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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問8 「神は天地を創造し治める」イザヤ書四五18-22

2014-06-23 17:22:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/06/1508 「神は天地を創造し治める」イザヤ書45章18-22節
ウェストミンスター小教理問答8

 前回は、神の「聖定」についてお話ししました。

問7 神(の聖定とは、何ですか。
答 神の聖定とは、それによって神が、ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる、そのような御心の計らいにしたがった、神の永遠の御計画です。

 その神様の、聖なる永遠のご計画は、どのように実行されるのか、が今日の話です。

 問8 神は彼の聖定を、どのように遂行されますか。
 答 神は、創造と摂理のみわざによって、彼の聖定を遂行されます。


 創造と摂理。そして、ウェストミンスター小教理問答は、次の問9と10で「創造」について、そして、問11と12で「摂理」について教えていく構造になっています。聖定は神様のご計画(いわば、設計図)ですが、それを現実に移したのが、建築とメンテナンス、あるいは、舞台制作と上演にあたる、創造と摂理なのです。ウラを返せば、私たちが生きているこの世界は、丸ごと神様の聖定が形を取ったものなのです。この世界のすべて、一つ一つが、神様の聖定の現れです。私たちは聖定そのものを直接理解することは出来ません(それは永遠であり、宇宙のすべてに渡る途方もないものです)。ただ、この世界を見て、また摂理が実行されていく現実を通して、聖定の断片に触れることが出来るのです。ただし、私たちの側のメガネが罪で曇っているために、ねじ曲げて理解してしまいかねません。ですから、聖書をよく読み、神様の聖定についての基本的なことを知っておくことが大事です。出来事から御心を決めつけるのではなくて、聖書から出来事を見ていくようにすることで、私たちは間違いから守られるのです。

 今日は、創造と摂理の御業によって、と二つを並べています。この事もよくよく心に留めておきましょう。中には、どちらか一方だけにしてしまう人もいるからです。

 たとえば、創造だけ、という人たちの考え方を「理神論」と言います。世界の創造者としては認める。もっとあけすけに言えば、世界がなぜ存在しているのか、その理由を説明するためにだけ、神の存在を持ち出した方が都合が良いので、神の創造を言う。けれどもそれだけです。後は、神は世界を作ったまま、もう関わってはおられない。人格的な方と考える必要も無い。奇蹟だとか摂理や啓示だとかも考えない。この「理神論」という立場は、「時計仕掛けの世界観」とも言われます。精巧な時計を職人が作った。でも、動いてしまえば、時計職人が放っておいても動き続けている。そうやって、神の手を離れて、この宇宙という大きな機械は今も動き続けている、と考えます。でも、私たちはそうは信じません。神が、聖書を通して主張されているように、今に至るまで全てを治めておられ、深く関わっておられ、創造だけでなく摂理をも働かせておられると信じます。もし、神が背を向けてしまわれたら、人間も世界もたちまち存在できなくなるでしょう。何よりも神は、聖書において、世界を作ったご自身との関わりに生きるよう、私たちに叫んでおられるのです。

 同時に、創造を言わずに、摂理だけを考える人たちもいます。何かあると「神様の御心だ、恵みだ、あるいは試練だ。偶然じゃない」と言うけれども、この世界そのものが神の手になるものであることはあまり重視しないのです。信仰というのが、人格的で、個人的なのですが、自然とか社会、政治や世界全体を見る時には、それはそれ、と分けてしまうのです。こういう考えを「二元論」と言います。信仰の世界と現実の世界を分けて考えてしまう。ヘブル書の十二章2節に、

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

とありますが、イエス様は信仰だけでなく、世界の創始者であり、完成者であるのです。そして、世界を創造されるみわざと、完成へと導かれる摂理のみわざは、聖定の遂行です。その聖定のご計画の中に、私たちの救いがあります。私たちに信仰を始められ、この信仰を終わりまで守ってくださるのです。ですから、その創造のみわざは、私たちの救いや信仰を見据えつつ作られた世界であり、摂理もまた、私たちの救い、成長、教会の歩みを益するようにと働いていくのですね。

 私たちは、つい、信仰と生活を切り離してしまいます。そして、信仰が強くなるには、奇蹟とか特別なことが必要だと考えたがります。モチロン、神様はご自身の力を見せるために、偶然では片づけられないことをなさることもあります。でも、忘れないでいたいのは、世界そのものが神様の作品であり、自然法則やこの世界にある普通のこともまた全て、神様が考え抜かれて私たちに用意してくださった舞台だ、という事実です。世界の存在そのものが、神様の御手による奇蹟です。特別な奇蹟だけが、神様の存在を証ししたり、神様の栄光を現したりするのではなく、この世界そのものが、神様の存在を証ししており、神の栄光を現しているのです。そして、私たちの周りに起きる出来事が、困難だったり、戦いだったり、病気や悲しい出来事であったりしても、それが祈っても祈っても変わらなくても、私たちの信仰にとってマイナスにはならない。むしろ、それが私たちの信仰を成長させるのだ、と信じるのです。

