聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記1章26節~2章3節「ともに過ごす愛」 5つの愛の言葉⑥

2018-10-08 06:28:17 | 愛を伝える5つの方法

2018/10/7 創世記1章26節~2章3節「ともに過ごす愛 5つの愛の言葉⑥」

 「5つの愛の伝え方」の5回目です。肯定的な言葉、仕える行為、贈り物、スキンシップ。愛である神はこうした様々な愛の伝え方を造られ、人それぞれに愛の伝え方の優先度や必要を違うようになさいました。これが分かると夫婦や親子のこじれも随分スッキリするでしょう。

1.時のはじまり

 今日は五つ目の充実した時間(クォリティタイム)です。現代の特徴の一つは「恐ろしい程の孤独」だと言われています[1]。豊かな経済やテクノロジーで、安心して生きられるようになったはずが、むしろ淋しい、孤独だ、誰も分かってはくれない、という思いは強くなりました。その結果の病気やキレやすさ、社会問題は深刻です。言葉やお金や物ではなく、時間を掛けて一緒にいてくれて、自分の思いを聴いてくれる…そういう関係が必要です。

 自分と一緒に過ごしてくれるかどうか、それは本当に愛されているのだと感じる上で、とても不可欠なことです。後回しにせず、ぜひ時間を取って、家族とともに過ごしましょう。会話を遮ることなく聴いて、気持ちに耳を傾けましょう。明るい話だけでなく、重い気持ちも、そのままに分かち合って、どんな内容でも、心から「話してくれてありがとう」「一緒にいられて嬉しい」と伝え合いましょう。

 来週から「聖書の全体像」をお話ししていきます。聖書の物語そのものが、神が私たちと一緒に過ごしてくださる歴史です。聖書の中だけでなく、私たちの世界や歴史そのものが、神が私たちとともに歩んでくださる世界なのです。今もそうです。私たち一人一人の毎日の生活、生まれてから死ぬまでの生涯も、この世界の歩みそのものもそうです。神がともにおられ、一緒に時を過ごしてくださっています。

 聖書は、神が私たちに与えられた義務や規則を書いているだけの書物ではありませんし、立派で敬虔な信仰者たちの英雄伝でもありません。私たちが何かをするしない以前に、神は私たちとともにおられます。

 「王なる神が、私たちを導き、完成させる」

との希望が聖書の土台です。そして、だからこそその神の民として歩む倫理が(条件ではなく結果として)命じられるのです。神が私たちを愛され、ともにおられるように、私たちも互いを精一杯大事にし、愛し合う、ともに過ごす関係を育てなさいと言われるのです。

 創世記一章には、神が天地を創造された経緯が書かれています。神は世界を六日間掛けて創造されたと言い表されています。空や陸や植物、天体や鳥や魚、動物、そして最後に人間をお造りになりました。こうして二章、天地創造が完成された最初に神が何をなさるかと言うと、

「なさっていたすべてのわざをやめられた」

のです。

「すべての創造のわざをやめられた」

のです[2]。創造のお仕事は止めて、祝福の第七日となさり、人間も当然、一緒に休んだのです。他の神話は「神々が喧嘩して世界が出来た」とか、神が造った世界に邪魔が入って、今の問題だらけの世界になったと考えます。世界に愛想を尽かします。それと比べて聖書は世界に対して楽観的です。神は世界を良い世界として見ておられ、人間を祝福され、すべての仕事を止めてまでともにいてくださる。神は私たちとともにいる時間として、この世界を造られたのです。

2.それでも、神はともにいます

 神は時を通して働かれます。時間は「神の御手」です[3]。神は時間を通して、時間を掛けて働いてくださいます。世界の歴史にどんな紆余曲折があっても、必ず最後には聖とされ、神の目的を完成させると信じて良いのです。この創世記の創造記事はこの約束で締めくくるのです。

 この後二章4節からは、神が与えた約束を人が破り、神との断絶が始まって、人間もお互いに支配しよう、競争し争い合い、別れていく現実が展開していきます。これでもかとばかりに、人間の歩みが逸脱していく姿を聖書は目を逸らさずに直視しています。でもそういう中にも、神は語りかけて、和解や赦しへと導いてくださるのです。人間の罪の現実を悲しみつつ、それでも神は人を裁いて切り捨てません。人間の孤独や悲しみや呻きを、十分に汲み取り、受け止めて、神に帰ってくるよう呼びかけて、帰ってくるならば受け止めてくださる神です。この2章3節の原点は変わりません。そういう聖書の物語の全体像を来週から見ていきます。

 イエス・キリストは

「インマヌエル」

とも呼ばれます。

「神が私たちとともにおられる」

という意味です[4]。神は私たちとともにおられるお方。イエスは本当に人とともにおられました。未熟な弟子、汚れ仕事の取税人、売春婦たちの友となりました。マタイの福音書の最後はイエスの

「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」

という約束で結びます。「いつも」とは「すべての日々に」です。イエスは私たちと、すべての日に-良い日にも悪い日にも何があろうともともにいてくださいます。それは、私たちもお互いに、時間を共有し、ともにいる、という生き方へと招いています。神が私たちを愛して、私たちとともにいてくださるように、私たちがお互いに、ともにいることを大事にしていくのです。

3.ともに過ごすこと

 私たちはしかし、ともにいることが苦手です。一緒にいるだけでは足りない気がして、忙しくしたり余計な事を話したりします。何か相手のためにしなければと落ち着かず動き回ります。本当に心を分かち合う会話よりも、質問攻めにしたり、つい「でも」と口を挟み、アドバイスやとってつけたような励ましをしたりしがちです。一緒にはいても、相手に耳を傾けるより、テレビを観たり当たり障りのない話に逃げたりします。人の話をじっと聴き、相手の喜びも痛みも大切に聞き取るのは慣れていないことが多いのです。ヘンリ・ナウエンは、

「福音派のキリスト者はイエスのために働くことは熱心です。しかし、彼らはイエスとともに過ごすことを知りません」

と言いました。神との関係でも、夫婦や家族や教会での関係でも言えることです。

 ともにいるとは、思いを相手に向け、その時間を分かち合って、相手を最優先することです。安心できる場所を作ることです。話をしても聞いてもらえるだろうか、批判されるんじゃないか、そういう心配も受け止めて話しが出来る。気持ちを語る事が出来る。そういう時間です。

