聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答58 ローマ書10章1~15節「悔い改めも信仰も贈り物」

2018-11-25 16:22:42 | はじめての教理問答

2018/11/25 ローマ書10章1~15節「悔い改めも信仰も贈り物」はじめての教理問答58

 今日の夕拝の説教テーマはこれです。

問58 救われるために、なにをしなければなりませんか?

答 罪を悔い改めて、キリストを救い主と信じることです。

 救われるためには、私たちがすることは罪を悔い改めて、キリストを救い主として信じること。悔い改めとキリストへの信仰、この二つをここで言っています。しかし、微妙なことで誤解しやすいことを確認させてください。前回までお話しして来たのは、救いは「恵みの契約」だということでした。私たちが罪を赦されて義と認められ、神の子どもとなることも、神の子として成長していくことも、神からの約束です。神が「恵みの契約」において下さった約束です。それは、私たちが良い子だったら、という条件付きではありません。また、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じたら、その約束がいただける、ということでもありません。まず、神さまの約束があるのです。神の大きな約束によって、私たちは救われるのです。でも、私たちが何もしなくていいのではありません。罪を悔い改めて、キリストを信じる事、このことは私たちに求められ、応答していく二つの大事なことなのです。いわば、「恵みの契約」の約束の中には、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じるようになることも含まれているのです。悔い改めも信仰も、

「恵みの契約」

の中に入っている贈り物、プレゼントなのです。

 今日のローマ人への手紙10章では、パウロがユダヤ人の救いのことを書いています。ユダヤ人は、旧約聖書で神に選ばれた特別な民で、パウロもユダヤ人でした。しかし、パウロ自身かつてはキリストを信じなかったように、パウロは同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしない現状を嘆いています。ユダヤ人は神に選ばれて、奴隷生活から救い出されて、律法を与えられました。聖書という神の言葉をたくされました。紆余曲折を経て、とても熱心に神を礼拝して、自分たちを聖く保とうとしていました。しかしパウロがここで言うのは、聖書が与えられたのは、神を待ち望み、キリストに目を向けるためだったのに、ユダヤ人はそのことを誤解している、と言うことです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います…。

 聖書の命令は、キリストを目指すものです。でもそれを勘違いして、律法の掟を行うことで神に認められよう、神に受け入れてもらおうとするなら、どうでしょう。その人は信仰によってではなく、掟によって生きることになります。それは、キリストに対する信仰とは違います。人間が自分で正しく生きる事によって救われるのでは無く、救って下さるキリストを信じるのが

「恵みの契約」

です。そうだとしたら、

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

 私たちは心の中で「誰が天に上るのか」誰が、神の元に行くのか。誰も天に上ることなど出来ないとか、あの人は立派な信仰だから神に迎え入れられるだろう、この人はキリストを告白しなかったのだから、天には行けないだろう・・・そういう風に心の中で言ってはならない。また、「誰が深みに降るのか」…滅びについても、あの人はどうだこうだと考えることを窘めています。なぜなら、天にいますキリストが、死者の中にまで降りて来てくださったからです。イエスのこの上ない高さも、イエスの限りない謙りも、どちらをも私たちは値引きすることが出来ません。律法の掟を行うかどうか、を基準にしない、キリストへの信仰を持つ私たちは、誰が天に上るのか、誰が深みに降るのか、判断することを慎むように言われるのです。では、何と言われるのでしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 ここで大事なのは

「あなたの」

です。

「誰が」

という他人事ではなくて、「私」の近くに御言葉があり、口にあり、心にある。私が口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる。誰か、の話ではなく、一人一人が自分の事として、自分に差し出された約束として、戴くのです。そして、その自分の告白や、心での信仰は決して小さくない。それは、自分の救いのしるしなのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。主は、主を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる、と言われるのです。

 主が豊かに恵みをお与えになるのですから、私たちは誰かが救われる、救われない、と自分で決めつけてはなりません。この9節10節も、ここだけを切り出してしまうことがあります。

「心で信じて、口で告白しなければ救われないのだ」

と言ったり、

「あの人はちゃんとイエス様を告白しなかったから救われないのだ」

と決めつけたりすることがあります。それは、ここで言いたいことの逆ですね。誰かが天に上るか、深みに降るのかを云々することを窘めて、あなたが御言葉を信じて告白することを大事にしなさい、と言っているのです。すべての人が、主を呼び求めるならば、救われるのです。そして、呼び求めるためには信じることが必要だし、信じるためには聞かなければならないし、聞くためには誰かが宣べ伝えていることが必要です。だから、私たちがすべての人に御言葉を宣べ伝えていきましょう、というのです。その口も心も足も贈り物なのです。