 今日のイザヤ書の言葉で、神様は力強く主張しておられます。ご自身が天地を創造された大いなる神である。偶像とは違うのだから、

22わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

本当に力強い宣言です。世界を作り、今も治めておられる方が、私たちに関わり、ご自身を信じて救われるようにと招き、救いと祝福を約束してくださっています。でもそれは、私たちの理解の到底及ばないほど、大きなご計画の中にあります。その確かなご計画の中心には、イエス様がこの世界のまっただ中に飛び込んでこられ、どん底にまで低くなられた十字架があります。そこに私たちの歩みもまた、確かであることが保証されています。すべてのことが私たちの益となるようにしてくださる、との約束は、聖定と創造、摂理という御業に裏付けられています。創造と摂理。今日のポイントとして心に刻みましょう。

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ルカ17章11~19「神をあがめるために戻って来た」

2014-06-23 17:17:08 | インポート
2014/06/22 ルカ17章11~19「神をあがめるために戻って来た」(#273 )

 先回、私たちは、弟子たちに対して、イエス様が仰った言葉を聴きました。

 6…「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら…言いつけどおりになるのです。

 信仰は、信じる私たちの側の信じる力が弱いとか小さいとかいう問題ではない。そう断言されました。ですから、続く今日の癒やしの記事でも、

 19…あなたの信仰が、あなたを直したのです。

と結ばれるのも、この感謝するために戻って来た人の信仰が立派だったから、それだけ優れていたから、というような事ではありません。「この人は、私たちよりも優れた信仰を持っていたのだ-私たちはこの人ほど感謝も足りないし、立派な信仰でもない」と引け目を感じたり卑屈になったりするとしても、そこで終わってはなりません。私たちの信仰は、からし種のように最も小さいものに喩える他ないとしても、その信仰さえ神様からの賜物であり、神がその信仰を通して豊かに働いて下さることを信じるのです。自分の信仰は貧しくとも、私たちの神である主は力強いと信じるのです。そして、その通り、ここでも、当時は不治の病としてどうしようもなかった病気、汚れているとして町中に住むことさえ認められなかった病をさえ、イエス様は癒してくださったのです 。

 しかし、この十人の患者たちは、最初イエス様を見た時に、

13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

とあります 。「癒して」ではなく「あわれんでください」でした 。ただ病気が癒えるだけではなく、社会からも疎外され、宗教的には汚れていると見做されて、身を寄せ合って暮らしていた。彼らは遠くから、叫んで、憐れみを乞い求めたのです。イエス様が彼らに、

14…「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」…

と言われた時、彼らは祭司の所に向かいました。祭司は、「汚れ」として扱われていたこの病気がきよくなったかどうかを判断し、宣言する役目を負っていたのです。ですから、祭司に見せることで、社会的な回復が始まるのです 。彼らはそこに行きました。癒されてから、ではなく、癒される前に、イエス様の言葉を信じて進みました 。そして、その行く道の途中で、彼らはきよめられていることに気がつきました。そして、

 15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
 16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

というのです。「サマリヤ人」とは、エルサレムのあるユダヤと北のガリラヤとの間に挟まれたサマリヤの地域に住む人々ですが、彼らはアッシリア捕囚の時に連れて来られた人々とイスラエル人との混血で、宗教的にも異教徒の習慣が混じったものを身につけていました 。そうした歴史を背景にして反発し合っていた間柄です。それが、同じ病気のため追い出されていた者同士、この時は十人で一緒に暮らしていたようです。ところが、イエス様を通して病気がきよめられたことに気付いた時、

 18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

とイエス様を嘆かせることになってしまいます。求めた憐れみをいただいて、病気を癒されただけでなく、祭司にきよいと言ってもらって社会復帰も果たせそうです。でも、その憐れみを感謝するために戻って来たのは一人だけ、このサマリヤ人でした。
 私たちはこういう癒やしの記事から、「感謝を忘れてはいけません」というような「正論」めいた説教を引き出すだけなのでしょうか。イエス様に直接お願いして、こんな奇蹟に与る話自体、私たちとは別世界の話のようです。その溝を感じたままなら、感謝や、癒される信仰、などといくらひねくり回しても、こんな箇所は、何の役にも立たないのです。

 でも、イエス様も別の意味でここに一つの見切りをつけられたのです。この奇蹟の後、イエス様は癒やしをなさるのは二度だけ、十八章の最後と、ゲッセマネの園でペテロが耳を切り落とした人の耳を癒された、その二回だけです 。奇蹟が信仰を引き起こすわけではないことは、十六章31節でも明言されました。癒やしや奇蹟のあるなしが問題ではありません。問題は、私たちが、私たちを憐れんで下さる主を求め、その恵みに感謝するかどうか、です。ここでも、このような憐れみ深い癒しさえ人を神に立ち返らせるのではない事が教えられているのです。奇蹟がないからと主を捨てる人は、奇蹟があっても感謝するために引き返しては来ない。それは、救いに至る信仰ではないのです。

