聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二三章33-43節「当たり前ではない十字架」

2015-03-30 11:37:03 | ルカ

2015/03/29 ルカの福音書二三章33-43節「当たり前ではない十字架」

 

 少年犯罪やテロ事件などが起きるたびに、犯人たちのことを「自分たちのしていることが分かっていない」と言いたくなる思いになります。どれほど大変なことをしているのか、自分の首を絞める行為でしかないとか、身勝手な言い分だとか、そんなことが見えていないと言いたくなります。けれども、イエス様は十字架の上でこう仰いました。

二三34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…

 その「彼ら」とは誰でしょうか。まず思いつくのは、イエス様を十字架につけた人たちでしょう。イエス様を十字架に縛り付け、その手足に釘を打ち付けた人。また、その後には、

…彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

とある人々です。イエス様はご自分に太い釘を打ち込み、服をはぎ取って丸裸にして、その服をくじ引きで分ける人を、恨んだり呪ったりするのではなく、

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

と仰ったのです。十字架刑は、大変残酷で激痛に苦しみ続けるような処刑方法です。今それを詳しくお話しする事はしませんが、イエス様のお言葉も、涼しい顔や苦しみに耐えながら言われたのではなく、気が狂うほどの痛みの中で、タテマエや綺麗事などはぎ取られるような状況で、こう叫ばれたのです。しかし、今この箇所を読んでも、イエス様の苦しみや痛みには、殆ど触れていなかったことに気づくでしょうか。他のマタイやマルコの福音書と比べても、ルカの福音書は、イエス様の苦しみとか十字架の出来事には関心を寄せていないのです[1]。その代わり、ルカが強調するのは、イエス様を眺める民衆、指導者たちが嘲笑い、兵士たちが嘲り、酸っぱいぶどう酒で苦しめようとする姿です。そして、そこでずっと、彼らが言っているのは、「自分を救え」という言葉でもあることに気づきます。

35…「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

37「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。

39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」

 こういう姿の真ん中に、「これはユダヤ人の王」と書いた札が、イエス様の十字架の天辺に掲げてあったとあります。これはイエス様の罪状書きとして書かれたものですが[2]、しかし、教会にとってイエス様は本当の王ですね。ですから、皮肉にもこれは、象徴的な札でもありました。その札の前で、民衆も指導者も兵士も、隣の犯罪者も、みんながイエス様に向かって、「ユダヤ人の王、救い主なのだから、自分を救って見よ」と囃(はや)し立て、罵っている。そういう姿を丸ごと指して、イエス様は、

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

と仰ったのです。要するに、イエス様を十字架につけた人だけではない、すべての人が、イエス様の赦しの祈りには含まれているのです。そして、その末に、もう一人の強盗が言います。

40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 こういう会話がなされます。言い換えると、このもう一人の犯罪人は、自分が何をしているかが分かったのです。イエス様を嘲ることがとんでもない間違いだと分かったのです。イエス様が苦しんでいるのが「ざまあ見ろ」でも「自分を救えない」だらしない姿でもない。この方は、十字架につけられるばかりか、何も悪いことはしていない方であることに気づいたのです。もう一人の犯罪人はそれに気づけませんでした。民衆や指導者や兵士も、イエス様の姿を見ながら、そんなふうには思いませんでした。でもこの人は、イエス様の正しさに気づいたのです。

 この人だけが、どうしてイエス様の正しさに気づけたのか、この方を嘲ることの間違いに気付けたのか、それを説明することは出来ません。ましてこの人が、なぜイエス様が十字架に苦しんでいるのかまで思い至れたのではないでしょう。民衆や指導者がなぜイエス様を十字架に殺してしまおうとするほどイエス様を憎み、理解できず、抵抗しているのか、も分かったわけではないと思います。ただ、少なくとも、こういう形でイエス様に出会ったから、最後の最後で、彼は自分の生き方そのものの間違いに気付くきっかけになったとは言えるでしょう。

41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。…

 死の間際で、こう言い切れました。十字架刑が相応しいような生き方をしてきたのだ。でも、その十字架が当たり前の自分のそばにいるこのイエスという方には、十字架だなんて当たり前ではない。その当たり前ではない方が自分の横におられる。そのお方に、彼はこう言いました。

42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 この方に相応しいのは十字架ではない、神の国の王座、王位です。だから、その王座に戻られて世界を治めるときに、どうぞ私を思い出してください。私を救えだなんて言えない。十字架がおあつらえの自分でしかない。本当に私は、自分が何をしているのか分からずに生きてきました。でも、どうぞ私を思い出してください。「父よ。彼らをお赦しください」と祈ってくださったそのあなたの声に肖らせてくださって、どうぞ、私を思い出してください。そう祈ったのです。犯罪者としての最期を迎えて、なお人を罵倒し、神を呪い、自分を正当化しながら死んでいくのではありませんでした。自分の間違いを認めて、悪かったと思えて、それを誰かのせいにしたり憎しみを抱えたりしたままでもなく、でもその何も分かっていなかった自分のそのままを差し出せば、受け取ってくださる方がいる。そう知って、背伸びをやめて委ねたのです。それは、イエス様が、彼のそばで十字架に掛かってくださったから起きた奇跡です[3]