 この方はご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる主です。御名を呼び求める者をみんな救ってくださり、死者の中にまで降りて下さった主です。そして神に背を向ける生き方から悔い改めさせてくださり、キリストを信じる歩みを下さるお方です。悔い改めも信仰も神からの贈り物です。そして、私たちがこの主を宣べ伝える生き方をも下さって、その私たちの歩みを通して他の人を救ってくださるお方です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱコリント書4章7-18節「土の器 第2コリント」

2018-11-25 15:51:41 | 一書説教

2018/11/25 Ⅱコリント書4章7-18節「土の器 第2コリント」

 今月の一書説教は「みことばの光」の聖書通読表に従い、コリント人への手紙第二、「慰めの書」です。神を

「あらゆる慰めの神」(1:2)

と呼び、慰めを語り、いくつもの美しい言葉で慰めを語ってくれる書。この手紙の中にある言葉を大切にしている方は、私も含めて多いでしょう。

1.「土の器」

 Ⅱコリントは多くのイメージを描き出しますが、一(ひと)際(きわ)印象的なのが4章7節

「土の器」

でしょう。イエス・キリストを宣べ伝える私たちは、宝を入れた土の器だ、と言います。

四7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

 「土の器」は、宝には相応しくない粗末な土の焼き物です。壊れやすいし、焼いた時点でヒビ割れや歪(ゆが)みが入ることもあるでしょう。欠けたら元には戻せません。そういう壊れやすい土の器を、神はご自身の宝を運ぶ器として選びました。神の宝はここで

「イエスのいのち」「神の栄光」「一時の軽い苦難…とは比べものにならないほど重い永遠の栄光」

などと言い換えられています。イエス・キリストが下さった福音、慰めは、測り知れない喜びです。どんな宝よりも尊く、決して朽ちない幸いです。その事もⅡコリントでは実に力強く、豊かに描き出されます。同時に、その宝を入れられている私たちは「土の器」です。8節以下、

四方八方から苦しめられ、

途方に暮れ、

迫害され、

倒され、

死と隣り合わせです。

外なる人は衰え、

いろんな艱難があります。

 人は「神が守ってくださるなら、そんな苦難や惨めな思いはしないで済むはずだ」と思いたいとしても、パウロはその逆を言います[1]。私たちは土の器。あらゆる苦難を通り、人として戸惑い、悩むのです。その私たちの欠け多く、弱く、人間臭い歩みを通して、神の宝はますます輝くのです。私たちは傷を通してキリストの慰めを戴き、この世界に今も生きて働き、やがて永遠の御国を来たらせる神の御業を知っていくのだ。パウロは、いくつものイメージを重ねながら、強くなろうとすることによっては決して見えない慰めを示すのです。

 これは抽象論ではありません。パウロはコリント教会への対処に手こずっていました。先に書いた手紙も功を奏さず、問題はもっとこじれていました。手塩にかけた教会との関係がギクシャクして心が安らがない。牧師、伝道者としての無力感に潰れそうでした。恐れやもどかしさに悲しむ中で、自分自身を「土の器」と思い至っていたのです。自分の弱さ、人としての限界を痛感しつつ、その脆(もろ)い私たちの内に神は働かれるのだと思い至った告白がⅡコリントです。私たちが鉄の器となるのでなく、土の器のままで神の宝を運んでいる、その実感を語るのです。

2.コリント教会と使徒パウロ

 コリントはギリシャの大都市で、パウロはここに教会を育てました[2]。パウロがコリント教会に書いた手紙は2通有りますが、それを読み比べると、他にもう2通の手紙があったらしいし、両者の間にパウロが直にコリントを訪問したようです[3]。つまり、パウロの3通の手紙もうまく働かず、直接の訪問も却って問題をこじらせたのです。加えて第二の手紙には「偽使徒」が入り込んで、パウロをこき下ろしていた事情が伺えます。彼らは雄弁で、パウロとの関係を壊そうとしたのです。パウロの使徒性を疑わせて、パウロの話しぶりが下手だ、苦労の甲斐のない、弱虫で伝道者失格だと決めつけたのでしょう。エルサレム教会のための献金を募るのは、自分で横領するつもりに違いない、と金銭問題もでっち上げたらしい[4]。そういう偽使徒による混乱も背景にありました。その関係を今から修復して行くに当たって、パウロは、自分がコリントのあなたがたをどれほど慕っているか、どれほど誇りに思っているか、を伝えます。

Ⅱコリント一13、14…私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。

 こういう信頼から切り出して、パウロはコリント教会との関係がこじれきった失意のうちに、涙ながらにトロアスで前の手紙を書き、テトスに託してコリントに送ったと言います。涙して書いた手紙がどう読まれただろう。真意は届いただろうか。不安で落ち着かず、そのために待っていたトロアスでの伝道は順調に始まったのに、コリント教会とのこじれを思うと居たたまれずに、せっかくのトロアスに別れを告げて、マケドニアに向かったというのです[5]。苦しく切ない親の思いです。でも、そんな弱く傷つきやすい自分だけれど、キリストがこの私たち人間に働いて、神の約束に与らせてくださるのだ。私たちは、キリストの香、宝を入れた土の器だと、主にある希望を6章までつらつらと語るのです[6]