  あなたの信仰が、あなたを直したのです。

 これは、正しくは「救った」と訳すべき文章です 。それも、完了時制ですから、
  あなたの信仰が、あなたをもう救ってしまったのです。

という言葉です。ルカはこの言葉を4回も繰り返します 。けれども、先にも言いましたように、自分を救えるほど立派な信仰だ、というのでは決してないのです。この言葉を言われるのは、罪深い女、長血の女、サマリヤの病人や物乞いをしていた目の見えない人。いずれも、敬虔さを求める人々の眼中にはないような人でした。そういう人が、イエス様に憐れみを乞い求めたとき、そのイエス様に縋る信仰は、救いを得させる信仰だと言われます。自分の信仰がどれだけ熱心か、純粋か、という問題ではなく、ただイエス様を求めるという対象が正しかった故に、彼らは思いがけず、救いにさえ与ったのです。

 でも、こうして新たに立ち上がって行く時、人々は好奇の目で見るでしょう。かつて汚れていたもの、というレッテルは生涯つきまとうかも知れません 。主イエスへの信仰故に迫害も受けたはずです。やがてまた病にかかったでしょうし、確実に死にました。主は、人生のあらゆる問題を解決して、いつまでもバラ色になさる方ではありません。癒やしだけで満足した残りの九人は、感謝を忘れただけでなく、癒された事自体忘れたでしょうか。それとも、癒やしが人生を明るくするわけではないことにいつか気付いて、戻って来たのでしょうか。奇蹟や癒やしを求める以上に、病や困難を通して、憐れみ深い主に出会い、賛美する者となることが幸いなのです。戦いや虚しさに塞ぐような人生の旅路をも、すでに救われた喜びを歌いながら歩めることにこそ、幸いがあるのです。

 午後にコンサートがあります。多くの讃美歌作者たちは、目が見えなかったり、愛する人を亡くしたり、病や鬱に悩みました。その中で、主イエスに出会い、本当に明るい讃美歌を書きました。その尊い財産を今も私たちは歌っています。奇蹟や癒やしは過去のことではありません。次回見ますように、今も、主の御業は私たちのただ中で続いています 。

「憐れみ深い主が、私共の魂の深い必要を満たし、あなた様のもとにひれ伏し感謝する信仰を与えて、賛美の歌を歌わせてくださいます。願いが叶わなくとも、主イエス様のもとに帰って御名を崇め感謝する者とならせて下さい。私たちの人生そのものを、死の影の谷を通りながらも天の故郷に帰って行く旅路とし、その喜びの歌を歌い続けさせてください」


文末脚注

1 讃美歌273「わが魂を」「アメリカの説教者ヘンリー・W・ビーチャーという方が、次のような有名な言葉を残しているそうです。「地上に君臨したあらゆる帝王の名誉を勝ち得るよりも、ウェスレーのこの曲のような賛美歌を書きたいものだ。ニューヨーク一番の金持ちになるよりも、このような歌の作曲者になりたいものだ。金持ちは、しばらくすれば人々の記憶から消え去る。その人について何一つ話されなくなる。しかし人々は、最後のラッパの音とともに天使の群れが遣わされるときまで、この賛美歌を歌い続けることだろう。さらに神のみ前で、誰かがきっとこれを歌うことになると思う」
2 この律法は、私たちに罪や汚れを、自分のこととして考えさせるためのものであって、この病気にかかった人が特別に「汚れている」と差別されてはならないものでした。つくづくと、自分の汚れ、きよめの必要、憐れんで戴く他ない惨めさを思い、神にすがるため。今も私たちは、様々な形で「あわれんでください」と祈らされるのは、罪を抽象的にでなく、リアルに思い知る恵みである。感謝へと引き上げられるお取り扱いである。
3 「先生」エビスタテースは、ルカだけが6回使う言葉。いずれもイエスに対して。五5、八24(×2)、45、九33、49、十七13。
4 「あわれんでください」は、ルカが、十六24(金持ち)、十七13、十八38、39(エリコの盲人)だけで使い、神やイエスに対してのみ用いる、信仰的な言い方。しかし、その言い方が救いに至る信仰を保証するのではないことは、今日の箇所と十六章の金持ちの台詞が裏付けています。憐れみを求めるとは口だけで、憐れんでもらったら、もう忘れてしまうことがあるのです。憐れまれた、だから、感謝だ、憐れんで下さった神に栄光を帰します、というのが救いに至る信仰です。
5 ツァラアトの言及は、ルカでは、四27、五12前後、七22とここだけですが、四章と七章の2箇所は、教えの中なので、実際の登場はここと五章の2回です。
6 行くだけの信仰はあった。期待もあった。信じていた。でも、求めていた者が得られた時、感謝や賛美には心が行かなかった。信仰の弱さ、ではない。信仰の目的・本質が違っている。
7 Ⅱ列王十七24~41、参照。
8 この前の癒やしは、十四章1-6節の「水腫をわずらっている人」の癒しです。
9 「直した(救った。ソーゾー)」 六9、七50、八12、36、48、50、九24、56、十三23、十七19、33、十八26、42、十九10、二三35、37、39。
10 ルカ七50、八48、十七19、十八42。そして、いずれも時制は、後述の「完了形」です。
11 新改訳聖書は、第二版で「らい病」としていたのを、第三版で「ツァラアト」と音訳にしました。詳しい経緯に触れるには十分な紙面が必要ですが、ハンセン病のために苦しみ、差別を受け、人生を断絶された方々の深い苦しみに対して、教会も鈍感であり残酷であったことの反省をともなった変更です。今でも、第二版を使ったり、第三版を使いながらも「これは「らい病」のことです」と無邪気にも言ってしまったりする神経に対して、教会はもっと敏感でなければなりません。ハンセン病、また、精神障害者、犯罪加害者、同性愛者、被差別出身者、またそうした方を身近にしながら、それを公に出来ないでいる苦しみがあります。それに対する教会の鈍感さに、他人事めいた差別意識があることを真摯に認め、悔い改め、学び、変わっていかなければなりません。
12 憐れみを求め(キリエ)、恵みをいただき(福音説教)、栄光を帰し(グロリア)、感謝をささげ(祈りと献金)、派遣される。これは礼拝のパターンそのものです。