 イエス様は、悪いことなど何一つなさらない、偉大な王でした。人はそのイエス様に、自分たちこそが従い、すべてを明け渡すのが当然ですのに、それを拒みます。自分たちを苦しみから救ってくれる、都合の良い救い主が欲しいだけです。十字架に苦しむイエス様の姿を見て、嘲り、憎むだけでした。しかしイエス様が、かかる必要など全くない苦しみを味わわれたのは、そんな私たちに近づき、自分が何をしているかを気づかせるためでした。私たちはどれほど主から離れ、主を悲しませ、主も人も自分をも傷つけてきたでしょう。それでも、主は私たちを愛し、赦しを与えようと、ご自身が傷つき、十字架に掛かられたのです。私たちに近づき、苦しみの中にある私たちとともに深く苦しまれて、そこで私たちの心の深くに語りかけ、心を変えてくださる。主の苦しみは、私たちの心を新しくするためでした。その恵みに与りましょう。

 

「主よ。この受難週、あなた様の十字架の苦しみが、私たちに近づいてくださった証しであることを思い巡らします。その主の愛によって、自分の間違いに気づき、あなたの赦しをいただかせてください。私たちと今日もともにいてくださるあなたが、私共に、謙った、新しい生き方を与えて下さい。そうして私たちも、苦しみを通して他者とともにいる者となれますように」



[1] マタイやマルコには有名な「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びが記されますが、ルカはそれを省きます。ヨハネが記す、「あげられたキリスト」の十字架は「栄光」であるという視点とも異なる面を強調します。

[2] マタイ二七37「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きをかかげた。」(マルコ十五26)。これに付してヨハネは、それを書いたのが総督ピラトであり、ユダヤ人たちが抵抗したことも記しています(ヨハネ十九19~22)。

[3] ルカは、この「自分を低くする者を高めたもう」神の御業を最初から歌っています(一51~53、など)。そういう意味でも、ここで犯罪人の一人が至った告白は「自分を低くする」信仰だと言えます。しかし、同時に見えるのは、神の子イエスご自身が、自分を限りなく低くしてくださった事実です。それは、ここで言えば、この犯罪人に救いをくださるためだった、と言えよう。「人の子[イエス]は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(十九10)という言葉は、ここでも思い出すべき目的です。

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問41「主の宝となる生き方」 出エジプト記十九章4~6節

2015-03-30 11:15:11 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/29 ウェストミンスター小教理問答41「主の宝となる生き方」 出エジプト記十九章4~6節

 

 今週は受難週です。イエス様が十字架にかかりよみがえられるまで、最後の一週間を過ごされたこと、私たちのために苦しみを引き受けて、そこから復活してくださったこと。その事実を世界中の教会が味わって、感謝と礼拝をするのですね。イエス様が私たちのために、想像もつかないほどの救いの業をしてくださいました。その十字架の死と復活によって、私たちはただ信じるだけで救いに与ります。善いことをしなければいけないとか、いい人になったら救ってあげる、という教えではありません。もしそんなものがキリスト教なら、イエス様が十字架に苦しまれる必要もなかったのです。

 けれども、じゃあ私たちが、悪いことをして、好き勝手に生きていてもいいか、というとそれも違います。自分のしたいように暮らしたい、という考え自体が、神様から離れた間違った思いです。イエス様の救いに与るということは、私たちの生き方や願いも変えて戴き、自分勝手にではなく、神様と人とを愛する者に変えられて行く、ということなのです。救われるためにいいことをするのではなく、救われたからこそ善いことを心からしていくように変えて戴き、訓練されるのです。

 そうはいっても、私たちの中には、何だか窮屈な話だなぁ、という思いがあるのも不思議ではありません。決まりだの掟、というのは、逃れたい気持ちがあるでしょう。今日の、ウェストミンスター小教理問答41も、そんな思いがするかも知れません。

問 道徳律法は、どこに要約して含まれていますか。

答 道徳律法は、十戒の中に要約して含まれています。

 十戒は、今日読んだ出エジプト記十九章の次、二十章に書かれています。 ここには、

序 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

②あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

③あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

⑤あなたの父と母を敬え。

⑥殺してはならない。

⑦姦淫してはならない。

⑧盗んではならない。

⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」という大切な戒めが書かれています。

 これを読むと、「いっぱい、してはならないことばっかりで、大変だなぁ~」と考える人もいるでしょうね。「もっと自由にやりたいよ~」と思う人は多いのです。でも、これはどれも大切な事でしょう? こういうことを大切にしている友だちなら、信頼できる、というようなことではないですか。こういう大切なことを、どうして人は破りたいんでしょうか。それは、その人の中には、もっと別の掟があるんではないでしょうか。沢山の人が信じてしまっている、違う考えがあるのでしょう。それをこんなふうにまとめてみました。