 そして、そう語りながら七章で、遂にテトスが帰って来て、嬉しい事にあなたがたの悔い改めを聴かせてくれた。もう修復不可能かと思えた関係が、和解できる。それがどんなに嬉しかったか。慰めに満ちた神が、あなたがたの心を開いてくれたことが嬉しくて堪らないとパウロは吐露するのです。破綻の傷は深くて、まだ悲しみや恐る恐るの思いがあります。でもパウロは、神が関係の修復を始めてくださったことに慰められ、嬉しくて、その和解をケアするために書いた手紙が、この第二コリントです。

3.「弱い時こそ強い」

 この後、八-九章はエルサレム教会への献金について語ります。これも一般論としての献金ではなく、前からエルサレムへの援助を勧めていたのですから、改めてその献金のことを喜んでしてもらおう、という意味があるのでしょう。今でも献金の教えに、欠かせない箇所です。

 それに続いて一〇章からは、例の偽使徒の言いがかりへの反論が強い口調で語られます[7]。パウロは、偽使徒の自慢話に騙されないよう自分が愚かになって彼ら以上の自慢話で反証しようとします。ところが、その反論もすぐ迫害や鞭打ちや艱難の経験、言わば格好悪い経験リストになるのです[8]。更に、一二章では特別な神秘体験が仄(ほの)めかされますが、それもそのすばらしい体験で高慢にならないように、肉体に一つの棘が与えられた、という話になっていくのですね。それは本当に辛い障害だったようで、

「サタンの使い」

と言う程の苦しみでした[9]。パウロはそれを取ってくださいと主に繰り返して願ったのですが、主の有名な答えはこうでした。

一二9…「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

10ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 強さや特別な神秘体験、奇蹟は魅力的かもしれません。弱くなく、失敗せず、引け目のない在り方で安全でいたいのです。しかし神は弱さや失敗、痛みを通して私たちを慰め、助けます。挫折や障害、悲しみ、恥も通らせ、そこからしか始まらない何事かをなさいます。人は弱さを通して高慢から救われます。謙って神の力を求めます。思いやりが持てます。正直に自分を差し出す時、本当の共同体が生まれます。キリストの教会は、強さや見栄えや競争心で動く方向では育ちません。キリストご自身が弱くなり、貧しくなり、ご自身を与えて、限りなく低くなり、苦しみを通して愛を示されました。死によっていのちを現されました。それがキリストの教会の姿です。弱さを通して働かれる方を信頼して、正直に分かち合うのが教会です。

 Ⅱコリントの最後、13章13節は

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」

です。私たちの礼拝がいつも最後はこの第二コリントの祝福で派遣されるのです。祝福を運ぶ「土の器」として出て行きます。弱さや涙や恥を通して、イエスの慰めが、神の力が現されることを信じて派遣されます。そのことを大いに励ましてくれるコリント人への手紙第二を私たちへの手紙として読ませていただきましょう。

「主よ。あなたが十字架と復活により新しい契約を完成して、私たちを招き入れてくださったことを感謝します。私たちがあなたの宝を入れる「土の器」だとは何と恐れ多い、なんと不思議なことでしょう。主の謙り、私たちのために担われた痛みを心に刻み、その主の愛を運ぶ歩みを私たちに歩ませてください。この宝のようなⅡコリントをこれからも味わわせてください」



[1] そのような勝利や奇跡や成功指向の考えそのものをひっくり返すのです。

[2] 使徒の働き18章以下を参照。第二回伝道旅行の最後の2年間でした。

[3] 直接、コリントで問題を起こしていた人を指導しようとしたのですが、この指導は失敗して、パウロはコリントを引き上げ、手紙をトロアスから書いたのです。参照、Ⅱコリント二章1~4節。「そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。…あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。」

[4] Ⅱコリント十一7-11、十二13を参照。

[5] Ⅱコリント二12「私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、13私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。」

[6] 七5-15「マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。10神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。11見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。12ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。13こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。14私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。15テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。」

[7] 中傷に対して、偽使徒の問題を指摘したり、その教えの問題点に反論したり、という対応はしないのです。パウロを疑うコリントの信徒の問題を非難して厳しい態度を取ることもしません。そういう正面対決はしません。それよりもパウロが語るのは、信頼です。主への信頼と、コリント教会への信頼です。