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ルカ十七章5-10節「さあ、さあ、ここに来て」

2014-06-18 14:53:50 | ルカ
2014/06/15 ルカ十七章5-10節「さあ、さあ、ここに来て」

 「私たちの信仰を増してください。」

と使徒たちが主イエスに言ったのは、前回見ました4節までの言葉に怖じ気づいたからでしょう。罪を犯した人がいたら、戒める。それで悔い改めたなら、何度でも赦して、受け入れる。そうしないなら、躓かせることになる。海に沈められたほうがましだ、と言われて、弟子たちは、自分たちにはそんな信仰はない、と思ったのでしょう。でも、

 6しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

 信仰の大小や不十分という問題ではない、とイエス様は言われます 。こう言われてすぐに、7節からは、しもべ(奴隷)の仕事に対する態度の話になって、言い付けられたことをするのが奴隷の仕事だ、と思い出させた上で、こう言われます。
 10あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

 実は、5節で、使徒たちが主に向かって、とありますけれども、福音書の時点で、十二弟子たちが使徒と呼ばれることは8回だけですし 、彼らがイエス様を「主」と告白するのは復活後ですから、こういう組み合わせはここだけなのですね。また、「奴隷(しもべ)」という譬えはルカが何度も愛用して使うもので、神様から教会の管理を任された立場を表す、お馴染みの言い回しです 。ですから、この譬えもまた、一般的なことではなくて、主イエス様から教会の育成を任された使徒たち、また後の教職者・リーダーたちが、主のしもべとしてどのような思いで与えられた務めを果たしていくべきか。教会の信徒たちをお世話するとはどういうことなのか。どんな心持ちで職務に当たるべきであるか、を教えているのです。でも、それは、私たちの信仰が足りないからダメだ、という問題ではありません。私たちが、役に立たないしもべだから無理だ、ということでもありません。神を信じさえすれば、神は桑の木だって歩かせて海に植わるようになさることが出来るし、一日に七度、人を赦すことだって出来るようにしてくださる。そう約束されているのです 。

 「私たちの信仰が足りないから」、そう言う時に、実は神様を信じる信仰ではなく、信じている自分の信仰心を頼みにしているのではないでしょうか。主は、桑の木も、山も、人の心も動かすことの出来るお方、いいえ、ご自身が人となっていのちをも惜しまずに十字架に捧げてくださった方です。でも、その方を信じるより、自分の信仰深さで、このくらいまでなら出来る、それ以上は信仰を増してくださらないと出来ません、と自分の「信仰力」を過信しているのです。信仰が足らない、とは謙遜のようでいて、実はそれ自体、全く神を信じていない証しかもしれません。そして、「私がやってる」と思っていると、ご主人に対して一日の終わりに「言い付けられたことはしましたけれど、大変だったんですよ」と言いかねない。奴隷が主人に自慢したり、労いを期待したり、という分不相応な態度を持つようになるのかも知れません 。