序 わたしは、あなたをしあわせの神さまだよ

1. 人の上に立たなければだめだ。

2. 力のある人にならなければだめだ。

3. 有名にならなければだめだ。

4. 自由に、楽しんで過ごせ。

5. すてきな恋と家族を見つけよう。

6. 生きている価値のない人もいる。

7. 結婚なんて、きゅうくつだ。

8. だましてもバレなければいい。

9. 正直すぎるとバカを見る。

10. ほしいものが手に入ればしあわせ。

 他にも思いつくものがありませんか。

一番にならないと駄目、

恥をかいたりバカにされたりするくらいなら死んだ方がマシ

健康が一番

若くて美しいほうがしあわせ 

… 何かそんな声が心の底で囁いていて、そのために、嘘を吐いたり、神様の言うことから逃げたくなったりするのではないかと思うのです。でも、だれがこんなことを言っているのでしょうか? 本当に、一番になったり、嘘を吐いたり、ほしいものが手に入れば幸せになれるし、そうでない人はみんな不幸せなのでしょうか? 誰もそんな約束は出来ません。そして、結局は、どれだけやっても、

・・・ がんばらないと、しあわせにはなれない!

 自分で自分を幸せにする、という生き方です。でも、本当の神様が仰った十戒はそうではありません。神様は、最初に、わたしはあなたの神、主だよ、と言ってくださっているのですね。今日読んだ、出エジプト記十九章の言葉で言えば、

出エジプト十九4あなたがたは、わたしが…あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来た…

 5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。…

 そう仰る声があるのです。私たちが自分の力で幸せになるのではなく、神様が私たちを救って、導いて、神様の宝となる道を歩ませてくださるのです。そして、宝が嘘や裏切りで汚れてはならないから、大切な戒めを下さっているのですね。また、言い換えれば、この十戒によって、私たちは誰かから吹き込まれてしまった、間違った声、負けたらおしまい、誰も見ていないよ、といった考えが間違っている、そんな生き方は止めようと気づくことが出来るのですね。

 ダビデ王は、聖書にたくさん出てくる人ですが、とても多くの失敗もした人でした。立派というよりも、人間臭い人です。そのダビデが、十戒のことを自分にとってどれ程大切か、いろいろな言葉で言っています。「たくさんの純金よりも、蜂蜜よりも慕わしく、すばらしい」とも言いました。この十戒は、決して窮屈な、堅苦しいものではないよ、私の生涯にとって大切な神様からのプレゼントだったよ。そう言っています。私たちも、イエス様の救いに与って、こういう生き方を歩みなさいと教えて戴いています。毎日の生活で、本当の意味での自由な生き方を歩ませて戴きたいと本当に願います。

 

おまけ

ググってみると、「十戒」と称するものには、他にこんなものもあるみたいです。 

「ノックスの十戒」 推理小説の鉄則をまとめたもの

1.           犯人は物語の当初に登場していなければならない

2.           探偵方法に超自然能力を用いてはならない

3.           犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない(一つ以上、とするのは誤訳)

4.           未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない

5.           中国人を登場させてはならない (この「中国人」とは、言語や文化が余りにも違う外国人、という意味である)

6.           探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

7.           変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

8.           探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

9.           “ワトスン役”は自分の判断を全て読者に知らせねばならない

10.         双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない

 

「サラリーマン十戒」という映画では「上役に逆うな、怒るな、会社の女に手を出すななどなど」が。

 

「犬の十戒」

 1.私の一生は10年から15年です。
 少しでもあなたと離れていることは、私にとってはとても辛いことなのです。
どうか私を飼う前にそのことを思い出してください。

2.あなたが私に何を望んでいるのかを理解するための時間をください。

3.あなたの信頼が私の幸せに必要なのです。

4.私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないでください。
 あなたには仕事や楽しみ、そして友達もいます。
 でも、私にはあなたしかいないのです。

5.時々話しかけてください。
 たとえあなたの言葉が理解できなくても、話しかけるあなたの声で理解しています。

6.あなたが私をどのように扱っているのか気づいてください。
 そのことを私は決して忘れません。

7.私を叩く前に思い出してください。
私にはあなたを簡単に傷つけることができる牙があるのに、それを使わないことを。

8.私の非協力性、強情さ、怠惰さを叱る前にその理由を考えてみてください。
 正しい食事を与えられていないのかもしれないし、
 長時間太陽にさらされていたかもしれないし、
 私の心臓が年を取り弱っているかもしれないのです。

9.私が年を取っても面倒を見てください。あなたも同じように年を取るのです。

10.最期の旅立ちの時も私と一緒にいてください。
 「見ているのがつらいから」「私のいない時に起こってくれれば」なんて言わないでください。
 あなたがそこにいてくれれば、私はどんなことでも安らかに受け入れられます。
 そしてどうか忘れないで、あなたを愛していることを。

 

「夫婦十戒」

1、同時にふたりして怒ってはいけません。

2、おうちが火事でないかぎり、相手を怒鳴ってはいけません。

3、あなた方夫婦のどちらかが、ある議論に勝たなければならないときは、相手の好きにしてあげ ましょう。

4、あなたがなにかについて相手を非難しなければならないとき、やさしく非難しましょう。

5、過去の誤りを指摘してはいけません。

6、世界中の何よりもお互いのことを大切にしましょう。

7、議論がまとまらない間にお布団に入ってはいけません。

8、最低一日一回、やさしい言葉か敬意の言葉を空いてに言うように心がけましょう。

9、何か間違ったことをしてしまったら、それを認める用意をして許してもらえるようお願いしましょう。

10、口喧嘩をするには二人必要です。そして間違ってるほうがよくしゃべります。

 

「起業家十戒」

1.ハードワーク、1日24時間仕事に集中する。

2.唯一絶対の評価者は、市場と顧客である。

3.長期ビジョン、計画、夢、理想を失わない。

4.現実を知る。その上で、理想と目標を失わない。

5.自分の未来は自分で切り開く。他人ではなく、自分で自分の運命をコントロールする。

6.時代や社会の変化に積極的に対応する。

7.日常業務を最重視する。

8.自分の商売に、誰よりも高い目標と基準を持つ。

9.社員とのパートナーシップとチームワーク精神を持つ。

10.つぶれない会社にする。1勝9敗でもよいが、再起不能の失敗をしない。

 

『 JC十戒 』(日本商工会議所)

 1、子供の頃のように、素直になれ。

 2、劣等感の塊となれ、自分はそんなに凄くない。

 3、体験なくして、人生語れない。

 4、立場が習慣を作り、習慣が人格を創る。

 5、他人のせいにするな、すべて自分の責任。

 6、正しい地図を持ち、自分の今立っている位置を正確に探せ。

 7、必要な無駄は省けない。

 8、気持ちが大事、気の持ちようで楽しい人生。

 9、他人の気持ちを的確に理解できる人間通になれ。

10、豪放磊落、水の流れるがごとく。

 

教皇フランシスコの「幸せになるための十戒」

1.人を裁かない

 フランシスコ法王は同性愛に関して「自分は裁くべき立場にない」と発言している。キリストも「山上の説教」の中で、「人を裁いてはならない。自分が裁かれたくないのなら」(マタイ7章)と語った。

2.他人のために身を捧げる

 自分のお金や時間を必要としている人に与える。よどんだ水のようにじっとしていてはならない。

3.静かに行動する

 20世紀初頭のアルゼンチンの作家リカルド・ギラルデスの小説から引用。人は若い頃は「あらゆる場所を急流のように流れる」が、年を取るにつれて「静かに穏やかに流れる川」になる。

4.余暇を楽しむ

 大量消費社会は耐え難い不安をもたらした。子どもたちと遊び、休息を取らなければならない。次の買収のことばかり考えて過ごしてはいけない。お金ではなく、時間をうまく使う。

5.日曜日は家族のために

 これは十戒の一節「安息日を設けよ」(出エジプト記20章)に由来する。週に1日は心の求めに応じ、瞑想(めいそう)、礼拝、家族との生活のために充てる。

6.若者に仕事を

 若者が健全でいるためにはシンプルな仕事が欠かせない。フランシスコ法王はインタビューの中で雇用創出を環境破壊と結び付け、良い仕事がないのは、自分たち自身や地球に対する尊敬の念が欠けているからだと指摘した。生産的な良い労働にこそ価値があり、華やかな仕事に就く必要はない。金持ちになる必要はなく、普通でいい。幸福はそこにある。良い仕事を持ち、他人のために良い仕事を創出する。

7.自然に敬意を払う

 これは第6項にも関連する。フランシスコ法王は、「人類は無差別で横暴な自然利用によって自殺を図っているのか」と問いかける。多大な苦しみを伴わずに空気を汚したり、河川を汚染したり、樹木をむやみに伐採したりすることはできない。私たちの周りの不安や苦しみは、元をたどれば資源の不正利用に起因するのではないだろうか。私たちは自分の魂を浪費しているとも言える。

8.悪いことはさっさと忘れる

 自分を困らせたり苛立たせたりする相手について不平を言ってはいけない。そうしたことはできるだけ早く忘れ去る。人のことを悪く言う人は自分自身がみじめになり、私たちもみじめになる。

9.信教を強要し過ぎない

 改宗への勧誘は停滞を招くとフランシスコ法王は説く。自分はキリスト教徒だと公言したとしても、人にはそれ以前に個々の世界観がある。この教えは一見、キリストが世界への布教を促した「大宣教命令」(マタイ28章)に矛盾するように思えるが、フランシスコ法王はこの活動を緩やかに解釈し、実例による教えの方をよしとした。それがキリストの真意だったのかもしれない。

10.平和のために働く

 フランシスコ法王は法王に就任した日からこの教えを説いてきた。エルサレムに行ってユダヤ人とパレスチナ人の連帯を働きかけ、平和のために祈り、平和のために働いた。「平和をつくる者は幸いである」というキリストの言葉そのままに。

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ルカの福音書二一章25-28節「からだをまっすぐに」

2015-03-25 19:00:46 | ルカ

2015/03/22 ルカの福音書二一章25-28節「からだをまっすぐに」

 