[8] 加えて、「すべての教会への心づかい」と言い、教会のために悩み、戸惑い、苦しむ心をさらけ出します。

[9] 「とげ」の正体については、目の病気、性欲、マラリア、てんかん発作、背中の鞭打ちのむごい傷跡、など諸説あります。どれとも断定できませんが、断定できない所にこそ、私たちへの共感があるのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答55~57 ローマ書6章9~14節「恵みの下にあるのです」

2018-11-18 16:09:03 | はじめての教理問答

2018/11/18 ローマ書6章9~14節「恵みの下にあるのです」はじめての教理問答55~57

 聖書の「旧約・新約」という「約」は、神様の契約を指しています。聖書は、神様からの契約書です。それはイエス・キリストが私たちを贖うために、ご自身の命をささげてくださったことによる契約です。この、イエスが来られるまでの契約を「旧約」、イエスが来られて契約が完成された後を「新約」と読んでいます。イエスが完成される前の旧約と、完成された後の新約とで呼び分けていますが、しかし、どちらもイエスによる契約を指しているのであって、別々のことではありません。どちらも、ひとつの「恵みの契約」を指しています。旧約の時代も新約の時代の今も、私たちは自分の行いによって救われるのではなく、ただキリストの恵みによって救われるのです。さて、今日は、その「恵みの契約」には何が約束されていますか?ということを覚えましょう。

問55 めぐみの契約において、父なる神さまはなにを約束していますか?

答 キリストが死をもってあがなったすべてのひとを、義とみとめ、きよくされることを約束しています。

問56 神さまは、どのようにしてあなたを義とみとめますか?

答 キリストを通じて、わたしのすべての罪を赦し、わたしを義なるものとして受けいれてくれます。

問57 神さまは、どのようにしてあなたをきよめますか?

答 こころもおこないも、ますます聖なるものにしてくれます。

 ここには、神が私たちを「義と認め」ることと「きよくされる」ことの二つの約束が上げられています。

 キリストが私たちの罪をすべて赦して下さり、私を義なる者として受け入れて下さる。私たちは、自分の罪を神が怒り、罰するのではないか、と恐れる必要はなくなりました。これは本当に有り難い約束です。神は私たちの罪を全てご存じです。隠している罪も、気づかない罪も、神ならぬものを神のように慕っている不快問題もご存じです。神に対して私たちの罪は、重い、永遠の罰に相応しい重さを持っています。しかし、神はその私たちの罪を罰するよりも、ご自身のひとり子イエス・キリストの贖いによって、私たちを赦し、キリストの正しさを私たちに着せてくださいます。私たちは、キリストの贖いによって罪を赦されます。有罪判決は決してないのです。

 もう私たちは、神が自分の罪のために、将来私を切り捨てるのではないかと思う必要はありません。罪を永遠に責められるのではないかとビクビクする必要もありません。そして、罪が赦されただけでなく、キリストの義を着せられたものとして見てくださいます。主は私たちを「罪人」ではなく「キリストの証人」や「神の子ども」や「聖徒」として見て下さっています。罪赦された前科者として見られることはないのです。ですから、私たちは自分の罪や過ちが自分のアイデンティティであるかのように、恐れや恥から生きる必要はありません。たとえ、そんな心境に私たちが何度も何度も陥るとしても、神の贖いの約束は変わることがなく、私たちを励ましてくれます。支えてくれます。私たちは、すべての罪を赦され、義なる者として見られている。これを「義認」と言います。

 同時に、もう一つ

「恵みの契約」

には

「きよくされること」

も約束されていました。それは

「心も行いもますます聖なるものにしてくれます」

でした。罪が赦された、というだけでなく、私たちの実際の心や行いが聖なるものにされる。罪を赦されるのだから、罪をどれだけ楽しんでもいいや、ではなく、心も行いも聖なるものになるから、罪から遠ざかるようになるのです。この事を「聖化」と言います。

 義認と聖化。この二つは「恵みの契約」の約束している二つの事です。これに加えて

「神の子どもとされる」

という面もありますが、言わば「義認」と「聖化」は「神の子どもとされる」ことの二つの面だとも言えるでしょう。

 「義認」は子どもという立場です。私たちは罪人として神に背いた立場から、赦されて神の子どもとされた立場を与えられています。神が私たちを、ご自身の子にしてくださいました。孤児を子どもにする時、親となる人は法律上の手続きをします。その書類や手続きが終われば、法律上はもうその子は家族の一員になります。本人がピンとこなくても、赤ちゃんで何も分からなくても、また何かある度に「どうせ自分はこの家の子なんかじゃないんだ」とやけっぱちになったとしても、「今度こそ捨てられるんじゃないか」と思い込んだりしても、その家の子どもであるという立場(アイデンティティ)は決して変わりません。