 ここで語られていたのは、赦す、ということでした。もっと前、十五章からは、一匹の羊や放蕩息子のことが語られていました。ルカの福音書そのものが、

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

と仰るイエス様を伝えています。私たちからすると、失われた羊、赦して受け入れてやる価値もないような放蕩者、ちっぽけな存在を、イエス様は、愛をもって戒め、悔い改めに導き、何度でも何度でも赦してくださいます。そこに、イエス様の教会の原点があります。でも、現実に、教会の中にも私たちの周りにも、問題が起きてしまうと、赦すことの難しさを覚えます。その時に、私たちが自分の信仰や努力で、戒めよう、赦してやろう、とすると、どうしても無理が出て来ます。いいえ、そもそも、自分の信仰を頼りに思っている限り、赦すといいつつも、心の中で赦した回数を数えたりしてしまうでしょう。小さい者を見下し、赦してやる、という思いでいる。それは結局、自分が教会にいること、神の家のしもべであること自体が、力強く、憐れみ深い主にではなく、自分の有能さとか資格とかの御陰だと誇っているのです。本当に自分こそは赦されて、憐れみを受けているのだ、と思っていれば、教会が、悔い改めた人に門戸を閉ざすなどということは出来ません 。

 考えれば考えるほど、教会にとって、悔い改めと赦しということは生命線です。そこにあるのは、イエス様の深い憐れみです。ですから、10節のイエス様の、

 「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

というお言葉も、「お前たちはどうせ役立たずだ」とばかりに、私たちを貶めて仰っているのではないはずです 。かといって、腹の中では「結構自分もやってきたよなぁ」と思いながら、そんな本音を隠して口先で「私なんか役立たずで」と、ご謙遜を言うのでもない。心から、自分はふつつかなしもべだ、と言う。自分の信仰は、からし種のようなものだと正直に言う。その貧しい信仰を通してさえ、主が力強く働かれます。誇ることなど何もないけれど、ただなすべきことをさせていただければよい。だから、私たちが、「役に立つしもべ」になりたいとか、信仰を増して下さいと願う必要は無いのです。

 イエス様は私たちが「役に立つ者」、申し分のない信仰を持つことを求めておられるのではないのです。足りないままでいい。人を赦すことに困難を覚えて、どこかで裁いたり軽蔑したりする思いがあるのは当然です。そういう私たちの冷たさ、人を赦せず、退けてしまう性格をご存じだからこそ、イエス様がこの冷たい世界に飛び込んでこられて、誰も思いつかなかったような赦しと愛を現して下さいました。主の御真実によって立つ、新しい共同体、教会を始めて下さいました。その御業に、私たちはまだまだ不慣れです。それが事実です。自分の信仰、自分の寛容さを誇ることは出来ませんから、自分は役に立たないしもべですとしか言いようがありません。でも、そこに惨めさはないのです。不完全なままで、ともに赦されてある。自分の不完全さを大きく捕らえすぎて、悔い改める人を阻んではなりません。教会が、キリストの(私たちの、ではなく)赦しと和解を証しするのが、私たちに与えられた「なすべきこと」です。それを身をもって教えて戴きながら、ここにおらせていただいていると、気負いのない思いで言わせて戴くのです。

 後の二二章24-30節でイエス様が仰るのは、やがて御国で主の食卓に着いて食事を共にする、というお約束です 。「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい」と仰るのです。それは決して、役に立ったから、立派なしもべだったからという報いや労いではない。只管、主の深く惜しみない恵みによることです。その惜しみない赦しと祝福を現して、教会が、福音の種を蒔き続け、主の羊を恵みによって養っていけますように、と願います 。

「私たちの信仰は芥子粒のようでも、不束(ふつつか)なしもべに過ぎなくても、主よ、あなた様に与えられた務めを光栄として果たさせて下さい。力強いあなた様が、私たちを通してさえ十分に働いて下さる。弱さを通してこそ豊かに働いて下さる、と心から信じさせてください」


