2015/03/29 ルカの福音書二三章33-43節「当たり前ではない十字架」
少年犯罪やテロ事件などが起きるたびに、犯人たちのことを「自分たちのしていることが分かっていない」と言いたくなる思いになります。どれほど大変なことをしているのか、自分の首を絞める行為でしかないとか、身勝手な言い分だとか、そんなことが見えていないと言いたくなります。けれども、イエス様は十字架の上でこう仰いました。
二三34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…
その「彼ら」とは誰でしょうか。まず思いつくのは、イエス様を十字架につけた人たちでしょう。イエス様を十字架に縛り付け、その手足に釘を打ち付けた人。また、その後には、
…彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
とある人々です。イエス様はご自分に太い釘を打ち込み、服をはぎ取って丸裸にして、その服をくじ引きで分ける人を、恨んだり呪ったりするのではなく、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
と仰ったのです。十字架刑は、大変残酷で激痛に苦しみ続けるような処刑方法です。今それを詳しくお話しする事はしませんが、イエス様のお言葉も、涼しい顔や苦しみに耐えながら言われたのではなく、気が狂うほどの痛みの中で、タテマエや綺麗事などはぎ取られるような状況で、こう叫ばれたのです。しかし、今この箇所を読んでも、イエス様の苦しみや痛みには、殆ど触れていなかったことに気づくでしょうか。他のマタイやマルコの福音書と比べても、ルカの福音書は、イエス様の苦しみとか十字架の出来事には関心を寄せていないのです[1]。その代わり、ルカが強調するのは、イエス様を眺める民衆、指導者たちが嘲笑い、兵士たちが嘲り、酸っぱいぶどう酒で苦しめようとする姿です。そして、そこでずっと、彼らが言っているのは、「自分を救え」という言葉でもあることに気づきます。
35…「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
37「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」
こういう姿の真ん中に、「これはユダヤ人の王」と書いた札が、イエス様の十字架の天辺に掲げてあったとあります。これはイエス様の罪状書きとして書かれたものですが[2]、しかし、教会にとってイエス様は本当の王ですね。ですから、皮肉にもこれは、象徴的な札でもありました。その札の前で、民衆も指導者も兵士も、隣の犯罪者も、みんながイエス様に向かって、「ユダヤ人の王、救い主なのだから、自分を救って見よ」と囃(はや)し立て、罵っている。そういう姿を丸ごと指して、イエス様は、
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
と仰ったのです。要するに、イエス様を十字架につけた人だけではない、すべての人が、イエス様の赦しの祈りには含まれているのです。そして、その末に、もう一人の強盗が言います。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
こういう会話がなされます。言い換えると、このもう一人の犯罪人は、自分が何をしているかが分かったのです。イエス様を嘲ることがとんでもない間違いだと分かったのです。イエス様が苦しんでいるのが「ざまあ見ろ」でも「自分を救えない」だらしない姿でもない。この方は、十字架につけられるばかりか、何も悪いことはしていない方であることに気づいたのです。もう一人の犯罪人はそれに気づけませんでした。民衆や指導者や兵士も、イエス様の姿を見ながら、そんなふうには思いませんでした。でもこの人は、イエス様の正しさに気づいたのです。
この人だけが、どうしてイエス様の正しさに気づけたのか、この方を嘲ることの間違いに気付けたのか、それを説明することは出来ません。ましてこの人が、なぜイエス様が十字架に苦しんでいるのかまで思い至れたのではないでしょう。民衆や指導者がなぜイエス様を十字架に殺してしまおうとするほどイエス様を憎み、理解できず、抵抗しているのか、も分かったわけではないと思います。ただ、少なくとも、こういう形でイエス様に出会ったから、最後の最後で、彼は自分の生き方そのものの間違いに気付くきっかけになったとは言えるでしょう。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。…
死の間際で、こう言い切れました。十字架刑が相応しいような生き方をしてきたのだ。でも、その十字架が当たり前の自分のそばにいるこのイエスという方には、十字架だなんて当たり前ではない。その当たり前ではない方が自分の横におられる。そのお方に、彼はこう言いました。
42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
この方に相応しいのは十字架ではない、神の国の王座、王位です。だから、その王座に戻られて世界を治めるときに、どうぞ私を思い出してください。私を救えだなんて言えない。十字架がおあつらえの自分でしかない。本当に私は、自分が何をしているのか分からずに生きてきました。でも、どうぞ私を思い出してください。「父よ。彼らをお赦しください」と祈ってくださったそのあなたの声に肖らせてくださって、どうぞ、私を思い出してください。そう祈ったのです。犯罪者としての最期を迎えて、なお人を罵倒し、神を呪い、自分を正当化しながら死んでいくのではありませんでした。自分の間違いを認めて、悪かったと思えて、それを誰かのせいにしたり憎しみを抱えたりしたままでもなく、でもその何も分かっていなかった自分のそのままを差し出せば、受け取ってくださる方がいる。そう知って、背伸びをやめて委ねたのです。それは、イエス様が、彼のそばで十字架に掛かってくださったから起きた奇跡です[3]。
イエス様は、悪いことなど何一つなさらない、偉大な王でした。人はそのイエス様に、自分たちこそが従い、すべてを明け渡すのが当然ですのに、それを拒みます。自分たちを苦しみから救ってくれる、都合の良い救い主が欲しいだけです。十字架に苦しむイエス様の姿を見て、嘲り、憎むだけでした。しかしイエス様が、かかる必要など全くない苦しみを味わわれたのは、そんな私たちに近づき、自分が何をしているかを気づかせるためでした。私たちはどれほど主から離れ、主を悲しませ、主も人も自分をも傷つけてきたでしょう。それでも、主は私たちを愛し、赦しを与えようと、ご自身が傷つき、十字架に掛かられたのです。私たちに近づき、苦しみの中にある私たちとともに深く苦しまれて、そこで私たちの心の深くに語りかけ、心を変えてくださる。主の苦しみは、私たちの心を新しくするためでした。その恵みに与りましょう。
「主よ。この受難週、あなた様の十字架の苦しみが、私たちに近づいてくださった証しであることを思い巡らします。その主の愛によって、自分の間違いに気づき、あなたの赦しをいただかせてください。私たちと今日もともにいてくださるあなたが、私共に、謙った、新しい生き方を与えて下さい。そうして私たちも、苦しみを通して他者とともにいる者となれますように」
[1] マタイやマルコには有名な「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びが記されますが、ルカはそれを省きます。ヨハネが記す、「あげられたキリスト」の十字架は「栄光」であるという視点とも異なる面を強調します。
[2] マタイ二七37「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きをかかげた。」(マルコ十五26)。これに付してヨハネは、それを書いたのが総督ピラトであり、ユダヤ人たちが抵抗したことも記しています(ヨハネ十九19~22)。
[3] ルカは、この「自分を低くする者を高めたもう」神の御業を最初から歌っています(一51~53、など)。そういう意味でも、ここで犯罪人の一人が至った告白は「自分を低くする」信仰だと言えます。しかし、同時に見えるのは、神の子イエスご自身が、自分を限りなく低くしてくださった事実です。それは、ここで言えば、この犯罪人に救いをくださるためだった、と言えよう。「人の子[イエス]は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(十九10)という言葉は、ここでも思い出すべき目的です。