 しかし子どもというのは法的な子どもであるだけでは不十分です。何をしても子どもなんだから、というだけで大目に見ているなら、却ってその家の子になった意味はないでしょう。今日のローマ書でも6章は

恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません!」

と始まっています。

10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

11同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

と勧めて、そのように生きることを教えています。私たちも、罪の赦しだけでなく、心も行いも聖くされることを求めて、生きるよう勧められています。

 ただし、もう一つ肝心なのは、この「聖くされる」ことも神様の恵みなのです。罪の赦しは神の恵みで、聖くなるのは私たちの努力次第だ、と考える人は多くいます。しかしここでも言われます。

14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

 私たちを支配しているのは、罪ではなくキリストです。まだ私は罪を犯し、キリストを忘れ、疑いもするでしょう。でも私たちはキリストのうちにあって生かされています。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあります。キリストが私たちを形造り、成長させてくださるのです。聖とされるとはキリスト抜きに聖くなるのではありません。聖なるキリストに結びつけられていくことです。主は私たちを心も行いも、神の子どもらしく、もっと喜び、自由、正直なものにしてくださいます。神の子どもとして、成長させてくださいます。義認と聖化の二つは、「恵みの契約」を通して私たちに約束されている二つのことです。義認も聖化も恵みです。この二つを手がかりにしていきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記1章1~19節「大いなる造り主」 03

2018-11-18 16:03:01 | 聖書の物語の全体像

2018/11/18 創世記1章1~19節「大いなる造り主」

 聖書の初めの言葉は、

「はじめに神が天と地を創造された。」

です。聖書は、最初に神が天と地を作られた様子を私たちに語ります。私たちは聖書の光を通して、神について、世界について、そしてそこに生かされている私たち自身について、新しく知らされるのです。

1.天地創造の特徴

 この天地創造の記事にはたくさんのことが言われています。まず、神が天地を作られたという事実があります。世界は偶然に出来たのではなく、また、神が作っているうちに予想外のハプニングがあって世界が出来てしまったという神話でもなく、神が完全な制作者として世界を造り、順番に完成に近づけ、区切りごとに

「それを良しと見られた」

と確認されて、喜ばれていることが分かります。

「光、あれ」

と言えば光があり、

「大空よ」

と言われれば大空があり、

「水は集まれ」

と言われれば地が現れて海が出来る。

「地は植物を芽生えさせよ」

と言われればそのようになる。神の言葉の力強さにも驚かされます。神の創造の経緯は実に大胆です。

 同時に、神がこの世界に寄せている関心の深さもうかがえます。天と地を大雑把に作っただけでなく、神は関わり続けて、豊かにかつ細やかに、生き生きと整えられます。聖書には植物の名前が百種類ほど出て来ますし、現在は20万から30万種ぐらいと言われるそうです[1]。それだけの植物を生えさせるほど、神はこの世界に豊かな関心をお持ちです。世界の創造を楽しんでおられ、それを見て良しとされます。この「良し」は「すばらしい、喜ばしい、美しい、健康」といったニュアンスがあります。神はこの世界を美しく素晴らしく造られました。この世界を愛され、言わば世界をご自分の庭として、この世界に深く手を掛けられるのです。

 物作りやゲームやイベント、何かを造る仕事を「クリエーター」と呼ぶことが日本の業種として定着していますが、神は文字通り創造者(クリエーター)であり芸術家(アーティスト)です。世界は神の作品で、様々な趣向を凝らした、美しく、いのちの漲(みなぎ)る芸術です。そうは言い切れない問題も沢山あります。その事も創世記3章以降で取り上げていきます。それでも、問題を根拠に世界は虚しく無意味・無価値で、神はいないか世界を見捨てたのだ、とは考えないのです。世界はそもそも神が創造されたのであって、神はこの世界の創造主として世界に深い関心を寄せておられて、私たち人間の中にも働いておられる。引いては、それ故、今の私たちの問題だらけの人生や歴史にも、大いなる神は働いて下さって、そこから思いもかけない良いもの、美しい回復、素晴らしい物語を始めて下さる。そういう信仰を創世記から始まる聖書は随所で宣言しているのです。

Ⅱコリント四6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

2.「光る物」

 神が創造者だ、という信仰は、もう一方で、神ならぬものを神とする考えを一蹴します。世界は神によって造られた素晴らしい世界ですが、その素晴らしさを勘違いして神のように崇めて、本当の神に栄光を帰さない。それが偶像崇拝です。ここで特筆されるのは、14節以下。

「光る物」

とあるのは太陽と月のことですね。昼を治める太陽と、夜を治める月。しかしここでは「太陽」「月」と言わず

「光る物」

と素っ気なく呼び捨てます。太陽や月は多くの文化では神々として礼拝されています。神話でも大事な役を果たします[2]。だからこそ聖書は、太陽や月を「光る二つの物」と呼び捨てて、あれは神ではなく、あれを造られた大いなる神こそがあなたの神だ、と言っているのです。神が与えてくださった生き方の指針「十戒」は、