 体を真っ直ぐにし、頭を上げる。良い姿勢を保ち、笑顔になる。そうすると、気持ちにも自信が持てるようになり、前向きに生きられるようになるというレポートがあります。心が暗くて俯(うつむ)いてしまう時も、顔を上げることで塞(ふさ)いだ気持ちが明るくもなるのです。すべてが解決するのではないにしても、良い姿勢や笑顔を心がけると、血行や免疫力や新陳代謝も向上し、生きる姿勢も変わり、回りにもよい影響を与えるのです。それぐらい体と心は切り離せません。神様は人間をそのようなものとして造られたのだなぁと面白く思います。イエス様は仰います。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。

 その「これらのこと」とは、今日読んだ25節からの箇所だけでなく、二一章の5節6節以下、ずっと言われてきたことだと考えた方がよいでしょう。エルサレム神殿が崩れることをイエス様が予告されたとき、人々は、そんな世も末の恐ろしい時にはどんな前兆があるのか、と聞いてきたのですね。そこでイエス様は当時の人々も思いつくような「終末のしるし」を次々に挙げられました。「戦争や暴動」、「大地震…疫病やききん…恐ろしいことや天からのすさまじい前兆」「エルサレムが軍隊に囲まれ…異邦人に踏み荒らされる」。そして、今日の所では、

25…日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、

26人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

 こう言われているのですね。ただし、イエス様はそういう天変地異や大災害が、終末の前兆だと仰ったのではありません。次の27節で言われるように、

27そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

と言われるように、キリストがおいでになるのは、誰の目にも明らかに分かる、ハッキリとした出来事なのです。これは、ダニエル書七章にある言葉から引用したもので、「人の子」という呼び方もそこで使われる、メシヤ称号の一つです[1]。キリストが輝かしい栄光を帯びて来られる、素晴らしい時、祝福の時、喜びに満ちた約束があったのです。人々は「終末」を思って、恐れ、不安に陥り、気を失ったりするけれども、実は、本来終末とは、恐怖や絶望ではありません。勿論、その時、神の厳しい裁きがあります。また、自分の持ち物や生活、今の自分の立場、特権などにしがみついている人は、すべてを失います。私たちは自分も含めてすべてのものを、主の支配に完全にお返しするのです。それでもイエス様は仰るのです。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。

 戦争や大地震や、世界も終わりかと思うような出来事が起こり、人々が不安や恐ろしさで気を失うような時、その時こそ、あなたがたは、体を真っ直ぐにし、頭を上げなさい。怯えたり自棄(やけ)になったり、なくなろうとしているものを抱え込んだりするのではない。むしろ、姿勢を正し、顔を上に向けて、栄光を帯びて来られるキリストを迎える備えをしなさい。イエス様は、ご自分の弟子たちに対して、そして、私たちに対して、そう教えられるのです。

 「頭を上げる」という言い方は、詩篇二四篇に出て来ます。

詩篇二四7門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。

 栄光の王が入って来られる。

 8栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。[2]

 栄光の王をお迎えする姿勢が、頭(かしら)を上げる姿勢であり、体を真っ直ぐに起こすことなのです[3]。王である、栄光の、力ある主をお迎えする準備をする。力と輝かしい栄光を帯びておいでになる人の子をお迎えする。そういう心持ちを励まされるのです。

 ここに「贖いが近づいたのです」と表現されています。ルカはこの「贖い」を、ここ以外に使っていません[4]。「解放」「救い」という訳もあります[5]。「代価を払われた結果の解放」という言葉です。代価を支払ったという言葉の中に、イエス様の側で、代価を払って下さった。犠牲を払って、私たちのために良いことをしてくださって、その将来を携えて来てくださる。そんな含みがあります。そんな言葉を、イエス様は弟子たちにポンとぶつけられます。詳しい説明はなさいません。ただ「終わりだ絶望だ」と人が騒ぎ立てる中、真っ直ぐに前を向けと言われて、イエス様が犠牲を払って用意された解放、救い、高価な将来を語られるのです。私たちは、あらゆる禍の中でも、それにまさる将来を携えて来られる主を、ますます待ち望むのです。

 聖書の最後、ヨハネの黙示録の一番終わりに描かれている情景は、喜びの祝宴です。主が来られて、国々を終わらせ、悪を滅ぼし、罪から完全に解放してくださるばかりか、結婚式の喜びで表現されるような永遠の慰めが描き出されます。言葉に尽くせない喜びが待っていると告げられます。生ける真の神様が世界をお造りになったことから書き始められる聖書は、その世界が神様の栄光によって完成し、すべてのものが真実で、聖くされる将来をもって閉じます。その永遠の幸いを将来に語るのが、聖書のメッセージです。今は多くの戦いがあります。禍もあり、すべては失われます。でも、すべてを失っても、なお私たちにとって望ましい最後がある。素晴らしい喜びが始まる。主が語られた、ご自身の犠牲を払っての「贖い」に与る。これこそが、私たちにとっての悲願であり、何が起ころうとも顔を上げるに値する恵みです。