文末脚注

1. からし種は「もっとも小さいもの」を指す慣用句です。13:19でも、天の御国の譬えとして使われます。日本語なら、「芥子粒(けしつぶ)」というような言い方がありますが、それと似ています。ですから、「からし種ほどの信仰さえない」などという言い方は、的外れです。
2. マタイ十2、マルコ六30、ルカ六13、九10、十一49、十七5、二二14、二四10。ルカだけは六回、マタイとマルコは一回ずつ。ヨハネはゼロです。
3. ルカ27回(2:29(シメオンの一人称)、7:2、3、8、10(百人隊長のしもべ)、12:37、38、43、45、46、47(主人の帰りを待つしもべ)、14:17、21、22、23(盛大な宴会のたとえ)、15:22(放蕩息子の父が迎え入れるためにしもべを呼ぶ)、17:7、9、10(本節)、19:13、15、17、22(ミナの譬え)、20:10、11(ぶどう園の譬え)、22:50(耳を切られた大祭司のしもべ)
4. 「桑の木」という言葉は聖書でここだけです。19:4の「無花果桑の木」と似た語ですが、これもそこだけに使われる語です。また、「海」も、17:2、6、21:25のみで使われる語ですが、ルカは「湖」とも訳せるこの名詞をガリラヤ湖には使わず、limnehを使います。この使い分けを考えると、今日の17章6節は、直前の2節の「海に投げ込まれる」を茶化しているのだとも読めます。
5. ルカでの「信仰」は、7:50、8:48、17:19、18:42(以上四回は「あなたの信仰があなたを救った」です!)、8:25「あなたがたの信仰はどこにあるのです」、22:32「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」の6回です。イエス様は意外な人の信仰が救いに至る信仰だったと評価されますが、「私たちの信仰」という言い方はここだけ。誰も「自分の信仰が私を救った」と言うことは出来ません。とりわけルカは、弟子たちの信仰については、極めて悲観的だと言えます。しかし、それだからダメなのではなく、からし種ほどの信仰で良いのです。
6. ルカ十九10。
7. この事は、ルカが7章35-50節の「罪深い女の香油注ぎ」の出来事を通して強調していたことです。これもまた、ルカの福音書全般に通底しているテーマです。
8. 「役に立たない」は、マタイ25:30とここだけで使われる言葉です。Unprofitable、unworthyというニュアンスで、「役立たず」「無用の長物」「穀潰し」という否定的なイメージではありません。新共同訳「取るに足りない僕」、榊原「ふつつかな」などの他訳とも引き比べてください。
9. ルカ22章30節「あなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」。その前からの部分を参照に。
10. 赦しの具体化は、まさに教会のあずかった、大事な仕事である。ここで躓かせることを現住に警告されるほどのこと。この福音の種を耕し蒔いて育てるのであり、この福音によって羊たちを養う。野良仕事をして、更に主に仕えるのである。それはしもべが自慢し、報いを求めることではなく、そのためにしもべはいるのであって、大変であってもそれを言い訳にするのではなく、「至らなくてゴメンナサイ」と言うだけのことである。それぐらい、赦しは教会の与った大事な基準。

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問7 「いっさいの事を」エペソ一3~11

2014-06-08 17:00:54 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/06/08 「いっさいの事を」エペソ一章3~11節 ウェストミンスター小教理問答7

 今日は「神の聖定」という言葉を覚えましょう。「聖なる定め」と書きますが、その通り、神様が定められた、聖なる御計画を「聖定」と言うのです。

  問7 神の聖定とは、何ですか。
  答 神の聖定とは、それによって神が、ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる、そのような御心の計らいにしたがった、神の永遠の御計画です。

 神様の永遠の御計画と言います。そして、その聖定によって、

 ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる

と言うのです。それが、先ほど開いたエペソ書一章でも、

  4…神は私たちを世界の基の置かれる前から、…
 10いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められたのです。
 11…みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

と、スケールのとてつもなく大きな話をしています。世界の基の置かれる前から、神様はご計画を定めておられて、天にあるもの地にあるもの一切が、キリストにあって集められる。神様は御心によって、ご計画のままを行われるお方です。神様にとって、行き当たりばったりとか、計画変更とか、小さすぎてどうでもいいことや、大きすぎて手に負えないことはありません。すべてのことが、神様によって、永遠の昔から定められていたのです。

 こんな事は私たちの理解を遙かに超えています。宇宙よりも大きなお方の話を、私たちのちっぽけな脳味噌で理解できるはずがありません。人間同士の話でさえ、理解し尽くすことは出来ません。昨日の話でさえ、飲み込むには苦労するのです。そんな私たちに、宇宙の一切や永遠の出来事を理解することは出来る筈がないのです。

 このことを弁えていないために、人間は偉そうに神様を批判します。永遠から全てが決まっていたなら、私たちが何をしても無駄じゃないか、とか。悪いことも神様が計画していたのか、とか。人間の心や自由はないのか。そんな反論をします。でも、例えば、「義務教育」というのを考えて見て下さい。小学校に上がる前の子どもは「勉強できなかったらいつまでも卒業させてもらえないかも」と不安になったり、「全然勉強しなくても卒業できるなら勉強止めとこか」と生意気に考えたりするかも知れません。でも、どちらも間違いでしょう。なぜなら、大事なのは勉強しなくても卒業できるかどうか、ではなくて、大切な勉強が出来る方がいいから小学校に行くんだ、ということです。

 神様も、この世界の全てのことを決めておられます。それは「聖定(聖なる定め)」であり、そこには、神様の大きな目的があります。

  ご自身の栄光のために、

という目的です。それをエペソ書では、

 3天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 4…御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 7この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。