出エジプト記二〇3あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…

と太陽や月をも偶像にしてはならないことを強調しています。確かに太陽は天で光って、生活に必要なものです。その熱や光は

「地を治める」

と言われるぐらいの大事な働きをしています。でも神ではありません。太陽には物凄いエネルギーはありますが、世界を造ったり育てたりする力も心もありません。私たちが礼拝する神は、太陽もこの世界も造られた大いなるお方で、私たちを生かして、地に豊かでバラエティに富んだものを造られる芸術家、愛の神です。

 聖書が、神はどんなお方か、を創造から書き始めているのは、人間が神を見失っていることも大きな理由の一つです。人は神を見失って、神ではないものを崇めているのです。これは偶像崇拝ですし、神に背を向けている罪です。罪とは道徳的に悪いということ以上に、神の律法に逆らうことです。神の御心に背いているのが罪です。神を神としないこと、神ではないものを神のように崇めて、恐れて、恋い慕っている生き方。「悪い生き方」ではなく、神が造られた良い物が神の代わりになって、本末転倒になっているのが罪の生き方なのです。

ローマ一25彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

3.偶像崇拝からの救い

 太陽や月も本来は良い物、大事なもの、なくてはならぬものです。でもそれは神ではないし、それに仕えるなら人生の方向は大きく変わります。家族や健康、仕事や趣味、お金、名声、国家や思想、キリスト教の伝道活動や教会堂や組織だって「偶像」になり得ます。どんな大事なものも神ではないし、神にすべきではないし、なってもくれません。それなのに、神から離れた人間は、太陽や鰯の頭をも縋り付いて失うまいと必死になります。その一方で、本当の神がどんなお方かも誤解しています。神の偉大さと関わり、あるいはその両方が見えません[3]

 今日読みましたイザヤ書も神の創造を引き合いに語っていましたし、聖書は神が天地を創造されたことから語り出すメッセージです。神の大いなる天地創造から語って、私たちを造り主なる本当の神に引き戻してくれるのです。聖書の物語の全体が、神から離れた人間を回復させるために、神ご自身が立ち上がってくださった。そういう物語が何章もかけて綴られる本とも言えます。世界を造られた大いなる神、太陽よりも偉大で、小さな植物の一種類をも愛おしまれる神が、私たちの神であられる。そして、私たちが神ならぬものを崇めている生き方から引き返して、神との親しい交わりの中に生きるよう、あらゆる手を尽くして下さる。聖書の歴史を通して、神がどれほど人のために心を砕かれ、あの手この手を使って、人間に働きかけてくださったかが明らかにされます。実に豊かで、意外な方法で、神は人間に働きかけます。最後には、神の御子イエスご自身が人間となって、人として歩まれ、私たちの身代わりに十字架の死を遂げてくださり、三日目に復活なさる、という誰も予期しないことをなさるのです。

 神の方から人間のために犠牲を払ってくださいました。イエス・キリストはご自分の痛みも恥も惜しまない、想像を絶する方法で、私たちを取り戻してくださいます。そして、その回復の出来事そのものが、一人一人違います。また単純に「信じたらお終い」でない、生涯掛けて、深く取り扱われる回復です。生涯掛けて神の恵みや偉大さを知り、人の心や自分のうちにある思いと向き合っていく、それぞれに特別な回復の道程があるのです。本当に神は、この世界を造られたお方、そしてこの世界に現されているように、偉大で、細やかで、限りない想像力と豊かで多様なことをなさる方です。ただ神に立ち帰るだけでなく、神がどれほど豊かで大いなるお方か、どれほど私たちを愛され、世界が神の限りない憐れみと喜びの中に生かされているかを知っていく。それもこの世界に用意されている歩みなのです。だから希望が持てるのです。

「天地万物の造り主であり、私たちの細胞や心の襞さえ支えておられる主よ。あなたが一人一人に違う個性、違う人生、神の子とされる特別な歩みを下さっています。測り知れないあなたの偉大さと愛を誉め称えます。私たちの小さな理解を超えた奇しい導きを見せて、御名を崇めさせてください。そうして、私たちにあなたにある希望、信頼、喜びを証しさせてください」