※ 「クオリティタイム」は「充実した時間」と訳されますが、そこには「何か意義深い会話・行動・生産的な過ごし方をして、その時間を充実させなければならない」という発想にすり替わる危険があるように思います。そのような真逆の意味にならないように、「お互いのいのちの質(クオリティ)そのものを味わい、分かち合い、祝う」という意味であることを、確認したいと思います。

 聖書は、まず神が、私たちとともに過ごすためにこの世界を造られたと語り始めています。その時間の中で人間が神からさ迷いだしても、神はインマヌエルの神です。人間がしくじって、ひどい痛みを引き起こし、躓くとしても、神はその人間とともにいようとなさいます。私たちの祈りに耳を傾けて、私たちの言葉にならない呻きさえも聴いておられます。聖書の記事、特に詩篇は、神が私たちの思いを掬い取り、悲しみや怒りや躍り上がるほどの賛美も大事にしておられる証拠です。人間に付き合うために、神ご自身がどんなに忍耐し、犠牲を払い、痛みを負わなければならないとしても、神は私たちとともにいることを選ばれました。イエス・キリストは、神が私たちとともにおられることをその生涯で体現してくださった方です。そういう大きな流れを生涯掛けて味わい知るのです。

 神が私とともにいてくださる。私に上手な話や立派な信仰を求める、気詰まりしそうな関係ではなくて、私を受け止め、あるがままの私を尊んでくださっている。人生は成功とか失敗とかで括らなくて良い、どんな歩みも主がともにいるかけがえのない時間なのだと気づくと、安心できます。肩の力を抜くことが出来ます。それが、今度は、自分も人に寄り添って見よう、誰かを大事にしよう。どんなに自分が聞き下手でも、話をじっと聴いてみよう、自分の気持ちも打ち明けてみよう、となるのです。たとえ私たちがそれを信じられず、忘れても、大丈夫です。主はそのために時間を造られたのですから。私たちと毎日ともにおられて、今まで何があろうとも、これから何が起ころうとも、私たちとともにおられる。そして、永遠にともにいたいと願ってくださっています。だとすれば、私たちが今、家族や友人と、時間を少しでも分かち合うことは永遠への練習でしょう。そして、一緒にいようとする事自体が、主イエスの愛を届けるメッセージとされるに違いありません。

「私たちとともにおられる主よ。与えられた人生の時間は、あなたからの愛のプレゼントです。どうぞ私たちが、毎日の時間を、あなたとともに過ごすため、また人と心を分かち合うために生かしていけますよう助けてください。孤独が蔓延しているこの時代に、身の回りの一人一人と、向き合い、心を傾けて過ごすことが出来ますように。そこに主がともにいてください」



[1] ハワーワス、『Ministry 2018年秋号』(キリスト新聞社)、6頁。

[2] 勿論、神が本当に何もしなくなったら、世界そのものが存在できません。創造の仕事を止められた、のです。それにしても、神は天地を完璧に作るだけでなく、その世界を祝福し、世界に働くよりも手をすべて休めて、喜ばれるお方です。ですから、創造された人間も、最初にしたのは何かをするよりも、神と一緒に休むことでした。神と、また夫婦で一緒に休んでただ過ごす、そこから始まったのです。

[3] 詩篇三一15「私の時は御手の中にあります。」

[4] マタイ伝一23。

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ローマ書12章1-10節「聖なる身体 5つの愛の伝え方④」

2018-09-16 16:03:25 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/16 ローマ書12章1-10節「聖なる身体 5つの愛の伝え方④」[1]

 「5つの愛の伝え方」シリーズ、四つ目として「スキンシップ」を取り上げます。身体を触れることは愛の伝わる大切な手段です。だからこそ、無闇に人に触れないほうがいいとも言えますが、私たちの身体の感覚には他に代えがたい大きな力があります。子どもはたっぷり抱っこされて育ち、大きくなるものです。そのように神が人間を作られたことは聖書の人間観です。

1.霊的な礼拝とは

 今年の春、福音主義神学会の研究会は「身体性」がテーマでした。私たちのカラダについての学びです。どうも教会は人間がカラダある存在だと余り考えて来なかったんではないか、「魂の救い」ばかり言って「身体性」を後回しにしてきたのではないか、という反省も込められていました[2]

 私たちはどうでしょう、自分の体の声を聞いているでしょうか。頭や義務感だけで動いて、自分の体にある欲求や孤独には耳を塞いでいないでしょうか。「眠たい、お腹すいた、どこかが強張っている、病気や不調の心配がある」そうした感覚はありませんか。そうした身体の感覚は無視してはなりません。体の声を向き合わずにただ抑えつけ、無視するなら、それは私たちを振り回し、支配し、時には爆発してくるでしょう[3]。それは「自分の信仰の弱さ」や「罪」だからではありません。主は、その弱さや欲望、特徴も含めて、様々なサポートを必要とする身体を持つものとして人間をお造りになりました。私たちは体の声に向き合い、体を生かし、またお互いの身体を通して、主の恵みを味わっていくのです。[4]

 今日のローマ書12章。ローマ書は1~11章まで、キリスト教の教理、堕落の現実と圧倒的な恵みによる救いについて丹念に語ります。その主の圧倒的な恵みを受けて、12章以下「ですから」と読者のローマ教会(そして私たち)への「勧め」が語られます。その実践の最初が

ローマ十二1あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

 私たちの体を献げる。皆が生贄になるとか、牧師や伝道活動に人生を献げる事でしょうか。2節以下

 「心を新たにすることで、自分を変えて頂く」

 私たちの考え、思いを神の恵みの福音に基づいて一新されて生活することです。体を殺して神に献げるのではなく、体を生かして神の御心を求めて生きる。それこそが神に喜ばれ、完全なことだ、というのです。欄外を見ると、それこそが

「霊的な礼拝」

という訳も紹介されています。聖書が言う霊的な礼拝とは、精神や魂のことではなく、体を生かすことなのだ、この体の営みすべてを神への献げ物として、神の御心を求めつつ生きること。それが聖書の語る「霊的」なことだと言われているのです。