 11…この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。

などと述べています。私たちが霊的に祝福され、聖なる、傷のない者となり、罪の赦しの贖いに与り、御国を受け継ぐ。それが、神様の定めの大筋なのです。全部が決まっているから私たちが何をしても無駄だ、と言う他ないような冷たい定め・運命ではありません。また、何もしなくても神様がやってくれるさ、と責任逃れをしたり、怠惰になったりすることも神様の目的とは正反対です。神様の聖定は、神様の霊的祝福によって、私たちが神様を賛美し、全身全霊をこめて神様にお従いする者となることです。それこそが、神様の目的でありご計画です。世界の歴史の流れを決めておられて、私たちが何をしようと、そのストーリーはビクともしない、というのではありません。神様のストーリーは、私たち一人一人が、神様のお取り扱いによって心を問われ、罪からきよめられ、聖なる生き方をすることです。冷たく、何にも動じない神ではなく、私たちを祝福に溢れさせて下さる神を、心から賛美して生きるようになる物語です。

 勿論、この世界には罪も根深くあります。ひどい悪や暴力も起こります。でも、それも神様のご計画だ、と黙って何もせずに受け入れるのは聖書に教えられている神様の御心とは違います。悪にもめげずに、正しく、チャンと歩むこと、必要ならば犠牲を惜しまずに働くことを、聖書から教えられるのです。諦めたり、無抵抗になったりせず、むしろ、悪に負けない者となることこそ、神様のご計画なのです。

 本を読んで、映画を見て、途中には大変な出来事やひどい人が出て来たりすることはあります。そこで、「こんな話を考えるなんて、酷い作者だ」と本を閉じたり、席を立ってしまったりしたら、作者が何を言いたかったのかは分かりません。神様は、世界全部のことをすべて考えておいでです。でも、その時その時の出来事がなぜ起きるのかは後にならなければ分かりません。何一つ、信仰を捨てたり、神様を疑ったり、罪の言い訳にしてもいい出来事はありません。その事に対して、私たちは、聖書に教えられながら、精一杯の応答をするだけです。今は分からなくても、神様は全部知っておられる。その確信に立って、希望を持って生きることが出来るのです。

 それもまた、イエス・キリストが、十字架において死なれ、三日目によみがえってくださったことに保証されています。神様がご自身を惜しまずに、私たちのためにささげてくださったこと、イエス様に対して、人間がどれほど身勝手で悪いようにしたか、でも、それも逆手にとって、イエス様はご自身の使命を果たされたこと。この方にあって、私たちは罪の赦しをいただき、救いのご計画に与っています。恐れる事はありません。すべてのことに働いておられる主への信頼をもって、イエス様に従って進ませて戴くのです。

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ルカ十七章1~4節「一日に七度でも」

2014-06-08 16:53:53 | ルカ
2014/06/8 ルカ十七章1~4節「一日に七度でも」

 今日はルカの十七章最初の4節だけに耳を傾けます。たった4節の短い部分ですが、私たちにとっては、いくつもの印象深い言葉が詰め込まれています。

 1つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。
 2この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。…
 4かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。

 どの言葉も、読み、味わえば味わうほど、強いインパクトのある言葉です。けれども、やはりここにも、私たちは主イエス様の深い慰めと励ましを聞くのです。

 「つまずき」という言葉は、新改訳聖書の欄外に「あるいは「罪の誘惑」」と注意書きがありますように、私たちを神から引き離すもの、罠に掛けて滅ぼしてしまうような事を言います 。よく教会では「牧師に躓(つまづ)いた」「躓きにならないように」などと言う人もいて、神様以外のものの問題を理由に、教会に来なくなることがあったりします。けれども、聖書がいう「つまずき」とはそういう障害物とは違うことを指しています。神から引き離すもの、罪の誘惑、という意味ですから、嫌なこと、ガッカリしたという躓きよりも、本人は喜んで罪の誘惑に引っ張られていくような、躓きとは思ってもいないような、そういうことを指しているのです。

 ここでの話の流れを考えてみましょう。躓きが起こることは避けようがないが、あえて躓きを起こさせる者は禍(わざわい)だ、たとえ相手が小さくても、その一人を躓かせるぐらいなら、石臼を首に結わえ付けられて海に放り込まれた方がましだ、と強い口調で言われた上で、

 3気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

と言われるのですね。イエス様が弟子たちに命じておられるのは、自分自身に気をつけよ、という事です。では自分の何に気をつけるかというと、兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めよ、そして、悔い改めたら赦しなさい。次の4節に強調されるように、一日に七度罪を犯しても七度悔い改めるなら、七度赦し続けよ、と仰るのです。これが、イエス様が仰っている「気をつけていなさい」であり、避けなければならない「つまずき」だと、ルカは言っているのです。

 自分が罪を犯さないように気をつけるのは勿論大事です。でも、ここではそれよりも踏み込んで、自分ではない、「兄弟が」つまり、教会の同じ信徒仲間が罪を犯す、それも「あなたに対して」罪を犯してきたとして、その時に私たちがどのような態度を取るか。そこに私たちの責任を問われるのが、主イエス様なのです。