 世界には、地震や津波、サイクロンや台風が起きます。戦争やテロ、差別や迫害のように、人間同士がひどく傷つけ合っています。環境破壊や地球温暖化だって、人間のエゴのなせる業でしょう。こういう世界で、ただ自分の家族が健康で幸せであればいいとか、事故や不幸から守られるとか、死んでも天国に行くとか、そういう幻に縋(すが)るのではありません。禍や苦しみがないだけではなくて、もっと根本の人間の醜さ、「自分さえ良ければいい」という思い上がりが完全になくされることから、本当の永遠は始まるのです。人間の罪によって、世界は呻いているのだとパウロは言いました[6]。そして、被造物全体が贖いを待ち望んでいるのだと言うのです。そういう大きな栄光を語られる神様は、全世界の創造主であるとともに、私たち一人一人を愛され、私たちの心と生き方を新しくしてくださるお方です。今なお、私たちは不完全です。罪があり、贖いの完成を待ち望む者に過ぎません。でも、それは私たちの夢や儚(はかな)い希望ではなく、イエス様が語られた、私たちを待っている現実です。その確かな約束を信じて、

…からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。

とイエス様は仰っています。こう言ってくださるイエス様の約束が、私たちの姿勢だけではなく、心も生き方も行動も新しくします。自分の力ではなく、主からの新しい思いによって、私たちの生き方が変えられていくのです。私たちの姿勢も思いも変えて戴こうではありませんか。

 

「主よ。今の生活が守られる事ばかりを願い、夢見がちな私たちですが、何よりも、あなた様が真の王として治めてくださることこそが幸いであり、必要です。そして、私共のための贖いを果たして来てくださる主を、恐れ怯えることなく、お迎えするようにと仰る恵みに、深く感謝します。この希望により、苦難の時にも背筋を伸ばした歩みを、一人一人に与えてください」



[1] ダニエル書七章13節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」。これは、ダニエル書が繰り返している、世界の歴史、諸王たちの国際的な盛衰が、最終的には真の王である神の支配によって終わらされ、永遠の支配が始まることを預言したものです。

[2] 同9節10節「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」と繰り返されます。この詩篇全体が、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むもの」の所有主である「主(ヤハウェ)」を歌い、その神を礼拝する者の相応しさを「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」という資質に向けさせています。神の主権性と、その礼拝者の内面性、という徹底した告白が歌われています。

[3] 新共同訳聖書では、「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」としているように、この詩篇と今日のルカ二一28との平行関係は明らかです。

[4] 「アポルトローシス」。語根でもある「ルトローシス」(ルカでは一68と二38。他、ヘブル九12)、動詞「ルトロオー」(二四21。他、テトス二14、Ⅰペテロ一18)も「贖い」と訳されています。

[5] 口語訳は「救い」、新共同訳は「解放」と訳しています。

[6] ローマ書八章18-24節。今日の箇所とかぶりますので、全文を引用します。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。20それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」

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問40「あなたも分かっているはず」 ローマ二章14~15節

2015-03-25 18:58:55 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/22 ウェストミンスター小教理問答40「あなたも分かっているはず」 ローマ二章14~15節

 

 イエス様がそのご生涯で、激しくお嫌いになっていたのは、真面目に礼拝を守りながらも欲張りで、人から平気で巻き上げていた儲け好きの人たちと、自分は正しい、立派だと自惚れて、他の人たちを見下している人たちでした。逆に、イエス様は、正しさからは遠くかけ離れた生き方をしていた、嫌われ者、不道徳な人たちを愛し、そのような人たちがイエス様の回りに集まっていたようです。体を売って稼いでいた女の人たちもいました。触りたくもないと思われていた病人や物乞いたちもいました。そして、イエス様が天に帰られた後、聖霊に満たされて始まった教会にも、たくさんの人たちが集まって、そこには色々な人たちが集まったのだそうです。

 教会は今も、本当は、イエス様の回りに沢山、乱れた生き方をしてきた人たちが集まったような場所でありたいなぁと思います。ヤクザや水商売の人も来て良いのですし、人生に失敗した人も、家庭を滅茶滅茶にしてしまった人も、自分の正体を明かしたくないような人も、イエス様が喜んで迎え入れてくださるのです。

 勿論、そういう人が、そのまま、人の道に外れた生き方を続けても気にしない、というのではありません。イエス様は、私たちに「悔い改めて」神を信じなさい、「もう罪を犯してはなりません」、傷つけ合う生き方を止めて、愛し合う生き方、仕え合う生き方を歩みなさい、と仰ったのですし、聖書は教会のメッセージがそのような聖い命令であることを語っています。でも、そんな生き方を全然してこなかった人、人を大切にすることも自分を大切にすることも、考えたことさえなかったような人さえも、イエス様は蔑んだり怒ったり嫌ったりしませんでした。「今までの生き方で幸せになれたかい?神様はあなたに幸せを下さる。だから神様の掟に一緒に歩んでいこう」と言うのです。