2.体の献げ方

 では具体的にどう生きることが神の御心にかなった生き方か、これは3節以下16章まで語られています。一人一人が異なる賜物を持っているので、お互いに違いを認め合い、仕え合いなさい。9節以下、

愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬し合いなさい。

 よく知られた

15喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい

もあります。こうして生きることが、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物としての生活です。その最初4節以下をもう一度見ましょう。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 この「からだ」はキリストの体ですが、同時に私たち一人一人の体を結びつけています。理念とか譬えで「一つの体」と言っているのではなく、私たちがこの体で実際に助け合い、それぞれの存在を喜ぶ。喜んでいる時には一緒に喜んで、泣いている時にも、何とか励まし泣かずに済むようにと考えるのではなく、傍らに佇んで、一緒に泣く。そういう体の在り方が、神の憐れみによって勧められている、新しい生き方、体の献げ方、神の喜ばれる礼拝なのです。

 Ⅰコリント6章でもパウロは、

あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。

と言います。コリントの教会に淫らな行いをしている信徒がいる問題を取り扱って、

15…あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。[5]

と言うのです。「淫らな行いが道徳的に悪い」という責め方ではないし、「淫らな行いなんかしたのだからキリストの体ではない」でもなく、それでもあなたの体は主の体の一部だ、なのです。

 ローマ書の言葉もそうです。私たちのからだは神に喜ばれる聖なる生きたささげ物とされる。私たちは自分の身体に劣等感があったり、傷をつけたり、汚れた体だと思わずにおれない経験をしていることもあるでしょう。しみやシワだらけでも、病気や傷があっても、どんな体でも、その体は、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物とすべき体だ。私たちの側で何か条件を満たそうとか、汚れてしまってダメだとか、そんなことは一切なくて、ただ、神の圧倒的な憐れみの故に、私たちは体ごと、聖なるものとして神に受け入れられるのです。

3.キリストの受肉

 体への拒絶とか暴力は、魂の深い所まで傷つけます[6]。人に触れたがらないのは、スキンシップが全く要らない人とは限らず、逆に本当は温かい触れ合いが要る時に、虐待や暴行を受け、深い人間不信に陥って、自尊感情も持てない場合もあるでしょう。徳島県立近代美術館で特設展があった佐野洋子さんは4歳の時、お母さんの手を繫ごうとしたら撥ね付けられて、「二度と母とは手を繫がない」と決意して、六十年間苦しい関係を続けたそうです[7]。AIDSへの偏見をなくす活動に参加した芸能人が、患者さんに「ありがとう」と握手をされたら、すぐにその手をごしごし洗わずにおれなかった、と告白していました。手を繫ぐ、繫がないというのは、本当にその人を愛しているかのバロメーターにもなります。そして私たちは、多かれ少なかれ、そういう体験を受けたり触れなかったりという記憶を持っていないでしょうか。教会での性的虐待の報道が続いていますが、そんな目に会ったら、教会やキリスト教や人生にも嫌悪感が生涯拭えなくても仕方ないと思います。

 しかし、最も聖なるお方である神の子イエスは、人となってくださいました。人間と同じ肉体を取ってくださいました。私たちと同じ、この体、肉体を取ってくださいました。相手にされなかった病人に触れたり、子どもたちに手を置いて祝福し、疑って沈みかけたペテロの手を取りました。そして最後にはご自分が、鞭打たれ、唾を賭けられ、十字架につけられて、呪わしい、忌まわしい体で死なれました。神はそのイエスをよみがえらせて、弟子たちは生きているイエスと再会したのです。その体には醜い釘の痕や痛々しい槍の傷がありました。

 それは、神がこの世界に満ちている様々な暴力や、その結果の消えない傷を知っておられる証しです。

 私たちにどんな汚れや罪があろうとも、そっと触れてくださる証しです。

 私たちの体を神が決して忌み嫌うことなく愛して、回復してくださり、また私たちのお互いの傷のある存在を通して、愛や大事さ、慰め、励ましを与えてくださるのです。

 

 今イエスは天におられます。イエスはご自分が本当に肉体を取り、裂かれたことを示すために、聖餐を定めました。パンと杯を通して、私たちはイエスに触れ、味わい、イエスとの交わりを持ちます。とはいえ、それは不完全な触れ合いです。実際のイエスに触れることには適いません。本当に主に触れて頂きたい、触れたい、ですよね? 聖餐に与るたびに私たちは、主の日をますます待ち望むのです。

 それまでの間、お互い体を持つ生身の人間として、繊細に、大事にし合いましょう。夫婦や親子は触れ合いが必要な場合が特にあるかもしれません[8]。いずれにせよ私たちが、自分の身体を主の聖なるものとして愛おしむようになり、体全体で世界を味わい、体が発する声に耳を傾け、体を労るようになれたら嬉しいではありませんか。身体性を見失ったキリスト教から、主が本当に肉を取ってくださったと告白する教会になりたいものです。

「人となられた主よ。あなたの受肉によって、この身体が、持て余すような汚れた身体から、測り知れない価値と使命を与えられ、弱さや痛みさえも恵みに輝くようになりました。しかし身体を傷つけられ、深く癒やしがたい傷も世界には溢れています。憐れんでください。私たちが主の愛を受け取り、主の温かさを伝えるよう、どうぞ一人一人と交わりを癒やしてください」



[1] 今回の説教には、ブログ「ちょうをゆめみるいもむし」の『聖なる生きたそなえ物』がタイムリーに掲載されて、大きく刺激を受けています。付してお礼を申し上げます。