 人が罪を犯すかどうか、は私たちの責任ではありません。それまで防ぐことは出来ません。でも、もし兄弟姉妹が自分に対して罪を犯したなら、その人を戒めることは私たちの責任なのです。罪だと戒めもせずに勝手に大目に見たり、陰口や文句だけ言って、戒めようとしなかったりするとしたら、それはその人が悔い改める機会を持たせないことです。それが、ここで言われている「つまずき」の第一の面です。それで聞き入れなかったらどうするか、という手続きは、マタイの福音書の十八章で詳しく述べられています 。ルカはもっと端的に、私たちの側が、罪を放っておかずに戒め、かつ、それを聞き入れて悔い改めたら何度でも赦すよう、自分に気をつける、という原則を打ち出しているのです。

 罪を赦すということは、大目に見るとか「たいしたことじゃない」と寛容になることとは違います。戒めて、悔い改めなければならないことをキチッと伝えなければなりません。それで相手が「冷たい。躓いた!」と反発することもあるでしょうが、それを恐れて腫れ物に触るようにしたり、自分さえ我慢していれば良いとか、見て見ぬ振りをしたりすることの方が、イエス様に言わせれば「つまずき」、その人を救いから遠ざけることなのです。

 ここで大事なのは、その相手を見下したり軽んじたりしない態度です。

 2この小さい者たちのひとりに、

と言われているのは誰の事でしょうか。前後を探してもなかなか見当がつきませんが、ルカはあちこちでこの言葉を使います。

 「小さな群れよ。恐れることはありません」

と言ったのも唐突でした 。言い換えれば、私たちはいつもどこかで、自分をも人をも、つい小さな者と見做しがちです。自分たちは小さい群れだ、あの人ひとりぐらい躓いても気にすることはない、一日に七度も罪を犯してくるなんて、そんな人のことは堪忍袋の緒が切れるのも当然だ-そんなふうに考えられてしまう人はみんな「小さい者」でしょう。その小さい者のひとりに、つまずきを与えるのなら、とイエス様は言われます。

そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

 躓いて罪を犯したままでいい、たいしたことのない人などいない。悔い改めてもなお罪を重ねてしまうならもう赦されなくても仕方ないような、そんな小さな人もいない 。そこに立っているかどうか、を問われています。そうです。主イエスご自身、私たちが罪の誘惑の中で滅びて行くには忍びないと思われて、ご自身のいのちという犠牲を払ってくださったのです。私たちを戒め、罪を悔い改めるよう、丹念に戒め続けて下さっているお方です。それで悔い改めても、なお何度も主に罪を繰り返し、悔い改めても懲りずに、また主の御心を踏みにじり、一日に七度でも七十度でも、それが三六五日、何十年と続いたとしても、なお見捨てることなく、赦し、戒めてくださいます。それは決して罪を黙認するとか許容するとかではありません。他者に対する罪もまた、石臼を首に結わえられて海に投げ込まれるほうがいいような重罪なのです。それを気付かせ、諭し、戒めて、心から悔い改めるようにとイエス様は、優しくも断固として言われます 。

 でも、何よりイエス様は、私たちがその滅び、他者をも見下し滅ぼすような生き方から、悔い改めと赦しに生きるために、ご自身のいのちを十字架に捧げてくださいました。海に沈められた方がいいような「小さい者(私たち)」のために、ご自身が十字架につけられ陰府に降ってくださったのです。その尊い主の御心によって、私たちは新しくされたのです。これは、道徳ではなく、キリストの教会が生かされている土台です。福音の原理です。人を見下し切り捨て、躓かせるのが人間の厳しい現実です。そのただ中で、主の民である私たちは、悔い改めと赦しに生かされているのだと肝に銘じ、気をつけたいと願うのです。

「小さい者を尊ばれる主よ。今日も、赦されない重荷を抱えてでは断じてなく、完全に赦された恵みをいただいて帰って行ける幸いを感謝します。私たちの信仰を増してください。小さき者を憐れんでくださる主を、私たちが阻んでしまいませんように。憐れみを忘れたこの時代に、悔い改めと赦しに生かされて続ける喜びを、全存在で証しさせてください」


文末脚注

1. 原語では「スカンダロン」といい、英語のスキャンダルの語源ですが、醜聞・不祥事というニュアンスよりも、元々は「罠」「つまずかせるもの」という意味でした。
2. マタイ十八6-20「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
3. 7:28、9:48「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」、12:32「小さな群れよ。恐れることはない」、17:2、19:3「背が低かった」(ザアカイのこと)
4. 七度も謝りに来る人は、赦されなかったからと言って、「赦せないなんてひどい、躓いた」とは言わないだろう。自分には赦される資格などやはり到底ないのだ、と自分を責めて帰るだろう。それ自体が、「躓き」なのである。神から離れて行くことは、喜んでであれ、絶望してであれ、躓きであり、避けなければならないことなのだ。
5. この赦しは、パリサイ人たちに対して語られた、「放蕩息子」の十五章のメッセージとも重なってくるモチーフです。


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