 今日の問は、神様が人間に最初に教えてくださったのが「道徳律法」だと教えます。

問 神は、従順の規範として、初めに何を人間に啓示されましたか。

答 神が従順のために初めに人間に啓示された規範は、道徳律法でした。

 神様は人間に、最初に、守るべき「道徳律法」を与えてくださいました。人の心に、善悪があるという意識を下さいました。今日のローマ書の言葉でも、

二14-律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

15彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。-

と人間の心には、その名残があるからこそ、神様が命じるような行いをするのだ、と教えています。でも、それは不完全ですし、うわべだけでもあるのですね。どんなに自分勝手な人でも、他の人からの意地悪や裏切りには、ひどく腹を立てます。それは、その人の中にも、善悪の道徳が残っている証しです。けれども、そのように正しく生きようと願うのではありません。そして、自分は良い人間だ、人よりも立派な生き方をしていますよ、と偉そうにしている人を、イエス様は強く忌み嫌われたのです。

 私たちはきよく正しく生きる義務がありますが、でも、自分はちゃんときよく正しく生きていると言える人はいない。反対に、とても不道徳な、人としての道を外れた生き方をしてきた人も、駄目だとか頑張らなければイエス様に愛してもらえないのではありません。むしろ、イエス様はそのような人をも愛され、受け入れてくださったのです。だから、私たちも、どんなに大きな失敗や、ひどい道に外れてしまっても、そこからイエス様に立ち帰るなら、救って戴けるのですね。

 ですから、今日の所で大事なのは、私たちが神様からの律法を守る、という以上に、神様が私たちに、私たちの道を啓示してくださった。それが、道徳律法だった、という事実なのですね。人間が、どんなに間違った道に走ってしまっていても、神様はその人を、本来、正しく誠実に生きるべき者として見ておられ、造られたのだ、ということです。そして、神様は、今も私たちが、その聖い道を歩むことを願っておられるのです。

 最初に神様が道徳律法を啓示してくださったのも、一つではなく、二つの方法によってでした。それは、人間の心に律法を書きしるすということと、言葉による啓示でした。

創世記二16-17「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 今も神様は、聖書の言葉を通して、聖霊によって私たちの心に、神様の御心を教えてくださっています。それによって、神様は私たちが、正しく生きるように、神様の御心に相応しく生きるように、と願っておられます。私たちが出来なかったら「なんだ、駄目だなぁ」とガッカリしたり怒ったりはなさいません。また、「あの子は頑張ったのに、君はまた失敗か」だなんて、競争させたり比較なさったりもしません。何よりも、神様は、私たちのことをよくよくご存じです。私たちが自分の力では正しく歩めないこと。せいぜい正しく何かをしてみたとしてもそこですぐに人と比べたりし始めてしまうこと。そして、神様の基準には到底届かないこと。だから、私たちは神様の助けが必要です。神様も私たちに、「わたしが助けてあげるから、わたしの助けを求めなさい。自分の力や知恵で頑張ろうとせずに、わたしの言葉に聞きなさい。わたしの助けを祈りなさい」と何よりも願っておられるのです。

 「アメイジング・グレイス」で知られる「驚くばかりの」という讃美歌がありますね。あの歌詞を書いたジョン・ニュートンという人は、奴隷商人でした。黒人をひどい船に詰め込み、ひどい環境で大勢の黒人が死んでも平気で生きていた悪人でした。そのニュートンが、24歳の時、嵐に遭って死にかける経験を通して悔い改め、やがて牧師になり、書いた詩の一つが「アメイジング・グレイス」なのですね。驚くばかりの恵み、こんな見下げ果てた自分さえ救ってくれるとは、という歌です。奴隷商人さえ、救い、喜びに溢れた牧師にしました。神様が私たちに、正しい道に生きることを願ってくださり、今もそのように生まれ変わらせ、力を与え、導いてくださるとは、素晴らしい恵みです。

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問39「神の御心に従う幸い」ミカ書六章8節

2015-03-15 17:24:49 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/15 ウェストミンスター小教理問答39「神の御心に従う幸い」ミカ書六章8節

 

 今日のタイトルは「神の御心に従う幸い」としました。ちょっと考えて欲しいと思ったのです。現代のほとんどの人は、「神様に従わなくても幸いだ。神様に従わなければいけないなんて、窮屈だ」と考えているのではないでしょうか。アメリカの統計では、教会に来ている人々でさえ、「誰でもその人が自分なりに正しく、誠実に生きていれば、どんな宗教を信じていても、幸せだ」と考えていることが多くなっているそうです。ですから、改めて、今日の言葉から、聖書の教えを確認しましょう。

問39 神が人間に求めておられる義務は、何ですか。

答 神が人間に求めておられる義務は、啓示された神の御心への従順です。

 神様は、私たちが、神様が聖書においてハッキリと教えてくださっている神様の御心に従うことを求めておられます。自分なりに正しく、一生懸命生きていて、満足していれば、それで神様もニコニコしている、ということはありません。神様は、聖書において今も私たちに語っておられます。私たちに、本当になすべきこと、私たちが大切にしなければならないことを教えておられます。