[3] 後藤敏夫氏が、ヘンリ・J・M・ナウエン『イエスの御名で』を引きつつ、以下のような文章を書いています。「ナーウェンが『イエスの御名で』の中でこの問題に触れています。霊的な指導に活きている男女が、実にたやすく、非常に淫らな肉欲にふけってしまうことがある、と彼は言います。そしてそこで、霊性ということが肉体を離れて精神化してしまうと、肉体の命は肉欲に陥る、と彼は言うのです。あるいは、牧師や司祭がほぼ観念の世界だけのミニストリーに生き、自分が伝える福音を一連の認識や思想にしてしまうと、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる、とナーウェンは言います。 数年前、アメリカのテレビ伝道者のセックススキャンダルが問題になりました。ああいうことも、ただ性欲の問題ではないと思います。心と身体という私たちの全人格が共同体から離れ、個人的な英雄主義と虚構のセルフイメージで観念的に福音を語るとき、魂の内面に地割れがおき、肉体が親密さを求めて復讐するのです。テレビ伝道者のような人々は、おそらく、スポットライトを浴びながら、観念と虚構の中で福音を語りながら、自分が身体(性)をもって生きる共同体をもっていません。私のような者でも、歓迎され、少しヨイショされるような集会でご奉仕した後は、自我が膨張して、その帰り途、心の隙間に空虚な風が吹き、身体が等身大の親密さを求めて、肉的な誘惑に弱くなるという体験をすることがあります。ナーウェンは、こういうことは受肉の真理を生きることを知らないことによって生じる、と言います。」ブログ「どこかに泉が湧くように」1993年講演記録

[4] 典型的な精神主義として、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、天地創造の神を告白するキリスト者は、むしろ「心頭を滅却せず、火の温かさを味わおう」という招きを聞くのです。

[5] Ⅰコリント六15あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。16それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。17しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

[6] 「愛を伝える5つの方法」に私たちの身体がある、ということは私たちの体が神の聖なる器だということの一部です。赤ちゃんを抱っこする、夫婦が抱き合う、友人が肩を抱き、敵同士が握手をして和解をする、そうして安心や愛を文字通り体感する。それは、神が私たちの体を喜んでくださっている証しです。

[7] 佐野洋子さんと母親の60年以上にわたる確執と和解については、こちらの記事など。

[8] 日本人にハグの習慣はまだ馴染みが薄いですから、もっと軽い握手やタッチから始めたらよいでしょう。そして、それが苦手な人もいることも忘れず、デリケートであったほうが良いでしょう。重い自閉症で、親が触れることも出来ない、というケースもあります。特に、異性の場合は控えた方が無難です。そして、決して傷つけるような触れ方は許されません。逆に、自分の身体を傷つけられそうになったら、遠慮なく守ってください。それが出来なくて、傷つけられてしまったら、恥じることなく、助けを求めてください。私たちの体は、自分や誰かがぞんざいに扱ってよいものではありません。キリストのものです。

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「尊い贈り物 5つの愛の伝え方④」ルカの福音書21章1-6節

2018-09-09 19:30:56 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/9 ルカの福音書21章1-6節「尊い贈り物 5つの愛の伝え方④」

 人身売買から保護された女性に、化粧(メーキャップ)を通して支援をする働きがあります。売春を強いられて身体も自尊心もボロボロにされ、保護されてもうつろだった女性が、お化粧をすることで笑顔になっていく姿は感動的です[1]。震災のケアでも女性たちに化粧品を(それも高級な)届けたそうです。言葉とか必需品だけでは出来ない力を贈り物が果たせる、という実例です。

1.愛を伝える贈り物

 「5つの愛の伝え方」、肯定的な言葉、仕える行為に続いて三回目は贈り物を取り上げます。プレゼントを贈るのも愛を伝える方法の一つです。勿論、相手に必要なものを届けること、台所用品や仕事の道具、救援物資や日用品、無くては困るもの、あると助かるものを贈るのも大事ですが、それは「仕える」と重なります。贈り物には必要なものだけでなく、必要ではないもの、記念品、お土産、サプライズ等が含まれます。そういう一見「無駄」な贈り物で愛を伝える人、そういうプレゼントで愛を伝えて欲しい人も多くいます。「それは贅沢だ、物質的だ」ではなく、神が下さった愛の伝え方の大事な一つ、贈り物を特に強く感じる個性なのです。

 今日のルカの福音書21章は「レプタ二枚の寡婦(やもめ)」として知られる出来事です。エルサレム神殿に世界中から大勢の巡礼者達が集まっていました。ラッパ型の献金箱に大勢の人が献金を投げ入れていました。しかし、その中に紛れて、いかにも貧しい女性がやって来たのです。彼女が投げ入れたのは、最小単位のレプタ銅貨二枚、数十円の金額です。当時の決まりで、献金は最低でもレプタ銅貨二枚とされていました。この女性はその最低限度額を献げたのです。エルサレム神殿の膨大な規模の運営予算にとって、それはどれほどのものだったでしょう。「わずかですが用いて下さい」というどころでさえなくて、転がってどこかに消えても、献金箱の底に忘れられても、気にされないような金額でした。イエスはその献金を見て、

二一3こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

 イエスはレプタ二枚を通して、女性の心を受け取りました。額では無く、そこに込めた思い、生きる手立て、生活そのものを献げた。御利益や願い事を期待してではないでしょう。「主の御用の足しに」という額でもありません。ただ彼女はひとえに自分の心を、出来る形で表したのです。その思いを主はご覧になって、本当に喜ばれて、受け取ってくださったのです。

2.贈り物の落とし穴

 ここから神が求められる贈り物について、とてもシンプルなことを気づかされます。それは贈り物は心を贈るためのものだということです。何を贈るかも勿論大事ですが、その贈り物に添えた心を見るのが、主なのです。主イエスは彼女の思いを受け取ってくださいました。わずか2レプタを献げた彼女の心を受け止めてくださいました。私たちの贈り物も、物だけで無く、言葉を添えたり、一緒に過ごしたり、必ず別のメッセージで思いを届けましょうと『愛を伝える5つの方法』の著者は書いています[2]。物だけでは不十分です。もし「愛の印に高価な贈り物」を要求されたら、「愛」につけ込んで利用したい一方的な関係かもしれません。あるいは贈る側も、知らず知らず贈り物が気を引くための「賄賂」にしやすいのです。祖父母たちが孫の、親同士がわが子の愛を買おうと、より高価なプレゼントを贈って争うなら、それは愛ではなく「賄賂」です。プレゼントに感じるのが自分への愛ではなく、自分の愛を買おうという計算だったら、どうでしょう。子どもには愛よりも競争心が伝わったとしても無理ないことです。

 どんな愛の伝え方も、愛を伝えるための手段です。決して、自分の愛が足らないから、あるいは相手の愛を手に入れるための手段ではありません。「あなたが大事ですよ」という思い。それを伝える手段として何かしら形にして贈るのです。高価な宝石でも、小さな貝殻でも、ささやかな絵はがきでも、手作りの何かでも、その贈り物に心を込めて贈ることで、よりそれが伝わるのです。

 勿論、好みもあります。欲しくない物は喜ぶよりも嫌がらせに思われるかもしれません。高価なものは無駄遣いだと思ったり、負担に感じさせたりするかもしれません。そもそも贈り物よりも、一緒に過ごして欲しい、何も要らないから話をしたい、という人もいます。

 「受け取らない」自由も大事です。

 そうしたお互いのそれぞれ違う思いのやり取りも大切にしながら、思いを形にして伝えて、形だけで無く思いを受け取ってもらう。夫婦や親子で、それをしてみることで関係が潤うなら、惜しくは無いでしょう。主が与えてくださった今の生活、家族や人間関係を、そんなちょっとした工夫で生き生きとさせられることがあるのです。

 このシリーズの最初にお話ししたように、神は私たちにありとあらゆる贈り物を下さっています。この命も自分という個性的な存在も、家族、健康、自然、出会い、何一つ主からの贈り物でないものはありません。そして、何よりも主の贈り物はイエス・キリストです。

ヨハネ三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3.何よりの贈り物

 神は御子をお与えになった。最大の愛の贈り物です。最も大事なものを与えるのは自分自身を与えることです。神は、私たちにひとり子イエスを通して、ご自分を与えてくださいました。そして、昨年クリスマスからお話ししているように、神はひとり子を与えてくださることによって、私たちを受け取ってくださいました。ひとり子を与えるという最大のプレゼントの送り先として、神は私たちを選んでくださいました。私たちは神の愛を受け取るだけでなく、神がこの最大の贈り物の受け取り手としてこの私たちを選ばれた、という贈り物をも頂いています。

 贈るにせよもらうにせよ「プレゼントは高価でなきゃ」と考える人は実は「このままの自分には価値が無い」と自己肯定感の低さ、不足感が強いのかもしれません。贈り物の中身によって[3]自分の価値が乱高下するのでしょう。しかし、私たちは既に神から最高の贈り物を頂いています。イエスの血でしか買い取れない、高価で尊い人なのです。私たち一人一人が、自分も含めてお互いが、神がこの世界に贈られた贈り物であり、イエスの命の値を払って買い取ってくださった、最高のプレゼントです。それを忘れて、愛を伝えるよりも愛のなさを裁き合い、どっちが偉いか、価値があるかと競争し、世界も家庭も修羅場にしてしまう現実もあります。それは私たちにとって真剣な課題です。主の憐れみを求めずにはおれません。だからこそ、最初に紹介した人身売買から救出された女性達のように、その苦しみで満身創痍になった人が贈り物をもらって、「自分には価値がある、希望がある」と体験して笑顔を取り戻す、そういう出来事に希望を持ちます。言葉で、お手伝いで、またささやかな精一杯の贈り物は、そうした回復を始めるために、主が与えてくださった大事な手段なのです。勿論、自分が何を欲しいか、好みを伝えて良いのです。ですがそれとともに、まずは贈り物の奥にある相手の心を、相手自身を受け取りましょう。

「やさしい気持ちで受け取ることは最高の形で与えること」です[4]

 レプタ二枚の献げ物を喜ばれた主イエスは、この数日後、ご自分のいのちを十字架に献げました。私たちを神の民としてくださいました。そして今も命や喜びや大事な人生を下さっています。その惜しみない愛にならって、私たちもお互いを、他者を、主の贈り物として受け止め、自分自身も、主がユニークに個性豊かに、そして完璧では無いけれどもかけがえのない存在として造って下さった贈り物として見ていきたい。そうして主の栄光を現させて頂きたいのです。

「恵み深く万物の造り主なる主よ。世界はあなたの宝物、そして私たちもあなたの宝の民です。あなたが言葉だけでなく様々な恵みを下さるように、私たちが互いに愛を贈り合うことが出来ますよう、特にその事が必要な関係に、その事で悩んでいる方に助けと知恵と勇気を与えてください。主イエスを贈られたあなたの愛を、私たちもそれぞれの精一杯で現させてください」



[1] 中日新聞記事「女性救う、化粧の力 人身売買横行のネパール 日本の団体活動」2013年6月5日、向井麻衣氏、TEDトーク「その途上国支援、本当に必要ですか? 17歳で”世界一貧しい国”に飛び込んだ女性の言葉が響く」。この記事では、「化粧」が女性にとっての「自尊心」を高める「外観のニーズ」という視点から語られています。確かに、この働きは「贈り物」だけでなく「仕える行為」「スキンシップ」とも重なる意味があります。

[2] ゲーリー・チャップマン『子どもに愛が伝わる5つの方法』(中村佐知訳、いのちのことば社、2009年)103ページ。

[3] あるいは、「中身」ではなく、「包み方」「渡し方」という付随物によって、浮き沈みをしてしまうこともあるでしょう。

[4] 「やさしい気持ちで受け取ることは最高のかたちで与えることなのかもしれない。わたしには、そのふたつを切り離すことはできない。あなたがわたしに与えるとき、わたしは受け取ることをあなたに与える。あなたがわたしから受け取るとき、わたしはじゅうぶんに与えられていると感じる。 ルース・ベベルマイヤー」(マーシャル・ローゼンバーグ『非暴力コミュニケーション』22ページ)より。追加として、「魂をもてなすとは、安全さを差し出すことでもあります。この人は安全な人だと信頼しきって、自分の言葉を選んだり、心にある思いの善し悪しを考慮することなしに、正直に、ありのままの自分をさらけ出しても大丈夫だと感じられるとしたらどうでしょうか。この人は、私の言葉や思いの中で、受け止める価値のある部分は大切に受け止め、それ以外のものは、優しさという吐息で、吹き払ってくれるだろうと信頼できるとしたら。.....魂の友情とは、批判されたりあざけられたりすることを恐れずに、何でも分かち合うことのできる場所を提供することです。それは、仮面や取り繕いが取り除かれ、脇に置かれる場所です。それは、いちばん深い秘密、いちばん暗い恐れ、恥を感じるいちばん敏感な部分、いちばん心を乱す問いや不安を、安心してさらけ出せる場所です。それは、恵みの場、つまり、その人が将来こうなるだろうという姿のゆえに、現在の姿がそのまま受け入れられる場所です。" (Sacred Companions: The Gift of Spiritual Friendship and Directionより。中村佐知訳)」

