2018/11/25 ローマ書10章1~15節「悔い改めも信仰も贈り物」はじめての教理問答58
今日の夕拝の説教テーマはこれです。
問58 救われるために、なにをしなければなりませんか?
答 罪を悔い改めて、キリストを救い主と信じることです。
救われるためには、私たちがすることは罪を悔い改めて、キリストを救い主として信じること。悔い改めとキリストへの信仰、この二つをここで言っています。しかし、微妙なことで誤解しやすいことを確認させてください。前回までお話しして来たのは、救いは「恵みの契約」だということでした。私たちが罪を赦されて義と認められ、神の子どもとなることも、神の子として成長していくことも、神からの約束です。神が「恵みの契約」において下さった約束です。それは、私たちが良い子だったら、という条件付きではありません。また、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じたら、その約束がいただける、ということでもありません。まず、神さまの約束があるのです。神の大きな約束によって、私たちは救われるのです。でも、私たちが何もしなくていいのではありません。罪を悔い改めて、キリストを信じる事、このことは私たちに求められ、応答していく二つの大事なことなのです。いわば、「恵みの契約」の約束の中には、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じるようになることも含まれているのです。悔い改めも信仰も、
「恵みの契約」
の中に入っている贈り物、プレゼントなのです。
今日のローマ人への手紙10章では、パウロがユダヤ人の救いのことを書いています。ユダヤ人は、旧約聖書で神に選ばれた特別な民で、パウロもユダヤ人でした。しかし、パウロ自身かつてはキリストを信じなかったように、パウロは同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしない現状を嘆いています。ユダヤ人は神に選ばれて、奴隷生活から救い出されて、律法を与えられました。聖書という神の言葉をたくされました。紆余曲折を経て、とても熱心に神を礼拝して、自分たちを聖く保とうとしていました。しかしパウロがここで言うのは、聖書が与えられたのは、神を待ち望み、キリストに目を向けるためだったのに、ユダヤ人はそのことを誤解している、と言うことです。
4律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。5モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。6しかし、信仰による義はこう言います…。
聖書の命令は、キリストを目指すものです。でもそれを勘違いして、律法の掟を行うことで神に認められよう、神に受け入れてもらおうとするなら、どうでしょう。その人は信仰によってではなく、掟によって生きることになります。それは、キリストに対する信仰とは違います。人間が自分で正しく生きる事によって救われるのでは無く、救って下さるキリストを信じるのが
「恵みの契約」
です。そうだとしたら、
6しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
私たちは心の中で「誰が天に上るのか」誰が、神の元に行くのか。誰も天に上ることなど出来ないとか、あの人は立派な信仰だから神に迎え入れられるだろう、この人はキリストを告白しなかったのだから、天には行けないだろう・・・そういう風に心の中で言ってはならない。また、「誰が深みに降るのか」…滅びについても、あの人はどうだこうだと考えることを窘めています。なぜなら、天にいますキリストが、死者の中にまで降りて来てくださったからです。イエスのこの上ない高さも、イエスの限りない謙りも、どちらをも私たちは値引きすることが出来ません。律法の掟を行うかどうか、を基準にしない、キリストへの信仰を持つ私たちは、誰が天に上るのか、誰が深みに降るのか、判断することを慎むように言われるのです。では、何と言われるのでしょうか。
8では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ここで大事なのは
「あなたの」
です。
「誰が」
という他人事ではなくて、「私」の近くに御言葉があり、口にあり、心にある。私が口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる。誰か、の話ではなく、一人一人が自分の事として、自分に差し出された約束として、戴くのです。そして、その自分の告白や、心での信仰は決して小さくない。それは、自分の救いのしるしなのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。主は、主を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる、と言われるのです。
主が豊かに恵みをお与えになるのですから、私たちは誰かが救われる、救われない、と自分で決めつけてはなりません。この9節10節も、ここだけを切り出してしまうことがあります。
「心で信じて、口で告白しなければ救われないのだ」
と言ったり、
「あの人はちゃんとイエス様を告白しなかったから救われないのだ」
と決めつけたりすることがあります。それは、ここで言いたいことの逆ですね。誰かが天に上るか、深みに降るのかを云々することを窘めて、あなたが御言葉を信じて告白することを大事にしなさい、と言っているのです。すべての人が、主を呼び求めるならば、救われるのです。そして、呼び求めるためには信じることが必要だし、信じるためには聞かなければならないし、聞くためには誰かが宣べ伝えていることが必要です。だから、私たちがすべての人に御言葉を宣べ伝えていきましょう、というのです。その口も心も足も贈り物なのです。
この方はご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる主です。御名を呼び求める者をみんな救ってくださり、死者の中にまで降りて下さった主です。そして神に背を向ける生き方から悔い改めさせてくださり、キリストを信じる歩みを下さるお方です。悔い改めも信仰も神からの贈り物です。そして、私たちがこの主を宣べ伝える生き方をも下さって、その私たちの歩みを通して他の人を救ってくださるお方です。