[1] 植物学のHPではこのように記載されています。「新種の記載は日々行なわれていますし,研究者によって種の認識は異なりますので,正確な種数というのを示す事はできません.そこで,下記の文献に記述されている種数,という形でお返事いたします.…「植物」の範囲がどこまでかは分かりませんが,維管束植物で記載されている種数については下記のとおりです.世界の維管束植物の種数:約235,500種(Judd et al. (2002) Plant Systematics: A Phylogenetic Approach, Scond Ed. Synauer, Massachusetts U.S.A.より)(科ごとに種数が記されています.大学図書館などにあればご自分でも調べてみて下さい) 日本の維管束植物の種数:約4630種(変種や亜種等も含めると約7500の分類群が記されています).「日本の野生植物」シダ,草本I, II, III,木本I, II.平凡社,東京.」 Q&A「植物種」「日本植物学会」

[2] 日本語でも「お天道様」とか「お月様」と人格化された呼び方がありますが、古来「太陽」「月」は神々として崇めていました。

[3] 交読した今日のイザヤ書40章も「28あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」と天地創造を言い、その方は現在の私たちに対して「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」方でないはずがない!と展開しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記2章4~14節「エデンの約束」

2018-11-11 20:40:37 | 聖書の物語の全体像

2018/11/11 創世記2章4~14節「エデンの約束」

 聖書は私たちを「神の人」として整える有益さがあります。ではどのような形で私たちを整えてくれるのでしょうか。聖書には規則や「良い言葉」や道徳もありますが、それらを包み込んでいる大きな流れがあります。その大きな流れの中にいる、という自覚も大きな益なのです。

1.エデンの契約

 聖書は創世記の天地創造から書き出します。創世記2章4節以下は、天と地が創造された時の経緯として、人間の創造に焦点を当てます。この部分を読んで印象に残るのはどんなことでしょう。それは、5節では地に灌木も草も生えておらず、雨もなく、人もいなかった淋しい状態だったのが、園が設けられ、木々が生い茂り、四つの大きな川が流れ出ている状態に変わった、という大きな変化でしょう。その中心にあるのが、人間です。7節の人間の創造です。

二7神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。

 ここに、神がお造りになった世界の中で、人間が与えられた特別な位置づけが強調されています。人間は、特別な役割が与えられています。神は、ご自分が創造された世界を、ご自分だけ完成してしまうことはなさらず、大地の塵から人間をお造りになりました。そして、わざわざその鼻にいのちの息を吹き込まれて、人を生きるものとされた。そういう丁寧な描写をすることによって、私たち人間が、神によって特別に作られた存在であると分かります。

 もちろん「特別」と言っても、自惚れたら勘違いです。世界の支配者のように思い上がり、動物を見下したりしたら、本末転倒です。むしろ人間は世界の管理者ですね。5節の最後

「また、大地を耕す人もまだいなかった」。

 裏を返せば人間は大地を耕すために造られたのです。15節にも

「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」

とあります。人間は神がお造りになった地を耕し、守り、世界を育て、発展させる役割を与えられています。最も基本的なのは農業ですし、聖書はこの後、工業や建築、芸術や音楽、教育、様々な分野で文明が発達していく様子に触れていきます。人はこの世界に秘められた可能性を引き出す管理者です。仕事は呪いではありません。働くことは本来、創造の時点からあった、神からの祝福です。神はご自身の造られた世界を人に託し、喜んで管理して、発展させようとなさいます。人間は思い上がることなく謙虚に、心を込めて、喜び楽しみ、働く存在なのです。聖書は創造の出来事を生き生きと豊かに書き出しています。神は、この世界を豊かな世界として造られています。そして、その中に人間を置かれて、地を耕す役割を与えられました。

2.地に置かれた人として

 神は人間のお手伝いを必要とされたのではありません。

「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を」

生えさせたのは神である主ご自身であって、人ではありません。いのちの木と善悪の知識の木とを生えさせたのも、人ではなく神です。10節以降の川も、エデンから湧き出て園を潤し、そこを源流として豊かな四つの大河という、いのち溢れるイメージになっています[1]。決して人間がこの川を流したのではなく、ただその流れの豊かさに、アダムは息をのんでいたのでしょう。そうして、地を耕し、守る生活も、神が木々を生えさせるいのちのわざに驚きながら、汗を流して、管理をしていたのではないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で、何もしなくて良かったわけではなく、その反対に、彼らは園を耕し守る仕事をしていました[2]。それも四つの大河の源流がある広大な園の管理する、大きな責任を果たしていたのです。労働は堕落後の呪いだという誤解もありますが、聖書では最初から人間は働いています。人は大地から作られ、大地に関わりながら、神様の御業を味わい、神の創造の豊かさを知って、そのお働きの一端を担いながら、この世界の素晴らしさを知っていく存在です。

