2015/10/04 申命記十三章1~11節「本当に愛するか」
午後に結婚式を控えていますが、今日の説教題は、結婚式で問う誓約の言葉のようです。
「本当に愛しますか。幸いの日も禍の日も、豊かな時も貧しい時も、健康の時も病の時も、順境の時も逆境の時も、この相手を妻として/夫として、生きている限り愛し、真実と誠実を尽くすことを誓いますか」
と約束するのです。良いことばかりのバラ色の人生を夢見てスタートするのではありません。山あり谷ありの人生で、お互いに興醒めするような面が見えてくるとしても、それでも夫婦として互いを大切にし、真実に誠実に生きる。そう誓うのです。それは「安全な愛」の誓約です。自分を無条件に相手に捧げ合うことが、人間から見た結婚なのです。
それと同じ事が、今日の所で、私たちと神との関係にも言われています。前回十二章で、イスラエルの民がこれから約束の地に入り、新しい生活をしていくに当たって、他の神々を礼拝してはならないことが繰り返されていました。世界を作られた唯一の神である主、私たちの神となってくださった主だけを拝み、主を礼拝し、主の祭りを祝って、主の惜しみない恵みに感謝する生活を命じられました。今日の十三章はその続きです[1]。主のみを礼拝せよ、たとえ、
1あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
2あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
3その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。
更に6節以下で、自分の家族や親友が「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言ってきたとしても、それに耳を貸してはならない。また、12節以下では、イスラエルの中にあるどこかの町が一つ、町ぐるみで、邪(よこしま)な者に騙されて迷わされたのだとしたら、よく調べて、それを放っておいてはならない、と非常に厳しく言われているのです[2]。
この厳しさに抵抗を感じるのは当然です。今から三千五百年前のイスラエルで起きた基準をそのまま現代の日本の感覚で理解しようとしても難しいことは事実です。国家としてのイスラエルが目指したことは、当然、重罪に対しては厳罰をもって処するのが普通の感覚でした。それでも、ここではよく調べ、十分に調査することを命じています。噂話や感情的に誰かが処分されることはあってはなりませんでした。
また、時代が下って、新約聖書の時代には、イエスは
「わたしの国はこの世のものではありません」
と仰いました[3]。地上の国家の政治と神の民の政治が同一を目指すことの限界を明言されました。教会は、偶像崇拝を厳しく退けますが、偶像崇拝者を殺したりリンチにかけたりはしません。教会は信仰告白共同体ですから、その信仰を異にするなら最終的には除籍する形を取ります[4]。ここを根拠にして、暴力や中世の魔女裁判のような恐怖政治を正当化する事は、乱暴すぎる読み方です[5]。
それ以上に、聖書は、世界の神がお一人であり、その方が本当に愛に満ち、イスラエルの民を起こされたことを明言しています。その末に、イエス・キリストが神の御子でありながら、この世においでになり、私たちのためにご自身を十字架の死にまで捧げてくださいました。そして、そこに証しされた通り、今も私たち一人一人に深く関わり、ともにいて、祝福し、罪を赦し、暗やみから救い出し、恵みによる生き方を与えてくださいます。私たちを神の民、神の子どもとして、限りなく愛し、育ててくださっています。
この時は、申命記でここまで確認されてきた通り、エジプトの奴隷生活から救い出され、力強い神の証しをたくさん味わい、目にし、神の憐れみを十分すぎるほどに体験してきていました。
神は、イスラエルの民にとって、ひとつの宗教ではなく、力強い現実であり、そこにおられることがハッキリしている存在でした。これは、他の宗教や人間が考え出した神々とは決定的に違う信仰です。それを聖書は教えています。
それを知りもしない人に「キリスト教以外の宗教に誘われて行ってしまったら、石打になる」などと言うなら、肝心な点が見失われます。神の素晴らしさに心を打たれるよりも、神への恐怖心が先立ってしまいます。神は、ただ私たちを拘束し、脅して縛り付けたい方ではありません。
むしろ、神は自由を下さいます。色々な宗教や救済に縋るほど、自分の価値や幸せ、頼りになるものを追い求める苦しい生き方から解放してくださいます。「お金がなかったら幸せになれない、健康を失ったら惨めだ、人並み以下の生活をしたら恥ずかしくて生きていたくない、昔の失敗や家族の不名誉を何とかバレないようにしないと」-そんな不安な生き方から、神は救い出されたのが神の民です。だから、他の神への誘惑はとんでもないのです。
この厳しさの裏を返せば、神は私たちとの関係が特別な絆であって、結婚や親子以上に強いことを望まれている神の愛が見えます。夫婦の間に割り込んで裏切りを唆す人は、軽蔑されます。そういう行為は「どこまで許されるか」ではなくダメなのです。まして、神は唯一無二の栄光に富んだ神です。その神が私たちを恵み深く導いておられるのに、他の神や宗教にも救いがあるとか、お金や名誉や楽しみを神と引き比べてしまうことは悪い惑わしに他なりません。
けれども、この十三章が教えているもう一つのことは、私たちがどれほどこうした誘惑に弱いか、という事実です。目の前で奇蹟や不思議を見せられたら「こっちがホンモノかも知れない」と思ったり、近しい人に誘われたり、色々な手で神を裏切らせる事があるのです[6]。
なんといっても、聖書の最初に書かれているのは、エデンの園での蛇の唆しです。神の恵みを豊かに現したエデンの園の真っ只中で、「神はケチなお方だからこの木の実を禁じられたのですよ。食べても死にはしませんよ」と蛇に言われて、エバとアダムは神に背を向けてしまいました。それ以来、人間は目の前にちょっと良さそうなものがぶら下がると、神に背を向けて、飛びついてしまうのです[7]。そして、人を裏切り、関係を傷つけ、手遅れになってから後悔する、という繰り返しです。
そんな私たちにさえ言われています。本当に神を愛しなさい。神が私たちを愛されているように、私たちにもその神の愛に留まりなさい、と仰います。調子が良い時だけ賛美して、何かあるとよそ見をし出すなんてのは、本当に愛するとは言えません。神は私たちに、ご自身に対しても、またお互いの夫婦関係や親子、教会や職場の人間関係においても、脅して縛り付けたいのではなくて、本当の絆を持たせたいのです[8]。それはまず神ご自身が私たちを、今までも、今も、これからも愛してくださっている、という事実があるからです。
神が世界を作り、キリスト・イエスを世に送って、すべての罪をその身に負ってくださいました。私たちにその救いを届け、毎日のパンもいのちも、すべてを最善にするとの約束も、私たち自身の成長も、すべての善い物を下さっています。この神の愛に根差して生きることは、私たちの特権です。そして、その神の愛に支えられて、神を(神だけを)礼拝し、互いにも真実を尽くしていくようにさせてくださいと、ともに祝福を祈り、いただきたいものです。
「主よ、あなたのような神は他にはいません。私たちを愛し、どんな時にも恵みによって導いてくださいます。そして、私たちの愛をもホンモノとしてくださるあなたです。試みの中で篩われ、山や谷を越えながらの人生も、いつも主がともにいてくださいます。どんな関係よりも確かで深く豊かな、キリストとの交わりに生かされて、世の光として輝かせてください」
[1] ヘブル語の聖書では、直前の、「十二32あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない」から十三章が始まって、1節ずつずれていくのですが、それぐらい、十二章からの流れは大事です。
[2] 「試み」申命記八2、16では、荒野の四十年の厳しい生活が「試み」であったと告げられていました。ここでも、これまでの荒野での「試み」とこれからの約束の地での「試み」の性格の違いが示されています。しかし、いずれにせよ、いつどこにおいても、何があっても、致命的なことは、「あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない」(4節、18節も)なのです。
[3] ヨハネ十八36。
[4] またここで言われている「誘惑者」は「預言者」や「あなたの兄弟」など、「あなたがたのうちに」ある者であって、神の民以外の異邦人を殺せということではありませんでした。既に主の民とされ、主の栄光を味わい、土台としていながら、そういう事を言い出すとしたら、それは大いに罰せられるべき罪であることは明らかです。しかし、そういうこともあり得るのだ、と見据えられています。なぜなら、私たちは不誠実であり、目の前にぶら下がった力(幸せ、得、楽)に飛びついてしまうものだからです。
[5] ここでの律法の実際の適用例は、皮肉なことに、エレミヤ書十一19、三七13で、神に立ち返ることをラディカルに説いたエレミヤに、この嫌疑がかけられて、エレミヤは処刑されかけるのです。
[6] しるしや不思議が成就することは起こりうる。ノストラダムスの預言が当たったり、奇跡的な業や癒やしや変化がなされたりすることは、異教であってもあり得るのです。しかし、それはそのような教えがキリスト教以上に真理だとか、主に並び立つくらい本当だ、ということでは決してないのです。
[7] この事は、イスラエルがカナンの地に入ってまもなく現実となり、士師記において深刻な状況となりました。しかし主は彼らを直ぐに滅ぼしはされませんでした。その結果、どんなに自分たちが苦しむかを経験しつつ、主に立ち帰ってくることを心から学ばせていったのです。「士師記二20それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、21わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。22彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」」このパターンは、聖書で繰り返されていますが、そこに見られるのは、神の忍耐と深い悲しみです。
[8] 私たちは、人の愛を試してはいけません。相手の愛がホンモノか、わざと誘惑に遭わせたり、つれない素振りをしたりして、辛く当たることはしてはなりません。自分がそうされたら、苦しいし、傷つきます。そして、その結果、もしその試験にパスをしたら、次にはもっとハードルを上げた試験をすることになるか、試験にパスしなかったら、相手の愛を採点して不合格にする、というようなことになったら、それだけで、愛の関係ではないのです。しかし、主はそのような意味で「試みる」のではありません。主はすでに、一方的に私たちを愛されています。そして、私たちにもそのような愛をもって愛することを求められます。表面的な愛や、順調なときだけの愛ではなく、私たちがどんな時も主の愛を信じ、私たちも主を喜び、主に従うことを求められます。それが露わになるのは、誘惑や試練にあったときです。だから、主は、私たちが苦しみに遭うことも、敢えて良しとされます。