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ヨハネ伝13章1-15節「互いに足を洗い合う 5つの愛の伝え方②」

2018-09-02 17:58:06 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/2 ヨハネ伝13章1-15節「互いに足を洗い合う 5つの愛の伝え方②」

 「5つの愛の伝え方」をテーマにお話しする3回目。言葉、仕える行為、贈り物、充実した時間、スキンシップ。今日は「仕える」についてお話しします。まず主イエスの洗足から、主が私たちに仕えてくださったことを見ます。そしてここにある模範と、仕えるという祝福にまつわる大きな誤解も解きほぐされながら、自由に仕え合うことを確認したいと思います[1]

1.主が足を洗われたように

 ヨハネの13章は、17章まで続く、主イエスの「最後の晩餐」の教えの始まりです。その後、18章でイエスは捕まり、裁判で死刑を宣告され、十字架に死なれます。その前夜、イエスはご自分の最期を予感された上で、弟子たちと食事をともになさいました。その夕食の席で、

イエスは…立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 当時、街を歩いてきた人が、家に入って食事をする時に足を洗うのが習慣でした。外の埃、泥、家畜の糞にまみれた足を、正式な食事の前に洗ったのです。それは奴隷の仕事、最も身分の低い者の役割だったようです。この時、足を洗ったのはイエスでした。つまり、弟子たちは誰も自分が皆の足を洗おうとは思わなかったのでしょうか。自分が一番格下だなんて思いたくない。そう考え合っている中で、主イエスが立ち上がって、上着を脱ぎ、弟子たちの汚れた足を一人一人拭き始められたのです。常識外れのことでした。ペテロはたじろいで「主よ、あなたがた私の足を洗ってくださるのですか。…決して私の足を洗わないでください」と言います。しかしイエスがお答えになったように、これはただの習慣や親切以上に、イエスが私たちの罪を洗ってくださること、また神としての栄光を脱ぎ捨てて低くなったことの象徴でした。イエスはこの後、十字架に架かって、私たちの罪を洗い清めて、神の民としてくださったのです[2]。恐れ多くて遠慮した方がいいことではない。イエスが私たちのために謙って、足も心も聖くして、切れない関係を下さったのです。洗礼はそのことの象徴でもあります。しかしそうした宗教的な意味だけでもありません。主は本当に汚れた弟子の足を洗いました。その後、

14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

と仰ったのです。文字通り足を洗う、という意味以上に、お互いに仕え合い、プライドを捨てて謙って、互いに助け合う。それがイエスを主とするキリスト者の生き方なのです。

2.助けすぎない

 この後34節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われるようにイエスの真意は愛すること。言い換えると「足を洗う」「仕える」なのです。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。[3]

 教会の人間関係や対外的な宣教、家庭の夫婦、親子、社会の関係で、お手伝いをする、出来る助けをする、手を貸していく。そうした行動が必要な場合がたくさんあります。口先や気持ちで大事に思っているのを、行動で伝えることです。出来る事を協力する、困っている時に出来る事で助ける。助けをもらう。そういうやり取りが出来ることは、本当に嬉しいことです。

 しかし、それだけに仕えることは現実の問題や誤解も大きい課題です。現在もボランティアでは「助けすぎない」「何もせずに佇む方が助けになる」が大事だとか[4]。イエスの洗足も少し丁寧に見ていきましょう。

 何よりもイエスはここで弟子たちを愛されて足を洗ったのです。自ら進んで、低くなったのです。私たちを愛して、私たちに必要なものを与え、罪や過去の汚れがどんなにあろうとも、変わらず尊いと仕えることで示してくださったのです。私たちは、その愛をいただいています。そして「仕え合う」ことを通して、この愛を贈り合うのです。主が自ら尊く扱ってくださって、その主が私たちにも「互いに尊び合い、それを行動で示しなさい」と仰るのです。一方的に仕えるのでなく「仕え合う」です。「人の役に立たなきゃダメだ」とか「ボロ雑巾のようにこき使われても我慢せよ」ではありません。愛されている者として仕え、仕えることで相手も自分もともに、神からいただいた命を豊かにすることを願うのです。自分も助けをもらうことも遠慮無く、感謝して受け取る。助けすぎて、甘やかすのは、助けになりません。また、人を助けるためには自分自身の体調管理も大事です。食事、睡眠、休みが必要です。自分の心と体のケアは後回しで人助けをする人もいますが、まず自分を十分大事にする時、他の人も生き生きとなれるのです。イエスの洗足は自由でした。弟子たちに命じられたから洗ったのでもないし、「自分がやらないと悪いな」とか、「全身洗って」と言われたら喜ばせるために洗ったりもしませんでした。イエスは自由をもって仕える方です。

3.模範を示す愛

 1節にはイエスが十字架を前にして、最後まで弟子たちを愛された、とあります。それは、イエスが弟子たちの足を洗っただけではありません。それを弟子たちへの模範として、弟子たちにも足を洗い合い、助け合う生き方を生きるようお命じになった。そこまでが、イエスの示した愛です。自分が仕えるだけでなく、相手にも仕える生き方を始めさせる。それがイエスの愛です。そして私たちが仕えるのも、一方的に仕えるのでなく、周りにも仕える生き方が広がっていき、いわば、仕え合う生き方に巻き込んでいくのです。自分の限界も認め、相手にも助けてもらい、相手のしてくれることを喜び、感謝していく。何でもしてあげるのが愛なのではなく、相手の持っている力を励まし、相手の貢献を認めて、相手の可能性を信じる。そうやって生かし合って、仕え合う関係へと、まずイエスは模範を示されたのです。

 イエスが立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を入れて、弟子の足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められた…この様子はいかにも慣れた感じがします。普段から人の足を洗ったり、しもべたちの動きに目を留めたりしていたことを思わせます。私たちはまだ不慣れなことが多い。こんなにスムーズには出来ません。だから、教えてもらう必要があります。お互いに何が必要か、具体的に伝える事も必要かもしれません。「何がしてほしいか」を聞くのも大事でしょう。失敗もしますし忍耐も必要でしょう。でもそうやって助け合うようにと神は私たち人間をお造りになりました。一人では生きられず、他者を必要とする者として、でもそれぞれに何かが出来る者として、決してべったり共依存しなくても生きられるように作られました。そういう自分の価値を、お互いの助け合いや衝突を通して、確認しながら成長していくのです。それが、イエスが自ら模範を示して与えてくださった愛です。

 誰もが大事にされる必要があります。でも誰もが人に仕え、人を大事にする力を必要としています。そして一人一人が違っています。そこにはすれ違いや誤解、やり過ぎややらなさすぎが付きまといます。あなたがしなさすぎていたら何かをして見てください。しすぎていたら、遠慮無く立ち止まってください。主の御心は一方的な犠牲とは違います。疲れた時には休んでよい。知恵や勇気や励ましが必要です。でも、そういう人間らしさを取り戻して、限界を弁えた人の存在こそ、本当の助けになる場合も多いのです。

 イエスが足を洗ってくださったことを黙想しましょう。そうして私たちも「仕方なく」でなく、主に足を洗ってもらった同志、主のパンをともに分かち合う同志として、人に出来ることをしたいと思います。キリストが測り知れない謙りで自ら足を洗い、十字架に架かって示して下さった模範に、少しずつ少しずつ従わせていただきたい。その大変さに勝る喜びや祝福を味わわせてくださる主の憐れみを祈ります。

「私たちの助け手である主よ。あなたが私たちに仕え、永遠に仕えてくださるから、私たちは生きてゆけます。本当に感謝します。その喜びから、心を込めて出来ることをさせてください。鈍感で気づきにくい私たちを助け、教えて、必要だと思う事より少しだけ余分に親切に。罪悪感や計算からも少しずつ自由にされて、驚き、喜び、感謝して、生かし合っていけますように」



[1] ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』では、具体的に以下のような「サービス行為」が(特に、夫から妻への?)サービス行為としてリストアップされています。「料理を作る、食卓の準備をする、皿を洗う、掃除機をかける、タンスの整理をする、洗面台の髪の毛を取り除く、鏡の汚れを拭き取る、車のフロントガラスをきれいにする、ゴミを出す、子どものオムツを替える、寝室のペンキ塗りをする、本箱のほこりをはらう、車の整備をする、車を洗って掃除機をかける、車庫を掃除する、芝生を刈る、庭木を刈り込む、落ち葉をかく、ブラインドを掃除する、犬を散歩させる、ネコのトイレを掃除する、金魚鉢の水を替える…」(121-122頁)

[2] 特にヨハネの福音書では、「カナの婚礼」の水瓶(二章)、「サマリヤの女」の井戸端の会話(四章)などなど、「水」がずっと象徴的な役割を果たしてきました。

[3] Ⅰヨハネ三18。

[4] 香山リカ『迷える社会と迷える私』で紹介されるエピソードです。ブログ「一キリスト者からのメッセージ」より孫引き。http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=1359

 

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恵みを伝える 5つの愛の伝え方② ルカ伝4章16~30節

2018-08-19 21:23:31 | 愛を伝える5つの方法

2018/8/19 ルカ伝4章16~30節「恵みを伝える 5つの愛の伝え方②」

 先週から「愛を伝える5つの方法」をテーマに話しています。今日はその一つ目「肯定的な言葉」について見ていきましょう。キリスト教は愛を重んじる宗教ですが「聖書の宗教」でもあります。聖書という本=言葉を大事にし、神の言葉を聴く、「生きる言葉の宗教」なのです。

1.この聖書のことばが実現した

 このルカ四章の出来事は、イエスがその三年間の活動を始めたばかりの頃に故郷のナザレの会堂で礼拝に出かけた時の事です。当時のユダヤ人は地域ごとに会堂(シナゴーグ)を作り、土曜日には集会をしていました。皆で詩篇を詠い、代表者が立って聖書を朗読し、座って解説をしました。ここでも

「預言者イザヤの書が渡された」

とあります。聖書の言葉、神の言葉を聴き続け、そうして生きていたのです。神の言葉に聴き続けていた。これが聖書の民の姿です。

 そこにイエスは来られて、このイザヤ書の箇所を読み上げました。

18「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
19主の恵みの年を告げるために。」

 その後、座ったのは説教をするためです。皆がイエスに注目する中、イエスはこう仰います。

21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 主がわたしを遣わされた、というその言葉が成就した。つまりイエスは自分がそのイザヤ書にあった「わたし」だ。今日自分が来たことによってイザヤ書に書かれていた言葉があなたがたに実現したと言ったのです。聖書の言葉は、イエスにおいて実現しました。私たちが今ここで礼拝に来て聴き、毎日の生活でも聖書を開いて聴いているのは、ただの知識や道徳や神の命令や生きるヒントではないのです。イエス・キリストにおいて事実となった言葉なのです。イエス・キリストが実現して下さる言葉です。たとえ私たちが誤解したり、疑ったりしているとしても、それでも神は聖書に約束されている事をすべて果たして下さる。その事が、イエス・キリストがこの世界に来てハッキリとお示しになったことです。良い知らせ、解放、目が開かれること、自由、恵みの年。そういう良い言葉を、神は語るだけでなく、事実となさるのです。

 旧約聖書で「言葉」と訳された言葉で一番沢山使われるのは、ヘブル語のダーバルです。この単語には言葉の他に「事実・出来事」という意味があります。むしろ、神の言葉は事実や出来事と一体です。神が天地創造の初めに

「光、あれ」

と仰れば、光があったのです。言葉は事実を作りました。口ばかり、中身は空っぽというのは本来の言葉ではなく、嘘です。神の言葉は事実です。ヨハネの福音書はイエスを

「ことばが人となった」

方と紹介しています。

2.「捕らわれ人」のコトバ

 このように聖書には愛の言葉があり、イエスはその言葉を実現するため人となって下さいました。「だから私たちも愛の言葉を語り、愛に生きましょう」と言って済めばこんなに簡単なことはありません。そんな綺麗事は信じられない、というのも私たちの現実です。

 イエスの言葉を聴いたナザレの人々もそうでした。褒めはしたものの、直ぐに文句をつけ、証拠を求め始め、最後は憤って殺そうとするのです。イエスもそれをご存じでした。本来、言葉は事実と一つで、出来事を作り出すのですが、神の言葉を信じずに背を向けて以来、人間の言葉は事実とは違う、ただの言葉になってしまいました。皆さんの中でも、言葉で傷つけられた経験、裏切られたり振り回されたり、信じて損をした、言葉を信じるのに正直疲れてしまった、という思いがないでしょうか。人の言葉を聴いても素直に受け取りたくても出来ない。そうであれば、神の言葉の聖書を読んだり説教を聴いたりしても、どこかで「騙されたくない」と思うのです。

 18節の

「捕らわれ人」

には、社会的な束縛から何かの強迫観念に捕らわれている人まで入るでしょう。

「虐げられた人」

も深刻な虐待家庭で育った人や一時でも苦しい虐(いじ)めにあった人も含むでしょうか。言葉で「大丈夫、もう安心して」と言っても、到底無理になる経験です。心と体に染みついた事実と余りにかけ離れた言葉は、頭の上を通り過ぎるだけかも知れません。イエスは捕らわれ人、虐げられている人のそうした深い傷、言葉を信じるのが難しい痛みをよくご存じでともに深く痛んでおられます。だから「ただ信じなさい」と仰るのでなく、自分がその言葉の実現となって、人の中に飛び込んで来て、神の良い知らせとなってくださいました。神の恵みを告げ、聖書の約束が本当であることを体現してくださいました。そうすることで、イエスは人を深く解放され、自由を吸い込ませ、主の恵みを体験させてくださるのです。そうして主の恵みに根差すことで、私たちの語る言葉も、本当の言葉になります。それも本当だけど偉そうで威圧的な思いがにじみ出る言葉でなく、神の恵みに目を向ける者として語るよう変えられるのです。イエスが仰った

「主の恵みの年」

は、一人一人にとってだけでなく、互いにも恵みを語り合う時の始まりであるはずです。今はまだ無理でも、そこに向かっているのです。

3.主の恵みから語る

 私は聖書の言葉を大事にして、自分の言葉も大事にしたいと思っている牧師です。同時に、「言葉は不完全な道具だ」という事実も大事な気づきだと思うのです。言葉は難しい、誤解されるし、伝わりにくいし、本当に言いたいことが上手く言えなくて、その場凌ぎで言わなくてもいいことを語ってしくじった経験ばかりです。でもそれは自分が悪いとか相手が悪いとか、「もっとうまく言えれば失敗がなくなる」、ではありません。ヤコブ書三章は

「2言葉で失敗しない人はいない。…舌を制することができる人は、だれもいません」

と断言します。イエスもここで誤解され、憤りを買いました。言葉は不完全な道具です。だから大事なのは、どう語るかより、まず静かに聴くことです。言葉を出す以前に、まず自分の心の不安や恐れ、罪の思い、荒んだ思いを認めて、主の恵みの言葉に十分聴くことです。私たちの足りない不完全な言葉よりも大きな主の愛に静かに聴くのです。心が弱いまま必死に語ることを一旦止めて、自分がしゃべらなくても良い主との交わりの中で落ち着くのです。自分の中に恐れや諦めに捕らわれていた思いに気づかされ、罪責感や批判の虐げから自由にされる。神に代わって、自分が人や自分の主になろうとしていた、そして雁字搦めになっていた罪から救い出される。そういう事実が私たちの中で積み重ねられるときに、言葉もまた命が通って来るのです。

 創世記一章で主がアダムに与えられた命令は、禁止は一つだけで、後はすべて肯定的な言葉でした。

「生み、増え、地を治めよ、休み、耕し、すべての美しい果樹から思いのまま食べよ」

と惜しみない祝福でした。神はダメを並べるのでなく、生きる意味、大いなる使命、信頼、祝福を語られました。そして私たちも互いに、ケチや義務や揚げ足とり以上に、喜びや励ましの言葉こそ届け合うよう勧められています。私たちはつい気になることに焦点を当ててしまいます。言わなきゃ良いことを言って、ギスギスさせてしまいます。神も批判や禁止を言っていると思い込みやすいのですが、しかし主が語られたのは、命の言葉です。私たちの舌も命の言葉、恵みの言葉を掛け合うようにと与えられています。そして、主はそうしてくださるのです[1]

 言葉がどれだけ大事かは、人それぞれに個人差があります。そしてお互いにうまく伝わらないもどかしい経験をし続けるでしょう。しかし、そんなぎこちない私たちのキャッチボールも主の大きな恵みの手の中にあります。主がこの世界の真ん中に来られて、解放、自由を始めてくださいました。恵みの年が来ると宣言されました。その恵みの年に向かって、私たちは歩んでいます。御言葉に励まされ、聖霊に導かれ、不完全な言葉を精一杯使いながら、思いを伝え合い、不完全な言葉の奥にある思いを受け取り合っていくように、召されているのです[2]

「主よ、あなたは人となった神のことば、あなたのうちには嘘も限界も何一つありません。言葉を信じることが難しいこの世界で、あなたは恵みの言葉を力強く語られ、私たちを解放し、あなたのものとして取り戻してくださいました。この約束を私たちが静かに聴き、また互いに届け合えるよう助けてください。私たちの唇もあなたの恵みの器としてどうぞお用いください」



[1] 問題がある場合もあります。その時も、頭ごなしに否定せず、一緒に考え、励ましや大事にしたい思いを伝える。それも肯定的な伝え方です。言葉はまだまだぎこちなく、失敗もするでしょうが、そういう私たちに主は恵みの年を告げて下さいました。だから、焦ることなくゆっくりと恵みの言葉を紡いでいきたいのです。

[2] 聖書にも身の回りのメディアにも沢山のヒントがあります。言葉という、不完全でも大事な、素晴らしい道具を生かしていきましょう。それもただ世渡り上手になるためではなく、主の恵みを告げて、励まし、生かすために使いましょう。

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