 7節に

「大地のちりで人を形造り」

とあります。しかし「人間は金や宝石でなく、塵から造られたに過ぎない」という教訓ではありません。金や宝石が高価で、塵なんて価値がない、という発想自体、神が世界のすべてを創造されたことが分かるなら変わりますね。神は世界をすべて金や宝石で造らずに、草や花も塵も空気もすべてをかけがえなくお造りになったのです。人が地の塵から造られたのは、人がこの世界と深いつながりを持っているということです。塵から造られた「詰まらないもの」とは逆に、塵をも詰まらないものと見なさず、この世界のすべてのものを神の贈り物、意味のあるものとして、大切に管理し、耕し、育てるのです。

 神は人の鼻から

「いのちの息」

を吹き込みました。そうして初めて人は生きたものとなりました。神からいのちを吹き込まれて、神との交わりに生きる時に、初めて人は命を持つ。そうして、世界に置かれた自分の仕事を果たしていくことが出来る、ということです。神の息を吹き込まれて、神との交わりを楽しみながら、神が造られた豊かな世界の中で耕し、働く。ただ耕すだけでなく、神とともに世界を楽しみ、味わい、喜ぶようにと、神は願われたのです。

3.新しい天と地を待ち望む

 主イエスは神の国を例えて仰いました。

マルコ四26…「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、27夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。28地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。29実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」[3] 

 イエスはこれを譬えとして仰いましたが、創世記で最初の人が体験していたのは、この譬えそのものでした。大地を耕し、園を守りながらも、自分の働きを越えた神のいのちの業を見て、驚いて、神を賛美して働く、そういう関係だったのです。

 現在、種を蒔いても作物はそう簡単には育ちません。労働はそんなに喜ばしいものではなく、汗水流しても報われないことが多くあります。それは、この後三章に書かれている変化があるからです。人は神から離れてしまい、最初の罪のない関係は大きく壊れました。地と人間の関係も損なわれて、地は茨やアザミを生えさせるようになります。人は神との壊れた関係の回復を必要とします。そのために神のご計画が始まっていきます。それが聖書の物語の中心テーマです。そのクライマックスは、神であるイエス・キリストが世界に来られて人となり、十字架にかかり、復活されて、聖霊を注いで下さること、新しく

「いのちの息」

を吹き込んで下さることです。主は私たちを生かしてくださる。神との関係が壊れた人間を癒やして、回復して下さるのです。その時、地の関係も回復されずにはいません。地から作られた私たちは、この地で日々神の業がなされている一端を担っています。神の子とされた私たちにとって、礼拝や伝道と同じぐらい、仕事、家事、育児、介護、精一杯生きることそのものが神からの贈り物です。

 繰り返します。出発点は創造です。この世界は神が創造された善い世界です。私たちはこの地から作られ、この地を耕したり生活を営んでいく大切な使命を与えられています。でも、その後に人が神に背いた堕落がありました。いつもその影響が世界にはありますし、自分自身も罪や問題を抱えています。でも、神は恵みによってこの世界に働いておられます。神の創造された世界は決して失敗で終わりません。神の尊い恵みがあります。私たちはそこで希望を持つことが出来ます。罪も見つめ、問題に取り組みながら、主に祈りつつ、助け合いつつ、心を込めて自分の仕事を果たします。最後には、神が世界を完成させてくださる、と希望を持ちながら、働くのです。人の手を越えた神の御業を信じつつ、罪の現実もシッカリ見ながら、それ以上の神の恵み、最善のご計画を信じて、生活をしていく。そういう姿を整えられるのです。

「主よ、あなたは人を塵から作り、息を吹き込み、地に置かれました。沢山の恵みと大切な使命とを与えてここに生かされていることを感謝します。仕事も家庭も社会の活動も、簡単ではありませんが、私たちの手の業をも用いて主がこの地に御業をなさってください。祈り、賛美し、待ち望みつつなすすべての業を通して、御名が崇められ、地が喜びで満たされますように」



[1] 11節の「ピション」と13節の「ギホン」は詳しいですが、場所は不明です。14節の「ティグリス…ユーフラテス」は言わずと知れた、文明の源流となる大河の名称です。しかし、これが現代のティグリス川とユーフラテス川そのものとは、地理的に考えられません。(二つは近いですが別々の源流から流れる河です)。読者には、第三、第四に「ティグリス」「ユーフラテス」と来る事で、「ピション」と「ギホン」がそれを上回る大河としてイメージできたでしょう。そのような四つの大河の源流が流れる園という描写に、エデンの園の豊かさ、広大さが伝わったはずです。

[2] 私は以前、エデンの園にいるアダムとエバは、何も働かずにのんびりリゾート暮らしをしていたイメージがありました。聖書を読めば違いますよね。

[3] また、この後には、「からし種」の譬えを語られます。「30またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。31それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、32蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 この二つの譬えの連続は、神の国のいのち溢れる力を豊かにイメージさせます。当然、その前の「四つの種」の譬えも、道徳的に読むよりも、最後の「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」に力点があると気づきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする