かれた心だ」と何度も明言されています[9]。大祭司こそは、最も砕かれた心、傲り高ぶらない心が求められました。民の問題や、生贄を必要とする罪に対しても、蔑みや上から目線でなく、「自分も裸では主の前に立てない、同じ罪人だ」と自覚するのが祭司でした。何より、本当の大祭司キリストが来るまでの「つなぎ」に過ぎなかったのです。
そして本当の「大祭司キリスト」が来られました。主イエスは私たちの大祭司です。しかし、一度もあの大祭司の服は着ませんでした。反対に、イエスが大祭司だという十字架において、イエスは裸でした。上着も下着も奪われて、裸のまま死にました。それは従来の祭司としてはあり得ないことでした。しかし神の目からは、それこそ本当の生贄でした。イエスが全く罪のない、裸を隠す必要の無い、聖いお方だったからです。その方がご自分を丸ごと私たちに捧げてくださいました。隠すべき罪が全くないイエスは、最も砕かれた心、最も憐れみ深い方です。
ヘブル書2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。
大祭司の要件は「憐れみ深さ」です。ヘブル書では「憐れみ」が3度繰り返されて、大祭司が憐れみ深い方で、私たちは大祭司を通して憐れみを戴けることが強調されています[10]。「イエスは罪がなく聖いのなら私たちに同情できないだろう」と思いそうになっても、聖書はイエスに罪がないからこそ、私たちに深く同情して、私たちのために裸の恥も十字架の苦しみも厭わなかったと言い切るのです。イエスは、私たちを決して見下したり軽蔑したりせず、私たちを救ってくださいます。イエスは人のすべての罪をご存じの上で、人を愛し、憐れんで、救いたいと願って、ご自分を献げてくださったのです。このイエスの、ご自身を一度捧げた執り成しだけが、神が私たちの罪を赦して、再び神に結びつけ、互いを結びつける働きなのです。
神が私たちを結び合わせてくださるのは、ご自身との関係だけではありません。すべての関係は三位一体の神がこの世界に表している神の栄光です。引力や自然法則も、食物連鎖やコミュニケーションも、神の支えなくしてはつながれません。そして、神は私たちを愛するゆえに、ご自身とだけで無く、あらゆる関係、特に人と人との関係に働かれます。今日交読した詩篇一三三篇は、たった3節ですが、都に上る巡礼で、兄弟がともにいる喜びを歌っていました。
詩篇一三三見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。
「兄弟たちが一つになってともに生きる」姿が大祭司の任職で頭に注がれ「アロンのひげに流れ」る「貴い油」に重ねられています。兄弟(家族か仲間か)が一緒にいる。ともに生きる。その幸せは大祭司の任職に通じます。家族が一緒にいることさえ、決して当たり前ではありません。色んな理由で別れ別れにもなり、すれ違って顔を合わせられなくもなる。けれどもその間に、主イエスが来て立ってくださる。神はイエスを送り、イエスは聖霊を遣わし、分断の狭間に立たせてくださる。憐れみ深い神は、私たちに祭司を遣わし、罪の赦しも、和解や一つともにおる幸せもくださるのです。赦す心、謝る言葉、心を繫ぐ言葉を語らせてくださる。一三三篇は、イスラエルの民謡でも歌われますし、教会では聖餐式において読まれる詩です。実に今ここで私たちが主にある兄弟姉妹としてともに生きていること、一つ食卓を囲み、祈り合い、分かち合い、一緒に笑ったり嘆いたり楽しむことは、大祭司イエスの御霊による恵みなのです。
神が祭司を送って、私たちを一つにしてくださる方です。私たちのために、イエスを立てて下さった。それも神々しい神官でなく、憐れみ深い大祭司として、ご自分を生贄としてくださった。お高くとまった神官が立派な祭服で自分を覆って畏まるのとは正反対に、裸で十字架に死ぬことも憎しみや恥をも厭わずに、私たちに和解を与えてくださいました。モーセ契約を通して始まった大祭司の働きを、完全な大祭司であるイエスは完成してくれました。そして、今も私たちと父なる神との橋わたしをして、永遠に大祭司として執り成していてくださいます。それが、神のご計画全体の中で、祭司たちに託された御業です。その主の業を受け取りましょう。それが更に、私たちの家族の中に、周囲の人に、働いていくことを祈りましょう。人と人との間にイエスを見ましょう。そして、自分が主の憐れみによって満たされて、砕かれた心、愛のある言葉、どこでも主にある希望を見ていくよう整えられていただきましょう。
「主が大祭司を遣わし、イエスの完全な仲裁を示してくださったことを感謝します。どうぞその執り成しの中に、赦された喜びと永遠の和解の希望を日々戴かせてください。そして私たちの間に、世界の破綻や分断に、どうぞ憐れみを注いで、和解をお与えください。裁き合い非難し合う関係から、和解を信じ将来に希望を育て合う関係へと、私たちを育んでください」[11]。
[1] 聖書の全体像は、天地創造から将来の新しい天と地の完成という大きな物語です。神は、神から離れた人間にも回復を計画されて、それを様々な形で示されました。その大きな節目の一つが、モーセを通して果たされた奴隷生活からの解放と、新しい生き方です。それは、律法(十の言葉)において示されましたが、神は律法という規則だけではなく、神の住まいである「幕屋」と、幕屋に不可欠な、いけにえや捧げ物をする「祭司」も神は立ててくださいました。
[2] この事は、ヨブ記やサムエル記にも見て取れる思想です。ヨブ記19章25節以下「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。26私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。27この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」、Ⅱサムエル記12章23節以下「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。24ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」
[3] 出エジプト記28:2「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」
[4] 同28:42「彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。」ももひきについての考察は、「牧師の書斎 亜麻布のももひき」を参照。
[5] 創世記3章。それは、十戒のすぐ後でも、祭壇を階段で作ってはならない、裸が見えないためである、と言われています。出エジプト記20章。
[6] 出エジプト記28:41「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。」、29:5、8、30、40:13、14も同じ。参照、「イエスは大祭司 牧師の書斎」。
[7] 民数記16章48節など。
[8] Ⅰサムエル記3章14節、イザヤ書22章14節。
[9] 詩篇40篇(6節)、50篇(8~14節)、など。
[10] ヘブル2:17(既出)、4:16「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」、8:12「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
[11] この大きな愛を受けた者として、私たちがこの世界に置かれています。イエスが大祭司として私たちに完全な赦しと和解を与らせ、そのことによって私たちも憐れみ深い者となる。そうした私たちの歩みを通して、周囲が主の恵みを知り、あらゆる意味で神の民は「祭司」となる使命が与えられています。イエスが憐れみ深い大祭司であるように、私たちも祭司のように、人と人とを結びつける役割を与えられています。「そうしなければならない」ということではなく、神はそもそも人間を祭司的な働きをするよう創造された、ということです。このことを、出エジプト記でも新約のペテロ書でも「祭司の王国」と読んでいます。イスラエルにはアロンが大祭司として立てられるに先立って、こう言われました。出エジプト記19:6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」。イスラエルそのものが世界の中に「祭司の王国」として置かれたのです。他の国々にとっても神がイスラエルに罰や恐怖ではなく、赦しや回復や楽しみ、幸せを与えてくださることがメッセージとなる。そのために、イスラエルは選ばれました。この言葉は新約に引き継がれます。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」、ヨハネの黙示録1:5~6「また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、6また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」