2016/10/30 ハイデルベルグ信仰問答37「苦しみを知る方」Ⅰペテロ2章18-25節
これは「パッションフルーツ」ですが「パッション」とはどういう意味でしょう。
「あの人のパッションはすごい」「彼はパッションの人だ」なんて言います。情熱的、心が燃えている。そんな意味です。もう一つイエス・キリストの苦難も指します。
元々は、パッションは「受ける・こうむる」という意味でした。キリストはとても激しい苦しみを受けられました。でも同時にそこには、キリストの情熱もありました。実は、パッションフルーツも、食べたらやみつきになる、というよりも、花の心が十字架の形に見えるからなんだそうです。パッションと言えば十字架です。そして、私たちは、美味しい食べ物やノリノリの音楽や、そんなもので情熱をかき立てられるに勝って、何よりもキリストの十字架の愛によって、私たち自身もパッションをかき立てられます。
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。
答 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを身と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの身と魂とを永遠の刑罰から救い出し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
さて、夕拝ではハイデルベルグ信仰問答に従ってお話しをしていますが、今「使徒信条」の解説で、私たちの信仰の基本を確認していますね。そして前回は、使徒信条の
「処女マリヤより生まれ」
の誕生のことでした。それが、使徒信条では、次に
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」
になるのですね。イエスがお生まれになってから、十字架に死なれるまで、30年ほどの御生涯がありますが、その間のことは何も触れずに、一気に「ポンテオ・ピラト」の話になるみたいですね。ところが、このハイデルベルグ信仰問答では、問い37で
「苦しみを受け」
を扱います。そして、次の問38で
「ポンテオ・ピラトのもとに」
を扱います。実は、使徒信条の元々の文章では日本語と逆で、確かに
「苦しみを受け・ポンテオ・ピラトのもとに」
なのです。だから、ハイデルベルグ信仰問答でも、その順番通りに丁寧に言っているのです。
つまり、使徒信条のいう「苦しみ」も、ポンテオ・ピラトのもとで裁判を受けたり、十字架にかけられたりした苦しみだけではなく、その前からのすべてのキリストの苦しみを指している、と考えて欲しいのです。前回の「おとめマリヤより生まれ」から、間を飛ばして
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」
だと、間のイエスの御生涯は全部すっ飛ばしているのではないのです。マリヤから生まれた後、ずっと苦しみを味わわれました。そもそも神の御子であるイエスにとって、蟹やウジ虫と変わらない人間になって生きる事自体が、大変な苦しみであり、リスクのあることでした。そういう大変なへりくだりをイエスはなさってくださったのです。イエスは、人として歩まれ、人としての様々な苦しみを味わわれました。私たちと同じ人間となり、私たちが受ける苦しみをすべて体験し、罪に対する神の怒りを代わって引き受けてくださったのです。
神は私たちを愛しておられます。しかし、愛するからこそ、私たちの罪を見逃すことはゼッタイに出来ません。神は罪を憎み、怒られ、正しく償われることをお求めになります。そして、私たちの心の汚れからは、何としてでも救おうとなさるのです。でも、人間には罪を償うことも、自分で清い心になることも出来ません。人間の世界の法律であれば、本人を罰したり、追い出したりして、罪を罪として処分する事でしょう。しかし、神は私たちに罰を負わせて滅ぼすとか、私たちを追い出し、排除することは望まれません。では神はどのような方法なら、人間の罪を罪として正しく罰しつつ、人間を滅ぼさない、という方法をとることが出来るのでしょうか。
なんと神は神の御子キリストが、自ら人間となって、すべての罪に対する神の御怒りを神の側で引き受けて下さったのですね。キリストが、十字架だけでなく、その受胎と誕生から、御生涯の間、私たちの罪に対する神の当然の怒りを引き受けてくださった。それが本当に人となって歩まれた、イエスの御生涯だったのです。ここでは、
…それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの身と魂とを永遠の刑罰から救い出し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
と教えてくれています。イエスの御生涯は、私たちの救いのための唯一の生贄となられた御生涯でした。だから、イエスは神の子として特別で、だれからも愛されたとか、誰をも寄せ付けなかった、とは思わないでください。むしろ、私たちの身と魂との苦しみ全てを体験されて、身体が傷ついたり、心が折れそうになったりしたこともあるでしょう。それは、私たちの「身と魂とを永遠の刑罰から救い出し」てくださるためでした。そして、もっと積極的に、「私たちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるため」でした。だから、今私たちは、イエスが人として苦しまれたから、自分たちが罪の永遠の刑罰からは完全に救われていると信じます。そして、今ここで、神の恵みと義と永遠の命とを獲得していただいている、とも信じるのです。
Ⅱペテロ二24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
イエスの十字架の苦しみは、今の私たちにとっての模範でもあります。生きていると苦しい事、大変な事があります。戦いや「どうしてこんなことが」と思える事が起こります。イエスはそういう戦いも経験されました。そのイエスの苦しみや傷は、私たちの傷を癒やし、悲しみを慰めます。イエスが本当に私たちとともにおられる。それは私たちが苦しみに遭わないということではありません。むしろ、私たちは苦しみ、心砕かれ、悲しみ、自分の限界を知る時に、イエスと一つにされるのです。イエスも苦しみを味わわれました。そこで「もういやだ!」と言いたくならなかったでしょうか。でもイエスのパッションは、私たちを愛されたパッションです。私たちを愛して、私たちのためにご自分の自由も力も捨てて、あんな苦しみさえ厭われなかったイエスの情熱を知って、私たちはイエスにますます深く結びあわされるのです。