2015/07/26 ウェストミンスター小教理問答60「喜び溢れる今日!」
夕拝でお話ししているウェストミンスター小教理問答は、問一の言葉で有名です。
問一 人間の第一の目的は何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し(あるいは、神の栄光を現し)、神を永遠に喜ぶことです。
私たち人間の存在の目的、ゴール、使命は、神の栄光(自分の栄光ではなく)を現し、神に栄光を帰しながら、神を永遠に喜ぶことです。そのために人間は造られ、それが人間の義務です。それが、人間にとっての本来の幸せであり、救いとは私たちが神の栄光を現す者として回復されていくことです。そして、それはただの道徳とか冷たい義務ではなくて、喜びであり、永遠の喜びです。
この問一の、人間の目的(人間を方向付ける言葉)に、ウェストミンスター小教理問答はいつも基礎を置いています。今、十戒を一つずつ辿っていますが、ここでもやはり、私たちが神の栄光を現し、神を永遠に喜ぶことが念頭に置かれているのですね。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の三回目ですが、ここでは、このように言われています。
問六〇 安息日は、どのように聖別されなければなりませんか。
答 安息日は、他の日には合法的であるこの世の仕事や娯楽からも離れて、その日丸一日を聖なる休みとし、必要な業とあわれみの業に用いられる時間を除き、全時間を、公的・私的な神礼拝の営みをして過ごすことによって聖別されなければなりません。
平たく言えば、週に一度、日曜日を安息日として聖別しなさい。
神様を礼拝する日として、仕事や娯楽のためにではなく、神を礼拝する一日としなさい、と言われています。しかし、神を礼拝する日、という言葉を、堅苦しく、つまらない規則のように考えないようにしましょう。
礼拝とは、言い換えれば、神に栄光をお返しし、神を喜ぶことです。決して、きちんとした服を着て、真面目腐った顔をして教会に座り、敬虔そうな顔をして、聖書を読み、讃美歌を歌い、楽しいことはいっさいしない…。そんなつまらない事が言われているのではありません。
それは、神に栄光を帰することにはなりませんし、神を喜ぶのとも程遠いことです。日曜日を、窮屈で、気取ったものにし、息が詰まるような冷たい日としてしまうなら、それは最悪の安息日違反だと言えます。
しかし、これこそは、今日読んだ、イエス様の時代の状況でした。イエス様がおいでになった紀元一世紀。ユダヤには「パリサイ人」と言われる、大変真面目で宗教心に篤い人たちがいました。この人たちは神の前に正しく生きようとして、楽しいことを我慢したり、難しい規律を守ったりして、なかなか出来ないほどのキチッとした生き方をしていました。
そして、安息日は、働いてはならない日だから、一切労働はしない。でも、その労働とは何だろうか。何歩歩くなら許されるだろうか。どんな行為は、どれぐらいまでならやっていいか。そういう規則集を作ったのです。そして、この箇所にもあったように、安息日には病人が医者に治療をしてもらうのは、仕事になるから、次の日まで待たなければならない、と決めてしまったのです。
そして、イエス様に対しても、安息日は仕事をしてはいけないと言われているのに、癒やしをしてもいいというなら、律法を無視したといって、訴えてやる、と考えたのですね。
これに対してイエス様は、自分の羊が穴に落ちたら、安息日だって引き上げてやるじゃないか。人間はそれよりも遥かに神にとっては価値がある。その人間を病気の苦しみからいやしてあげるのは、よいことであって、正しいのです、と言い切られたのです。当時のパリサイ人たちの考えとイエス様の考えとは、全く反対でした。パリサイ人たちは、安息日の規則を守ることを考えていました。イエスは、安息日こそは素晴らしい日であることを考えておられました。
十戒では、安息日は、仕事や遊びを休めて、神を礼拝する日だと言います。そうして、私たちは、世界を造られ、私たちのいのちと愛を注いでくださる神の前に静まります。普段は仕事や毎日の生活に追われて、神を忘れてしまうことが多いですね。神の偉大さ、私たちに対する測り知れない恵み、よいご計画、確かな導きというものを忘れて、自分の仕事や努力が全てであるかのように思ったり、誇ったり、焦ったり、人と競争したり、虚しい思いを抱きがちです。だから、主は、私たちに七日に一度は休みなさい。手を休めて、わたしを礼拝しなさい、と言っておられます。
それは、丁度、親子や恋人、夫婦のような関係です。忙しく働いたり、勉強したり、目の前のことで必死に生きてしまうあまり、人間関係や愛する人の心を後回しにすることがよくあります。実際、折角、大事な家族がいるのに、家族のためにと思って働いているつもりでも、仕事に振り回されていっぱいいっぱいになり、気がつけば、家族との関係が冷え切り、深く子どもの心が傷ついて取り返しがつかなくなっていた、ということは多いのです。そういう仕事中毒になりがちな人に、妻や夫が、「こっちに来て、ちょっと休んで、一緒にお喋りをしましょうよ」「お茶でも飲みましょう」「もっと大切なことを忘れてないかい?」と話しかけるようなものです。
礼拝は、私たちが何かをするよりも、神がどんなに偉大な方で、憐れみに満ち溢れ、私たちを愛しておられるか、その方が遥かに大事であることに気づくときです。イエス・キリストにおいて現してくださった神の栄光を、心から賛美し、じっくり味わうのですし、また、そのような私たちの賛美や礼拝を、神が喜んでくださっている、その素晴らしい関係を感謝するのです。
ですから、神様の御言葉を聴く礼拝は、やっぱり安息日の中心として大切なことです。でも、礼拝に出ることが安息日の戒めなのではなくて、そこで神の聖なる恵みを聴いて、私たちが心安らぎ、仕事や忙しさを手放して、重荷を下ろすことが大事なのですね。
そして、礼拝のあとも、楽しく、喜びの時として過ごすのですね。自然を楽しむこと、お互いを喜ばせ、あえて無駄なことをすること、御言葉をゆったりと味わい、神様への感謝や賛美、祈りを合間に挟みながら、この日を喜びの日として過ごすのです。
やがて、私たちが迎えられる永遠の御国は、永遠の安息日です。それは決して退屈でも窮屈でもない、溢れる喜びの永遠です。その喜びを、今の生活で味わいつつ、毎日の仕事そのものの意味も新しく変えてしまうのが、日曜日の素晴らしい一日なのです。