ミカ六8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 ここには、公義(正しいこと)を行うこと、それも誠実に(心から)愛をもって生きること、とともに、あなたの神様とともに歩むことを語っているのですね。今日のウェストミンスター小教理問答でも、神様が私たちに、従って欲しい御心があって、それをわざわざ私たちに啓示してくださっている、とあるでしょう? 神様は、私たちを愛しておられます。だから、私たちにも、神様の方を向いて、神様の愛に気づいて、神様の言葉に耳を傾けて、神様に喜んで従うことを望んでいらっしゃるのです。そういう関係こそが、私たちにとって一番大事なことなのですね。

 私は、高校を卒業してから、親元を離れて、東京や北海道で生活をしていました。鳴門に来る前、一年、一緒に過ごしました。久しぶりに、毎日一緒に生活したのです。私の父も母も、すごく喜んでくれていました。鳴門に来てからも、二度、来てくれましたし、私も何度も横浜に帰るので、両親はとても喜んでくれます。これが、家に帰らず、顔を見せようともせず、手紙もメールも電話もしなかったらどうでしょうか。私がどんなに幸せで、立派な人になって、有名になっていたとしても、寂しいでしょう。話をしたり、顔を合わせたりしようともせずに、ただ、自分のやりたいように生きているだけなら、親不孝と言われます。

 それでも、父も母も、私を嫌ったり怒ったりはしませんでした。久しぶりに帰った時には喜んで受け入れてくれました。神様もそうです。私たちが、神様から離れて、「親不孝」ならぬ「神不孝」で非難されるしかなかったのに、私たちが神様との関係を取り戻し、神の子として歩めるように、完全な救いを備えてくださいました。私たちがよい行いをしたら、ではなくて、ただただ神様が私たちを愛してくださり、イエス様がこの地上に来て、十字架にかかってくださり、よみがえってくださって、必要な犠牲を全部払ってくださいました。そして、聖霊なる神様がその救いを私たちに届けてくださって、必ず天の御国の家に迎え入れてくださるのです。それは、先週までお話しして来たことです。神様のすばらしい救いに、私たちは完全にお任せしていいのです。

 でもそれは、今私たちがもう何もしなくていい、ということではないのですね。神様は、もともと人間を、神様の栄光を現し、神様を永遠に喜ぶ存在としてお造りになりました。ですから、私たちは、神様の恵みによって救われたからこそ、神様にますます心から信頼して、神様が語ってくださっている言葉に聞き、従って行くことが始まるのです。そして、そのように助け、励ましてくださるのも、神様の恵みなのです。

 神様は私たちを本当に愛し、数え切れないほどの恵みを注いで、私たちを救って、導いていてくださるお方です。それが神様の御心ですから、それに従うこともまた、すばらしく、よいことであるに違いありません。世界にはたくさんの宗教がありますが、今、話題になっているテロリストたちは、自分たちが正しく他の人間は殺しても構わない、また、仲間の信者も命を犠牲にして何とも思わない、残酷な信仰を持っています。でも、たくさんの人たちが、本当に恵み深い神様の言葉に背を向けているために、残酷な考え、自分勝手な考え、狭くて、おかしな考えに取り憑かれているんじゃないでしょうか。徳島の福島橋のそばには「人柱」の記念碑があります。川に橋をかけるとき、自分たちが考えて、神様に人間を生け贄にささげたら、その橋を守ってくださるに違いない、と考えたのでしょう。大変な犠牲ですが、大変だからこそ、神様も聞き届けてくださるに違いない、と思ったのです。そんなお話しは世界にたくさんあります。

 神様が聖書を啓示してくださったのは、そうした間違った思い込みから私たちを救ってくださるためでもあります。迷信とか、自分勝手な予想、TVやマンガみたいなお話しを信じている人が多いのです。そこでの神様はちっぽけだったり、怒りっぽかったり、ただ優しいだけだったり、ボンヤリしたお方です。けれども、神様は、聖書において語られている通り、本当に力強く、恵み深く、私たちを愛し、汚れを嫌い、私たちが愛と自由と責任をもってともに生きるようにと導かれるお方です。とんでもなく偉大であり、とんでもなく近くにおられ、想像できない程に私たちに関わっておられるお方です。

 ですから、私たちの歩みは、神様とともに歩み、神様の声に聞きながら、その声に従う旅路なのです。ただ、正しい事をしなければならない、悪い事をしてはならない、というような味気ない歩みよりも、もっと温かく味わい深い道なのです。もちろん、神様の御心がすべて簡単ではないし、苦しいときや難しいときもあります。でも、それもまた、大切だからこそ言われているのです。野球のルールだって、厳しいからって、そのたびに変えていたらゲームにならないでしょう。また、アウトや反則は意地悪で決まっているのではなく、大事だからそういう決まりなのです。何よりも、イエス様こそは私たちに対する神様の御心そのものです。私たちのために十字架に掛かって、よみがえってくださったイエス様に、私たちも感謝して、信頼をもって従って行きましょう。

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